第三夜 前編
なんだか急に、どんな顔をしたらいいか分からなくなった。夕闇の中、壊れかけの錆びた階段を登る足が重い。
どうしよう。僕、慎作さんが好きだ、好きだけど、なにしたいとかなにしてほしいとか、全然ないや。元カノの時は、東京で初めての彼女ができたらやってみたかったことスタンプラリーみたいにいっぱいあった。今はなにも分かんない。玄関を開けたら、そこにいて欲しい。笑って欲しい、僕に。
鍵を刺して、回す。うっすら電気がついているのがわかる。ドアを開ける。
醤油のようないい匂いがする。
「お〜、おかえり」
「……ただいまっ」
慎作さんはひょろ長い身体を窮屈そうにミニキッチンに置いて、なにか作っていた。フライパンで炒め物のような。明らかに腰の位置が合っていない。
「……慎作さん、なに作ってるの」
「ん〜〜?晩ごはん。けーすけさ、肉好き?」
「まあ……たぶん」
「でも肉も野菜も最近あんま食ってないだろ。アハハ、ひとり暮らしなんてそんなもんか」
「そうですけど……」
「うん、分かった。だからちょっとはね、役に立とうかなって。味が微妙だったら食べなくてもいいぜ。代わりになるもんも買ってある」
慎作さんは相変わらず飄々とした口調で言った。冷蔵庫を開けると、なんと買い出しに行ってくれたのか狭くて小さいそれが細々としたもので充実している。狭い冷凍庫には冷凍チャーハンなんかも入っていた。
「……食べるよ」
「ほんと?うれし〜」
ケラケラと笑う慎作さんは、家の中でサングラスをしていた。
トイレに入って鍵を閉める。思いっきり頭を抱えた。あーーーダメだ。こんなの好きになっちゃって、しょうがないじゃん。昨日真っ暗な部屋で一日ずっと同じ場所に座ってた慎作さんが、今日たぶん外に出て……それで、多分俺の置いといたカギも気づいてくれて、なんでか買い出しして、ちゃんと帰ってきて、ご飯作ってくれてる。なんでだ?都合がよすぎる。なんで僕にそんなことする?
だって僕は、あなたに、僕は。
フラッシュバックする、昨夜の慎作さん。虚ろな目をして、布団に嘔吐したあの横顔。それと交互にチカチカする笑顔の慎作さん。
僕は今夜、この人に、ホントに自分の身の上話をするのか。
つまらない、どこにでもあるボンボンの話を。
コンコン。ノックの音。
「けーすけ?大丈夫か?腹痛いの?」
「あっ、ちがっ、なんでも、なんでもない」
「……シコってたならごめんなぁ」
「それも違うっ」
アハハ、とまた笑う声がする。
慎作さんの作った料理は回鍋肉だった。僕は一瞬あの破壊的な“調味”を思い出し───砂糖の入れすぎで砂利や泥みたいなコーヒー、七味で真っ赤の白米と味噌汁、タバスコで真っ赤のパスタ───覚悟して口に入れたが、全くもって実家と同じ味だった。実家よりキャベツも豚肉も気持ち大きい。美味しい。
「……食べれるだろ?」
「おいし……うまいっ、ありがとうっ」
「まあ流石にな。俺も自分がぶっ壊れてるの分かってるから、ちゃんと売ってるタレ使って作ったの。ふふ」
やれやれ、といった顔をしながら、慎作さんは自分の分にまた七味を山のように掛けていた。なんならこないだ半分くらい使った負い目からか、新しく買ったやつを隣にスタンバイさせている。
なんだかなぁ、という気持ちになる。でも慎作さんに味のしない食事を強制したい訳じゃないから、何も言えない。無言を誤魔化すように必死に咀嚼する僕を、慎作さんは微笑んで見ていた。もうダメだ。その顔がダメ。
年の離れた兄も稀にそういう顔をすることがあった。でも、慎作さんはいっぱいその顔するんだ。胸の内がぎゅうっとめちゃくちゃになって、久しぶりに食べた人の作る料理がおいしくて、なんだか泣きそうになる。
「……慎作さんはさっ……料理とか、好きなの」
「うーんそうさなぁ、俺様は家事全般わりとできるよ。また明日話したげるけど……まあヒモの才能があんのよ、俺様には」
「できるか、どうかってより、好きかどうかは?」
大袈裟にびくん!と身体を揺らした慎作さんが、行儀悪く箸でこちらを指す。
「おッ……!いい事聞くなあ坊ちゃん、それがね、わかんねぇ。わかんねぇわ。でもお前にはやったげようかなって、思った。なんででしょう?」
「……え」
「……こんなこと聞いても困るか。はい、お先。ごちそーさま。けーすけも食い終わったら食器持っといで」
慎作さん、それは、勘違いしていいんですか。
ああ、最悪だ。なんでよりによって。頭の中にぐるぐる父と母と兄……新潟の親戚全員を思い浮かべている。全員慎作さんみたいな人を見たら、ああ……って訳知り顔で目を逸らすような人達だ。まともで、正しくて、ちゃんとしてる人達。
僕はその人たちを愛しているし、愛されてきたけど。
慎作さんのことだって、愛したくなっちゃったもんだからどうしようもない。
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