オール・アイ・ニード

まーちー

第1話


1.


ねえ、間違いなく進めると確信していたのに、

それが進めなくなったらどうしよう?

そうしたら、諦めるしかないのかな?

それが世の中なんだって、

納得するしかないのかな。


 *


高校入学式、在校生代表として壇上に上がり、スピーチをする生徒会長の「さっちゃん先輩」は、強い眼差しと鼓舞するような堂々としたスピーチで、新入生の間で一気に話題になった。私はスピーチよりも、在校生が校歌を披露するとき、指揮する姿がすごく印象に残っている。ピアノ伴奏の生徒と時折目を合わせながら、生き生きとタクトのない手を振る姿は、優しくて、力強くて、そうして終わって新入生の方を向いて礼をする前の、みんなを包み込むようなその瞳が、ああ、私だけに向けられたら。

だから、入学して、進むべき道はひとつだけになった!

さっちゃん先輩が指揮をとり、校歌をうたう機会はあと四回。一学期の終業式、二学期の始業式、文化祭、クリスマス行事、だ。クリスマス行事が終わると三年生は受験に集中するから、生徒会長も交代する。最後の指揮となるクリスマス行事は、ステージもクリスマスツリーで豪華に飾り付けされて、歌を披露する精鋭たちも、ピアノ伴奏者も、指揮をとるさっちゃん先輩も、制服ではなくちょっとしたおめかしをするらしい。しかも校歌だけでなく、クリスマス楽曲を、何曲も披露するのだ!

ピアノ伴奏者は、校歌を披露する毎に、希望者を募り、生徒会と先生たちの前で披露し、多数決で選出されるらしい。

ピアノは得意だ。昔から、ピアノを習っている。コンクールで入賞したこともある。正直、入学式で演奏していた先輩よりも上手い自信がある。

そう、だからあと四回、私はピアノ伴奏者としてさっちゃん先輩と一緒に演奏するのだ!


まず、一学期の終業式。ピアノ伴奏者の応募箱が設置されるや否や、すぐにエントリーした。希望者は入学式に演奏していた三年生の「よっちゃん先輩」と私の二人。「一年生で、エントリーしてくる子って、珍しい」。選考会で、さっちゃん先輩がそう言って私に興味を向けてくれるだけで、嬉しかった。緊張と嬉しさで少し間違えたけど、「まあ、今回は、やらせてみよう」と言った。さっちゃん先輩と、目が合った。

「よろしく、ラハシーナ。」


演奏する指先に力が入る。こんなに嬉しいのは初めてだった。一学期の終業式で、私は演奏を間違えるはずがなかった。完璧な、演奏だった!演奏中、さっちゃん先輩と何度も目が合った。強い瞳。薄く柔らかい笑顔。嬉しくて楽しくて、舞い上がり、立ち上がりたくなるのを必死で堪えた。演奏が終わると、さっちゃん先輩は「校歌を、あんなに楽しそうに演奏している子、初めて見た。」と声をかけてくれた。そうして、付け加えた。「また、よろしくね」。

だから二学期の始業式も演奏した。文化祭もだ。文化祭のときは、よっちゃん先輩も腕を上げていたけど、やっぱり私が選ばれた。当然!選ばれない、わけがない!いつもさっちゃん先輩は、演奏が終わると、本当に楽しそうに弾くんだね、本当に、上手だねと声をかけてくれる。私は上手だし、さっちゃん先輩に気に入ってもらえてるし、だから絶対、クリスマス行事も、私がピアノ伴奏者で決まり!そう、思っていた。

クリスマス行事に選ばれそうな楽曲を、二学期に突入した時点でピックアップし練習に励んだ。おめかし洋服を買うためのお小遣いも貯めた。インターネットで、それほど気合の入りすぎていない、だけどかわいい洋服を調べまくった。「ラハシーナ、気合い入りまくってるね」。とクラスメイトに言われたけど、この気合が空回りしないように、そう…、着実に、クリスマス行事のピアノ伴奏者を、私は射止めに行った!


その頃には、エントリーする子もちらほらいて、選考会は五人集まった。それでも私の演奏は完璧だった。誰よりも上手く弾いた。よっちゃん先輩よりも、しなやかに、情緒的に、激しく、優しく、あらゆる技法を使って、弾いた!

勝った!

勝ち取った!

そう思って、さっちゃん先輩を見た。さっちゃん先輩は、微笑んだ。

(やった!)

と思った。だけどその眼差しが、どこかぼんやりと遠くを見ていると、私は思った。

選考会が終わって、校長先生が言った。

「ラハシーナさんはいつもながら、エネルギッシュで、美しい演奏をするね。本当に、感心します。でもね…」

(で、も、?)

全身から、熱がサーっと引いていくのが分かった。

「クリスマス行事は、高校生活最後の一番華やかな記念の行事で、三年生の思い出になる行事なんだ。だから、今回は…………………」


その日は、そろそろ寒くなってくるくらいの、秋でも冬でもない、曖昧な日だった。雨が降っていて、放課後の学校は薄暗く、部活動で活発なクラブ棟以外は静かであった。唯一、選考会をしていた音楽室だけ明かりがついて、おや、なにかしているのかな?と帰宅部の誰かが呟いた、その声を聞きながら、俯いて、教室に足早に歩いた。

キュ、キュ、と湿気で歩くたびに音がする。ああ、くだらない、くだらない、そうやって心の中で叫びながら、なんとか涙をこらえながら、教室に戻った。教室には誰もいなかった。ここには喜びに満ちて帰ってくると思っていた。選考会が待ちきれなくて、片付けもままならなくて、教科書や文房具が散らかりっぱなしの机に戻る。しとしとと雨の音がする。カチャ、カチャと片付ける音が虚しく響く。本当は、なにも手をつけなくなかったけど、とにかく早く家に帰りたい、この場から去りたいと思って、ただひたすらに、一生懸命に手を動かして、片付けた、そうして鞄に全てを入れて、教室の出口に目を向けた。

「…………。」

「………………。」

「…………」

「…………………さっちゃん先輩………。」

そこには、さっちゃん先輩がいた。さっちゃん先輩は、薄暗い教室から、薄暗い廊下に出るまでの、細くて狭い境界に立っていた。その瞳はともしびを失って、暗く、どんよりとしていた。だけどなんだかそんなことはどうでもよくて、黙って突っ立ったままのさっちゃん先輩に、私は言った。

「…なんで…」

なんで、ここにいるんですか?

