誰も知らない『古本屋』
@_kyu_
誰も知らない『古本屋』
自分は本が好きだった。読書が趣味ですと言っているほどだった。他に沼に入るものが無かっただけかもしれない。過去形なのには理由がある。社会人になって2年半が経ち、出来る仕事が増えるとそれに比例して仕事の量も増え、効率の悪い自分は他の人より時間がかかって、忙しくなった代償に趣味だった読書は出来なくなり、家と会社の往復をただ繰り返すようになっていた。どこかに寄りたいとか思うことすら無くなって、体も心も疲弊しきっていた。忙しくなる前には休日を使って、散歩や、散歩のついでに本屋に寄ったりもしていたが、休みの日は一日寝て終わることが増えていった。自分の心の限界期だった。
そして毎週の仕事の最終日、とある金曜日。遂には会社に行けなくなってしまった。電車に乗ることが出来なくなってしまったのだ。家から駅までの足も重いながらに向かって行ったのに、電車のホームに乗らなければならない電車が停まっても足が動かなかった。電車はこれから会社や学校に向かう人たちが続々と出てきて次はここから会社、学校に向かう人たちを乗せ進む。今までは並んだ列の波に流されるように電車に乗り込んでいた。それなのに、電車に向けられた足は前に進めるどころか後ろに退いていた。自分が自分の体に行きたくないと訴えていた。それに重ねるように動悸とめまいが追い打ちをかけた。傍にあった柱にもたれかかり、倒れることを何とか阻止して、自分をいつも乗せていた電車は自分が乗る前にドアを閉め、何事もなく発車していった。あの電車に乗らなければ確実に定時には間に合わない。遅刻は確定だ。どうせ気分も良くない。今までは遅刻しても何とかして行っていただろうが、今日は衝動的な気持ちを利用して休みを取ることにした。ほぼ皆勤だった自分には少し後ろめたい気持ちもあった。衝動的な気持ちを利用してどんどん怠けていく様子が容易に想像できた。今回だけ、今回だけ、と自分に言い聞かせて次が来ないように願った。
欠勤の連絡を入れると優しい性格の上司に心配され少し罪悪感を抱きながらも電話を切った。そしてさっき一度通った改札を、電車を使うことなくもう一度通り、さっきまでの緊張感と不安感から解放され、気分も少し楽になった気がした。一度家に帰り、会社着から普段着に着替えて落ち着きを取り戻す。今は会社から持ち帰った仕事もないし体調不良で欠勤したのだからオンラインでの仕事も振られることはないだろう。久々に仕事のことを考えなくて良いことに安堵し、一度寝ることにした。寝ようとベッドに入ったものの、安心感からかお腹が空いてきた。何か食べようとほとんど何も無いと言っていい冷蔵庫を見るも、やはり今食べたいと思うものはおろか食材が無かった。まず何が食べたいというものもない。今は時間も気にすることがないし久しぶりに散歩でもして何が食べたいか考えることにした。もう半年ほど散歩なんかはしていないかもしれない。
今住んでいる土地は大学入学を機に越してきたところであまり土地勘がない。大学時代もバイトを何個も掛け持ちしたりして自由な時間は限られていたし、行きたい場所といえばたいてい本屋で、いつも同じ書店を利用していたし、その中のジャンルも見る順番がいつの間にか決まっていて、文庫本、漫画コミック、単行本の順番だ。同じ書店ならどこに何のジャンルがあるかすぐ覚えたので、同じルートを回る。一番じっくりと見たいのは単行本のジャンルでおそらく一番時間をかけて見ていた。それに友達が多かったわけでもなかったため、遊ぶ頻度も少なく、行動範囲は限られていて、同じルートを使うから新しい発見が少なかった。散策すら一人ではしなかった。こんな日だからこそ新しい道を歩いてみようかと大学時代にはなかった新しい気持ちを持った。
会社へ向かう駅と逆の方向へ歩いていく。駅から遠くなればなるほど住宅街になっていき、お店もあまり無い。こっちに来たのは不正解だったかと少し落胆した。しかしなぜか自分の足はどんどん駅と逆のほうへ進んでいく。あんなに電車を嫌がっていたのに。時々十字路が出てくると左右どちらかに曲がったり真っ直ぐ進んでみたり。子供が自由気ままに秘密基地を探すかのようなそんな気分だった。いつの間にか知らない大通りに出てきた。隣町だろうか、歩いて10分も経たない程でこんな場所に来れるとは思っていなかった。少し都会から外れたような、それでいて居心地のいいような、そんな街だと思った。大通りを上がって行くと、ある喫茶店を見つけた。都会のようなおしゃれさはないものの、少し年季の入っている建物は丁寧に掃除がされていて好印象を抱き、ここで食事をすることにした。自分が入店したときはまだモーニングを頼める時間だったためモーニングのコーヒーセットを頼んだ。コーヒーの温かさが心の芯を温める。
ここで食事とともに読書をしたい気分になった。なぜ本が今手元にないのか、これほど後悔したことはないだろう。今日このまま本屋にでも寄って何か読もうか。食事が終わり、コーヒーを飲み終え、ここにいる資格がなくなったところで、会計をし、外へ出る。サーッと風が横切り、秋を感じた。もう10月も後半だ。
秋の風が進む道を教えてくれているようにやさしく吹く。その風に釣られていくように喫茶店横に続く細い道に進む。歩みを進めると、緑から赤や黄色に染まりながら葉を落としている木が陰を作っていた。その陰に隠れるようにひっそり佇んでいる建物を見つける。なんという奇跡か、本のマークの看板が掛けられていた。明らかに本屋だろう。しかし外の景観を見るにあまり手入れされておらず、良く言っても古い洋館のようで、それでいて木に光を遮られ、暗くどんよりした空気を漂わせている。第一印象はかなり最悪だ。まず店としては開いていないだろう。そう思ったのもつかの間、店の扉がカチャンと開き、おばあさんが出てきた。この人がこの店の店主なのだろうか、と思っていると、おばあさんが何やら中に話しかけた。「・・・ありがとうね。」と。そして扉が閉じ、おばあさんがこちらに向かってくる。「こんにちは。」と笑顔で話しかけられた。少し驚いて慌てて会釈だけした。おばあさんは私のことを気にも留めずずんずん歩いて行ってしまった。このおばあさんは店主では無い。そしてこの店は今開いている。
こんな建物の所有者はどんな人物なのだろう。所有者が店の店主かはわからないが自分の頭の中には60代ぐらいの老人が浮かんできた。これは妄想とかではなく、いつだったか、何の本だったかもすぐには思い出せないが、ある本を読んだときに書店経営の老人が出てきたことを思い出したからだ。いや、本を読んで勝手に人物像を作ったのだからこれこそ妄想なのかもしれない。この時自分は自分でも想定していなかったほどの好奇心に駆られていた。この興味を仕事にも発揮できていれば仕事に行きたくないなんて考えもしなったかもしれない。でも正直自分がやりたい仕事なんて何も思いつかない。やらないでいいなら絶対やらない。でも自分が生きるためにやるしかないのだ。仕事とは関係ないことに興味を示したのになぜか今日ここで朝以来久ぶりに仕事のことを考えた。今日は仕事を忘れて休もうと思っていたのに。それより今は目の前の好奇心を考えよう。普段は新しいことに手を出すことなんてほとんどなかったが、今日はいろいろな発見も心の気まぐれもある。いつ以来だろうか。
木の陰に入り、建物の扉の前に立つ。扉と同系色の札が掛けられていて、OPENと書かれている。一呼吸して気持ちを落ちつかせて、扉を開ける。予想していた扉の重さよりかなり軽く、な少し開けるつもりがグイっと引いたときにほぼ身体が入るほど開いた状態になった。そういえばさっきのおばあさんが扉を開けたときに軽い音がしたのを今更思い出した。
そんな自分の目に飛び込んできたのは高い位置にある窓からスポットライトのように差し込む日光だった。あんなに陰気だった建物がその一瞬にして逆転した。平積みにされて山になっている本すらもこの光を演出する一部になっているようだった。綺麗だと思った。無意識のうちに建物に入り、光に近付こうとした。その瞬間、カチャンと扉が閉まる音がして、ふっと我に返る。建物全体を見てみると本が並んでいた。やはり書店だ。しかしここはおそらく古本屋だろう。自分は新品の本を毎回買っていて、古本屋を利用したことが無い。古いはずなのにどこか新鮮味を感じた。
確か今ここには店主または店員がいるはずだ。それなのに人の気配がない。しんと静まり返った空間が関わるなとでも言っているかのような冷たさに何だか不法侵入している気分になった。もちろんしたことはないから同じ気持ちかは知らない。そんな中で並んでいる本棚に本がしき詰まった光景を見て老後はこんな感じで本に囲まれたいなあと羨望の気持ちを持った。周りを見て回った後、最初に目を奪われた、今一番気になっている奥の光が照らしている場所に近付く。さっきまで見ていた光の無い場所とは違ってここには温かみがある。窓の近くにカウンターがあり、そこには大量の本が平積みになって結構な高さになっていた。これはさっき見た本の山だ。光に近づくほど古本の埃だろうか、塵のような欠片が光のせいでキラキラと光っているのが鮮明になっていく。そしてようやくここでこの店の者であろう人を見つけた。レジなのかもしれないそのカウンターの奥側に座っているから間違いない。しかし、その人物はこちらに見向きもせず、ただ本を読んでいた。何なら気づいていないのかもしれない。彼女の伏し目がちな横顔が綺麗だった。彼女を照らす光の空間だけがまるで天国の静けさでも訪れたのかと錯覚してしまうほど別次元の感覚に思えた。この時既に彼女に一目惚れしてしまっていたのかもしれない。彼女を照らす窓の他にも窓があったらしく、そこの窓が開いていて、少し寒い風が吹いた。彼女の髪が風に靡き、彼女の視界を妨げる。彼女が乱れた髪を直した後、こちらに気が付き一瞬驚いた表情を見せた。それから彼女が発する前に自ら話しかける。
「こんにちは。」すると、彼女は穏やかな笑顔を取り戻して「こんにちは。いらっしゃいませ。」と返してくれた。「何か気になる本などありましたか?」その時、自分は何故ここにいるのか分からなくなった。ここに来るまでに本棚は見ていたが、本自体には目を向けていなかった。
「ここって古本屋さんで合ってますか?」
