25. 妖笛の行軍奏2

 笛の調べは焦がれる情感を増し、獣たちの心を一層に打つようだ。届く音色も微かな、その最後尾で——うっそりと音色に聴き入っていた大猫が、その瞳孔を縮めた。足の裏に、心地の悪い振動が響いて来る。殿の猫たちは次々に足を止め、振り返った。平らかな荒野には変わらず、砂煙が上がるばかりで——いや!


 一匹が鋭くも伸びやかに鳴き喚けば、大猫共は次々に身を低くし、警戒を知らする声に追従する。笛の音を遡る猫共の声に、二人の女は気づき、振り向き——揃いの金目を驚きと敵意に見開いた。あれは、あれなる砂煙の内に揺れる、あの目障りな旗印は!!


 笛が鋭く、高らかに一音を奏でるや、猫たちの喚きはぴたりと止んだ。後方の猫共は身を縮めて腰を振り、近寄る砂煙の内を細い瞳孔が凝視する。足裏の響きは今や地を揺らすほど。猫共が砂煙の内に飛び込まんとするその刹那——己たちの頭上に放り投げられた何かに、機敏な視線はそちらを見やった。蛇腹の筒が糸に括られ、括り糸の先に火が点り、火が糸の先端を瞬く間に焼き縮め——音々が、火花が、猫たちの只中で炸裂する! 猫たちの悲鳴に続くは襲歩の騎馬!


 躍り込んだ騎馬は二十、猫の合間を前へ前へと斬り抜いて、地を踏み鼠を蹴り駆け進む。胸元に点る火種で糸を点し、次々あらたに放り込まれる爆竹の音と光に鼠共は恐慌し、ぎいぎいと喚き叫んでは猫共の足下を逃げ惑う。その金切声に、絶え間ぬ爆竹の音に、猫共の苛立ちが募っていく——ああ、思えば何故、このような弱い食い物共と足並みを揃えねばならないのだ。


 一匹の鼠に己の足を踏まれた猫が、カッと眼を見開いて、狂乱するまま行き過ぎようとする鼠のうなじを噛み砕いた。同様に、あちこちより鼠の断末魔が立ち上り始め——後方の有様を認め、女たちは茫然と笛から唇を離し、美しい眦を口惜しく歪めた。


 嗚呼。最早、あれらには笛の音が届いていない。統率なく、群れであることを忘れ、個々の獣としての戦いしかできぬだろう。だが古来より、猫の群れを脅威とするなら、水かぬかるみに追い込み落とすもの。爆竹と鼠の悲鳴とを合わせて『笛』をかき消すなど、まるで見計らったような真似をどうして——!


 その時、群れの左右を挟み込むよう、新たな砂煙と旗印を認め——女たちは気を静め、今一度笛を奏で始める。女たちの足に擦り寄っては離れ、王猫たちが次々と、土煙に向かい駆けてゆき——




 そのような喧噪を遠く聞きながら、紫黒の大狼の曳く馬車が砂塵の端を追うように、風下を駆けていた。御者もない奇妙な馬車はまるで狼の意志に任されるまま進み——狼は金の瞳を一心に、騒乱の砂煙を、その向こうを見つめて逸らそうとしない。


 奇妙であるのは、狼の曳く馬車姿ばかりではない。鳥の視界より見下ろせば、そこには確かに「なにか」はあるのだが、その輪郭が、姿が、荒野の砂地に紛れて見えようとしない。地の獣が見ようとて、そこに「ゆらぐ」何かを辛うじて見るだけで、これほど重量露わな大狼も、馬車も、その立てる砂煙すら、はっきりと見ることはないのだ。ヒミン(天)の力で編まれた隠しの絹網は、つかず、はなれず、風にも散らず、狼と馬車を覆い続けていた。


 その馬車の内では、ぐったりと横たわっていたクラムが、漸うと身を起こしたところだった。この作戦が開始される直前、存分に弁当としての役割を果たした時に、クラムはひとつ確信したことがある。ディアンによる吸血は、これまで吸わせてきた誰よりも相当な痛みを伴う。だがそれを和らげているのが、あれほど厭わしかった発作なのだ。


 それに気づいたきっかけは、大方このようなものだ。

 さきごろ、クラムはディアンに向かってなおざりに腕を差し出したのだが。……それを無視したディアンが己の首元に顔を寄せ、まるでにおいを嗅ぐように息を吸い込んだあの瞬間の、心臓の高鳴り……吐いた息が首筋に触れた瞬間、そこから熱が沸き上がるような体温の上昇。紛れもない発作の誘発と……その一部始終を英雄さまに眺められたまま吸われた気恥ずかしさときたら!


