Fragments-2 眠り

『30861』


 それが俺の番号だ、名前と呼べるものだ。<課程>の時の記憶は、実はほとんど薄れている。<眠り>に落ちるときは、いつも目覚める前のことについて考える。


 きっと、家族がいたと思う。友人や、恋人も。俺の肉体が、混ぜ合わさたった遺伝子の状態から、油の雫くらいにはなって、それからヒトらしくなっていくまでに体験した<課程>の記憶。


 おぼろげな中に、記憶と呼べるものの残滓を感じる。しかし、どれくらい思い出そうとしても、何も出てこない。人とか温かみのようなものの、かすかな残像以外は。残っているのは、先進的な航空力学やら、宇宙工学、天体物理学、そのほか実践的にこの船を運用管理するための物だけだ。


 だから俺は仮定を立てた。目覚めるときに、欠落させられたのだと。新たな生が、同時に死とならないように、保護されたのだと。孤独な管理者に不要な記憶は、切除されたのだと。


 そうだ。切除されたのだ。 管理者に感傷は不要。愛や友情は、合理的な判断を鈍らせるノイズでしかない。だから、記憶にメスが入れられた。俺が<引継ぎ>を終え、30861代目の「俺」として目覚めたあの瞬間に、俺の過去はすべて切り捨てられた。


 そうに違いない。 そうでなければ、この胸にぽっかりと空いた、巨大な空洞の説明がつかない。


 蓋が閉まる。闇。無音。 <ベッド>が俺の意識をスキャンし、同調を開始する。 俺が失くした何かを、俺が何者だったのか、その残滓。


 861よ、この<眠り>に落ちるまでのわずかな静寂なら、何かが思い出せるような気がするんだ。意識が溶け出し、思考の輪郭が曖昧になって、闇に滲んでいく間なら。


 30861。 3-0-8-6-1。 素数じゃない。何の変哲もない数字の羅列。俺という存在の定義。 空っぽだ。 宇宙工学の知識。恒星間航行力学。リサイクルシステムの構造図。それだけが、俺の頭蓋にこびりついている。スクラップされた機械の、残された設計図みたいに。


 なのに、なぜだ。


 不意に、指先に感覚が蘇る。 誰かの、小さな手を握っている感覚。俺よりずっと柔くて、温かい手。 記憶じゃない。ただの、感覚のゴースト。 脳が、切除されたはずの神経の末端が、ありもしない幻の痛みを訴えている。


 温かい。 ああ、温かい。誰だった? 思い出せない。顔も、声も、名前も。ただ、そこに「誰か」がいたという事実の残響だけが、この空っぽの胸を締め付ける。


 意識がさらに深く、深く沈んでいく。 冷たい深海に落ちていくように。光も、音も、届かない場所へ。


 数式が、星々の座標が、脳裏で明滅しては消える。 それはやがて、黒板に書かれたチョークの軌跡へと姿を変え…… 船の低周波振動が、遠いグラウンドから聞こえる野球部の掛け声へと変調し…… 生命維持装置の冷たい空気が、夏の午後の、ぬるい風の感触へと……


 右手に感じる、本の重みだ。教科書。ざらついた紙の感触。 左手には、鞄のストラップが食い込んでいる。体は軽い。


 匂いがする。 夏の草の匂いと、アスファルトが焼ける匂い。 ……音がする。 自分の革靴が地面を蹴る音と、まとわりつくような蝉時雨。


 目の前にいる、 少し先を歩く、白いセーラー服の背中。 髪が、歩くたびに楽しげに揺れている。


 誰だ?


 思考に像を結ばせて、何とか口を思い通りに動かす。何もできない、肺からは空気が出ない。え?その声は優しかった。


「だから、どうするの?アオハル……」


 隣を歩く日向陽菜が、不意に俺の名前を呼んだ。なんだか、いつもよりずっと小さな声だった。


 潮風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。 夏の終わりの太陽が水平線へと傾き、空と海をオレンジ色に染め上げていた。遠くには、もう使われなくなったロケット発射場の、巨大なシルエットが突き立っている。


「……あのさ、最近、神楽坂さんとよく、話してるんでしょ?」


 探るような、責めるような響き。陽菜は俺の顔を見ずに、自分のカバンのストラップを指でいじっている。 神楽坂まゆら。最近転校してきた、謎の多い女子だ。確かに、彼女とはよく話す。他の奴らとは全く噛み合わないパズルが、彼女とだけはピタリとハマるような、不思議な感覚があった。


「はあ? 神楽坂さんと俺が? なんだよそれ、いきなり」


 それは恋愛感情とかではなくて、知性とか、もっとその先の異質なモノにひかれているだけだった……。


「ただ、話が合うっていうか、少し話しただけだって。本当に」


 俺が慌てて付け加えると、陽菜は顔を上げて、じっと俺の目を見た。


「そっか、……ならいいんだけど」


 俯きながらも、彼女の声が少しだけ和らいだのが分かった。よかった、と胸をなでおろす。


「それなら、あたしの勉強、見てくれないかな。今日も暇でしょ?」


 陽菜はそう言うと、期待を込めた眼差しで、はにかむように笑った。


 心臓が、少しだけうるさくなった。なんだよ、これ。 幼馴染にこんなこと言われて、断る理由なんて、あるわけないじゃないか。 もちろんだよ、と言おうとした。いつものファミレスで、夜になるまで勉強を教えつつ、くだらない話をずーとっするんだ。


 口を開きかけた。もちろんだと。なのに、喉から飛び出したのは氷のように冷たい言葉だった。


「ごめん。今日は無理だ」


――は?