「そうですよ。何か気になるものがありましたらに話しかけていただいて構いませんので、どうぞごゆっくりしていってください。」そう言われたものの、自分は新品の本しか買ったことがない。古本にどんな価値があるのかも知らない。昨日までの自分であれば用のないことにわざわざ首を突っ込むようなことはしない。今までの自分は確実に何も聞かずそのまま立ち去っていただろう。でも今日の自分は既に昨日までとは変わっている、と思う。
「すみません、古本って買ったこと無いんですけど、何が良いんですか?」少しの沈黙に、言い方がきつかったのではと脳内で反省会を繰り広げる。昨日と今日の自分が変わったからと言ってそんな短期間で根本が変わるわけでは無かった。かなり心配性の自分はよく人への言い方に気を付けて返答に時間がかかってしまったり家に帰って一人反省会を開いたりしている。まあ面倒くさい人間。
「古本のいいところ、価値っていうことですか・・・」彼女が口を開いてくれてほっとした。自分の言ったことをやり直すことは出来ないが、相手が気にしないでいてくれると緊張が少しほぐれてほっとする。彼女の答えはかなりバッサリした物言いだった。
「人によりますよね、基本的には値段が低くなることが一番のメリットだとは思いますけど、中には初版の本を求めていらっしゃる人もいます。有名な著者とかですと、逆に初版に高値が付くこともあったりします。ご希望に添えないこともありますけど、努力はしているつもりです。そんな感じなので正解はないと思いますよ。欲しくなったら買う、別に必要なければ買わない、それでいいと思います。」
「あなたはどうしてここで働いていらっしゃるんですか?」
「本が好きだからです。」だったら大手の書店で働いたほうがいいのではないだろうか。こんな気付かれにくいところじゃなく都会も近くで働ける場所はありそうだ。自分から見るに彼女は若い。学生ですと言われても納得できそうなほどだ。
「今、だったら普通の書店で働けばいいだろとか思いましたね?」図星を突かれて苦笑いをしてしまった。
「私はここがいいから自分の意志でここで働いています。ご心配いただかなくて結構です。」笑ってはいるものの、これは完全に心の扉を閉められた。自分が落ち込んでいる顔をしていたのか、彼女が言った。
「あ、別に悪く言ってるわけではないですよ、たまに聞かれる質問なので同じように対応しているだけですから。」これはフォローを入れられたのだろうか、普段は自分がそっけなく振舞っているはずなのに、逆になると途端に落ち込んでしまう面倒くさい性格。直したくても性根に引っ付いているからなかなか直らない。彼女は再び本に目を戻してしまった。でもここで立ち去ることはしたくなかった。この感情が何なのかは分からない。でもここから姿を消して彼女の記憶の中から自分のことを消し去って欲しく無かった。覚えていてほしいと思った。でも今はこれ以上自分がいる資格が無い。あんな発言をしてしまって客として認識されているかも分からない。帰れと嫌悪を感じているかもしれない。それなのにも関わらず、この時の自分はあまりにも無謀で、後先を考えていなかった。
「質問いいですか?」自分の言葉に彼女は開いた本をまた閉じてカウンターに置いた。
「はい。」その一言で心情を読み取るにはあまりにも少ない語数だが、冷ややかに感じた。
「何を読んでいるんですか?」読書の邪魔をするのは気が引けるが、勇気を振り絞り、出てきた言葉だった。彼女がどんな本を読んでいて、どんな本が好きなのか、自分がされたらきっと気味悪く感じるような思考をしてしまった。嫌な人の分類にでも入りそうな言葉だと後から気付くも言葉として発した以上は変えられない。しかも彼女の読書を妨げてしまった。昨日と変わったと思っていた自分だが、さすがにこれ以上は居たたまれない気持ちになる。そう思って踵を返そうとした時、彼女が口を開いてくれた。彼女が読んでいた本は表紙に惹かれて読み始めたらしい。正確には、そのシリーズの4作目の本だ。確かに表紙は置かれているところを見たら手に取りたくなるような綺麗さだった。そして読みますか?とおすすめされたのは1作目。全部合わせると6作の連続長編作品らしい。6作には共通の登場人物が出てくるものの、時系列はかなりバラバラで、どの作品もほぼ完結して読めると言う。途中で止めても大丈夫という意味で、作品の順番はあるそうだが、それなら読みやすそうだろう。そう思って彼女にその本を購入したいことを伝える。
「この本は、無理なんです。」彼女の返答に「え?」と自然と声が出ていた。たった今彼女が教えてくれて購入できるものだと思っていたから無理だと言われるなんて予想もしていなかった。どうして無理なのだろうか。
「あの、今教えてくださったのに無理ってどういうことですか?」
「ここにはないんですよ、売れるものが。」彼女が教えてくれた本の持ち主は彼女であり、この店には2冊目の本が無い。そういうことだった。確かに考えてみれば店の人とはいえ店の商品を自由に使ったりはしないものだ。当たり前のことだった。今在庫にないのが残念だ。
「そうだったんですね。すみません、別の書店に行って買いますね。教えてくださってありがとうございました。」
ここを離れることは少し名残惜しいが、今は興味が本に向いている。早く本を読みたい、と。彼女は申し訳なさそうな顔をしていたが、その後は何も言わず店から出て、近くの本屋をスマホで調べ、初めて行く本屋に急ぎ足で向かっていった。この時にはもう仕事のことも、優しい上司のことも、乗れなかった電車のことも全部忘れてただ一冊の本を求めていた。
調べた本屋に着くと、急いで文庫本の置いてあるブースを探し、平置きの文庫本を見つけた。彼女の教えてくれた本を探した。平置きにされている本の中から彼女が読んでいた本を見つけた。しかし1作目と見せてくれた表紙の本はそこには無かった。不運にもタイトルを覚えていない。そこで、店員に1作目の在庫があるかを聞いた。いつもはない勇気を引き出してくれたのは彼女と本だ。戻ってきた店員が手にしていた本は彼女が教えてくれたあの表紙だった。お礼を言って会計に行く。支払いを済ませると、スマホで家までの道を検索し、また急ぎ足で家への道を進んだ。
家に帰ると、カーテンの開けられた見慣れた景色が淡い茜色から藍色に染められ、もうじき夜になることを教えてきた。冬に近づくと夜が早く、茜色一色に染まった空を見れなくなってしまう。夕日が昇る前に月と藍色に押し込まれてしまう。でも久しぶりに日没前の少し明るくて少し暗いそんな部屋を見た気がする。部屋に入る光は少なくなる一方なので少し早いがカーテンを閉めた。照明を点けると仕事後の景色に変わり、心臓がひどく痛くなった。仕事を休んだこと、上司に少し大げさに連絡した罪悪感、世界中の誰もが仕事をしている中でそれを忘れて自分中心の1日を過ごしたこと。考えれば考えるほど自己嫌悪に陥る。慰めてくれる人も怒ってくれる人もいない。独りがこんなに辛いのは初めてだった。
今日は早めに食事と入浴等やるべきことを済ませ、早くにベッドに入る。明日は仕事が休みではあるものの、今日買った本を開くために寝る前のことを全て早めに済ませたのだ。おそらく今日中に読み終えることはできないだろうが、読めるところまで読みたい。
この小説は探偵ものの推理小説だった。登場人物と言えば主人公の白銀という探偵、共に過ごしていた神谷という男、その他現場にいる者が数名。名前がある者もいれば何か特徴のある者は名前が出なかったりもした。主人公である白銀の視点でストーリーが進められる。白銀と神谷は旅行に行っていた。おそらく二人は友達なのだろう。そしてその場所で殺人事件に遭遇する。そのまま通り過ぎたらよかったものの、探偵白銀はその事件に首を突っ込んでしまう。探偵の性だろうか、しかし推理小説ではよくあることだ。そもそも探偵が首を突っ込まなければ小説になる物もならなくなる。この事件はその地域では有名なお金持ちの老夫婦の他殺体が発見されたものだと野次馬の中の近隣住民だと言う方から聞く。亡くなってから数日は経過していたそう。どうして発見に時間がかかったのかと言うと、老夫婦には娘はいたもののその娘は既に結婚して家を出ていき、この家にもほとんど帰っていなかったそうで、たまたま帰って来た時に遺体を発見したということらしい。大きな家に老夫婦二人はきっと寂しいだろうに。当初警察は強盗容疑で報道し、犯人特定を急いでいた。しかし、侵入経路がそれだとおかしい。窓はどこも傷付いておらず、おそらく入り口から堂々と入ったということになるらしい。知り合いか、はたまたピッキングの名人か。白銀はそこに疑問を持った。まず考えられる動機だと思うのに白銀はある点を目に付けた。それは防犯カメラ。今時は何処に行っても付いているのが当たり前の時代になったのにこの家にはなかった。正確にはあったが偽物だった。ダミーの防犯カメラだったのだ。こんなに豪邸と言っていい家に防犯カメラ一つないのは都会ではないと言えどおかしい。白銀は近くにいた警察官に尋ねた。「この家の中に防犯カメラはありますか。」すると何故かゴミの中に本物の監視カメラがあったと言う。それも一個ではない。おそらく家の周りに複数個付けていた。それが全て取られてダミーをいくつか代わりに付けてあったという。そのゴミは一度出された後突き返されていたものだった。突き返された日が書かれた紙が貼ってあり、外の庭に置いてあった。日付は老夫婦が亡くなって発見される3日前。おそらくこの日にはもう老夫婦は亡くなっていた。そこまで証拠を集めて白銀は警察に堂々と事の顛末を披露した。この事件の犯人は隣人だった。動機は簡単なもので、ただの僻み。自分も同じくらいの財産も家もあるのに何故亡くなった老夫婦だけがちやほやされるのかと僻みが恨みになって倫理を壊した。至って馬鹿げた理由だ。防犯カメラのゴミを突き返したように見せかけたのも犯人の意図。よく出来るものだ。こんな馬鹿げた理由で殺された老夫婦が可哀そうでならない。そうして警察に披露した後、神谷とともにまた旅行に戻った。旅行の場面はほんわかしていて穏やかで事件との空気の差で風邪を引きそうだ。この作家の書く文は面白い。推理小説はシリアスな展開になったりするものだが、この方の文は若干コメディー要素が入っていて砕けた物言いで堅苦しさも感じないし、飽きることもなく読み進めてしまう。時々クスッと笑ってしまうこともあったりできっとファンが多そうな作家さんだと感じる。自分もファンになってしまった。今までなんで見つけていなかったのかと悔やんでしまうほどのものだ。しかし読み終えてその理由が分かった。刊行されたのがちょうど自分が読書を辞めていた頃にぴったり合わさったのだ。彼女がこの本をあの時読んでいてくれたことがきっかけなのだから良い巡り合わせだったなと感じた。