「…なんで…」

なんで、私に会いに来てくれたんですか?

「…なんで…」

なんで、なんで、

「…なんで、私じゃないんですか…」

そのとき、どんよりしたさっちゃん先輩の瞳に、ふと光が灯った。たった今起きたかのように、すうーっと息を吸った。そうして、

「ラハシーナ?」

と、呟いた。

「?」

「ラハシーナか…」

「ラハシーナですよ。さっちゃん先輩?」

「……よし」

「?」

どうも、なんだか、さっちゃん先輩と話が出来ていないような気がした…。

その瞳が、再び、輝いた。そうしてさっちゃん先輩は、誰もいない窓に向かって指を差した。大きな声で、はっきりと言った。

「行けぇッ!!」

そうして一歩踏み出した。さっちゃん先輩の身体が、水を浴びたように一瞬で濡れた。

「さ、」

さっちゃん先輩?

と、呼ぶと同時に、さっちゃん先輩は私の方には目もくれず、そのまま真っ直ぐ歩いた!その先には窓があって、ここは四階、その窓に迷いなく触れた。

「さっちゃん先輩…」

せっかく掛かっていた鍵を開けて

「さ、」

その、窓に手を掛けたら

「さっちゃん!!!」

パァン!と勢いよく、開けた!雨がしぶいて、さっちゃん先輩を濡らす、濡らす、全身が、びっしょり濡れて、さっちゃん先輩はついに、足を窓ぶちにかけた、

さっちゃん!

さっちゃん!!

走りより、その手を掴んだ途端、ダーーーン!!!という凄まじい音が聞こえて、私の手はさっちゃんの手から弾かれた。


ねえ、間違いなく進めると確信していたのに、

それが進めなくなったらどうしよう?

そうしたら、諦めるしかないのかな?

それが世の中なんだって、

納得するしかないのかな。










2.

後とか先とか、そういうの、考えたことがない。だって今の一瞬一瞬を積み重ねていれば、そうしたらいつの間にか、進んでいくのだから。この一瞬、この一瞬、輝いていれば、おれはずっと永遠に輝き続けられるのだから。



「エントリーナンバー六十八、アーチ!」

凄まじい拍手と共に、「アーチ」はステージに迎えられる。あいつの演奏のどこがいいんだか!そうやって言ったら、俺などあっという間にヒール扱いだ。みんな俺以外が選ばれることを祈ってる、でも結局、俺の演奏の素晴らしさに平伏して、結局輝くのは俺なんだ。

アーチは鍵盤楽器「ウレカ」を弾く。ステージの中央にデカデカと設置されたウレカの椅子に、お行儀よくお辞儀をして、座り、両手を広げ、鍵盤の上に手を乗せ、ペダルに足を置き、ひゅっと呼吸をしたら、小さく静かに耳を澄ませないと聞こえないくらいの音量の、音から始める。

アーチが得意な曲だ。こういう弾き方が、あいつは得意だ。つまんねー、こういうのがさ、つまんねー曲、な、わけだよ。この静かな空間が、俺は苦手だった。みんなが集中して、「聞きに行っている」空間。演奏家だったら「聞かせろ」!と俺は思うんだ。だから俺は聞かせに行く。準備は万端。舞台袖で。俺の相棒のトゥボロを持って。メンテナンスはばっちり。俺のコンディションも、ばっちり。もうここに来る前から、演奏したくてウズウズしていた。なんだかんだみんな、結局俺を選んで、結局俺が、優勝して、「ポルト・パルト」に選ばれるんだ!小さくヴ、ヴ、と弦を鳴らす。よし、ばっちり。アーチの面倒くさい演奏も気にならなくなってきた。身体も軽い。調子がいい……。

と、思っていたのに、そいつは突然現れた。真っ暗な舞台袖で、突然チカチカと小さな光が出てきた。なにかの機材が光っているのか?と思ったら、一瞬キラッ!と強い光を放った!眩しくて、目がくらむ。それと同時に、ドゴン!と音がして、何かが目の前に落ちてきた。まあまあデカいやつが落ちてきたぞ。それに、今の光は?会場がザワザワしているのが分かる。アーチの演奏も止まった。なんだ?なんだ?俺の足元で、「なにか」が動いている。

「うーーーーーーーん」

人の声だ!

「痛い」

むくり、と起き上がるのが分かった。少女の声だ。しゃがみ込み、よく見ると、確かにそこに誰かいる。「誰か」に話しかける。

「おい、大丈夫か?」

「誰か」が答える。

「あ、はい」

「…………あ、そう」

「え、ていうか、ここ、どこ?暗い…」

「ステージ横だよ。お前、なんだ?」

「ステージ?なんの?」

「は?」

そのうち、警備員の何人かがバタバタと集まって来た。

「なんだ、今の光は?きみか、ビュウ!」

「なんでだよ、ちげーよ、こいつのせいだよ」

「こいつ?」

「ここにいるだろ、訳わかんねー奴が、ほら」

「誰もいないぞ」

「は?」

「あの、いまぁーす。ここに。私が。」

「ほら、喋った」

そいつが喋っても、警備員には聞こえていないようだった。意味が分かんねーから、そいつの肩を叩いてみた。確かに、叩ける。確かに、そこにいるはずなのに、みんな揃いも揃って、誰もいない、見えないし聞こえないと言う。そいつは警備員の目の前で手を振ったり、顔を近づけたりするが警備員は反応しない。ついに、警備員に触れようとしたら、なんと身体を通過してしまった。

「うっそだろ!」

と、そいつと俺は同時に言った。

こんなに不可思議な現象が起きているのに、警備員は全て俺の戯言で、俺がアーチの演奏の邪魔をした挙句、それを認めずに混乱させていると言ってきた。

「お前がアーチを嫌いなのは知ってるが、やり口が汚ねえぞ、ビュウ」

「なんでだよ」

「今回の選考会は参加させられない!今すぐ出て行け。「ポルト・パルト」も剥奪だ。」

「待て待て!なんで!」

「なんでじゃない!当然だ!早く出て行け」

 そうして腕を強引に掴まれて、ずるずると会場外に追い出される。 ふざけんな!俺の話を聞けよと散々わめくが、警備員は笑ってる。はーあ、こいつらもそうか、俺が選ばれることを、面白く思っていないんだ。あの少女は、警備員を引っ掴もうとしてはすり抜けるを繰り返し、私はいます、私はいますと訴えていたが、やはり聞こえていないようだった。俺はそのままご丁寧に会場の入り口に引っ張って行かれると、倒す勢いで押されながら外に出された。

