第9話 影の定着

2015年三月。

進学校に通う浜田彩花は、晴れて卒業の日を迎えた。校門の前で友人たちと笑顔を見せる姿は、兄・順太郎とは対照的に輝いていた。父も母も式に出席し、写真を撮り、涙ぐみながら「よく頑張ったな」と娘を褒め称えた。


数日後、学校から卒業アルバムが配られる。制服姿の彩花が笑顔で写るページ。そこには希望や未来しか映っていなかった。


――はずだった。


だが、インターネットは冷酷だった。匿名掲示板にスキャン画像が上げられたのは、配布からわずか一週間後。


「土竜の妹、卒アルきたぞwww」

「兄貴があのオーバーグラス豚とかマジで地獄だろ」

「妹は普通に可愛いのに可哀想」


スレッドは瞬く間に伸び、Twitterでも「土竜の妹」がトレンド入りした。顔写真に赤文字で「兄:土竜YouTuber(笑)」と落書きされた画像が拡散され、まとめサイトにも転載された。


彩花はスマホを握りしめ、青ざめた顔でリビングに飛び込む。

「お母さん! 見てよ! 私の写真が、ネットに……! 兄貴のせいで、どうして私まで……!」


母は愕然とし、泣きながら娘を抱きしめた。

父は顔をしかめ、順太郎の部屋のドアを乱暴に叩きながら怒鳴った。

「お前のせいで、彩花まで笑い者だ! どこまで家族に迷惑をかければ気が済むんだ!」


ドアの内側で、順太郎はただ布団をかぶって震えていた。

画面越しに笑われることには慣れていた。だが、妹の名前と顔が、自分の過去の延長で晒されていることが、胃を締め付けるように苦しかった。


「……俺じゃない、俺は何もしてない」

小さな声で呟いても、誰も聞いていなかった。


2015年春。

妹・彩花は進学を機に家を出ていった。進学校から国立大学へ。誰もが「前途有望」と称える道を歩んでいた。


「二度と兄には関わらないから」


出発の日、彩花が残した言葉は鋭い刃のように順太郎の胸に突き刺さった。玄関先で父と母に見送られ、振り返ることもなく駅へと歩く妹の背中。その視線の先に、順太郎はいなかった。


家に残された母は、次第に体調を崩していった。近所の噂、ネットの書き込み、郵便受けに投げ込まれる嫌がらせの手紙。夜中にインターホンを鳴らして逃げる不審者。

「……どうして、うちが……」

母は泣きながら病院に通うようになり、精神安定剤の瓶が食卓に並ぶのが当たり前になった。


父は、さらに冷酷になった。

「順太郎、お前は人間じゃない。俺たち家族を地獄に落とした元凶だ」

食事の席で顔を合わせることすら避け、言葉を発するのは罵声だけ。


リビングの共用パソコンの前に座る順太郎の背中を、父は通りすがりに睨みつける。

「まだネットを見てるのか。まだ土竜を続ける気か。……お前が生きてるだけで、この家は壊れていくんだ」


順太郎は答えられなかった。ただADHD特有の衝動で、クリックとスクロールを繰り返す。

掲示板には今日も「土竜」の文字が並んでいた。


笑い、嘲り、皮肉、そして妹への同情。

自分が書き込んだわけではない。他人が勝手に貼り付け、編集し、増幅させている。

それなのに――「土竜」という影だけが、この世に確かに残り続けていた。


布団の中で、順太郎は自分に言い聞かせる。

「俺は何もしてない。悪いのはネットだ。悪いのはあいつらだ」


だが、家の中で孤立しきった現実は、その言葉を覆すように重くのしかかっていた。


2017年。

「土竜」はすでに一人の人間ではなく、ネットに定着した「影」となっていた。


匿名掲示板、まとめサイト、そしてSNS。

「土竜」は失敗した男の象徴、時代遅れなオーバーグラス姿の笑い草。

「現代日本の悲惨な末路」だとか「負け犬の教科書」だとか、好き勝手なラベルが貼られ、ネタ画像やコラージュとして拡散され続けた。


2018年になる頃には、元ネタを知らない若い世代でさえ「土竜」という単語を使って煽るようになっていた。

「お前、今日のプレゼン土竜じゃんw」

「また土竜ムーブかよ」

意味は「不細工で、無様で、見ていられない」。


順太郎が意図的に発信しなくなってから何年も経つのに、本人の意志とは無関係に「土竜」は膨張し、定着していった。


――本人は布団の中にいた。

リビングに置かれた共用パソコンに触れることも減り、ガラケーを握りしめたまま一日を過ごす。

外の世界では「土竜」が生き続けている。

だが内側の順太郎は、日に日に存在感を失い、虚ろな目で天井を見上げるだけの生き物になっていった。


夜、父は相変わらず冷酷だった。

「お前のせいで家族は終わったんだ。生き恥をさらしてどうする」

母は薬に頼り、食卓に沈黙が満ちる。

妹の彩花は遠い街で大学生活を送り、二度と家に戻らなかった。


順太郎は思う。

「俺はもう存在していない。でも、土竜はまだ生きてる」


笑い声、罵声、そして自分を知らない誰かの軽いジョークの中で――

「土竜」という影は、この社会にしっかりと刻み込まれていた。

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