どんどん読み進めていってついに読み終えてしまった。こんな短時間で読めたことは初めてだ。読み終えたので寝ることにしよう、と部屋の照明を消そうとした時、チラッと壁にかけてある時計が目に入った。その時計の短針は6と7の間を指していた。本を開いたのはおそらく22時頃だったはず。と、言うことは、だ。今は朝の6時過ぎということになる。先ほど閉めたカーテンを開ける。まぶしいほどの日の光が徹夜明けの目に染みる。まさか一晩中読んでいたというのか、こんなにも集中したのは久しぶりかもしれない。自分でも驚いた。しかし読むスピードがかなり遅くなってしまったものだ。単行本でも短い時間で読めたあの頃には戻れない。今日が休みの日でよかった。そしてこれからしたいことが出来た。彼女に会いに行くことだ。彼女に会ってこの本を読んだことを伝えたい。そしてこの本について語り合いたい。まだ一作しか読んでいないけれど、それだけでも話したいことがある。あの古本屋に行こう。そう考えてから先ほどあった眠気は吹っ飛び、出かける準備を始めていた。
準備をしているうちに腹の虫が鳴り、ご飯を食べていないことに気づいた。昨日と同じ店にでも行こうか。昨日と同じ行動にはなるが、目的がはっきりしている今は、迷うことなく喫茶店に行く。とはいえ自分は一回行っただけの店までの行き方を覚えることは難しい。更に自分は極度の方向音痴で一回しか通ったことのない道であれば絶対に覚えていない。逆の才能だったら誇れたというのに。きっとスマホの無い時代に生まれていたら行方不明になっていたかもしれない、割と本気で。過去の人物はどうやって道を覚えていたのだろうか。気になる。スマホで喫茶店を調べてその道順に従って歩く。そして今日調べてからこの喫茶店の名前を知った。昨日は店名も見ずに入っていた。店に入ると昨日と同じものを頼み、一息ついたら会計をして外に出る。昨日とは打って変わって気温が5度近く上がっている。コートを羽織るほどでもないが、吹いてくる風は乾いていて秋の涼しさが感じられる。今日の風は昨日とは反対に吹いているが、足を進める方向は昨日と変わらない。涼しい風が自分に向けて吹いてきて足が重く進みづらくなるが、足取りは軽い。心の中が晴れたような気持ちだった。
あの古本屋に行く。喫茶店から古本屋までの道のりは覚えていた。なんて言っても一本道だから覚えているとかの問題では無い。昨日より早い時間に到着した。昨日と変わらず木の陰に隠れている。昨日は陰気な印象を感じていたが、今日はどこか隠れ家的な印象を持った。誰も知らない、自分一人がこの世界の中で知っているような、なぜかこちらが誇ってしまうような、そんなことを思った。扉に近付き取っ手に触れようとした時、昨日と違うことに気づいた。CLOSEDの文字が目に入る。今日は土曜日。年中無休の大手店の感覚で来てしまったが、あくまで個人経営店だ。土日祝日休みなのは当たり前だ。病院だってほとんどがそうなのだから。第一昨日店にいた人が主なのかさえ分からないのに勇み足過ぎた。スマホで帰る道を検索する。昨日はここから帰っていないから帰り道もわからない。
調べていると後ろからカチャンという聞いたことのあるような音が聞こえた。振り返るとそこには昨日の彼女がいた。驚きで動けなかった。彼女は自分に気付いていないのか、こちらを気にも留めずまた店の中に入っていった。一瞬だけ出てきて何をしていたのか、もう一度扉に近づいてから気付くことができた。札がOPENになっていた。その瞬間陰に隠れて暗い視界が明るくなった。物理的ではない、自分の心の中で明かりが灯った。これは嬉しい気持ちなのだろう。誰もいない中でものすごく笑顔になった。鏡がないので今の自分の表情は見ることはできないが、心の中の表情は、それはそれは笑顔だった。嬉しくなってすぐに扉を開けた。昨日のような感動はないが、光が差し込んでいる情景は綺麗だ。昨日より少し光が少ない気もするが。昨日のように恐る恐る歩くこともなく、つかつかとカウンターの方へ歩いて行った。そして昨日と同じ場所で彼女が視界に映る。今日も彼女は昨日と同じく本を読んでいた。昨日も同じだったがここからでは開いている本の裏表紙しか見えない。昨日と同じ本を読んでいるかは定かではない。読書中に申し訳ないと思いつつ、話しかける。
「こんにちは、昨日訪ねた者なんですが・・・」何と言ったら良いか考えもせず喋ってしまって語尾を濁して言った。彼女は昨日の出来事を覚えてくれているだろうか、自分が帰った後に客が来て忙しくなっていたら可能性は低い。この店はどのくらいの人が来ているのだろうか。今までの少ない記憶では昨日のおばあさんしか知らない。
「ああ!この本を教えた方ですよね?」彼女は覚えていてくれた。それに昨日と同じ本を読んでいた。この本の話が出来る。
「この本、昨日あの後すぐに買って読んだんです。すごく面白かったです。教えてくださってありがとうございました。」
「もう全部読んだんですか!?一日で来る人がいるとは思いませんでした。」
「夜読んでいたんですけど、いつの間にか朝になってました。読んでたら没頭してしまって読み終えちゃいました。」彼女はすごく驚いた表情で感嘆の声を漏らしていた。昨日のことがあってから自分のことを忘れているか、覚えていても嫌いな人と捉えられているのではないかとやっぱり少しは思ってしまっていたから彼女の反応が好印象な方で嬉しかった。
「あの本、作家さんの書くものの雰囲気が初めて会ったような雰囲気で新しい面白さを感じました。久しぶりに本を読んだこともあって読書ってやっぱりいいなって、感じました。また次の2作目早速今日買ってこようかなって思ってます。」
「あ、2作目の本なら今ここに在庫ありますよ、3,4作目も買えます!」昨日より元気な声に微笑ましく感じた。
「それじゃあ、その3冊買ってもいいですか?」
「お買い上げありがとうございます。」と柔らかな笑顔がとても可愛かった。昨日買った新品の文庫本の値段よりも安いが、それほど格差はない。比較的に新しい本なのだろう。刊行されたのも最近だから当然のことかもしれない。見た目もほぼ新品と言ってもいいくらいだ。どの本も1作目と同じように文庫本で分厚めだ。
「あの、この先も本を読んだ感想を言いに来てもいいですか?」
「え?」彼女がこの本を読んでいたことで勝手にこの本のファンなのかと思っていて、勝手に読書仲間と認識してしまってこんなことを言ってしまったが、我に戻って考えれば彼女はそんなこと考えていなかっただろう。あくまで店員と客の間柄だ。昨日今日来た常連でもないただの客からこんなことを言われたら嫌か、そりゃあ。
「すみません、周りに読書してる人いないし、この本教えてくれたので勝手に読書仲間と認識してしまいました。」
「そうですよね、私が教えたんですもんね、このお店いつもがらんとこんな感じなのでいつ来てくださってもいいですよ。他の本でもおすすめがあるので一緒に語り合いましょう!」彼女はこんな自分の勝手な誘いに笑顔で返事をしてくれた。そして気になっていたことを今更ながらも聞いてみた。この店の店主と開いている曜日、時間だ。今までは偶然に偶然が重なって店に寄ることが出来ている。しかしいつから開いているのか、いつ閉まるのかも知っていない。彼女の言うことには、店主は彼女で、開いている曜日は日曜日と祝日以外はほぼ毎日で、時間は基本10時から20時、店員はおらず彼女が一人でこの店を営業しているそうだ。彼女の体調や気分によっては休みになったり開く時間が遅くなったりもするらしい。それでも経営が成り立っているものなのかと思ったが、彼女の隣に高く積まれた如何にも整理していなさそうな本の山を見てなんとなく分かる気もしてきた。
「じゃあまた読んだら来ますね、明日も仕事は無いですけど、今日くらい早くは読めないと思いますし、少し時間が空くと思いますが、開いていることを祈って。それまで覚えていてくれると嬉しいです。」なんだか今日のこの会話で彼女との距離が近くなったと感じた。自分だけだろうか。
「また来てくれたら思い出すと思います。ぜひ、来てください。」
「それじゃあ、また。」そう言って店から出た。
さっき検索したマップアプリを再度開き、さっきは持っていなかった紙袋を持って歩き進める。暖かい日差しが秋風の冷たさと相容れずちぐはぐな季節だが、一番好きな季節だ。久しぶりに季節というものを感じた。春も夏も過ぎたというのに、その季節の記憶が無い。桜を見てもいないし向日葵も見ていない。会社で新人が入るということも無かったし、花火を見てもいない。この先もそんな感じで日々が過ぎていくんだろうとのらりくらりと考えていたが、考えてもいなかった新たな場所を見つけ、新たな出会いをし、また趣味を再開しようとしている。人間思ったことのないこともあるとはよく言うけれど、本当にそんなこともあるのだなあと帰り道ゆらりと歩きながら思っていた。そしてまた、月曜日から仕事を頑張ろうと、ふと思えた。
月曜日。あれほどあった疲れも朝起きた時にはすっかりなくなっていた、ということは無かった。疲れはあっさり取れるものではなく、でもなんか今日は頑張ろうと思えた。金曜日に乗れなかった電車がホームに到着したとき、少し心臓が強く跳ねて足が躓きそうになったが、あの時ほどの苦しみは無い。電車に乗り込み、いつものように満員電車の中でぎゅうぎゅうにされながら会社の最寄り駅に着くのを待った。駅に着いた後、歩いて10分ほどで会社に着く。いつものようにタイムカードを押して自分の席に着く。大体定時の10分前には着くようにしている。先に来ている社員もちらほらいるが、大抵がいつもいる人たちだ。自分よりも後からやってくる人の順番もほとんど変わらない。いつもの光景。に、突如現れた人がいた。社長だ。結城社長。今までほとんど会ったことがなかったから少し驚いた。社長室が別の階にあるため日常的には会っていない。そしてその驚きは徐々に増大していった。社長は自分の前で立ち止まり、話しかけてきた。