「お前は失格だ」

やったぜざまあみろ、と警備員は笑っていた。


隣にいるそいつは、申し訳なさそうな、悲しそうな、寂しそうな、不安そうな、複雑な表情をしていた。どう考えても、こいつが原因だ。怒りの矛先は当然のように向いた。

「なんっっだよ、てめえはよ!」

そいつはビクッと肩を震わせたが、そんなことはどうでも良かった。

「俺になんかの恨みがあんのか?!アーチの差金か?誰に言われてここに来た!なんのためにこんなことをするんだ」

「……………」

「俺を貶めるのが目的か?!」

「………………」

「黙ってねえで、なんとか言ったらどうだッ!」

ずっと俯いて、ぶるぶると肩を震わせていたが、ついに地面にしゃがみこみ、膝を抱えて、うっ、うっ、と嗚咽を漏らし始めた。やべー。めんどくさいことになりそう。と思った次の瞬間、ものすごい大きな声で、

「どこなのよぉ〜!ここはぁ〜!」

と叫びながら、おんおんと泣き始めた。



「お前、名前は」

「ラハシーナ」

「いつも、何してる」

「高校生…」

「コーコーセイ?なんであそこに来た」

「分かんない。さっちゃん先輩を追いかけて、そうしたらあそこにいた」

「??」

「???」

ほんっとうのほんっとうに意味が分からないんだけど、本当にあのあと、尻餅をついたと思ったら、知らない場所に落っこちて、一人を除いて誰にも認識してもらえず、その一人にはすごい剣幕で怒られた。景色なんて見る余裕がなかったけど、一回落ち着けと言われて深呼吸をしたら、ここが海の底のように青い世界であることに気がついた。まるで海中遺跡だ。石のようなごつごつとした素材の太い柱があちこちに建っていて、屋根はなく、太陽は海の底から見上げたときのようなぼんやりした光を放っている。私たちがさっきまでいたのであろう「会場」は、珊瑚礁で作られた彩り豊かなドームで、その会場だけが異質なほど、周りはただただ青かった。

「ビュウ」と名乗った隣の青年は、真っ白いお肌に真っ白い髪の毛、その瞳は燃える炎の赤だった。この瞳に凄まれたときの怖さったらなかった。身体つきはそんなにたくましくないけれど、生命としての強さがあふれ出ていた。

泣いたせいなのかなんなのか、ビュウは、ペットボトルに入れた水をくれた。水は冷たくて、美味しかった。

でも、やっぱりここがどこで、一体なぜここに来たのか、全然分からない。ビュウは呆れ半分、怒り半分という感じだったけど、あまりに会話が分からないので、深くため息をつくと、頭をがしがしと掻いてつぶやいた。

「まじで意味分かんね」

ふと、ビュウの座っている隣にヴァイオリンのケースが見えた。そういえば、なんか選考会がどうとか、言ってたな。

選考会………。いやな、言葉だ。

「ビュウは、ヴァイオリンを弾くの?」

「は?ヴァイオリン?」

「え?違うの、それ。ヴァイオリンじゃないの。」

「トゥボロだよ。お前トゥボロも知らねーの?」

「え?見せて?」

「なんだよ」

ブツブツと文句を言いつつビュウはケースを開けて中身を見せてくれた。やっぱりヴァイオリンだった。ヴァイオリンまで白い。でも、弦だけが銀色に輝いている。

「きれいなヴァイオリンだね」

「だから、トゥボロだっつってんだろ」

「ねえ、弾いてよ」

「な、ん、で、だ、よッ」

「だって、弾いたら分かるかもしれないでしょ。ヴァイオリンか、トゥボロか」

「お前な」

ブツブツと文句を言いつつも弾いてくれる…と思ったが、それはなかった。ビュウは「トゥボロ」をケースにしまった。そして、静かに、怒りを押し殺した声で言った。

「お前のせいで、台無しなんだよ。」

「え?」

「選考会だよ。今日は一年に一回ある、「ポルト・パルト」を決める選考会だったんだ。俺は五年連続選ばれてる。今年も選ばれるはずだった。この日のためにバカみたいに練習してきたんだ。それがお前のせいで、演奏すら出来ずに、失格になった」

すっと冷たくなった。 選考会。この日のために、バカみたいに練習してきた。安易に自分と重なった。あの時の悔しい気持ちと重なった。ただ違うのは、原因が、明確にあることだった。 でも、私だってわざとじゃないし。 それに、私だって、困っているわけだし。

そんなことを、一パーセントくらいは思ったけど、九十九パーセントは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ビュウの正面に立ち、やったことがないくらい良い姿勢で、腰からギャンッ!と身体を曲げて頭を下た。

「ごめんッ!!」

自分の、足元が見えた。いつもの、スニーカーだった。

「本当に、ごめんなさいッ!!」


 *


はーあ。

なんだか、長いため息が出た。「ラハシーナ」が謝った時、なんだか急に熱が冷めた。あーあ、なんだかしょーもな。なんだか、ダッセェ。もう、こいつを責めたって謝られたって、ポルト・パルトには選ばれないんだ……。

「もういいよ。あーあ、なんか急に、ポルト・パルトとか、どうでも良くなって来た。」

「でも、五年連続選ばれたんでしょ…」

「そーゆーのにこだわってたのが、なんかどうでも良くなってきたんだよ」

「…………。」

「………」

「…………」

「…」

「………ねえ、間違いなく進めると確信していたのに、それが進めなくなったら…」

「ん?」

「そうしたら、諦めるしかないのかな?それが世の中なんだって、納得するしかないのかな。」

「…………は?」

「ねぇ、ポルト・パルトに選ばれるって、どうやって選ばれるの?」

「どうやってって、投票だよ。選考会で演奏して、観客と審査員が投票するんだ。」

「何人くらい、演奏するの?」

「だいたい、毎年百人くらいだな。」

「ビュウは、何番目なの?」

「おれは六十九番目」

「さっき、何番目の人が演奏してたの?」

「六十八番目」

「一曲、どれくらい演奏するの?」

「五分くらいじゃねーかな」

「さっきから、どれくらい経ったのかな?」

「分かんねーけど、三十分くらいは経ったんじゃね」

「てことは、六人しか演奏していない…」

「?」

ラハシーナは、顔を上げた。驚いた。さっきまでの怯えた顔ではない、らんらんとした顔だった。

「まだ間に合う!」

「何にだよ!」

「選考会だよ!選考会は、終わってない! 百番のあとに、演奏出来る!まだ別の人に決まったわけじゃないなら、演奏して、選ばれるかもしれないよ!」

選ばれねーよ。失格って、言われたんだよ。

「間に合う!ねえ、行こうよ、ビュウ!」


 *


ほんっとうに、よくわからないけど、諦めるって、なんだか良くないと思ったの!ここがどこで、どうしてここに来たのか、ポルト・パルトってなんだよとか、色々あったけど、それよりも今ビュウが諦めようとしていることが、それってよくないと思った。普段自分のことだったら、こんなことは絶対しない、学校の選考会で、唇を噛み締めて大人しく帰ったように、大体私がすることって、そんな感じだ。耐えるんだ。耐えて、流して、悟ったように忘れるだけだ。そうするしかないって、あの時は思った。

