一 空白の章「新たに書き記す術など持たない」
一話 エイプリルフールにはまだ早い
眠い、眠くてたまらないのに肩を揺さぶられて、
今日は休みのはずで、となると母親では無いだろう。誰かの声が聞こえるが、眠りの世界から戻って来れない。
どうせ休日に暇している弟妹がゲームを貸してくれとでも言っているだけだ。旭は目を瞑ったまま、片手を後ろにやりそばに居る誰かの肩を掴み押しのけようとした。
ふにゅ、という音がなりそうな感触。
肩ではありえない柔らかさに、目を閉じたまま意識が覚醒する。
なんだ、なんだこれ。そう言えば、ベッドで寝ているはずなのに床の様に固いし、なんだか涼しい。
動揺につられて目を開く。鮮やかな赤色、それから自分の手が触っているものが視界に映る。
「は?」
「ん?」
おっぱい。紛うことなきおっぱいだった。
一旦目を閉じて、ゆっくりと開く。だめだやっぱりおっぱいだ。早く手をどかした方がいいのだろう、だがびっくりし過ぎて動けなかった。恐る恐る相手の顔色を伺う。
「もう満足かな?」
胸を触られている女性は、小さく首を傾げ微笑んでいる、が目が笑ってない。
「じっ、事故なんです!! ごめんなさい!!」
叫ぶと同時に手を離し土下座の姿勢を取るが、途中で再び固まった。
家具があまり置かれていない広い部屋はよく声が響く。反響した自分の声に、あれ、と気づく。
「え、ここどこ? つか、誰?」
一つ気づくと次から次へと沸いてくる。旭は土下座のなり損ないのまま女性の方を見た。
真っ赤である。服がとかそういう意味じゃなく、髪が根元から赤いのだ。
「……レイヤー?」
「なんだそれは」
不機嫌そうに顔をしかめる相手に、じゃあ地毛とでも言うつもりかと心の中でだけツッコんだ。
黙ってしまった旭に、赤い髪のお姉さんは深いため息をついた。細められた瞳は藤色で、どんな虹彩してるんだと旭はまたツッコんだ。
「……君はいくつだ?」
「あ、はい、十八です」
「八……高校生か……そうか……まだ若いというのに」
悲しそうな顔で肩に手を置かれた。勝手に哀れまれているが旭にはなんのこっちゃ訳分からない状況である。
「それでここはその、どこ、というか、なにがどうなってるんすか」
顔の位置まで手をあげてアホ面を晒すと、女性はコホンとわざとらしい咳払いをして立ち上がった。
「ここは君達の居た世界とは違う場所」
こちらへと差し出された手をとって旭も立ち上がる。
「異世界、だよ」
長い廊下を女性の後について歩いていく。
どうやらここは異世界らしい。
もちろん旭は最初信じなかったのだが。真っ向否定からのドッキリ判定でカメラを探し出した旭を、キレたお姉さんが頬スレスレの魔法斬撃で脅したため信じることになった。こちらも悪かったとは思うがいきなり魔法放ってくるのはいかがなものか。突然キレる女性は得意では無い。
にしても、と旭は通り過ぎていく廊下を一瞬振り返った。この廊下、長いだけじゃなく広い。これだけ廊下が広いのにあの部屋も広かったのだから一体この建物はどんな大きさをしているんだろうか。
旭はきょろきょろと辺りを見渡しながら、女性の言葉に相槌をうっていく。
「安心するといい。転移者はそう珍しくないからな、知識はあるつもりだ。君の安全は保証する」
「はぁ……」
「この世界は君達の所で言うファンタジーの世界だと思ってくれ、魔法や、人以外の人語を介する生物も存在する、なんだったら魔法は君も使えるはずだ」
「へぇ……」
「住居はこちらで用意させて頂こう、君のリクエストに沿った最高の暮らしを約束するよ。ただすぐには無理だからな、今日は宿に向かおうか。ここからは遠いがとっておきの場所がある、直ぐに向かいたいんだが構わな__」
「あの、帰るにはどうしたらいいんですか」
ぴたりと女性が足を止めた。藤色の瞳がこちらを向く。
「……帰りたいのか?」
険しい雰囲気にそんなおかしい質問だったかと考えてから、帰れないのではという可能性に思い至る。しかし、女性の言葉はどこかおかしい。