「清水さん、ちょっといい?」自分は何かしてしまったのだろうか。直属の上司では無く何なら更にまた上の、上すぎる上司からの話は一体何なのだろうか。心の中ではびくびくと怯えながら返事をする。
「はい、何でしょうか。」社長の顔に圧は無い。全く無い。社員からも悪い噂は聞かないし、それでいて冷静で温厚な人で性格も見倣いたいくらい素敵な人だ。この人からどんな言葉をぶつけられるのか気を張っていたら、気の抜ける答えが出てきた。
「金曜日休んでたみたいだけど大丈夫?有休だって取って良いんだからね。」
「あ、ありがとうございます。体調ももう大丈夫です。」やはり性格の良い社長だった。しかもまさかこんな端くれまで気遣ってくれるのかと尊敬する。まあそもそも人数の多い会社でもない。20人強の社員とアルバイトの人が数人いる、それで動いている会社だから大手企業なんかよりは把握しやすいだろう。そんな感じで社長との会話を終え、今日の一日が始まった。
自分の仕事はほぼPCと向かい合っている。2年ほど経っているが相変わらず役職は変わらない。デザイナーの補助業務。ほぼ事務作業。デザイナーになりたいと思ってこのデザイン会社に入ったはずなのに、給料の差が大きいのが玉に瑕なところはあるが、今は特に不自由ないので変わりたいとも思っていない。高校生くらいの時は早く大人になりたいと思っていた。でも大人になるにつれて大人の嫌な面が視界に入ってきて大人になりたくないとも思い出した。矛盾している。自分はただ、責任から逃れたいだけだった。大学時代のバイトで新人として入る時は楽しくやっていたのに新しく人が入って教える立場になると自分の教えで本当に大丈夫か不安になり、他の人のやり方も教えて自分だけの責任にならないようにしたことがあった。その時から何も変わっていない。自分が何のために生きているのか、考えたこともあったが結局答えは出ていない。日本人は「仕事のために生きている」とは言われたもので、まさに自分を表している。碌に出来ない仕事のために生きている。デザイナーとして独立する夢も潰えようとしている。デザイナーになりたいと志を持っていたあの時の情熱が今は無い。このままで良い訳が無い。分かってはいるが、今は目の前のことに精一杯で他のことに目を向けられない。何度か正式にデザイナーになる話をもらっているが、ずっと先延ばしにしている。この会社でデザイナーになるには企画書を作るか、丁度良い案件があればそれを作る。大体は案件がいつもあるから企画書を作っているところを見たことはない。しかしそれは全て今の業務以外の時間で作らなければならない。そんな時間を捻出出来ない。この会社には今デザイナーが6人いる。うち1人は同期で入った人だ。今年の春に正式にデザイナーとなった。まだまだ先輩のようにはいかなくとも、彼は彼なりのやりがいを見つけて毎日楽しそうだ。自分と同じ立場の同期もまだいるが、その人は今の環境のままが良いらしい。なるかならないかぐるぐる目が回ってふらふらしているのは自分だけだ。デザイナーになるにせよならないにせよ、一度しっかり決めないといけないと、とは思っている。そんなこんなで今日の業務を終え、タイムカードを押したのは定時を少し過ぎた頃だった。
家に帰り、荷物を置くとそのままお風呂に直行する。これは疲れでそのまま寝てしまわないように忙しくなり始めたころから続けていることだ。空腹状態のことが大抵だからすぐに上がる。その後に食事をして明日の準備なんかをして早く寝る。これが続いていたが、今日からはここに読書の時間が入る。というかなんとしてでも入れる。早く読んで彼女に話しに行きたい。今までなかった目標、というかやりたいこと。仕事では無いのに、プライベートで持つことが出来た。これで今まで思っていた「仕事のために生きている」が「生きるために仕事をする」に変わるかもしれない。これは自分の中で大きな変化になった。
早速2作目を読んでみる。あらすじを見るには探偵の白銀と1作目で依頼人となった神谷が出てくることは同じようだ。しかし、読み始めてすぐ、おかしいことに気づく。この作品の中の時間が1作目より4年も前のことなのだ。彼女のあの発言はこういうことだったのだ。1作目では白銀と神谷が知り合い状態なのが今作では知り合ってすらいない、多分。神谷が出てこないからそういうことなのだろう。今回の作品はおそらくこの二人の出会いが描かれるのだろう。今作は白銀一人が主人公で1作目と同じように白銀目線で話が進んでいく。1作目に至るまでの出来事が語られるのだろうと推測する。白銀が探偵となったころから始まる。この世には探偵仲介業者なる人がいるらしい。いわゆる探偵事務所の営業担当のような感じ。探偵仲介業者を通して依頼された探偵となって初めての依頼は猫探しだった。猫を発見したと思ったら次は依頼人の落合との連絡が途絶えてしまう。親族の把握はしていたので連絡をすると親族も連絡がついていないということだった。事件性を想定して親族の方から行方不明者届を出してもらい、白銀と警察の捜索が始まる。そして悲しくも遺体となって発見される。しかしその遺体が連続殺人と繋がりがあることも分かってしまう。白銀は連続殺人について調べ始める。その連続殺人は10年も前から始まっているらしい。殺人方法はバラバラ、被害現場もバラバラ、ただ共通していることは女性であること、発見時の服装、そして体勢だった。体勢というものはかなり珍しい共通点だなと思った。見つかった時の体勢が普通ならあり得ない体勢をしているらしい。といっても関節が逆向きだとかではなく、人間の可動範囲内ではあった。短期間で何人も殺人が行われているなら犯人も特定しやすいだろうに、数年に一人ずつ犯行が行われていることもあり、同一犯とまでは考えられず、それぞれの事件が未解決のまま一度も犯人特定に至っていなかったそうだ。連続殺人と考えられ始めたのも今回の被害者の一人前の事件からだ。偶然捜査をした刑事が同じ体勢で発見された別の事件を思い出し、同一犯かもしれないと考えられ始め、共通点がどんどん出てきたと。そして最近になって犯行の空白期間が短くなっている。このままだと更に早い期間で次の被害者が出てくるかもしれない。次が来ないためにも早く犯人を見つけるべきだ。そうなって白銀は今までの事件を再度改めて操作し始める。この捜査は警察を介入していないため、見つかるとどこからか通報される、もしくは逮捕されることもあるという重荷を背負いながら捜査をしていると、警察を名乗る男が現れる。その男は白銀に捜査協力をお願いする。名前は倉田。なんでも連続殺人の被害者の中に彼の婚約者だった人がいるそうだ。連続殺人の疑いのある事件はこれまでの10年で6件になった。猫探しの依頼人は6件目。婚約者は3人目の被害者で、未解決で終わってしまった婚約者のために犯人を捕まえたいと思っている。白銀は彼が本当の警察関係者かは分からないという状態ではあったものの、捜査協力の依頼を引き受ける。5件目と6件目の空白期間は8か月。次の事件までの猶予は最大で8か月ということになる。しかしこれはあくまで推定であり、明日、もしくは今日にも次の事件が発生してしまうことを念頭に入れておかなければならない。そして始まった二人の捜査で警察からは公表されていない情報が出てくる。被害者の発見場所は転々としているが、どこも同じような風景だったのだ。今はその場所に建物が立っていたり、道が出来ていたりと変わってしまっているところの方が多いが、事件当時は同じような何もない場所だったのだ。この情報を警察が知っているか分からないが、これを教えてきたのは倉田からだった。このことにより、自分には倉田が犯人であるという最も恐れていた空想が少し現実味を帯び始める。そもそも警察と名乗ったにも関わらず、どこの管轄かも聞いていない。白銀がわざと聞いていないのか、どこかで警察と分かる何かがあったのかもしれないが、これまで読んできた中にそんな描写は見当たらなかった。どこからか、自分は倉田が犯人だと思い出していた。そう考える読者は自分だけではないはずだ。しかし白銀はそこまで考えていないようだった。1作目の白銀はこの時から4年も経っているから成長して推理の早さが格段と上がっていたのだろうか、この作品の白銀は全くもってのポンコツだった。そもそも最初の依頼から次の推理への階段がとてつもなく高い。それにも関わらず、後先考えず人のためにと動いているように思えた。そして悲劇は止まらず、次の事件が起こってしまう。6件目からたった2か月後のことだった。それに伴い、警察は本格的に捜査を進めるようになり、ニュースでも連日報道がされていた。そして7人目の被害者となった女性の名前は「倉田」だった。白銀もこの偶然に気付かないほど頭が固くは無かった。倉田に連絡するも既に行方が分からなくなっていた。今まで2か月共に捜査していた倉田が犯人だと警察に伝えるが、最初は誰も聞き入れてはくれなかった。顔写真なんて撮っている訳もなく、伝えようがない状態だったが、事態は急展開を迎える。倉田が窃盗容疑で逮捕されたのだ。彼が倉田だと伝えるも、彼の名前は藤原というらしい。別人だと言われたが絶対に彼が倉田であることは間違いない。証拠に倉田が出していた当時の現場写真を提出する。公表されていない情報を持っているということで、もちろん白銀は事情聴取されることになる。窃盗で取り調べ中の藤原自身から連続殺人をしたのは自分だという自白により、逮捕されることとなり、ニュースでも連続殺人犯の結末を報道した。そしてこの事件は幕を閉じるはずだった。
次の日、苛立ちを露わにしたある男が警察署にやってくる。なんでもこの7件目の事件は模倣犯の仕業だと。そして今までの事件は自分が全てやってきたのだと。そして犯人は捕まり、死刑判決を受けることとなる。犯人が10年前から行ってきた犯行は、ある種の作品と言っていた。まだまだこれからも続けるつもりだったのに藤原が模倣したがために作品を汚されたと怒りを露わにし、自ら作品を終えることにしたそうだ。何にせよ彼のことを味方する者はいないだろう。藤原はこの連続殺人事件に強く憧れを抱き、尊敬していたらしく、白銀との捜査より前に連続殺人について調べていた。そこで当時の現場写真も手に入れていたそうだ。その一方で7人目の被害者となる倉田を誘拐、監禁して憧れの殺人犯になるよう事件を起こした。警察と嘘を名乗り、白銀に近づくことで自分が殺人犯になることを予想していたところ窃盗で易々と捕まってしまう。藤原が予期せぬ逮捕だったのかは分からない。もしかしたらわざと捕まって自ら連続殺人犯となったのかもしれない。しかし結局は藤原が殺人犯と名乗り出ることこそが真の犯人の逆鱗に触れることとなった。二人の殺人犯を捕まえることが出来た警察側は予期せぬ大手柄に、手のひらを返したように今まで聞き耳すら立てなかった白銀に感謝を伝える。白銀は犯罪に加担したようなものだと深く落ち込み、探偵を辞めることも考えていたところに、一通の手紙が届く。猫の依頼人の遺族からだった。手紙の内容は感謝を伝える言葉で埋め尽くされていた。今回の件で命の怖さを思い知らされた白銀だったが、この手紙によって救われた。探偵を辞めることを辞め、誰かの命を守る仕事をしようと強く思った。