なんでか分からないけど、なんだかね…。

誰かが同じようなことを言っていたら、それって間違ってるって言いたくなったの!

「なんか計画があんのか?!」

会場に走る私を、ビュウが止めた。計画?そんなもの、

「ない!」

「バカかよ!」

「あるのは気持ちだけ!」

「ありえねー!」

でも、計画を考えている暇なんて、ない。だって選考会が終わっちゃったら、もう、絶対に選ばれないんだもの。 ビュウは怪訝な顔で聞いて来た。

「あのさ、一応確認したいけど、同情じゃねえよな」

同情?

「そんなのじゃない」

「じゃあ、罪滅ぼしか?」

罪滅ぼし…

「数パーセントかな」

「あとはなんだ?」

 あとは、なんだろうな。なんでか、わからなかった。これが答えだ。

「分かんない」

ビュウは、パッと表情が明るくなった。 大口を開けて笑った。

「ほんっと、意味分かんね!」



分かんないことばっかりのときは、とりあえず、走り出すのだ!ゴチャゴチャ考えたって始まらない、とにかく動けばなにか始まる。そんなこと、思ったことがないけれど、ビュウのため、と思ったら、なんだか全身に力が湧いてきた。そうして楽しくなってきた。そうしたら、なんだか頭が働き始めた。

「私って、認識されないんだったね?」

 ちら、とビュウが今更という目で見る。

「そーだよ」

「弁明のしようがないか」

「最初から弁明は無理だ。俺の言うこと、全然聞いちゃくれねー」

「となると、強引作戦?」

「強引に弾けはするが、投票の対象にはならねーし、多分途中で引きずり出されるな」

「私がいるってことを証明出来れば、ビュウの話を聞いてくれるかな?」

「それだな!途中で邪魔されないくらい惹きつけるもので、ラハシーナのことを証明できるもの」

「ハッ!とするものないかな?ハッ!とするもの」

「うーん…。俺の演奏はすげぇけど、なんか違うものないかな?毎年同じことの繰り返しで飽きてくるんだよな。それに百人分も聞くんだ」

「確かに百人分は飽きる。なんかさ、同時進行とか出来ないわけ」

 と、言った瞬間、ビュウがパチン!と指を鳴らした。

「それだ、ラハシーナ!お前、楽器演奏出来るか?」

私も、ピカッと閃いた!

「出来るよ!ピアノ!」

「ピアノってなんだよ!」

両手と指を広げ、ピアノを弾く真似をした。ビュウは目を輝かせた。

「ウレカだ!ウレカなら会場のど真ん中にある。同時演奏だ!迫力あるぞ」

「いいね、セッション!ビュウ、なにが弾ける?」

「三大珍獣創造曲第二番、ラプソディ」

「し、知らん曲〜!」

「よし!」

ビュウはケースを開けた!あのヴァイオリンを取り出した。

「一回しか弾かねーから、覚えろよ!これ、楽譜だ」

楽譜は読めなかった。もう、こうなったら覚えるしかない。こんなことはやったことがないし、つい口走ったセッションだってやったことがない。だけど、出来なかったらどうしよう…などとは思わなかった。胸の高鳴りを感じた。たぶん、それはビュウも一緒だと思いたい。ヴァイオリンを取り出して、肩に乗せ、弦を弾き、ヴ〜ッと鳴らしたあと、身体を捻り、ヴァイオリンを奏でた! ヴァイオリンとは思えない、鋭い音だ!突き刺すような活力のある音。跳ねるように生き生きとしている音。珍獣…というからには動物をイメージした曲なんだろうか、動物たちが、草原を楽しく走り、跳ね、生きかい、踊って回って楽しんで、一日中遊びまわる音!メロディーは単純なものだったけど、低音から高音まで忙しく行き来して、高音は小動物を思わせ、低音は大型動物を思わせた。

ビュウはそのようなヴァイオリンを奏でながら、全身をうねり、ヴァイオリンに魂を注ぐが如く弾いた。ギュインッ!と弦が鳴った。ヴァイオリンが持つ力を、最大限に引き出して、見せつけるように弾いた。

圧倒された!

心臓が、どきどき言い始めた。

すごい。

すごく、魅了された!

「覚えたか?!」

ビュウはやりきった!という表情で聞いてきた。覚えた!と元気よく言ってみたものの、覚えてないし、自分がどのようにピアノを弾いたらいいのかも分からなかった。だけどそんなこと言っていられない!行くしかない、行くしか!不安な心が今になって出て来たけど、それは両手でがっしり掴んで、ポーイと遠くへ放り投げた。

「私、弾ける!」

「ウレカとトゥボロのセッションなんて、前代未聞だ。絶対みんな夢中になる。終わったら俺、ラハシーナのことを説明する。ウレカが鳴ってんだ、観客も大勢いるから、絶対に信じる奴はいる!俺は実力は十分なんだ、確実に、ポルト・パルトは俺のもんだ!」

「そう来なくちゃ!」

「よし、走ろう!お前はステージ上にいても多分分からないから、スタンバイしていてくれ。俺は百番が終わった直後、客席の後ろで弾き始めて、客席の間を降りながら弾く。俺の音が聞こえたら、ウレカを弾いてくれ、分かったな」

「おうよ!」

と意気揚々として、走った。いける!なんだか普段やらないことをやっているだけで、ワクワクする!ドームの入り口で、係員がビュウを制止しようとしたけど、聞くだけならいーだろというビュウの雄叫びに怯んで通してくれた。客席の扉を開けようとドアノブを掴んだら、私の手はスッと通り抜けてしまった。

「ハッ!!!」

ハッ!としたのは、自分たちだった。

私…

ピアノに触れられるのだろうか?