今、俺は、なんて言った?


「……え?」


 陽菜の顔から、笑顔が消えた。 さっきまでの安堵した表情が、信じられないものを見るかのように、ゆっくりと強張っていく。


「……なんで?」 「いや、それは」


 理由を探す。だが、見つからない。頭の中が真っ白で、ただ「ダメだ」「断らなければ」という、意味の分からない衝動だけが渦巻いていた。まるで、自分じゃない誰かに、身体を乗っ取られたみたいだった。


「なんでよ。教えてくれないの?」


 陽菜の声が震え出す。違う、そうじゃないんだ、と言いたいのに、言葉が出てこない。彼女の綺麗な顔は、一瞬で真っ赤になって、くちゃくちゃになって、すぐに両手で隠れた。 陽菜はその背を向けるて、駆け出した。あっという間に、その背中は夕暮れの道に小さくなっていく。


 一人取り残された俺は、ただ呆然と、その場に立ち尽くすしかなかった。


「なんで、断ったんだ?…… 俺は」


 呟いた声は、誰に届くでもなく、寄せては返す波の音に吸い込まれて消えた。 自分でも理解できないことばかりだった。俺の足は勝手に家へと向かっていた。


 陽菜と別れた海岸沿いの道から、住宅街へ続くいつもの坂道。見慣れているはずのアスファルトのひび割れ、塀から顔を出す枯れた花、どこかの家から漂ってくるなにかが焦げる匂い。 毎日この道を通っている。そのはずなのに、まるで初めて訪れる街を歩いているような、奇妙な感覚があった。


 陽菜の泣き顔がフラッシュバックする。 苦しいよりも、悲しいという感情なんだろうか。今俺が感じているこの鈍い痛みと、頭がうまく一致しない。まるで他人の身体を借りて、他人の人生を追体験しているような、薄い膜が一枚隔てている感覚。


「よぉ、アオハル!」


 不意に、後ろから能天気な声が飛んできた。 振り返ると親友の相田健太が、汗を拭いながら立っていた。


「健太か」 「か、じゃねーよ。日向のこと、もう俺にも連絡きたぞ」


 健太は、ニヤニヤしながらも、心配そうに俺の顔を覗き込む。


「俺は、何もしてないつもりって顔してるな。お前のよくやる、意味不明なこと言い出すときの顔。話すと長くなる時の顔だ」


 健太は呆れたように肩をすくめると、俺の隣に並んで歩き始めた。


「お前、本気でわかってないのか?」 「何がだ」


 健太はそこで一度言葉を切り、俺の肩を掴んで強引に向き直らせた。その目は、からかいの色が消え、本気で呆れたような、怒っているような色をしていた。


「おい、お前、忘れたのか? 半年前まで日向が野球部の先輩と付き合ってたのを、誰が必死こいてこっちに振り向かせたと思ってんだ?」


 健太の言葉が、頭の中で霞がかっていた記憶の領域を無理やりこじ開ける。 そうだ。そんなことがあった。高校に入って、少し疎遠になっていた陽菜。彼女が野球部の先輩と付き合っていると知った時、胸の奥がざわついたこと。そして…。


「受験勉強を教えるって口実作って、ようやくここまで仲良くなったんだろ」


 そうだ。俺の計画。 陽菜を取り戻すための、俺の作戦だったはずだ。 健太の言葉が、俺の頭の中にある記録を再生していく。そうだ、陽菜を取り戻す。それが、最近の俺の最優先事項だったはずだ。


「……そういう、ことだったか」


「だったかじゃねえよ! お前の筋書きだろ。 ようやく元カレの影も薄れて、お前一筋になりかけてた、まさにそのようやくって時に、謎の転校生に乗り換えるとか、なにを考えてるわけ?まさか、日向に振り向いてもらえて、のぼせてるのか?」


「わからないんだ。断る理由なんて、何もなかった。むしろ、受け入れるべきだった。俺の計画通りなら。なのに、断らなきゃいけないって、思ったんだ。どうしてか、自分でも……」


 俺の言葉に、健太の怒りの表情が、徐々に困惑へと変わっていった。彼は何かを考えるように黙り込み、やがて、ぽつりと言った。


「……なあ、アオハル」 「なんだ」


「お前さ……時々、自分が誰だか、わかんなくなることとか、ねえか?」


 そうだ。記憶は曖昧だった。どこまでが自分の記憶で、どこからが他人のものなのかも。額から首にかけて滴っている健太の汗も、幼馴染の陽菜の泣き顔も。すべてがおぼろげで、目の前にあっても、他人事のように思えた。

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