白銀は次の依頼を引き受ける。この次の依頼こそが1作目に出てきた男、神谷である。依頼内容は人探し。過去の友人を探してほしいとのことだった。そして神谷の職業は警察官だった。ちょうど持っていた警察手帳を見せてもらった。普通の人生で警察手帳を見せてもらえる機会などそうそう無い。警察官という職業なら見つけ出せるのではないかと思ったが、もうその手段は試したそうだ。警察官は管轄以外のところはそう簡単に調べられないそうで難しいということだった。白銀は前回のこともあり、神谷に「警察官ならわかっていると思いますが、必ず良い報告ができるとは限りません。」と警告した上でそれでも会いたいという神谷を見て、依頼を引き受けることにした。幸いにも神谷の探している人は生きていた。しかし、連絡を取れない状況にあるということも同時に分かることになる。神谷の友人は3年前に事故に遭い、一命を取り留めるものの、意識が戻らない状態であった。確かに神谷の友人がいたのは違う県だった。この事実を神谷に告げ、探偵の仕事はここまででこれからどう動くかはあなた次第だと言って病院の場所を書いた紙を渡し、席を後にした。
2作目はこれで終了。その後のページに神谷目線でのアナザーストーリーが綴られている。神谷は病院に行き、友人とその家族との再会を果たす。学生時代家族ぐるみで仲が良かったのが引っ越しを機にだんだん疎遠になっていき、遂には交流が無くなってしまった。同窓会が開かれるも、そこにいない友人に会いたいと思った神谷が探していたのだ。さっきまで殺人事件で緊張感のある物語だったが、このアナザーストーリーでは目頭が熱くなり、感情の起伏が激しい1冊だった。1作目のコミカルなイメージの文章と同じ人が書いているのか疑うほどの差のある文章に、3作目への期待が高まった。3作目は一体どんな文章でどんな物語や推理が始まるのか、ワクワクが止まらなかったが、その前に彼女に会って感想を言いに行こうと思った。
2作目を読み終えたのは1作目から3週間経ったころだった。その週の土曜日、アラームをかけずに寝ていて起きたのは正午過ぎだった。昨日の予定では午前中には家を出るつもりだったので飛び起きて急いで支度をし、古本屋に向かった。久しぶりかつ未だはっきりとは覚えていない道をマップアプリで検索し、喫茶店まで行く。ふと、モーニング以外のメニューを頼んだことが無いこととまだ今日はご飯を食べていないことに気づき、喫茶店に入る。あれから3週間も経ち、アウターのいらない秋はすっかり終わってアウター無しで外にはいられない。アウターを着たまま店に入ると、夏と冬にありがちな外との温度差に最初は適応しきれないあの感覚になった。首あたりから熱がふつふつと滾る。以前の席には今日は客がいたため別の席に座る。前とは違う外の景色にワクワクを感じた。外の木は葉の色をすっかり変え、何もなくなりそうになっていた。やっと気温と体温が適応しだした時にランチを何にしようかとメニューを眺める。自分はお腹が空いても何を食べたいかわからないことで食事を抜くことがあったりもする。そんな中、今回はオムライスに目が向いた。随分と食べていない料理で久しぶりに食べたいと思ったものの、ここでオムライスを食べたことはもちろん無い。どんな種類のものか若干チャレンジな面もあるが、頼むことにした。今はお腹が空いているから特別おいしいとはならなくても完食できる自信があった。頼んで出てきたオムライスは最近よくあるとろとろとしたものでは無く、中にライスを包んでいる昔ながらのオムライスだった。この形のオムライスが一番好きなため、私の中でこのお店の好感度が一気に急上昇した。中のオムライスはチキンライスだろうか、と予想しながらスプーンをオムライスに差し入れて一口サイズを作ろうとした。その時見えたライスの色は赤ではなく白だった。予想していなかったことにびっくりしたが、食べてようやく納得した。バターライスだ。チキンの風味もあると思ったらチキン自体もコロコロと入っている。こういった場合はチキンライスと言えるのだろうか、はたまた言えないのだろうか。チキンは入っているがケチャップは使われていない。よく言うチキンライスをバターライスのように元々ケチャップライスとでも名付けてくれていたら良かったのに。なんて悩みながら一口。このオムライスは食べたことが無い。でも今までで一番おいしい。おそらく他にも何か入ってはいるんだろうが、これは家でも作ってみたい。メニューを見たときにオムハヤシもあったからどちらにも合うライスを作ったのだろうか。今日の一番の驚きは確実にこれだ。オムライスを食べ終え、食後の一杯でコーヒーを頼み、体が温まったところで店を出た。一時間ほど滞在していたらしく、取り出したスマホの時計は2時前を指していた。そして三度目になるあの小道を歩く。今までは午前中に古本屋に行っていたため午後の古本屋は初めてだ。そして気づくことがあった。太陽の位置が変わっているため建物全体が木の陰になっていないのだ。おそらく今の太陽の位置的に陰がほぼできない状態だから建物にも陰が届いて行きづらい。陰の中にない古本屋はまた新しい光景だった。最初の暗さで見えていなかった建物の本当の色を知った。レンガ調の建物は近隣の建物と全く異なる姿で佇んでいることがやはり奇妙だった。木の陰に入っているかいないかはこの建物の外見を観ることには関係なかったのだ。元から異質なものだったのだ。そしてそれこそがこの建物の魅せられる点なのだろう。そんなことを考えていたら、さっきまで止まっていた風が姿を現し、早く入れとでも言っているのか、アウターの上からサーッと追い風が吹いた。扉の前にはOPENの文字があり、カチャンと開ける。ここの店内は先ほどの喫茶店より気温が低く、外との温度差が少ししかない。アウターを脱げるほどの暖かさは無い。このまま彼女のところまで行こう。
今日は以前ほどの本の山は無く、十数冊ほどしか残っていなかった。整理をしたのだろう。おかげでカウンターの正面からでも彼女の顔が見えた。今日彼女は本を読んでいなかった。彼女もこちらに気づくのが早く、「いらっしゃいませ」と柔らかな彼女の声がしたが、そのあと目を大きく開けて、「以前いらっしゃいましたね!」と話しかけられた。覚えていてくれた。
「こんにちは、覚えていてくださって嬉しいです。2作目をやっと読み終えたところなんですけど、早くもう一度来たかったのでまだ読んでいない本もありますが、今日時間があったので来てみました。」
「2作目はどうでしたか?」
「1作目はコミカルな文章だったので今回もそんな感じだと思っていたらかなりシリアスな感じだったし、一番驚いたのは1作目から4年も前の話だったところですね。いきなりタイムスリップした気分でした。」
「タイムスリップなんて面白い感想ですね、やっぱり一番驚くところはそこですよね。内容はどうでした?」
「1作目ではパパッと推理していたので探偵になりたての白銀がポンコツに見えてなんだか仕事のできない自分みたいで共感するところもあったけどでもやっぱり探偵の素質があったんだなって思いましたね。あと、アナザーストーリーで泣いちゃいそうになりました。」
「やっぱり長い期間の差があると成長の差も大きくなって昔を振り返ると何にも出来てなかったりするものですよね。でも確かに白銀さんは探偵になるべくしてなったところはありますね。あなたのまだ読んでいない本でもそう思う記述がありますよ。」
「そうなんですね、まだまだ楽しみです。そう言えば聞きたかったんですが、自分清水といいます。フルネームは清水明です。明るい、の漢字です。良かったらお名前伺っても良いですか?」
「私は榎本です。明って明るくて良い名前ですね。これからは明さんって呼んでもいいですか?」軽い彼女の口ぶりに唖然となりそうになったのを堪えて「呼んでください、ぜひ。」と答えた。ここに来てやっと自己紹介をした。店員と客の関係で自己紹介なんてしない。自分はすでに彼女のことを読書仲間と思っていたから出た言葉だ。彼女の名前を知ることが出来た。ただし名字だけだが。下の名前も聞きたいとは思ったが、すぐに話を逸らされてタイミングを逃してしまった。
「明さん、今まではどんなジャンルの本読んでいたんですか?」やはり下の名前は聞けそうにない。また今度聞ける機会を窺おう。
「ジャンルで選んではいないですけど、なんとなくミステリー小説を選びがちです。あとは恋愛系の小説とかですかね。ヒューマンドラマ系も読むかな。ホラー系はあまり得意ではないですね。グロいとかも苦手です。」
「じゃあミステリー系の小説でおすすめのもの選んでおきますね。また来てくださった時にお出しします。」
「いいんですか!ありがとうございます。榎本さんの読んできた本でおすすめのものとかも教えてください。」そんな話をしていると後ろからカチャンと音が聞こえた。扉が開く音だ。別のお客さんが来たのだろう。店に来てもう30分以上経っていた。
「じゃあ、ここら辺で、今日は帰りますね。聞いてくださってありがとうございます。」
「あ、じゃあまた今度会いましょうね、待ってます。」そう言われて古本屋を後にした。店を出る途中にさっき来たお客さんが見えた。その人物は初めてここに来た時に店から出てきたおばあさんだった。このおばあさん以外にお客さんはいるのだろうか、と疑問に思いながらマップアプリを開いて家に帰る。3作目、今日の夜から読もう。
