2.花嵐②
その後も、私の委員長作戦は想像以上に大成功を飾った。委員長としてクラスをまとめ、先生のサポートをし、何かの業務の終わりにちょっと雑談を振る。そんなことを繰り返して、四月の末にはある程度話せるようになり、現在、私は数学の準備室にいた。
「明良先生、これ頼まれていたノートです。間宮さんだけ写しおえてないみたいで、私のノート貸してます。明日で全員揃うかと」
「そうですか、ありがとうございます。いつも申し訳ない」
「いえ! 全然気にしないでください」
(先生と話せるなら何でもいいです! しかも二人っきりだし!)
たとえ、この一階の職員室から再び三階の教室のものを取って来いと言われても、犬のように従って階段を駆け上がり、グラウンドの一番奥の埃くさい体育倉庫から女性一人で持つには困難なものを持ってこいと言われても、火事場の馬鹿力ならぬ恋情の馬鹿力を発揮して必ず献上する。私の心は四月から、暖かすぎる春のまま。どんなことも、苦にならない。
(あ、そうだ。明日からゴールデンウィークだし、お休みなにするか訊いちゃおう……!)
「あの、せんせ――」
「痛っ」
驚いて先生を見ると、親指の腹から血が滲んでいた。ノートをめくった拍子に指を切ってしまったようだ。
「ば、絆創膏っ」
スクールバックの側面のポケットから絆創膏を取り出すと、先生の手を取って絆創膏を貼る。そして私は、二つのことに気がついた。
一つ、普通に手渡して先生自身に貼ってもらえばよかったこと。
二つ、絆創膏の柄が、子供用のファンシーなうさぎ柄だったこと。
ああ、なんで。昔から急なことになると、こうも私は空回る……!
「…………すみません、普通の絆創膏持ってなくて……、保健室でもらって来ますね!」
失礼にも握ってしまった先生の手を離して、私は急いで教室を出ようと先生に背を向けた。
「待って」
手を掴まれた。驚いて振り向くと、明良先生は私の貼った絆創膏をまるで結婚指輪を見せるようにして掲げていた。
「構いませんよ、うさぎさんので。ありがとうございます」
明良先生はそれにくわえて、「失礼」と言って私の手のひらを静かに離す。私は手のひらに残る明良先生の指の感触の熱に、心臓を吐き出しそうだった。そんな私に明良先生は更に追い打ちをかけるように続ける。
「うさぎ好きなんですね。道理で、ノートにいっぱいいるわけです。私、小桜さんのイラスト好きなんですよ」
仏か、神か、そんなよくある称え方では生ぬるい。光、太陽? 恋の単純さと彼の優しさを噛みしめて、にやけそうになる口角を抑える。
「う、嬉しいです。覚えててくださってるんですね」
小学生のころからノート、プリントにはゆる~い顔のうさぎのイラストを書くのが好きだった。先生によっては怒られることもあったが、このゆるいうさぎは私の助手のようなものでいつでも勉強の手助けをしてくれる、欠かせない存在。高校に進学しても片隅に描いてはフキダシで重要なことを言わせることで、ノートの体裁を保っていた。
「ええ。ポップなノートは見ていて楽しいです。工夫してまとめてくれると、意欲を感じられて嬉しいですしね。可愛いキャラがいると、なおのこと」
嬉しい。嬉しい。それ以外の言葉がでない。この人はこんなにも生徒のことをよく見ている。
(私も、知りたい。先生のこと――)
思えば、何も知らない。趣味も休日の過ごし方も、好きな食べ物も誕生日も。私は去年の一年間、優等生としてしか関わってこなかった。嫌われるのも、想いがバレるのも、近づくことそのものも怖くって。
今年は違う。この絶好のチャンスを逃したくない。だから、聞いてみた。さっきの手のひらの感触、絆創膏を貼った瞬間のときの違和感。
「明良先生、ギター弾くんですか?」
「えっ」
沈黙。清閑。吹き抜けるはずもないのに、冷たい風が通ったようだった。
「――いや、あの……すみません……さっき、指先だけ硬かったので……」
私の声は段々としりすぼみになって、それに反比例する声が震える。斜め下の明良先生の黒い綺麗な革靴に、私の顔がぼやけるように映った。
「小桜さんもギターを?」
いつもより静かな声だった。穏やかな陽だまりみたいな声色が、ほんのわずか暗くなるだけで、そこはかとない寒さを感じる。
「いえ、昔の父の指に似てて……、私はまったく」
そう答えると、明良先生は「ふっ」と声を出して笑った。雲に隠れた太陽が戻ってきたような温かい声で
「なるほど、そうでしたか。ええ、少しだけ、ですけどね」
と続けた。
文字通り、ほっとした。正直、教室での失態よりも大きく取り返しのつかない緊張なような気がしていたから。
あぁ、ひとつだけ知れると、更にもうひとつ、知りたくなる。さっきまで、それだけ知れればいいと思っていたのに――。
「かっこいいですね。アコースティックギター、ですか?」
