上下転置の印

 黒軍は、に戻らなかった。黄巾賊も引き返してはこなかった。

「やはり、惜しいのう」

 勝ちどきが上がる中、元緒げんしょはしゃがみこんだ許褚きょちょに歩み寄った。

「許褚よ、よく聞くがよい」

 元緒は、許褚に真摯しんし眼差まなざしを向けた。

「陽が沈む前、酒を一樽と干し肉一斤をほこらに供えよ。すれば今宵こよい、祠の前に二人の男が現れるはずじゃ」

 顔を上げた許褚は、不思議そうに元緒を見返した。それを見て元緒は続けた。

「彼らに酒を酌ぎ、干し肉を食べさえ、全部なくなるまで続けるのじゃ。何か尋ねられても決して答えるでないぞ。黙って頭を下げ、口を利いてはならぬ。必ずや慶事が待っているであろう」

 元緒が言い終えるや否や、駈け出したのは許林杏きょりんあんだった。焼け崩れた塢内を奔走ほんそうし、一樽になるまで酒を集め、焼け残った鹿の干し肉一斤を手に入れた。

 陽が落ち掛けている。普段とは違う夕陽に見えた。

 許塢きょうが戦勝の喜びに浸る中、許褚と許林杏は祠に酒と干し肉を供えた。気味が悪くなった許林杏は、許褚を残してたのしげな笑い声のする方へ駈けていった。

 陽が落ちた。そのときだった。

 ぼおっと、祠の前に現れたのは、青白く透き通るように光った二人の男だった。北に背を向けたひとりは、白髪白髭に長身の細老だった。南に背を向けたひとりは、許褚に勝るとも劣らない白髪白髭の大男だった。二人は地に胡座こざして碁を打っている。近づいた許褚に目が入らないほど集中していた。

 許褚は元緒に言われたとおり、二人に酒を酌ぎ、干し肉を切り裂いて食べさせると、二人の老夫は全て飲み食いしてしまった。

「おや?」

 木偶でくぼうのように突っ立った許褚に気づいた長身の細老がただした。

「お主、いつからここにおる?」

 許褚は、押し黙った。

「おいおい、北斗の神よ、我ら断りもなく全て飲み食いしてしまったようだぞ。びを兼ね、何かお返しせねばなるまい」

 巨軀きょくの老夫は、慌てたように言った。

「何と――⁉ 礼をいっしたどころか、平らげてしまったか! しかし、困ったのう。南斗の神よ、閻魔帳でこの男の命脈は、既に決められておるが……」

 ふっと、掌の上に書簡が現れると、長身の細老はそれを開き見た。

「どれどれ」

 巨軀の老夫は長身の細老から書簡を受け取ると、懐中ふところからきりのようなものを取り出した。

 書簡には数多あまたの名が連ねられている。その中に許褚の名もあった。すぐ下に二十七とあった。巨軀の老夫は、二と七に錐で上下転置の印を書き加えた。

「お前の寿命を七十二にしてやったぞ」

「うむ。い」

 巨軀の老夫と長身の細老は、そろって許褚に笑みを見せると、おぼろげな闇夜に紛れて消えた。

 以来、生と死を司る神々をまつった祠は、許塢の者たちから大切にされた。

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