3作目は2作目の続きの話だった。依頼をこなした後、白銀は神谷と会うと思っていなかったが、神谷はまた姿を現した。依頼に対しての感謝を伝えるためだ。そんな中、一通の電話が白銀にかかってくる。依頼をしたいが、すぐに伺えない事情があるとのことだった。この電話は探偵仲介を介していない。白銀本人に依頼したかったのか、ホームページでも見て適当に選んだのか、もしくは仲介を避けたかったのか、自分の中には色々理由が考えられたが、その真相は書かれていなかった。依頼は情報集め。何の情報かというと、ある組織についてだった。犯罪組織、いわゆる裏社会というやつだ。この依頼はもしかしなくとも犯罪と関わってしまう。警察でもない一探偵がその危険を持ったままこの依頼を引き受けることは出来ない。断ろうとした時、神谷が口を開いた。「電話の方の名前って何ですか?」2作目、神谷は警察官だった。電話の中で出てきた組織の名前が今警察が追おうとしている組織の名前と同じだという。やはり探偵というものは警察と深く繋がるものなのかと思った。そういえば1作目で神谷は警察官という表記は無かった。何か変化があったのだろうか、それとも警察という話が出てこなかっただけなのだろうか、そんな疑問が浮かんだ。神谷は白銀にその依頼を引き受けてくれと言った。警察と裏で協力しないかということだった。警察が味方に付いていれば万が一のことが起こることも防げるかもしれない。だったら少しは安心できるだろうということで協力することにした。依頼人からの依頼も引き受けた。依頼人の名前は二宮。組織を知ったきっかけは記者の知人からだそう。そしてその知人はその組織を調べ始めて数か月後、理由が定かではないが、行方が分からなくなってしまったという。二宮が言うには組織の何かしらのカギを握って組織に消されてしまったのではとのことだった。二作目の神谷と同じように人探しもしてほしいということだ。もし消されてしまっていたら白銀はどうすることも出来なくないか?と思ったが、組織の方は調べる価値があると思ったのだろう。神谷とともに調べ始めて数日、組織の下っ端らしき人たちの動向で組織のアジトとなっている場所を見つける。でもそこは人の出入りが少なく、中にいる人の数も少ないと判断されて別のアジトを探すことになる。大抵裏社会ではいくつかのアジトを持っているのはお決まりのことだ。しかし白銀は何を思ったか、この場所に組織のトップがいるのではないかと意見する。これは探偵の勘という奴だろうか。どうしてそうしたのか分からないが、警察は一度その話を聞き入れ、その場所を摘発しようとした。早く手柄を取りたいと思っていたのだろうか。それにしても早計な判断だ。しかし組織の慎重さが重なったのか、警察が令状を出してその場所に乗り込んだ時にはすでに蛻の殻だった。だが、そこから何も情報が得られなかったわけでは無い。数人の指紋が取れたのだ。そこまでは慎重さが届いていなかったのだろう。中には前科のある者の指紋もあり、組織の規模がかなり大きいものかもしれないと考えられた。連日警察との捜査や情報収集をしている中で、白銀がとんでもないことを言い出した。「警察の中に捜査情報を流している者がいるかもしれない」と。大きい組織ということもあり、捜査している警察の人数は日に多くなっていく。白銀は神谷を通して警察とやり取りをしていたため、当たり前に全てに目が行き届くことは無い。神谷は自分と同じように、「そんなことあるはずが無い」と否定した。警察は自分たちの中に敵がいるなんて微塵も思っていなかったため、そのことも視野に入れながら捜査を再開することになった。すると、またアジトのような場所を見つける。今回の乗り込みは前回よりも慎重に、警察側も互いに互いの目が行き届く人数にしか情報共有をせず、乗り込む準備をした。白銀は警察の乗り込みが成功することを祈るしかない。そして、警察はアジトに乗り込み、数人の組織の者を逮捕することが出来た。しかしそこにはトップと言われるような人はいなかった。最初に見つけたアジトにいた人物とは違う人物が逮捕されていた。おそらく最初のアジトにいた奴らは別のところに逃げたのだろう。そして、これにより白銀の言っていた「警察の中に敵がいる」ということの疑惑が強くなっていった。捕まった者たちの供述は一貫して組織には属しているものの、トップのことは何も知らないということだった。おそらくトップの下の更に下に属している人たちだったのだろう。いわゆる捨て駒。また捜査も振り出しから始めなければならない。更には警察の中の敵も突き止めなければならない。そんな中、白銀は神谷にも告げないで一人別で捜査をしていた。依頼された二宮との連絡の際、伺えない事情があると言っていたことを解決するためだった。二宮が組織の一人である危険がありながらも白銀は二宮と連絡を取り合っていた。連絡をすることはできるのに姿を現さない状況が何なのか、二宮は警察や白銀に危害が及ばないためと言っていた。行方不明になった記者についての情報を聞くも、仕事で知り合って数回会っただけの知人だと言われた。ではなぜ二宮はその程度の関係の記者の心配をするのか、それは白銀も疑問に思ったらしい。そして二宮の職業を知らないままであることに気付き尋ねるも教えることは出来ないと言われた。いったい二宮は何処にいて何者なのか。白銀にも警察にも分かっていない。その人物がどんなカギを持っているのか、それが今一番知りたい情報なのかもしれない。白銀はめげなかった。警察が組織の方を優先的に捜査している一方で白銀は二宮のことを優先するべきだと踏んで二宮の居どころを掴もうとした。二宮に様々な質問をボロが出るまでやっていた。しかし二宮はかなり慎重な男だった。なぜその質問に答える必要があるのか、と大抵の質問は跳ね除けられた。そんな中で彼が答えないにしても間が空く時があった。「家族はいますか、誰か待っている人はいないんですか。もし会えていないのなら自分が行って安否を確かめることも出来ます。」と質問、提案した時だった。数秒、世界の時が止まったような静寂が訪れた。そして二宮から「必要ない。」と返されたのだ。この質問以外でこれほど彼が考えたものは無かった。家族が関係していること、人質にでも取られているのだろうか、自分の思考はそっちに持っていかれたが、白銀は違った。「家族はもういらっしゃらないんですね。」その一言で二宮は声を詰まらせた。白銀は二宮の家族がもういないのだと考えたのだ。その考えは無かった。探偵ものの小説を読む時にこういった自分の発想とは違う思考をするときはすごく感心してしまう。そんな考えがあったのかと。逆に同じ思考だと共感で嬉しくなる。作者との息が合ったような、そんな感じに。白銀は二宮の「必要ない。」という言葉から汲み取ったのだろう、もう会いたい人がいないのだと。小説は登場人物の表情や声色を明らかには出来ない。読者の想像でしか物語を作れない。しかし反対に映像化されていない小説は読者が自由に想像出来る。小説の良さはこれが大きいと思っている。そして二宮は諦めたように全てを話し始めた。失踪した記者は自分の姉であること、両親が何者かに殺されたこと、おそらく自分が次の被害者になると考えていること。そして白銀と警察に危害が及ばないように姿を現さず身を隠していることは嘘ではないと。二宮は組織にひどい恨みを感じている。おそらく組織のトップを自分は見つけ出せないことを見込んで白銀に依頼し、トップの存在を知ったら殺すつもりなのだろう、二宮の手で。それが二宮の言う次の被害者が自分になるということだとそう考えた白銀は逆に二宮に協力を依頼した。二宮が犯罪者にならないための最善の方法だった。これは白銀の綺麗事かもしれないが、依頼人が犯罪者になることは白銀にとっても二宮にとっても全くメリットが無い。二宮からの依頼料を無しにすることで絶対に二宮が手を出さないと約束してもらった。こちら側には警察がついている。こういう時の探偵の頭の回転の速さはどうしてこうも速いのだろうか。利用したことはないが、現実の探偵もこんなものなのだろうか、と少し興味を持った。それから白銀は神谷にこの件を内密に、とした上で二宮から聞いたことを話した。その中である事件が神谷から挙がった。なんでも二宮の両親が遭った事件だろうということだった。最近40〜50代の夫婦が亡くなった事件があったらしい。名字も二宮。確かに二宮は26歳と聞いたからありえなくは無い。そして組織とも関係しているらしい。どうして関係していると分かったのかは、組織の下っ端が逮捕されたことによるものだった。事件現場から下っ端の内の一人の指紋が一致した。現場は被害者である二宮の両親の家、数回に渡り下っ端の奴らが出入りしていたかもしれない。どんな関わりがあったかは被害者が亡くなった以上知ることが出来ない。逮捕した下っ端に尋ねるも上から頼まれたことをやっただけだと言う。詳細についてだが、頼まれたこととは借金の催促だった。被害者のうちの男、二宮の父親がギャンブルにハマり仕事をしなくなったことで生活もままならなくなって闇金融に手を出してしまったといったところだ。そして運悪くその闇金融が組織と繋がっていた。二宮は両親と疎遠になっていたところで警察から死亡の連絡をもらったため借金のことは知らなかった。しかし疎遠になりながらも二宮は母とはよく連絡を取り合っていたらしい。そんな中でも母は借金のことを二宮に話すことは無かったと。亡くなる前日も母からメッセージが来ていたらしい。既読にはしたものの特に返すこともなくスルーして後悔しているそうだ。こんな状況ならだれでも後悔するだろう。そしてこの事件が組織と絡んだことで大きく進歩することが出来た。とある病院が組織と絡んでいることが分かったのだ。二宮の父親が通っていた総合病院だった。おそらく組織内で何かあったとき利用される病院だろう。病院まで組織が絡んでいるということは警察にとっても非常事態だった。話を伺った病院スタッフは誰も組織のことを知らなかった。口止めされているのか、本当に何も知らずに働いているのか、どちらにせよ病院スタッフはかなり危険な位置にいるのだ。如何様にも使えるし、目障りになったらすぐに殺せる。身の安全が保障出来ない。白銀も神谷も警察も、組織の範囲が拡大しているのを黙って見守るしかなかった。そんな時、白銀に二宮から連絡が来る。知らないメールアドレスでメールが来たそうだ。「ニノミヤチヒロ」とだけ。ニノミヤチヒロは二宮の姉だそうだ。しかし二宮と姉はメッセージアプリで基本は会話をしていたし、メールアドレスも一応は知っていた。