彼女は知識はある、と言った。転移者はもちろん、旭達の世界のことも少なからず知っているだろう。つまり彼女は旭が何も知らないということを知っているはずなのだ。だから、旭が帰りたいと思うことに疑問を抱かれるのはおかしい。
「帰りたいですよ、そりゃ」
女性は変な顔して、それから顎に手を当てた。
「……いや、すまない、気にしないでくれ。 さぁ行こうか」
「おい待て、結局帰れるのかどうなんだよ」
何事も無かったかのように歩き出す赤髪の女の、その腕を掴み引き止める。
「現状、帰還する術は無い」
予測していた答えにそれでもショックを受けつつ、彼女の態度に相変わらず違和感を覚える。
「そう、すか」
「すまない、私達も調べてはいないわけではないのだが」
暗い顔をしていたのだろう、気遣ったのか優しげに笑う女性に、それでも違和感が拭えない。
「なんにせよ一先ずは腰を落ち着かせるべきだろう」
彼女を掴んでいた腕をもう片方の手で掴まれる。ここから早く出ようとしているみたいだった。
旭はやっと理解した。この人は、焦っているんだ。
「どうした」
旭は迷った。迷って、足が前へと進まない。
彼女に着いていっていいのか。
異世界転移なんて非現実的な現実をまだ飲み込めていないのに、この世界のことも何一つ分からないのに。
さきほど嫌でも理解させられた、腰に携えているのは本物の剣だ。
単純に言えば怖い。もしこの女性が、邪魔な転移者を処分するために連れていこうとしていたら。
だから躊躇した。明らかに焦っている彼女への不信感から連想してしまう最悪の展開。
それが旭の犯した間違いだった。
「あら、あらあらあら? なんですかーその子、ねぇ」
心臓がドッと鳴る、鳴ったまま止まらない。当たり前だ心臓はずっと動いてる、動いているのに。
冷や汗ってこんな風に出るのか、とどこか冷静に目玉を声の方へ向けた。
視界を埋め尽くす水色。それがすぐそばまで近づいていた少女の瞳だと旭は気づけなかった。
硬直した旭の体を赤髪の女が軽く突き飛ばし、庇うように少女の前に立つ。旭と離された少女は、つまらなさそうに肩をすくめた。
「なぜこちらに」
「ふふ、いてはいけないのですかー、ねぇ?」
からかうように笑う少女、その様子は表面上だけ見れば悪戯好きな子供のよう。だが、旭は未だに体の強ばりが解けない。痺れすら錯覚する程。
これは、悪意だ。藤色の髪をふわりと揺らし、現代ならば小悪魔とでもいうのか心をくすぐる笑みを浮かべる少女は絵画みたいに綺麗で、だけど、まとったそれを隠さず撒き散らしいている。
「この者は私が責任をもって保護します、いつもと変わりはありません」
胸を張って答える赤髪の女。騎士と名乗っても違和感のない風貌からして威風堂々と言っていいはずなのに、滲む怯えが台無しにしている。緊張感、言葉を間違えれば終わると彼女は理解しているのだ。
幾許かの沈黙落ちる。少女は顔を左右に揺らし、舐めるように二人を見て、花が開くように笑った。
「悪い子」
瞬間、赤髪の女の膝が折れて地面に跪く。短く吐き出す息は何かに耐えるためか。
「少年、私に触れろ」
「え、あ?」
「いいから」
言われるまま肩に触れた。
「私は動ける、アレには従わない、そうだろう? 願え、信じろ、君ならできる」
赤髪の女性に、旭は静かに頷いた。パラパラと紙をめくる音が鳴り響く。
彼女の瞳が緑色に輝いた。
我に返る。旭は走っているようだ。なんだか頭がクラクラする。
握り締められた腕は痕が残りそうなくらい痛い。旭は腕を引かれてだだ広い廊下を戻っている。振り返る勇気は無かった。
何一つ分からない中で、赤髪の女が焦っていた理由だけは予想がついた。あの藤色の少女に合わせたくなかった、のだろう。悪意しかない少女を見たあとだと彼女は善人だと思える。だとすれば、駄々をこねて立ち止まったのは間違い以外ないのだが。
「おい!」
呼び声に、俯きがちだった顔を上げる。どうやらずっと話しかけられていたようだった。旭はなんとか曖昧な返事をする。
