第34話 嵐の前に甘い物
「う~ん、あまり経過が良くありませんねぇ」
体温計を細目で見ながらフローレンスは唸った。
ここはイーストパシフィック号の一等席、アイチ達が乗車する客室。既に汽車はエンドシティを出発していて、時刻は夕食時を過ぎた辺り。車窓から見える外の景色もすっかり日が暮れており、街灯すらない真っ暗闇の荒野が緩やかに流れている。
夕食が始まる前にタイミングを見計らってか、女医のフローレンスが様子を見に来てくれたのだが、横になっているアイチの容体は芳しくなかった。
「夕食は食べられそうですか?」
「……ううっ、けほけほ。あまり、はらはへって、ないですねぇ」
「少し強めのお薬を処方しますから、ちょっぴりでも何か食べて下さいね。あと、水分は多めに取ること。汗のかきすぎで脱水症状になるかもしれませんから」
ベッドの上で上半身を起こし、脇の下に挟んでいた体温計を渡したばかりのアイチは、反論する気力も無く力尽きるように後頭部を枕に戻す。熱の所為で真っ赤に染まった顔に何時もの眼帯は暑苦しく、毛布を直しながらフローレンスは「それから」と苦言を付け加えた。
「せめて横になっている時くらいは、その眼帯を外したらいかがですか?」
「……けほ」
嫌がるように首を左右に振るがその動作すら重々しい。
フローレンスは諦めるように嘆息してから、横のテーブルに乗せられた水を張った桶からタオルを絞り、熱くなった額に乗せた。ただそれだけても籠った熱が放出されていき、幾分アイチの苦しげな顔色も和らぐ。
「先生、アイチの具合はどうなの? あんまり良さそうじゃないけど」
「まぁ、お世辞にも大丈夫とは言い難いですかねぇ。でも、あまり心配する必要はありませんよ」
一通りの診察を終えたタイミングで心配そうな声色でアンジェリカが問うが、持ち込んだ鞄を漁りながらフローレンスは落ち着かせるよう微笑を見せる。
「確かに体調は大きく崩してしまいましたが、これくらいなら想定の範囲内です。薬も用意してありますので、今すぐにどうのという事にはなりません」
「そ、そうなんだ。それなら良かった」
ホッと安堵に胸を撫で下ろすが、フローレンスの言葉はまだ続いた。
「ただ、油断は厳禁です。これ以上、悪化するようなら途中の駅で下車する事も考えなければいけません。それはご理解頂きたいです」
「うっ……でも、大丈夫そうなんでしょう?」
「現段階では、です」
真剣な表情でハッキリと忠告する。
「普通に安静にしているなら問題はありませんが、ここは汽車の中です。揺れが何処まで体調に影響するかわかりませんし、何より彼……アイチ君自身、かなりの疲労が溜まっているように見受けられます」
「それって、やっぱり長旅や魔力消費が影響してるの?」
「それもですが、一番は心労でしょう」
そう言ってフローレンスは酷く心配するような視線を、寝ているアイチに向ける。
「目が見えないというのは、それだけでもかなりの心的ストレスになります。普段だったら特別な影響は無くても、身体が弱っている状況ではそれが如実に表れてしまったのでしょう。できるだけ寂しくならないように、手を握ったり、たまに声をかけたりしてあげてくださいね」
「わかったわ。任せておいて!」
「……けほ」
子供扱いは止めて欲しい。と反論したいが、熱に犯された現状では口も上手く動かない。
「では現状はもう少し経過を見てみるという事で。私は医務室に戻りますから、何かありましたら深夜でも遠慮せずに呼び出してください。くれぐれも薬を飲む前に、ちょっとでも食事はとってくださいね」
聴診器や温度計を鞄に片付けると、立ち上がったフローレンスはそう念を押しながら、とてとてと客室を出て行った。
ドアが閉まる音と共に、アンジェリカは大きく息を吐き出す。
「とりあえず、早速の病院送りは免れたわね」
「わたくしの目には、それも時間の問題のように見えるのだけれど」
ソファーの上に置かれたリュックの中から、もぞもぞと這い出てきた声の主ではるジゼルは、ようやく動き回れると大きく伸びをする。
「優雅な汽車の旅も、熱に浮かされていては思い出にも残せないわ。もっとも……」
揺れるソファーの上で器用に爪先立ちになりながら車窓から外を見渡す。
「こうも真っ暗では景色に酔う事もままならないわね」