3.

「続きまして、エントリーナンバー百………」

扉の向こうから、アナウンスが聞こえる。ヤバイ、もう百番だ!もう、終わってしまう!ビュウと目が合った。ビュウも気がついたようだ、私が、ピアノに触れないかもしれないということに。後ろから、入らないのかという係員の怪訝な声を聞いて、ビュウがドアノブを引き慌てて客席に入る。百番は、フルートを吹いていた。うーん、心が洗われる…。とかではなくて、とにかく、どうにかしなくっちゃ!

「ど、どうする」

客席の後ろの壁に張り付いて、すごい小声でビュウが聞いてきた。隣に立って、苦し紛れに答える。

「も、もしかしたら、ピアノには触れるかも?」

「可能性は低いぞ」

「ゼロではない、うん、ゼロではないよ」

「まじで言ってんのかよ、もし、さわれなかったら、どうするんだよ」

「……」

ぐっと黙るが、ビュウは、自分の言葉になにか驚いたような表情をしていた。

「?」

「………」

「どうしたの、ビュウ。なんか思いついた?」

「いや………。」

ビュウは、にやっと笑った。暗闇の中で、その瞳がボッと光る。そうしてその瞳で私を見る。すごい剣幕だけど、今度は怖くない。

「後とか先とかそういうの、考えないタチなんだ、俺は。だって今の一瞬一瞬を積み重ねていれば、そうしたらいつの間にか、進んでいくんだ。この一瞬、この一瞬、輝いていれば、おれはずっと永遠に輝き続けられるんだ」

「え………。」

「だから、行け、ラハシーナ。お前がピアノをさわれなくたって、俺は進むぜ!」

ビュウは、ポン!と肩を叩いてきた。炎の瞳が訴える。不安や心配はすべて捨てて、ただ進む!力強いビュウの決意が、私の背中を押してくる。

(進め)

そう自分に言い聞かせて、ステージを向く。

(進め!進めなくたって、進め!進め!)

一番奥の客席から、ステージに向かって階段を駆け降りる!誰も私を認識出来ないから、ただ私はステージ上、フルートを吹くエントリーナンバー百の後ろにある、ピアノを目掛けて走った!たのむ、たのむ、あれが弾けたら。あれが弾けたらビュウのことを助けられる。そのとき、駆け降りる階段に着いていたはずの足が、少しずつ宙に浮き始めた。あっという間にふわふわと浮いて、空中でジタバタするだけになってしまった。

(なんで?!)

まさか、地面にすら、触れられないというのか、私は

(なんで…!)

なんで、さっきまでは立ってたのに

(なんでぇ…!)

いやだ、いやだ、なにもかもが上手くいかなくて、本当に、いやだ!そう思って、頭をグシャッ!と抱えた。髪が指の爪に引っかかって、チクッと痛い。痛い?あれ、私、最近痛かった。あれは、確か、ちょうどここに来た時だ。

落ち着こう。

ちょっと落ち着こう。

冷静になろう。

空中に浮いたまま、一度、深呼吸をした。遠くで心配そうに見つめるビュウが見えた。ビュウに出会ったとき、言ってくれた。「大丈夫か?」。そのとき、確かに音がした。ドスン!という大きな音。あの時、床から衝撃があった!床に、ふれられたのだ!

(なんで…?!)

考えろ、考えろ。なぜ、あの時だけ床にふれられたのか?触れたのは、床だけだったか?…いや、もうひとつ。泣いたときビュウがくれた、ペットボトル。確か、水を飲んだ。冷たくて、美味しかった。

(水!)

そう、水だ!床に落ちる直前に、私は学校にいたのだ。さっちゃん先輩が雨の中窓を開けたせいで、私も多少濡れたはず。濡れたさっちゃん先輩に触れたせいで、私も多少、濡れたはず。だから、床に触れられたんだ。走ったせいで、多分水が渇いた。それで、宙に浮いてしまった! あのペットボトルは、いま、ビュウの手の中にある!

「ビュウ!!!」

人生で出したこともないくらいの大きな声で、ビュウを呼んだ。

「ビュウ、水!水ッ!!」


 *


ラハシーナが宙に浮いた。

あいつ、床にすら触れられないのか。まじかよ、どうなってんだ…。

あーあ、もう、だめだ。もう、演奏も終わりそうだ。だが俺は決めたんだ。後のことも先のことも考えない。ただ、進み続けるのみだ。見てろ、どうせ全員、俺の演奏の虜になるに決まってる。ケースからトゥボロを取り出した。

「ビュウ!!!」

ラハシーナの声がする。

「ビュウ、水!水ッ!!」

水?

宙に浮くラハシーナは、ふらふらとしながら、しっかりと俺を見て、手を精一杯こちらに伸ばしていた。

なんで?

そのとき、思ったのだ。なんで、こいつはこんなに必死なんだろう…。名前しか知らない俺のために、なんでこんなに必死なんだろう。

いや、俺のためかどうかは分からない。罪滅ぼしの気持ちも数パーセントあるって言っていた。それって結局自己満足だろ。

自分の言葉が、蘇る。

(観客も大勢いるから、絶対に信じる奴はいる!俺は実力は十分なんだ、確実に、ポルト・パルトは俺のもんだ!)

自己満足は、どっちだよ。


 *


ビュウからすごい勢いでペットボトルが飛んできた!キャッチ出来るか分からなかったけど、気合いで受け止めた。ペットボトルは水滴が着いていて、だからキャッチできた!やっぱり、水に濡れていると触れられるんだわ。ここは客席の真上だから、どこかへなんとか移動出来ないかと思っていたら、そのとき拍手が鳴り響いた。エントリーナンバー百の演奏が、終わったのだ。まずい!もう、あれこれ言っていられない。ペットボトルのキャップを開けて、頭から水を振りかけた。

不思議だ。

焼けるように暑いけれど、それがすごく心地いい。太陽に照らされて、オレンジ色に輝き始めたみたいだ。あるか、ないか、分からなかった身体がどんどん重くなる。身体の内部からなにかが満ちてくる。落ちる、落ちる、床に向かって落ちる!二本の足で支えられるか分からなかったから、足がついたその直後、膝をつき、そのあと肘をついて、最後に横向きになって身体を着いた。手だけは守った。ピアノが弾けなくなるから。ドン!という音がした。客席がざわッとする。だけどこっちを見る目があまりない。姿はやっぱり見えていないんだ。走れ!走れ!ステージへ!