「いいか、私の言葉をよく聞け。 君はあの方、いや、緑の髪の女性を起こせ」
「……起こす?」
「先程と同じだ。 書き直せ、君ならできる」
走りながらこちらを振り返った女性は、緑色の瞳をしていた。
「触れて、起きていると信じるんだ」
返事に迷った旭に、彼女は小さく笑った。
赤髪の女性は大きな扉の前で足を止めると、躊躇無くその扉を開いた。
広い室内は、家具が無いせいで寂しさがある。しかし、その寂しさも一瞬で、旭は直ぐに部屋の奥に目を奪われた。
「さぁ」
背中を押されて部屋の中へ踏み込んだ。そのまま、奥へと歩みを進める。
近づくほど輪郭を鮮明にしていくそれは、棺桶だった。
蓋は無く棺桶にしては珍しい白色のそれは、敷き詰められた花で中に眠る者を柔らかく包んでいる。
「……姉さん?」
似ても似つかないはずなのに、何故か言葉が零れ落ちる。
棺桶の中で眠っているのは、緑色の髪をした女性だった。長く伸ばした前髪を横に流していて、後ろ髪も長い。そしてその髪は花弁に埋もれている。
「彼女を起こすんだ!」
魅入っていた旭は鋭い声に驚き、振り返った。赤髪女性が閉じた扉に結界のようなものを張っている。
起こす、触れて、起きていると信じる、どうやって。
少し冷静になったからか、改めて考えると疑問しかない。
「早く……!」
これが異世界転移によくある能力的なものなら、説明が欲しいところだ。
今はそんな余裕がないのも理解はできるのだが。
そもそも、棺桶なら中に眠る女性は遺体ということになるだろう。触れるのは少し躊躇われる。
改めて緑色の髪の女性に向き直った。綺麗な人だ、そしてかなり背が高い。170を越している旭より身長がありそうだ。
「失礼、します」
棺桶の横に移動すると、何となく声をかけて女性の手に触れた。冷たいと思っていたのに、体温がちゃんとある。思わず離しそうになり、反射的に力を込めた。
起きろ、起きろ、起きろ。
変化は無い。
「っ、どうやんだよこんなの」
手を握ったまま悪態をつく。感覚頼り過ぎるだろ。
脳内で起きろと叫ぶほど焦りが募る。態度からして遊んでいた藤色の少女は、ゆっくりとやってくるだろう。だが、そう猶予は無い。
「頼む、起きてくれ!」
声に出して願ってみても、その瞳が開くことはなかった。
どうしたらいいのか。信じられていないのか、信じられる訳もないのだが。
落ち着こう。旭は深く息を吐き出した。考え方を変えよう、これは姉だ。
姉はいつも自分が起こさなければ起きない。部屋から出てくることもない。食事だって運ばなければ口にしない。
そう、だからいつも旭は姉の部屋の扉を開けてそっと声をかける。そうすれば、彼女はいつも目を覚ましてくれる。
彼の声にだけは反応してくれる。
「__起きて、姉さん」
旭は帰りたい、そんな姉のために。だからこんなところで立ち止まる訳には行かない。
まだ何も分からないけど、それでも。
「おはよう、リフェ」
悲願を達成した。そんな感情でいっぱいの声で赤髪の女性が言った。ああ、棺桶の中の住人が目を覚ましたのだ、と旭は顔の方へ視線を向けた。
「私は、随分と長く眠っていたのですね」
起き上がった彼女の、優雅に揺れる髪から花弁がひらりと舞った。
言葉を失って立ち尽くす旭を、赤色の瞳が射抜く。
「ありがとう、名も知らぬ転移者様」
見る人全てに安心感を与える、慈悲の女神。
そう例えてしまいそうなほど美しく、優しい。容姿だけではない、声音、纏う空気、全てが。
だが、旭が立ち尽くしていたのは彼女の雰囲気に飲まれたからという訳ではない。
「まぁ、大変! 」
「彼はカイコウ者だ、反動だろう」
かいこうしゃ、とはなんだろうか。旭はその疑問を口にすることは叶わなかった。
花弁を赤い血液が汚している。鼻血が出ているのだ。
旭は拭うことができない、頭をギチギチと締め付けられる痛みに耐えきれず女性の上に倒れ込んでいた。
「そう、それで……キャル、貴女が連れてきて下さったのね、ありがとう」