反射で移り込む自分達の姿の向こう側で、辛うじて岩場や細い木々が流れるのだけが確認できる。窓を開ければ少しは景色を楽しむ事が出来るのだろうが、荒野の夜を吹き荒ぶ冷たい風は病気の身体に障る。
アンジェリカも同じよう窓を除き込みながら、怪訝そうに目を細めた。
「荒野なんて散々、見飽きるほど見たっての。今更、酔いしれるような要素ある?」
「清風明月というモノが理解できてないわね。まぁ、月は出ていないようだけど」
少し屈んで夜空を見上げるが、そこに月らしきモノは見当たらなかった。
「けほ。雲が、出てるんですかい?」
「いや、今日は新月みたいね。そりゃ外の景色も見えないわ」
月明かりも無い夜の荒野を切り裂くように、イーストパシフィック号はリズミカルに回る車輪の音を響かせ、真っ直ぐと遥か大陸の彼方まで昇る線路を駆け抜けていく。もくもくと立ち上る黒煙は夜空と冷たい風を汚すが、ここには洗濯物が煤で汚れると苦情を言う家もなければ、景観が損なわれると文句を言う建物も無い。人の生活圏から外れた過酷な大地を、何の準備も無く踏み入れれば命の危険すらある長い長い旅路を、僅かな時間と大量の水と石炭を消費して、汽車は本来かかる筈の時間を飛び越え乗客と荷物を運ぶ。
闇夜に隠された変化に乏しい光景でも、車窓から流れる僅かな景色は不思議と目を引く。
気が付けば特に意味も無く、アンジェリカとジゼルは黙って外を眺めていた。
不意に沈黙を遮ったのは、ぐぅと鳴り響くアイチの腹の音。
「……食欲、無かったんじゃないの?」
良い事だが音の大きさに、思わず見下ろすアンジェリカも苦笑いを浮かべた。
☆★☆★☆
七両編成のちょうど真ん中の四両目。二等席と一等席を分ける間の車両に食堂車は位置している。汽車の中なので当然、広さがあるわけでは無いが、テーブルクロスを敷かれた四人掛けのテーブルが並ぶ空間は、レストランや町の食堂では味わえないレトロな趣きのある光景だろう。
乗客が殆どいないのもあるが、夕食の時間が過ぎている事もあって食堂に人の姿は無く、アイチ達と途中で合流したホランドら三人に貸し切り状態だ。食事の必要が無いジゼルは客室で留守番をしている。
「いやぁ、腹減ったなぁ。さぁて、何を食べよっかな♪」
早々に席に座ったホランドが我先にと、置かれている手書きのメニュー票を取る。
アイチもアンジェリカに椅子を引いて貰い、口元を手で覆いながら「よっこらせ」と腰を下ろす。
「そんなに、けほ、腹減ってんなら、けほけほ。先に食べてりゃ、よかったじゃないですか」
「冷たい事を言うなよ。一人で食うなんて寂しいじゃんか」
「そう言って夕飯代、わたしらにたかる気じゃないでしょうね?」
アンジェリカがジト目で睨むと、図星だったかバツが悪そうに頭を掻く。
「いやいや、全部奢って貰おうってハラじゃなくってよ、酒の一杯くらい、なぁ?」
「わたしらがお酒飲めるように見える?」
「茶の一杯なら、構わないんじゃないですかね」
「わかったよ。それで手を打つから飯を食おうぜ、寂しいのは本当だぞ」
大仰に肩を竦めてから、まだ立っているアンジェリカに早く座れと急かすようテーブルを叩く。
急かされたアンジェリカはため息を吐いてからアイチの隣に座った。
その短い間でもやはり体調が芳しくないアイチは、テーブルの上でぐったりとしている。
「ってかアイっちゃん。具合が悪いんだし、食事を運んで個室で食えばいいんじゃねえのかい」
「わたしもそう思ったんだけど……」
チラッとテーブルの上に頬を押しつけるよう倒れ込むアイチを見る。
「す、スペシャル、チョコバナナクレープ、パフェ」
「大き過ぎて客室まで届けられないって言われて、諦めきれずに這ってきたのよ」
「……マジっすか」
ホランドもドン引きしたのか、顔が引き攣っていた。
「流石に、もうちょいと栄養があるモン食った方が良くないか?」
「けほけほ。根本的な、原因は魔力不足です……けほ。魔力回復には甘味が、一番コスパがいいんですよ」
「一応、女医さんに許可を貰いに行ったんだけど……」
医務室を訪ねた際、フローレンスが見せた渋面が思い返される。
「食欲があるのは悪い事ではありませんから。って言って許可は出してはくれたわ」
「それって言ったって聞かないから、諦められてるんじゃないの?」