ステージ上に這い上がり、ピアノへ駆けつけようとしたとき、舞台袖へ捌けたエントリーナンバー百と目が合った。薄暗い舞台袖から、明るいステージに出るまでの、細くて狭い境界に立っていた。その姿は、

「さっちゃん先輩…?」

あのときの、さっちゃん先輩だった…。

「…なんで…」

なんで、ここにいるんですか?

「…なんで…」

私に会いに来てくれたんですか?

「…なんで…」

そのとき、どんよりしたさっちゃん先輩の瞳に、ふと光が灯った。たった今起きたかのように、すうーっと息を吸った。そうして、

「ラハシーナ?」

と、呟いた。

「ラハシーナですよ!さっちゃん先輩!」

「ラハシーナか…」

「さっちゃん先輩!なん、で」

「……よし」

さっちゃん先輩は、ピアノをまっすぐ指差して言った。

「弾けぇッ!」

瞬間、さっちゃん先輩は、ブクブクッと泡になり、エントリーナンバー百は全くの別人になってしまった。心臓がビリビリッ!と震えた。ひかなきゃ、ひかなきゃ、いかなきゃ!いけ、いけ!進め!私はエントリーナンバー百へ背を向けてピアノへ走った。ピアノの椅子を引く。触れる!よし、私がピアノに座った瞬間、客席の奥から、鋭い音がヴ〜ッと響いてきた。ビュウだ!「三大珍獣創造曲第二番、ラプソディ」が、始まった!


  *


三大珍獣創造曲第二番ラプソディは、簡単そうで難しい、だけど弾けたらめちゃくちゃカッコいい曲だ。人気の曲だが、中途半端に弾くとその題名通りめちゃくちゃダサくなる。数々の演奏者がこの曲に挑戦して、ことごとくダサく散って行った。本当にダッセェー。己の身の丈が測れないなんて。


『俺?俺は弾くからには、絶対弾きこなしてみせる。みてろ、みんな俺の演奏に聴き入るはずだ、文句のつけようがないはずだ。』




水を浴びたラハシーナは、あの時ほどではないがキラキラと光り始めた。そうして転げ落ちるように客席へ落ちた。大丈夫か?と思うよりも早く、ラハシーナは起き上がり、ステージへ走り始めた。一体なにが、あいつをあそこまでさせるというのか。ステージに上がり、袖の方を見て一瞬立ち止まったラハシーナは、なにか強いものに押されるようにしてウレカへ走った。椅子が引けた!よし!俺はトゥボロの、弦をはじいた!

演奏を始めてすぐ、ラハシーナの音が届いてきた。はじめはおそるおそる、一音一音だったのが、なにかの拍子にポンッ!と泡になってはじけた。それからは、音の川となって観客席を通り、俺のもとへ流れ込んできた。三大珍獣創造曲は、三体の不思議な生き物がこの世界を創ったときの曲だ。壮大で、異次元で、想像を絶するほど未知で、だけどどこか身近で楽しくて、てんやわんやで騒がしい。ラハシーナがそのような曲の意図を知っているか知らないかわからないが、彼女の音はとにかく楽しそうに駆け回った。俺のトゥボロの周りを駆け回った。突き進む俺の音に張り付いて、ずーっと話しかけてきた。いこう、いこう、それが好奇心なのか、それとも別の意味なのか分からなかったが、その音がなんだかラハシーナそのものに重なった。おそらく彼女は、ここではない全く別の世界からやってきた。突然知らない世界にきて、誰にも認識してもらえずに、だけどたかが俺のために、水を被って走って、このような音を奏でる彼女。なにを、思っているのだろう?一体、なにが彼女をそうさせているのだろう?ゆっくりと観客席の階段を、トゥボロを弾きながら降りていって、少しずつステージ上でウレカを奏でるラハシーナの元へ向かう。まだ間に合う!そのような、力強く勢いのある言葉の裏に、跳ねるように奏でる音の中に、ラハシーナの弱みが少し隠れているような気がした。少しの後悔、少しの寂しさ、少しの切なさ、やるせなさ。

(間違いなく進めると確信していたのに、それが失われるとしたらどうしよう?)

きっと彼女は失って、それでもまだ、前を向いて進み続けようとしている。それでも戦っている。たくさんのことを考えないようにして、進もうとしているのだ。俺はラハシーナのことは分からないけど、一緒に進むことなら出来る。三大の珍獣が世界を創ったように、ウレカとトゥボロも重なり合うように、きっとそこにも居場所がある。私はいますというラハシーナの、居場所を見つけるために、進むべき道を進みたいと思った。そのとき、ああ、ポルト・パルトよりも、輝ける道が見えた気がした。


 *


指が、進む、進む、なんだか勝手に進んでいく!次はどこ、次はどこだと考えなくてもまるで生き物のように吸い寄せられていく。なんだか私の指じゃあないみたい。だけど心が乗っていく。ビュウのヴァイオリンが引き寄せてくれる。こっちへこっちへと導いてくれる。明るい方へ。希望の方へ。私は一生懸命、追いかける!まって、まって、ただただ私を、前にだけ向かせていて!いろんなことが不安になって、いろんなさみしさもあるけれど、そんなことはどうでもよくって、忘れてしまうくらい夢中になって、力強く輝くその音を追いかけていた。ギュ、ギュと鳴る少し乱暴なヴァイオリンの音は、今まで聞いたことがなかった。弦が傷つきそうだと思った。だけど傷ついている暇などなかった。傷つきながらも輝きだけを求めて、ひたすらに鳴っていると思った。それがなんだか眩しくて、切なくて、だからしばらく夢中になっていようと思った。ビュウの炎の瞳が、私を照らしたとき、それはずっとこれからも側にいてくれるような安心感があった。さあいこう、さあ進もうと、時々私を振り返って、時々輝きを増しながら、真っ直ぐ進み続けていく。なにもかも全てがうまくいくなんてことはないし、確実なんてない、絶対なんてない、間違えないことなんてない。だけど進もう。進み続けよう。力強く鳴り続けるビュウはあまりにも眩しくて、少し、唇を動かすだけの小さな声で、「ビュウ」と呼んだ。ねえ、なんだかもしかしたらきみのように、永遠に走り続けるのって大変かもしれない。ねえ、後とか先とか考えないなんて、そんなことは時々無理かもしれない。そうしたら、その時は立ち止まってくれるかな?