「ええ。内緒にしてくださいね。少しばかり恥ずかしいので」
――内緒。
いいの、この数分で。私はあなたと秘密を共有する関係になってしまって。
不釣り合いな約束に思いながらもその喜びにあらがえるはずもなく、私は静かにそれでいてしっかりと目を見て頷いた。彼はそれを真っ直ぐに受け止めるように「ありがとうございます」と言うと、膝の上にパンッと音を立てて置く。
「にしてもよく気づきましたね。指摘されたのは初めてでした」
「たまたまです。触れるまではチョーク荒れかなと思ってました」
「なるほど……手荒れ自体には元より気がついてたんですね」
先生は少しだけ顔を下に向けた。長い前髪が黒縁のメガネにかかって、ちょっと色っぽい。伏し目がちの、私よりも長いまつげに見惚れてしまう。
「小桜さん」
「は、はい」
「まだ一か月ほどしか経っていませんが、よく人を見ていると感じます。忘れ物をしている子、困っている子、ちょっとしたトラブルも、あなたが気づいてくれたと他の先生から聞きました」
知らなかった。明良先生の耳に入っているなんて。
そしてそれは現実として受け入れるには、あまりに耳心地のいいことばかりで。まるで、今までの自分の人生から言ってほしい言葉を抽出されたような――。嬉々とした羞恥心が湧いてきた。
私は真面目だ。それはドがつくほどに。それゆえに、自分が委員長という立場になるのなら誰もが認める委員長にならねばいけないと考えて行動した。邪な理由が含まれた立候補であっても、それとこれとは話は別である。
この考えは、私にとって当たり前。法律や校則と同列に当たり前で、不変。そんな取るに足らないことを、先生が優しさという長所にしてくれるなんて――。
「そ、そんなこと……」
「大人相手に子どもが謙遜するものではありませんよ。素直に受け止めてください」
「……はい!」
夢よりも夢。シミュレーションを遥かに超えた最高の現実に、もはや震えが止まらない。好きな人に認められて、好きな人が自分にだけの言葉をくれて、そして笑ってくれている。恋とは、なんて素晴らしいのだろう。私にとって先生は、永遠に咲き続ける桜みたいだ。
「しかし、心配もあります」
先生は人差し指をピッと立てて続ける。
「優しさというのは、隙でもあります。残念なことに、そこに付け込む人はいますから。使い道を間違えないように。そして」
「そして……?」
「時には鈍感であることも大切ですよ。あなたはいささか、気づきすぎてしまうようなので」
「……それは、悪いことなんでしょうか」
チクタク、チクタク。時計の針の音がとめどなく刻まれる。まるでクイズ番組のタイムリミットのように、あの時計が明良先生に答えを急かす。
「いいえ。自分を守るため。生きるために必要な防御です。今は分からなくてもいいですから、心に留めておいてください」
先生にしては、教えというより願いに近い言葉だった。教訓のようでいてその実はお守りであるみたいな、そんな言葉。
「わかりました。……あ」
時計を見ると、十六時半を回っていた。
「どうかしましたか?」
「すみません、明日から田舎のおばあちゃんの家に行くので、帰らないといけなくて」
「それはすみません。長く話してしまいました」
「いえ! 全然! またお話ししてくれると嬉しいです。またゴールデンウィーク明けに!」
私は先生の今日くれた言葉たちを必死に脳にインプットして、尾を引かれながら数学準備室の扉をゆっくりと閉めた。
校門を出て、私は――浮かれまくっていた。それはもう今ならバランスボールの上で逆立ちできるかもしれないと、典型的な調子の乗り方をしそうなほどだ。しかし、妙に客観的な理性が私の浮つく足取りを押さえつけて、私は今、スキップとまではいかないが、普通に歩いているというと違和感がある、そんな歩き方で下校している。
唇を一本線にしようとしても、すぐさま波打つ。前を向いて歩こうものなら、向かいから来た人にあられもないにやけ顔を見られてしまうので、私は折角の春空の下、ややうつむき気味に垂れる髪の毛で顔を隠した。
地面に散った桜の花びらが積もっている。時折、風に吹かれて、先へ先へと転がって、ふと風の器に乗っかるとみるみるうちに空へと還った。夕焼けに照らされてオレンジ色に透けるそれは、今の私と同じに思える。
(どうしよう。こんなに幸せでいいのかな、私)
この上ない多幸感は、たまらない不安を呼ぶ。自分のなかの幸せが更新されるたびに、自分と釣り合っているかを疑う。それが当たり前になれば、また、新たな幸せを求める。
人は現状に一生満足できないらしい。
だって、こんなにいいことばっかりだったのに――私は彼にもっと近づきたいと思ってしまって仕方がないのだ。
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