「……否定し切れないのが悲しいところね」
乗車の顛末を考えればその想像に行き当たるのは当然だろう。
好き放題言われているが、アイチだって別に進んで迷惑をかけたいわけでは無い。
「無茶の、言い通しだってのは、重々承知してますよ……けほ」
二人の視線がアイチに向けられる。
「けど、体力や、体調以上に……けほけほ。魔力が足りないのは、事実です。何処で何が起こるか、わからない道中だ、けほ。補える部分は、無理しても、補っておきたいんです」
「……アイチ」
ある種の極まった覚悟すら感じさせる言葉に、アンジェリカは胸を打たれ、かけるが、直ぐに視線は三角のジト目へと変わる。
「その状態で言っても、格好が付かないわよ」
相変わらずテーブルに頬を押しつけ、突っ伏すような態勢のアイチに、心配より先にそこまでしてパフェが食べたいのかという呆れが先に立つ。事実、客室に置いてあった食堂のメニューでパフェを見つけるまでは、ベッドの上で苦しげに咳をするばかりだった。
「まぁまぁ。食欲がある事自体は悪い事じゃないって言われてるんなら、とりあえずはいいじゃんか」
「甘い物だけじゃなくって、少しは普通の食事も食べなさいよ」
「……シチューとか、汁物で勘弁してくれませんかねぇ」
甘い物は別腹だとしても、やはり熱を伴う気怠さから食欲は沸いては来なかった。
無理に詰め込んで戻してしまったは余計に体調不良が悪化する。なのでメニューを選ぶ気力にも乏しいアイチに変わって、アンジェリカが選んだのは野菜が多めのミネストローネ。量もそれほどでは無いので、風邪っぴきのアイチにはちょうど良いだろう。
メニューも決まり、アンジェリカが手を上げると、聞きに来たのはウエイターでは無く車掌のワイアットだった。
「はいはいはい、皆様方。ご注文がお決まりですか?」
「あれ、車掌さん? なんでウエイターなんてやってんのよ」
当然の疑問にワイアットはメモを片手にいやはやと後頭部を掻く。
「わが社は常に人手も、雇う元手も不足しているモノでして……ああ、料理長の腕前は保証しますよ。人員は不足していてもその分、長年で培ってきた質の高さが、イーストパシフィック社のウリですから」
「量より質ってわけね。けど、今日の俺っちは腹いっぱい食い気分だぜ」
「アンタに同意するのは癪だけど、食べられる時に食べるのは旅人の鉄則よね。車掌さん、注文をお願い。アイチは……」
「スペシャルチョコバナナクレープパフェ」
「と、野菜たっぷりミネストローネをお願いするわ。後は……」
「はいはい、っと」
続けて適当なメニューを頼むと、ワイアットはメモ帳にサラサラっと注文を書きこんだ。
「注文は以上でよろしいですかな。一応、アルコール類も取り揃えているけれど」
「おっ、いいねぇ。ここはさっぱりと、ビールで喉の渇きを……」
「結構よ。ああ、温かい飲み物があれば貰えるかしら」
「甘い物で」
勝手な事を言うホランドの注文を遮ると、アイチも突っ伏したまま付け加えた。
ワイアットは苦笑しながら。
「承りました。温かな紅茶とミルクココアをご用意しましょう……あとは食後に、お薬が飲み易いように白湯もお持ちしますので」
「さっすが車掌さん、気が利くわね」
「ご配慮、痛みいります」
「いえいえ、礼には及びません」
注文を書いたメモのページを切り取って、ワイアットはにこやかに微笑む。
「他者に比べて足の遅い汽車でも、せめてご乗車頂くお客様のは、健やかに過ごして貰いたいですので。まぁ、出来る事と出来ない事がありますが……パフェをお部屋にお持ち出来ませんように」
最後はちょっとだけ申し訳なさそうに言ってから、ワイアットは注文を通す為に一礼してからテーブルを離れた。
注文が終われば後は料理が来るのを待つだけだ。
久しぶりに雨風が凌げる場所で、ゆっくりと食事を楽しむ事が出来る事もあって、普段よりも心地よい空腹が頼んだ料理への期待感を促す。アイチも風邪させ引いていなければ、待つ楽しみを満喫できたのだろうが、今は突っ伏したテーブルから顔を上げるどころか、ワイアットが先行して持ってきた飲み物を飲むのも億劫だ。
それでも甘い物を食べたい欲求は抑えられず、口内に溜まった唾を飲み下した。
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