第1話 社畜OL、コペルニクス的転回をする

 わたしは社畜である。


 名前は無い。


 いや、実際はあるんだけど、もはや名前など意味はなさない環境で生きている。


 名前を名乗ったところで、所詮、わたしは会社という構造体を構成するネジ一本に過ぎない。


 ネジに、名前は必要ない。


 たまさかの休日の昼下がり、泥と化した脳にビールでいくばくかの快感を与える作業をしつつテレビを眺めていたら、和牛に関するニュースが流れ始めた。


 なんでも、和牛には一頭ずつ、〇〇号のような名前があるらしい。


 羨ましいことである。


 家畜には名前があるのだ。


 社畜には無いのに。


 だが、食肉へと変わることで人間の血肉となり、食事の快楽を与えてくれる家畜という素晴らしい存在に名前があるのは当然だ。名前がある、ということは育てる側も精一杯の愛情を注いでいるという証拠でもある。


 羨ましい限りだ。


 社畜は自らの生命の維持のために雀の涙どころかアリの涙のような給金を得るため会社にへばりつき、盛大に地球の資源を無駄遣いしながら非生産的な業務の中に溺れていくのである。当然、会社からの愛情や慈悲など、望むべきも無い。


 家畜は社畜より偉いのだ。


 名前があって、当然だ。


 愛されて、当然だ。


 社畜には、名前も愛も、与えられないのだ。


 時計を見れば、もう午後十一時過ぎ。


 今頃、愛すべき家畜たちは夢の中だろう。


 今日も、社畜はそこ無し沼の中である。


 がらんとしたオフィスで、空調の規則的な音と、わたしが叩くパソコンのキーの不規則な音が無様ぶざまなセッションを響かせている。


 わたしのストレス解消の場であるバッティングセンターは、一時間前に閉まってしまった。こうなると、後はもう、寝るだけだ。


 最後の書類を片付け終わり、途中で本数を数えるのを諦めたストレス解消効果があるというチョコレートバーの、今日最後の一本を一気に口に押し込んだ。


 これで、晩御飯は終了。


 あとは、風呂入って、ベッドへ急行である。


 帰れるだけマシだ。寝れるだけマシだ。


 手慣れた自己暗示をかけながら、わたしはオフィスの鍵を閉めた。


 真っ暗な廊下に出ると、まだ電気の灯が漏れ出でている部屋がある。


 あの課よりはマシだ。あの社畜よりはマシだ。


 厭な自己催眠をかけながら、わたしは会社を後にした。


 まだ火曜日。残り、四日半もある。


 土日?


 あるよ。土曜と日曜のうち、一日の半分だけね。


 汚泥のような心身を引きずり、泥の河に浸かるような足取りで駅に向かっていたわたしが、ふと、裏道に目をやった時だった。


 ぺかっと。


 一店舗だけ、照明が付いていた。


 イナリ不動産、という文字が見える。


 その明かりが、わたしの泥水の如き脳髄に、一筋の光を差し入れた。


 なるほど、この手があったか。


 まさに目からウロコ。コペルニクス的転回だ。


 クロール泳ぎでもするかのように、わたしはイナリ不動産へとダッシュした。

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