「えぇ、しかし今は」
「ふふふ、貴女にまた会えて嬉しいわ」
「リフェ、君のその感じも久しぶりだけどそうじゃなくて」
パキリと結界にヒビが入った。扉が向こう側から押されてギシギシと悲鳴をあげている。顔を顰めてキャルとよばれた女は結界を修復した。いつまで持つか。
「今の、魔力」
「やっと気づいたか……リフェ、君と彼に託したい。 藤色の天使の企みを、潰してくれ」
「で、ですが」
あなたは、と問いかける緑色の髪をした女性_リフェに、キャルは悲しげに眉を下げてそれでも笑った。
「私は、ついていけない。だから待っているよ、君の助けを……なんてな」
そう言った彼女の瞳は再び藤色に侵食され始めていた。リフェが息を呑んだのを見て、キャルはそれを隠すように扉の方へ向き、更に結界の強度を高める。それにつれて、向こう側からの衝撃も強まっていく。
「……どうか、どうかご無事で」
蚊帳の外の旭は痛みで横たわったままそんな光景をぼんやりと眺めていたが、リフェに抱き起こされた。
「ウォルド・レスティアロウ」
風を切る音共に花弁が舞い散り、カーテンが激しくのたうち回った。
二人の姿はもう無い。窓の外に目を向けた後、ただ一人残ったキャルは結界を解除した。
「おや、おやおや、罰を受ける覚悟できたんですかー、ねぇ」
頑丈なはずの扉が、彼女の頬を掠めて吹き飛ぶ。ただの穴と化した扉の前で、藤色の天使と呼ばれた少女は楽しげに笑っていた。
____
______
どれくらい飛んだだろうか。抱えられた旭は未だにハッキリとしない思考の中考えた。
一体どこに向かっているのかも不明なのだが。
「……なぁ、俺たち__」
「うぅ、うっ、もう限界っ、です……!」
起きたてホヤホヤにも関わらず無理に飛べばそうなるだろう。リフェは左右に揺れながら今にも落ちそうにフラフラしている。
この高度で落ちたらシャレにならない。ぼやけた思考でもその判断はつく。旭は小さく悲鳴をあげ顔を真っ青にしてリフェにしがみついた。
「お、落ちるなよ、頼むから」
「……あっ、魔力、が」
旭には魔力を感じることはできなかったがこの状況でこの発言、つまりは。
ジェットコースターを思い出す、内蔵が浮くあの感じ。
「うぉあぁぁああぁぁぁ落ちるぅうっ!?」
「きゃぁあぁぁあ!!」
普段ならば多少は照れが入りそうな距離だがそんなことも気にせず抱きしめ合う、が当たり前だがそんなことをしても落下は止まらず。
「どうにか、できないのかっ、なぁ!?」
「感覚が取り戻せないのですっ、すみませんっすみませーん!」
「あぁぁぁちくしょぉ!! 落ちるのは二度とゴメンなんっ……」
二度ととは、はて、落ちたことがあったかと旭は一瞬考えたがすぐに体に当たる風にかき消された。
地面は迫っている。本当に、死ぬ。こんな所で。
「嫌だぁああっ!!」
意味もなく目を瞑った旭の体が引っ張られた。いや、抱えられた。
急に落下を止められた反動で腹部に衝撃が走って呻く。それから誰かに抱えられていると認識した。
「しーっ、アレに感知されますと面倒ですので」
サーモンピンクの髪をした執事服の男が、二人を抱えている。旭が口を開く前に、男は口元で人差し指を立てる。
「お前__」
「カル・リコーム」
なお話そうとした旭に困ったような顔をした男は、そっと呪文を唱えた。ぐわりと音が遠のく。心が緩やかな安らぎに包まれ、眠くなる。
完全に意識を落とした旭とついでに眠らされたリフェを抱えたまま、男は遠くに見える街へと向かっていった。
縦に長い建物が多く、そのほとんどが白と灰色をしている黄色の国。一見無機質に見えるが活気づいていて、人々の声が賑やかに響いている。
そんな街の外れで、首元にファーのついた黒いロングジャケットを羽織った青年がその服の裾を揺らして空を眺めていた。
サングラスをズラして、口元に三日月を描く。
「面白いことが起こりそうじゃん?」
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