呼んだら、私のために、立ち止まってくれるかな?


けれどビュウは止まることなく、そのまま会場を走り抜け、そうして「三大珍獣創造曲第二番ラプソディ」は終わった。

会場はシーンとしていて、皆が呆気に取られている。演奏がどうだったとか、私のピアノがどうだったとかは置いといて、とにかくここからだ!私がここにいて、だからあの邪魔をしたのは私で、ビュウは関係ないから投票の対象にしてもらうことが目的だ。私のピアノのすぐそばで、決意に満ちた顔のビュウは、客席を振り返り、ヴァイオリンを降ろして、言った。

「みんな、今のウレカは、ここにいるラハシーナという女の子が弾いたんだ。」

会場が、少しずつざわざわし始める。

「みんなには、ラハシーナの姿は見えていないと思う。でも、ウレカの音色を聞いて、ここに確かに誰かがいることは分かっただろ」

私が、ここにいることが伝わればいい。

「ラハシーナはさっき、アーチが演奏しているとき、大きな光を浴びて突然現れた。俺には見えるが、みんなには見えないし、声も聞こえない。だから、警備員には信じてもらえなかったけど、みんな、ここに誰かがいるってことは、分かってほしい!………。おれは…………。」

ビュウは、ぐっと拳を握った。ちら、と一瞬こっちを見た。 やさしい顔を、していると思った。

「ビュウ?」

ビュウは叫んだ。

「誰か、ラハシーナのことが分かるやつはいないか?!誰でもいい、なんでもいい、ラハシーナのことを、誰か知らないか?!」

(え?!)

会場が、一気にどよめく。え?違うでしょ、そうじゃ、ないでしょ!ビュウが選考会の失格にならないために、私は弾いた。私のことを知ってもらうためじゃない、私のためじゃ、ない……

「ビュウ…!なんで、違うよ」

声をかけるのに、ビュウは振り返らない。客席はざわめくが、誰もこれと言って発言する人はいない。そのとき舞台袖から、何人もの警備員がずんずんと歩いてきた。

「ビュウッ!」

「なんっだよ」

「くだらないことで選考会の邪魔すんじゃねえ!さっさと出ろ!」

そうしてビュウの腕を両脇から掴んだ。

「くだらないことじゃない!」

待って、待って!ああ、私のせいか、また・・・私が、私のために止まってくれるかななんて思ったせいだ!椅子から降りてビュウの背中の裾を掴む。ビュウが少し、後ろによろける。

「チッ!」

警備員が、腕を引っ張る力が強くなる。だめだ!このままじゃ!どうすればいい、どうすれば…!ずるずると引っ張られながら、ビュウはこっちを向いた。

「ひ、け」

そのときは、すごい剣幕で、炎の瞳が燃えるように、

「弾けぇっ!ラハシーナッ!!」

私には、もう、弾くしか出来ない!


なにも、分からない。なにを弾いたらいいのか、なにをどう弾けばいいのか、私はなんのために弾くのか分からない。それでもピアノの椅子に座った。何回も、何回も、弾いてきたあの曲を弾いた。さっちゃん先輩と弾いたあの曲。楽しくて、仕方のなかった、校歌。しなやかとか、情緒的とか、そういうのは全部抜きにして、弾いた、弾いた、ただひたすらに、弾いた!なにも、考えなかった。目の前にある白と黒の鍵盤を見つめて、ただその奥にある、別のものを見つめて弾いた。

なんのための曲なのか。

なんのための、演奏なのか…。

(私は…)

なんのために、私は弾くのか。

(私は…)

私は、ここにいる!


そのとき、ゔぁーーーーんという鈍く透き通った音が、会場全体に響いた。ビリビリと空気が震えた。そうして珊瑚の屋根の隙間から、なにかが空にぬっと現れたのが見えた。

「あれは…!」

ビュウを掴んでいた警備員が叫んだ。

「おい、屋根を開けろ!ソルシアーテ・ラリアだ…!」

花が開くように屋根が立ち上がり、「なにか」がハッキリと見えた。クジラだ!巨大なクジラが宙に浮いている。いや、ここが海の底と過程すると、泳いでいるのだろうか…?クジラは会場をすっぽり包むほど大きくて、青色の神秘的な炎をまとっていた。ゔぁーーーーーんともう一度、鳴いた。ビリビリと空気が震え、強い風が吹いた。

「ラハシーナ!」

風に抵抗しながら、警備員を振り切ったビュウが近づいてきた。

「ビュウ!あれは?」

「ソルシアーテ・ラリア!俺たちの、主だ」

「主…?」

「ラハシーナの演奏を、聞きにきたんだ。ラハシーナ。ポルト・パルトはな、"伝える人"という意味だ」

「伝える?誰に?」

ビュウは、クジラ…ソルシアーテ・ラリアを眺め、その目がすうっと細くなった。

「ソルシアーテ・ラリアは、言葉を持たない。だから、音で会話する。」

「音で?」

「ポルト・パルトは、主と音で会話する。それが出来る、選ばれた人のことだ」



ソルシアーテ・ラリアが選考会に現れるなんて、今まで一度もなかった。どうして…。だが、分かった。ラハシーナのウレカを聞きにきたのだ。

ラハシーナの魂のこもった演奏を。

彼女が、伝えようとしていたことを…。

そうして、俺は知った。もうきっと、多くの人が忘れていた。俺も忘れていたし、観客も、忘れていた。ポルト・パルトは「伝える人」。選考会は、ポルト・パルトを選ぶ場所。ポルト・パルトは上手く演奏をする人じゃない。複雑な演奏をする人じゃない。ダサくない演奏をする人じゃない。

(忘れてた)

自分の実力を、見せつける人じゃない。

音で伝えることが、出来る人だ。



ソルシアーテ・ラリアは、しばらく空を漂っていたが、ラハシーナが演奏をやめたことで、ゆっくりと去った。どれくらいの時間漂っていたのか分からないが、俺としてはあっという間で、一体なにが起きたのか、分からないまま呆然としていた。しかしポルト・パルトになろうという気持ちはもうなかった。ラハシーナのために、ここで呼びかけようという気持ちも、なかった。ラハシーナはなにがなんだか分からないといった表情をしている。汗で濡れている。彼女は、忘れていた、大事なことを思い出させてくれたのだ。俺はラハシーナの手を引いた。

「ラハシーナ、ありがとう。俺は、ポルト・パルトはもう、いい」

「え?」

「ん?」

警備員も聞き返す。俺は観客に向かって、言った。

「俺は、ポルト・パルト失格だ。選考会を邪魔して、悪かった。」

ラハシーナの手が、強張るのが分かった。

ありがとう、ラハシーナ。

だけど俺は、それでも進むって決めてるんだ。




4.