明らかに姉からでは無い、となるとやはり組織絡みだろう。しかしこちら側から何かを返信する前に同じアドレスからある電話番号と思わしき数字の羅列が送られてきた。もちろん二宮が知らない番号だ。白銀も利用できるところは警察を利用したい。逆探知でも何でも使って居場所を探りたい。神谷に頼んだが、そもそも二宮の居る場所は聞いていないし二宮がわざとこちらと会わないようにしているのだから、出来ることが無い。しかし組織は二宮の声を知っているだろうか、もし知らなければこちら側のだれかが電話をすれば良いのではと白銀は考え、二宮に告げるとすぐに了承してくれてこちら側で事を進めることになった。電話を掛けると、出てきたのはニノミヤチヒロだった。警察も白銀も予想していなかった。皆ニノミヤチヒロは組織に巻き込まれていると完全に思っていたからだ。それは二宮も同じだった。ニノミヤチヒロは組織に捕まる寸前逃げてきたと言う。警察に情報を提供する代わりに身の安全を保障してほしいということだった。警察にとってはメリット以外の何物でもない。易々とその提案を受け入れる。誰も疑いはしなかった、白銀以外は。白銀はある一つの懸念点があった。警察の中にいるかもしれない敵の存在だ。まだ明確にいるかもいないかも分かっていない。しかし、もしニノミヤチヒロを名乗る組織の人間が警察に入って警察の中で情報共有されたら警察の情報をも組織に取り込まれてしまう危険がある。白銀の探偵の勘。これが見事に的中する。二宮から得た姉の情報、写真を元に姉を待つが、最近の写真はなく、持っていた十数年前の写真から現在の顔を再現する。現れたニノミヤチヒロは似ても似つかぬ別の顔だった。とはいえ顔だけでは判断しかねる。生年月日、住所、両親の名前、本籍の住所、様々な個人情報を確認していった。ほとんどは正確だった。ただ、大きなミスを犯していた。筆跡だ。二宮から得た情報の中で姉の書いた書類があった。それだけを見ると何の情報も得られないただ近況を知らせる手紙だ。しかしそれと今いるニノミヤチヒロの筆跡を照らし合わせると癖が違うのだ。書く量が多いと筆跡を変えても癖が残ったりするものだ。更に今ここにいる人物は最初から筆跡を気にしていなかった。今ここにいる人物がニノミヤチヒロでないことが確定した。最初はあえて受け入れ、しばらく様子を見ることになった。いつか行動に移すことを待った。その中で白銀は警察と偽り、神谷と他数人の警察官と交換条件にしていた組織の情報を聞いた。警察もまだ影すら掴んでいないトップの存在をペラペラと喋ってきた。そこからは警察のものになっていった。そして白銀は警察で捜査をしているうちにはみ出し者を見つけた。全員いる捜査の際に途中退席したり、周りに進んで協力していない人がいたのだ。神谷にそのことを告げ、その警察官を調べるよう頼む。神谷は怪訝な顔をした。その人物は警察官としての経歴が長かったのだ。いわゆる上の者。それをどうにかと頼み込んだ。調べるとその中に組織の者を取り調べをした記録まで出てきた。名前は門野。明らかに不自然な行動に、組織の者との接触、こいつが敵であることは明白だった。しかし門野はかなり上層部の人間。警察内部でも関わりにくい人物だったようだ。でもそんな事白銀には関係ない。白銀は堂々たる姿で門野の前に立ちはだかり、怒涛の勢いで喋り始めた。当然神谷もその場にいた警察官も全員が唖然とした。門野もその一人だ。眉間にしわを寄せながらぽかんと口を開けていた。想像するとこれほどシュールなシーンは無いだろう。前作からシリアスな場面が多かったが、ここの文章には久しぶりにフフッと気が抜けたように笑ってしまった。白銀の怒涛の発言の中には組織の情報も織り交ぜられていた。もちろんあのニノミヤチヒロを名乗る者がペラペラと喋ったことも含めてだ。そのことに門野は気付かなかった。他の警察官と別の表情になったのだ。変わったのは他の警察官の方。知らない情報に疑問を持ったのだ。こんなこと捜査で出ていたか?という顔を皆している。未だに彼は気付いていない。そして白銀が、最後の言葉を放つ。「分かっていますか?後ろの方たちの顔を見てみてくださいよ。もうあなたは逃げられなくなりますね。」疑問を持っていた警察官が理解したからだ。門野が組織の人間だと。ここからは警察側も容赦ない。身柄を拘束し、取り調べ、家宅捜索などなど徹底して調べ上げ、組織を壊し始めた。どこかしらからボロが出始め、組織の全体が見え始め、トップの存在も近付き、いざ突入というところで、まさかの事態が起こる。ニノミヤチヒロを名乗る者が飛び降り自殺を図ったと連絡が入る。幸い一命は取り留めたものの、意識は戻っていない状況だ。そしてトップの存在が浮き彫りになるにつれてこのニノミヤチヒロが何者なのかも分かり始める。そして白銀、神谷は一つの結論に行きつく。ニノミヤチヒロとして現れたこの女が組織のトップであると。そう考えると相手は堂々と警察に入り込むことが出来る。更に、ニノミヤチヒロを名乗る者が最後に会っていた人物が門野だと分かった。門野に尋問をするも、話しかけられてそれに答え、話し終えた後どこかに行ってしまったのだと言われた。今彼女の意識がない以上事実が定かであるかは分からない。そして彼女が目覚める前に組織の全摘発が終了した。門野も逮捕されることとなり、事態は一度収束する。そしてニノミヤチヒロを名乗る者は組織のトップであることが分かり、意識が戻り次第事情を聴くこととなった。本物のニノミヤチヒロは組織を調べている最中に連絡手段を確保する機器を紛失し、連絡が途絶えただけで、組織に捕まってはいなかった。その機器の紛失は組織絡みであり、おそらくここで組織のトップもニノミヤチヒロの情報を知ったのだろう。組織の存在が明るみになった直後に彼女から二宮に連絡してきたそうだ。何事もなくて良かったが、とんだお騒がせだった。その2か月後、組織のトップであり、偽のニノミヤチヒロでもあり、組織の中ではツクモと呼ばれているらしいこの人物の意識が回復する。そして彼女は門野に突き飛ばされたと発言した。事実はこういうことだった。門野が敵だとバレたのがツクモが原因と思って、ツクモに逆上してその怒りのままツクモに当たり、トップとはいえ女であるツクモは力に勝てず落ちてしまったそうだ。門野に殺意があったかは分からないが、これから警察が取り調べてくれるだろう。そうして今回の依頼を終えた。
読み終えてまず思ってしまった。これは、探偵小説なのだろうか、警察の小説になっていないか?と。探偵と警察はよく鉢合わせるからしょうがないのだが、今回は警察の内側にも入って話が進められていた。まあどちらにせよ読み終えた後の気持ちよさに変わりは無い。全ての謎が全部無くなる。やはり推理をするとなると謎を解き明かすことが最も楽しみなことだ。そもそも推理をすること自体探偵には関係ないのだが。実際には起こらないことだから楽しめる。実際に起こっていたら恐怖でたまったものじゃない。せいぜいドラマまでの規模でいてほしい。そう考えながらもう数年はテレビを見ていないことに気づいた。一人暮らしを始めたのが大学入学の時だったから、数えればもう6年になる。大学生の一人暮らしにテレビは必要ないと思ってそのまま買うことすらなかった。最近はどんなドラマをやっているだろうか、特に興味も無いのにそんなことを考えた3作目の読み終わりは2作目から1か月半ほど経った頃だった。季節はすっかり冬だった。
今回の白銀は前作よりも一気に成長している気がした。最初から事件に巻き込まれる白銀は不憫だったが、でもそれが白銀の成長を加速させた。白銀は探偵という仕事をやりがいを持ってやっていると思う。自分は自分の成長を加速させる動機を持てるのだろうか。学生時代の志を取り戻せるだろうか。自分は白銀が羨ましい。
3作目を読み終わったのは火曜日の夜だった。平日の夜に行く体力は残っていない。あっても金曜日にあるかないか、そんなくらいだ。古本屋には金曜日の夜か土曜日に行こうと思っているのでまずは仕事に集中することにした。本と離れたのは古本屋を見つける前以来だった。いつもと変わらずPCの前に座っている間、白銀のことを思い出した。仕事なんてお金をもらうためにやっているだけで嫌々している人もいるはずなのに、自分の周りの人は皆、白銀のように今の仕事にやりがいを持っていると考えてしまう。プライベートでは出来た目標も、仕事では未だに出来ておらず、自分だけ周りから外れてゆらゆら彷徨っていると感じる。意思が定まっていない。仕事をしているとどうしても自分のダメさが自分の目の前に壁を作る。周りから遠く離れたところで小さな箱にうずくまっている感じ。彷徨っているのに箱から出られない。矛盾している。でも動けない。まだデザイナーになる勇気を持っていないのかもしれない。自分がこの会社にいる意味は何なのだろう。今日の業務はずっと身が入らずいつもよりミスが多くなっていた。ミスをする度に自分のモチベーションも下がっていく。隣の席の子にも「今日調子悪いの?いつもはこんなミスしないのに。」とまで言われた。昨日までは本を読むために仕事を頑張っていた。その本が無くなった。それだけでこんなにもモチベーションに差が出るのかと落ち込んだ。自分は簡単な人間なんだということを自らが自分の体に刻み付けた。早く金曜日にならないかな、と今まで思っていなかったことを思った。皆大抵思っていることなのに今まで思っていなかった。自分はオンとオフの仕方が下手くそだ。休日にも仕事のことを考えて一日を終えることもあったりする。体は疲れを無くしたいと言っているのに頭は言うことを聞かずに勝手に動く。どうにかしたくても自分ではどうしようもないことだ。これは自分が小学生の時からのもので、もう変えようが無い。自分でも嫌になる。学生時代は卒業という明確な終わりがあることで何とか持ちこたえていたが、社会に出てからは明確な終わりがない。もし期間を作るなら自らが期間を設けるしか方法は無い。そんなことを考えている間にも時間は耳なんて持っていない。勝手にさらっと過ぎ去っていく。その間自分は何も出来ていない。こんな感じでうじうじしながら時間が過ぎ去るのを待った。
