第3話

 ビル陰が包んでいた小路から大通りへと帰って来ると、開けた希望に明順応を起こした瞳孔が収縮していく。

 店の前まで戻って来たのだが、あまりにも人の気配が無く、営業しているのか判然としない。

「これ入り口ここであっとるんか?」

「んー、確かに全然開いとる感じせんけど。取り敢えず入ってみる?」

 文殊の知恵を得るには人数が一人不足している。現状これ以上の情報が期待できないのならば、最善ではないが、晋作の提案が次善策だろう。日頃から一人で飲食店を回っている時もそうなのだが、こういう人の気配がしない所や、俗に言う隠れ家的な店に行った時は、いつもこの扉を開ける瞬間が最も緊張するのだ。店の場所は合っているのか、私は場違いではなかろうかといった意識からか、何か間違いを犯しているのではないかという不安が私の心臓を握り、視界を覆う。今だにこの感覚には慣れない。こういうときはこの恐怖に打ち勝つためにまずは一歩を踏み出してみるのだが、今回は心の内でええいと唱えたその時、私の視界はその端にもう一つの、それも開いている扉を捉えた。心を奮い立たせようとアクセルを踏み込むその前に、より楽で確実な手段があるのならば、それを選択しない手はない。要は怖気づいたのだが、私の灰色の脳細胞から信号を伝えられた副腎がコルチゾールを分泌したのだ。その先には闘争か逃走しか無い。これは人の本能なのだから仕方がないのである。

 扉の先は土産屋で、そこから食事を摂る所までは特に仕切る壁や扉も無く、直接通り抜けることができる。人の動線が考慮された都合の良い構造である。テーブル席をいくつか挟んだ奥の通りに女将らしき人の存在を認めたので、私たちが来店したことを告げる。

「はーい。」

「すみません、二人なんですが、お昼いけますか?」

「ええ、ええ、お好きな席へどうぞ。」

私たちは席についてメニューを広げる。互いに向かい合って座った時の常套手段として、私たちは体の向きを揃えて一つのメニュー表を共有したのだが、そんなことをするまでもなく、私の注文は既に決まっていた。

「瓦そばあるか?」

「これやな。」

「セットとかは?」

「特に無さそう。」

「ならそれで。」

「お、いいねぇ、よく分かってらっしゃる。」

晋作は私が山口県の名産を選んだことにご満悦らしい。こいつの山口愛に感化された訳では無いので、ニヤニヤと満足げな笑みを浮かべる様子には納得いかないが、とは言え私がここ湯田温泉に来たのは、瓦そばを食べるためだと言っても過言では無いのだ。

 私たちは以前から、日頃の疲れを癒すため、ある種の慰安旅行として日帰りで温泉にでも行きたいと、何度も口にしていたのだが、行き先の候補が多く、会話は踊ったがされど進まなかったのだ。そんな砌、流行りのドラマで登場人物が瓦そばなるものを食べていた。私の地元ではまず茶そばというものが珍しく、しかも瓦に乗せて焼くというこれまた粋だが風変わりな食べ方をするのだから、未知の一品が私の好奇心をアジり、食指を伸ばさずには居られなかった。

「お前は?」

「んー、どうしよっかな。」

と、健啖家の常として、何を食すか逡巡している様子だったが、

「唐揚げ定食にしよっかな。」

と漸く決心がついたようだった。

「お前は瓦そばちゃうんかい。」

愛国心の強い晋作は当然山口名物の瓦そばを選択するのだろうと思っていたので、それ以外の料理名を口にしたことが私の意表を突いた。

「まぁ、普段から食べるし、その辺のスーパーにも売っちょるけぇなぁ。」

「食べ飽きたんか?」

「飽きはしないけど外食で食べる物じゃないんよ。ソウルフードやけぇ家で食べんと。」

「ふーん、そんなもんかね。で、注文は決まりやな?」

「うん。」

普段は山口県について一家言あるのだと、県民の誇りを前面に押し出す晋作だが、こいつにはこいつの食に対する拘りがあるのだろうと適当に相槌をうちつつ、体を傾けて厨房の方を除く。

「すみませーん。」

それに釣られて晋作も厨房の方を見て店員を呼ぶ。「はーい。」

女将の張りのある声が返って来るが早いか、パタパタとこちらへ駆け寄って来る。

「ご注文お決まりで?」

「はい、この唐揚げ定食と。」

「瓦そば一つお願いします。」

「はい。唐揚げ定食と瓦そばね。ちょっと待っててねー。」

女将が厨房へと戻ると、私たちの注文した料理名が店の奥から響いて来る。

 すると不意に尿意が顔を覗かせる。考えてみればここに来るまで一度もトイレ休憩を挟んでいなかった。

「ちょっと便所行ってくるわ。」

「ほい。」

廊下を折れて、一つ向かいの通路にトイレの扉があった。飲食店だからなのだろうか、扉の横の壁に、食事にまつわる格言だか詩だかが書かれた色紙が額に入れて飾られている。「そうだ。」それを見て、ある企みがそっと、心の内に侵入して来るのを感じた。

 トイレから戻って来て、先程壁に掛けてあった詩のことを晋作に告げる。

「そこの廊下の壁に格言というか、詩みたいなんがあったわ。」

「どんなやつ?」

なんの警戒心も持たず、晋作は無邪気に、振られた話題を継続すべく当然のようにその内容を問う。その言葉を聞いて、私はニヤリと北叟笑む。

「恵みに感謝できるって、恵まれてるんだなぁ。だってよ。トートロジーだ、真理を言い当ててる。」

そこまで言った所で晋作は胸に手を当てて苦しみ始める。

「恵む、うっ、やめろぉ。」

暫しの沈黙の後、私たちは互いに笑いをこぼす。何故今の流れから笑いが起こるのか、端から見れば皆目見当もつかないだろう。これはいわゆる身内ネタなのだ。

 ちょうどこの冬休みに入る前の学期のことだった。晋作がとある和歌についての、研究発表を行ったのだが、発表が終わった際、それを聞いていた教授に「今回の発表は調査が足りませんでしたね。」と告げられたのだった。その時晋作が担当した作品は、三条西実隆なる歌人の他撰私家集『雪玉集』にある「野も山もけふあら玉の年の端にめぐむ草木の春は来にけり」という句であった。先の会話は、この句の「めぐむ」という部分に因んだネタだったのだ。大学生になってから、何度か自らの研究を発表する機会があったのだが、我々のようなひよっこはまず調査の段階で悪戦苦闘し、その挙げ句発表内容の不足を教授に責め立てられるという憂き目を見ることがしばしばだった。その結果級友の間では、過去の失敗を話題にし、そのトラウマーといっても心理学的な意味での心的外傷では無く、小っ恥ずかしいやらかし程度のものーを思い出して苦しみ、互いに笑い合うというネタの型が作られた。心に負った傷を笑いへと昇華させることで自己防衛を図る、そんな心理が働いているのかどうかは知る由も無いし、私たちにとってその真相は問題にはならない。今回は私が晋作に仕掛けたが、無論その逆もある。級友たちは相互に攻撃可能な状態にあるのだが、それは微塵も抑止力として機能せず、寧ろ日頃から今回のように頻繁に撃ち合っている。互いによく知り合った中だからこそなし得る芸当なのだと思う。

「お待たせしましたー。」

暫く談笑してからそんなことを考えていると、女将が料理を持って来た。

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