ねえ、間違いなく有り続けるものだと思っていて、でもそれが失われるとしたらどうしよう?

大事にしたいと思っていて、だけどそれが変わっていったらどうしよう。

私が頑張ればいいと思っていたけど、

そうじゃなかったら、どうしよう。


会場の外で、ビュウはまた水をくれた。ひんやりとして、美味しかった。なんだか自分が、無力になったような気がしてぼうっとしていたが、ビュウは優しく話してくれた。

「ポルト・パルトは伝える人だ。俺みたいな独りよがりな演奏をする人じゃない。五年間、ずっとやってたから、忘れてた。思い出させてくれたのは、ラハシーナだ。」

「………」

「ああは言ったけどさ、俺は辞退したんだ、選ばれなかったわけじゃねーからな」

「………。」

独りよがりな演奏…。

私も、そうだったかな?校歌の、伴奏。さっちゃん先輩と一緒に演奏したい。ただそれだけで練習してきた。だけどさっちゃん先輩という指揮者がいるように、校歌をうたうあの時は、みんなで共有する時間だったのかもしれない。クリスマス行事で、さっちゃん先輩と演奏したい。そうではなくて、みんなと一緒に、楽しく演奏することが出来る…みんなで、思い出をつくる。そういう、場所だったのかもしれない。

「私も……同じ……。」

「?」

だけど、それに気づかなかったから、

「私は……選ばれなかったんだけど……。」

「………。」

ビュウは、ぱん!と膝を打って立った。

「あのさ!俺、もうポルト・パルトとかいう煩わしい役目もなくなったことだし、旅に出てみたいんだ!ずっと、やってみたかったんだよ。ここから出てみたかったんだ!」

「旅?」

「そう!エウレパには、国が三つあるんだ。「海底の国」、「海中の国」、「海上の国」と呼ばれてる。ここは海底の国「ハタヤ」っていうんだけど、他に海中の国は「ナツ」、海上の国は「ラカ」というんだ。ナツは、電子音楽っつーのが流行ってて、街中が賑やかでずーっと人が踊っているような、楽しい国らしいんだ!主はソルシアーテ・イサムっていう"竜"らしいんだけど、俺、竜ってみたことないんだよ!空を飛ぶ、でっけぇ、かっけぇ奴なんだってさ。ポルト・パルトはイルリって奴で、そいつはカリスマの歌手だ!俺、イルリの歌、聞いてみたいんだ」

「……」

「ラカは、エウレパの中で一番強く太陽が照りつける場所で、"植物"っていうのが生い茂ってるらしいんだ!空高くまで、こぉーんなに伸びているらしいぜ!ラカはエウレパの中で一番美しい国って言われてる。ハタヤでも、ナツでも見られない光景が広がっているんだ!ソルシアーテ・ファシエは大きな"樹"だ。ポルト・パルトのバンバンは、凄腕のアシナ吹きらしい。分かるか?アシナは、小さい楽器で、口に当てて吹くんだ。俺、アシナの音って聞いたことねえ。樹とどうやって会話するんだろう?聞いてみたいんだ!」

ビュウは、きらきらとして輝きながら、「エウレパ」のことを話した。そうして、パチパチと線香花火のように燃える炎の瞳で、私を誘った。

「なあ、一緒に行こう、ラハシーナ。エウレパを回ったら、お前のことが分かるかもしれない。お前はずっと言ってた、私はここにいるって、言ってたよな。ラハシーナの居場所を俺は見つけたい。絶対にラハシーナの世界がある。そこへ辿り着こう!一緒に行こう。俺は進む、途中で進めなくなっても、違う道を進んでやる!」

進んでいた道が終わったとき、それまで考えていなかったことがどんどん溢れてくる。今まで夢中だったことが失われたとき、そこには喪失感があって、心細くて、心が辛くて、なんだかしんどい。そんなとき、ただ真っ直ぐ私を見つめるビュウが、眩しくってたまらない。

「大丈夫。俺がついてる」

こんな人は、今まで出会ったことがなかった。今までの…今までの、私の生活。

学校の窓。

薄暗がりの教室。

雨が降っていた校舎。

選考会をしていた音楽室。

おめかし用の服を調べた携帯電話。

少しずつ貯めた貯金。

気合い入りすぎじゃんと言ってきたクラスメイト。

入学式で伴奏していたよっちゃん先輩。

憧れの、さっちゃん先輩……。

みんなみんな、無くなってしまった。もう、失われてしまった。もう、私が、私ではない場所に来てしまった。私は、ここにいると思いながら弾いた校歌。あれが、全く誰も知らない曲になってしまった。 「エウレパ」をビュウと周るのは、とても楽しそうだし、ビュウがとても頼りになると思った。

だけど、あらゆるものを失って、この先、どうしよう? なにが不安なのか分からないけど、誰にも見えず、誰にも聞こえず、そんな中で、私はどうなっていくのだろう?失ったものを懐かしんで、苦しくなったらどうしよう。

ぱたり、ぱたりと涙が溢れる。

「ラハシーナ?」

ビュウが、心配そうに尋ねる。

「ラハシーナ。大丈夫か?」

(後とか先とかそういうの、考えないタチなんだ、俺は。)

ああ、それでも進まなきゃ。それでも、行かなきゃ。すすめ、

(だって今の一瞬一瞬を積み重ねていれば、そうしたらいつの間にか、進んでいくんだ。)

すすめ、すすめ、

「…………」

「……ラハシーナ?」

すすめ、

「…………うん」

すすめ、

「…うん、行こう。一緒に行こう………」

すすめ、ラハシーナ。

「いこう………ビュウ………」

「……………。」

今はすぐに前を向くことは出来ないけど、進む、進む。私は、進む。失われても、また、進む。一歩一歩、進む。ぱたり、ぱたりと涙が止まらなくて、俯いて、地面を見ると、いつものスニーカーだった。膝の上でぎゅっと握りしめる拳に涙が落ちたとき、ビュウの手がそれに重なった。


進もうとするビュウが、少しだけ、私のために立ち止まってくれた瞬間だった。

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