(……しかも多分俺、その後足腰立たなくてこの英雄さまに抱き上げられて馬車に乗っ……)


 時間差で襲い来る身もだえするほどの羞恥に耐えかねて、クラムは震える声を出した。


「……あ、あの、まあ……あんたすげえよな。魔法まで使えて……」


 クラムの声は——ヒミンを調えていたのだろう、馬車の窓から光網の端をつまんでいたリムハ・アルの兜を振り向かせた。


「——起きたんだね。大丈夫? ……いつもあんな発作を引き起こされて、吸われてるのか?」

「あ、あー、……あんなこと出来るのは俺も初めて知った……確かに発作は重いけどよ、なんか辛くはねえんだ。直後はこんなでも、血ぃ吸われた後はいつもより調子が良くなる……」


 気づかわしげな態度を見せる英雄に、クラムは顔を背けながらも正直に告げた。しかしやはり、真っ先に発作のことに気づくのなら……彼女の銀眼も生来の色ではない。彼女も造血種としての銀眼なのだろう。だというのに、まあ……! クラムは知らず、ほれぼれと彼女を眺めた。顔は見えないが声の張り方からして、己より一回り以上は若いだろう。だというのに、だ。


「……銀眼で、国の英雄になれる奴がいるなんてな……」


 ——しまった、今声に出したなこれ。クラムの懸念の通り、英雄の兜は傾げられ、突然かけられた言葉を咀嚼している様子だ。クラムは慌てて座席に乗せていた足を降ろし座してリムハ・アルへと向き直った。


「や! あの、そんな、大した意味じゃねえんだよ! 俺、あー……俺な。憧れてたんだ、ガキのころ見た灰甲冑に。それで兵士にはなれたのに、十六で『これ』になって。それで諦めたようなもんでよ」


『これ』で頬の上をつつけば、意味合いは正しく伝わるだろう。果たして、彼女は無言のまま頷き——クラムは感嘆と諦観の入り混じる息を吐き、彼女に笑いかけた。


「だから正直、あんたは若ぇ、しかも女でその……いや、女だからどうとか言いたいんじゃねえんだ。ただあんたなんでそんなに強く……というか発作はどうやって抑えてんだ? ひょっとしてもう、王都じゃ魔法とか強い薬とか出来てんのか!?」


 勢い込んで聞くクラムだったが、彼女からの返事はすぐには無かった。顎に手をあて、何事かを考えている……他意はなかったのだが、もしや女云々はまずったか。クラムが背筋に冷や汗を浮かべたその時、英雄は思案の答えを見つけたのだろう。彼女は頷き、


「そうだな……いや、見た方が早いな」


 手際よく両の手甲を外し、腕当てを外し……肩当の紐を外し、胸当てのベルトを外し……? どう見ても鎧を脱ぎだした彼女の姿に、クラムは困惑しつつも口端が上がった。状況が状況であれば口笛でも吹いて手伝いも申し出るところだが、流石に英雄さまにそんな無礼は——胸当てを下ろした彼女の姿に、クラムの眼は見開かれた。


 ——女の胸元にあるべき膨らみが、乳房がそこにない。小さいのではなく、存在していない……ように、見える。腰帯に厳重に守られた腹部に引き下ろされているのだろう、シャツの弛みもないというのに、まるで男の胸のように平らかだ。その上で、見る間に解かれていく腰帯の細さは、女のそれだ。腰帯の上からしてそのように見えるのだから、中身はより細いのだろう。


「私はたくさんの兄弟たちと育ったんだ。思い出せる、一番古い記憶の時から、私の眼は銀色だった。私が発作を起こすたび、みんな心配してくれたっけ」

 

 やがて数本の腰帯を取り外し、シャツ一枚になり……英雄はそれすら躊躇いなく脱ぎ去った。


「美しい、そう思ってくれるか? 言っていいぞ、よく言われる。私も嬉しい」


 それは——息を呑むほどに美しい、生きた彫刻だった。


 腰つき、線の細さは確かに女のそれであるのに、全てがすべらかな白磁の胴。腕の長さ、手の形、筋肉の隆線ひとつひとつを、月の神に憑かれた彫刻家が細心に整えたような——現実に有り得べからぬ神秘性の肉体に、クラムは茶化すどころでなく見入っていた。「美しい」などと軽々に言えるはずもない。ただただ、単純に、これまでの人生でこうも美しいものを見たことが無い——。


 そんな感情を隠しもしない顔に、彼女は小さく笑い声を漏らすと、最後に、兜の顎紐に手をかけ、それを取り去った。——乱雑に切られた短い銀髪と、銀眼を戴く傷跡無惨な顔が完璧な身体に乗せられ、クラムは頬を張られたように気を取り戻した。


「まだ小さい弟がおもちゃをとった。外で遊びたかったのに、雨が降ってきてしまった。私はけっこう、癇癪もちだったのかもしれないな。そのたびに苦しくなって泣いていたら、みんなが抱きしめてくれたんだ。怒っちゃだめだよ、怒ったらくるしい、悲しいよって。みんなとても優しかった」


 彼女は自分の腕を愛おしく撫でながら——言い放った。


「そのみんなが、これだ」

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