金曜日。今日の夜、古本屋に行こうと思っていつもの仕事の荷物に3作目の本を入れる。古本屋に行く時は読んだ本を入れていこうと思っている。いつも通り何事も無く定刻通りの時間で来た電車に乗る。満員電車に揺られながら昨日より少し浮ついた気持ちで会社に行った。タイムカードを押してからは浮ついた気持ちを無くし、仕事を終わらせた。今日は定時に帰る。タイムカードを押してからはもうワクワクの気持ちでいっぱいだった。早くあの古本屋に行きたい。電車までの10分、速足で歩いていた。家の最寄り駅から一駅先に行った方が近いとマップを見て気づき、今までほとんど使ったことが無かった駅で降りる。自分の最寄り駅より少し落ち着いた雰囲気で人気も少なく心がホッとする感じがあった。ここからはマップ頼り。古本屋はマップに載っていないことを今日知った。今までは喫茶店に寄った後で一本道を辿っただけだったのでマップを見ずとも覚えていたが、今回は向かう方向が逆だから喫茶店は立ち寄らない。だから古本屋を調べたが、マップアプリには店が出てこなかった。こんなお店もあるのだろうか、まさに隠れ家。位置情報だけで経路を調べて歩いた。駅からは徒歩5分。程よく街灯もあり、怖いことはなかったものの、古本屋のある小道に着くと一変する。明かりがないのだ。もうすっかり日は落ちていたから暗闇と化している。道の途中、少しだけほわっと蛍の大きいバージョンのような蛍よりもよっぽどオレンジがかった暖かな暖色の光が見えた。歩いていくと古本屋だった。この道には店は古本屋以外ないのだろう。他の建物は光もなく、いつもこんな暗闇にいるのかと少し怖くなった。ここを抜けると大通りがあるのに、ここだけ真っ暗。やっぱりこの空間は不思議だ。古本屋の扉を開ける。カチャンと聞き慣れた音がして懐かしさを覚えた。夜だから店内の照明も点いている。夜の古本屋は初めてだ。店の中を包む暖かなオレンジがかった色の照明がいつも通っていた白い蛍光灯でピカピカと明るすぎるくらい光っている書店と対照的でなんだか本屋ではないと感じてしまう。でもこの場所には何百もの本が置いてある。照明によって昼はあまりよく見えていなかった数多の本が一つ一つよく見える。いろんな場所から「見て」「見て」と声を掛けられているようだった。自分は一人を好むが、感情を持っていないものからの好意はなんだか嬉しい。何を言っているんだか自分でもよく分からないが、何か植物に声をかけると元気になると言われているような、そんな感じだ。心の中が賑やかになる。しかしその子たちを置いてカウンターへ向かう。彼女は本を読んでいた。何の本かは分からない。
「こんばんは。」声をかけると彼女は驚くことなく本を閉じて顔を上げ、さも知っていたかのように
「こんばんは、明さん。」と声をかけてきた。今日は自分が驚いた。
「今回は驚いてくれないんですか。」
「扉が開く音がしたので。気付いちゃいました。」
「それだけで自分だって分かったんですか?」前は本を読んでいて気付かなかったはずだ。今日もそうだろうと思っていた。ふと目をやるとカウンターにある本がまた高くなっていた。また在庫が増えたのか。なんて考えていたら、目を逸らしたのに気付いたのか、彼女から
「前には無かった本が入ったんです。私が読んだことのないものもあるので読みたいなーって思ってます。気になるのがあったら買っても良いですよ。」と言われた。そこで疑問に思ったことがあった。彼女が読んでいる本だ。彼女が買ったものだと思っていたが、読みたいということは買わずに読むのだろうか。
「榎本さんが読んでいる本は榎本さんが買ったものですか?」
「そうですよ。読みたいものがあったら自分で買って読んでます。」そうだったのか、読むだけ読んで在庫に戻すのかと思ってしまった。そんなことはしないか。
「今日は何読んでるんですか?」
「花村純さんという方の『道』という本です。人間と交わるハートフルストーリーですね。ある一人の人生を見る小説です。自分じゃない人生も何もないように見えてなんだかんだ壁だったり崖だったりいろいろありますよね。」
「そうですね、自分だって榎本さんが何でここで働いてるのか分からないですし。これまでどうやって生きてきたかも知らないですしね。」話していて思い出した。何で彼女は自分が来たと分かったのか、聞けていない。
「すいません、話戻すんですけど、本読んでいたのに何で自分が来たと分かったんですか?」
「ああ!それはですね、こんな平日のこんな時間に客なんて来ないんですよ。大体そもそも、お客さんが来ることが珍しいんです。明さん、ここに来た時見たことありません?おばあちゃん。」ああ、あのおばあさんだろうか。「ああ、はい。ありますね。」
「菊谷さんって言うんですけど、大体菊谷さんしか訪れません。たまに初めての人が扉を開けたりしますけど、1回利用するか、扉を開けても入らず帰ってしまうかなんです。だから、菊谷さん以外に何回も利用してくださっているのは今のところ明さんくらいなんです。菊谷さんは大抵午前中に来るので消去法で明さんと判断した訳です。消去法ですみませんが。」
なるほどそういうことだったのか、と納得したが、また更に疑問が増えた。なぜそれで経営が成り立っているのか。こんなこと聞いてもいいのだろうか。頭でぐるぐる考えていた時、
「どうしました?言い方きつかったですかね、すみません。」と、彼女が言った。
「そうじゃないです、全然そんな事じゃないので気にしないでください。」自分は言われたことがないだけで考えたことが顔に出やすいのだろうか。そんなこと無いと思っていた。でもそれは嘘をつけないという性格を表している。自分は嘘がめっぽう苦手だ。部活の親睦会で人狼ゲームをやった時、修学旅行でババ抜きをやった時、どれも嘘がつけなかった。というか、ついても何故かすぐバレるのだ。それなのに変な方に運がよく、人狼になったり、ジョーカーを持っていたりと残念なことになっていた。皆思っていたのだろうか、良ければ言ってほしかった。
「あの、不躾なことを聞いてもいいですか?」疑問を聞くことにした。このままぐるぐる考えても何も変わらないし。
「何かは分かりませんが、いいですよ。良識の範囲内で。」と笑いながら彼女は許可してくれた。
「1日に一人来るか来ないかくらいの状況で経営は成り立っているんですか?」良識の範囲は分からない。きっと範囲内ではない。ごめんなさいと思いながら聞く。
「普通なら成り立たないですよね。」答えてくれた。
「このお店は実際私のものではないんです。大叔母から貰ったものなんです。祖母の妹です。樹おばあちゃんって言うんですけど。私小さいころすごくお祖母ちゃんっ子だったんですよ。祖母は2年前に亡くなりましたが、樹おばあちゃんとも仲が良くて、祖母が亡くなって少し経った後、このお店を教えてもらいました。祖母が亡くなる前に祖母から貰ったそうです。私には何にも言わなかったのに、樹おばあちゃんには言ってたんですよ。このお店のこと。自分の死期が近いことも。それは悲しかったけど、樹おばあちゃんがここを私に頼みたいって言ってくれて、貰えたときは嬉しかった。お祖母ちゃんの大切なものを知れた、貰えた。でもその時同時に重い責任になったんです。無くしちゃいけないけど、どうやって持っていられるか、不安になって。その不安で一回断ったんです。お店のこと。でも樹おばあちゃんから言われたんです。『これをどうするかはあなたが決めていいのよ』って。聞いたら、本当はお祖母ちゃん、私にあげようとしてくれてたそうなんです。でも、自分の死と同時に貰ってもただ困惑するだけだからひとまず樹おばあちゃんに渡すってことだったらしいです。お祖母ちゃんが私に残してくれたこの空間を大切にしたかった。その時、この場所を守ろうって覚悟を決めたんです。だから私はこの場所を守りながら自立を目指しました。今はそれが軌道に乗ってるだけです。」彼女は強い覚悟を持っている。この場所を守るために見えない努力をしている。彼女の、彼女自身の根にある強さを知った気がした。
「すごいですね、覚悟があるというか、強いというか、なんて言ったらいいか分からないですけど、かっこいいです。」それしか考えられなかった。彼女の苦労を隣で見ていたわけじゃない。何か同じ体験をしたわけじゃない。だからその時の気持ちは分からない。想像するだけ。まさにさっき彼女が読んでいたという小説と一緒だ。一つ違うと言えば発言は文字に感情を持たせてくれるところだろうか、紙に書かれた文字にはない、人の発する声には感情が乗る。顔を見られれば尚更気持ちが伝わる。どんなに彼女がお祖母さんのことを好きだったか、すごく伝わってきた。彼女のことをもっと知りたくなった。
「今軌道に乗ってることって何ですか?」
「今は内緒です。」彼女は自分をまだパーソナルスペースに入れてはくれないそうだ。まあ、当たり前に数回会っただけの人間にプライベートのことを言うことはない。
「このお店以外にも仕事をしているっていうことですか?」
「まあ、そういうことになりますね。」いきなり距離を置かれてしまった。もっと手を出してしまったがためのことだ。自分には知られたくないことなのだろう。もうこの手のことは聞かないことにしておこう。
「今日来てくださったのは何ですか?今3作目、でしたっけ、読み終わりましたか?」話をものすごく逸らされた。でも、今日来た理由はそれだった。3作目を読み終えたからその感想を言いに来たのだ。
「はい、今日はそれで来ました。やっと読み終わってからの休みなので明日でもよかったんですけど、早く来たくて。読み終わってから今日まで会社でミスしまくりで大変でした。」と笑いながら言った。彼女の反応は意外なところを突いてきた。
「え、仕事出来てないじゃないですか。どうしちゃったんですか。大丈夫ですか?」自分はすぐに感想の話になると思っていた。まさかそこを心配してくれるとは。
「いや、それは自分の問題なので心配していただくほどではないです。読書をしていない頃の自分がどうやって仕事をしていたのか忘れてしまって、なんか気持ちが変だったんです。集中力が無くなっちゃったというか、そんな感じで。次の本を読めばいい話なんですけど、ここに来るまでに次のものを読むのはなんか違う気がしちゃって。」
「あーありますよね、何か始めた後、それにハマるとハマる前どんな感じで過ごしていたか忘れちゃって戻れなくなっちゃう奴ですね。私も音楽とかハマっちゃってそんなことあったりしました。まあ今はそれも少しずつ興味なくなっていってしまったんですけどね。」彼女も本以外でハマったものとかあったんだ。本を読む彼女しか見たことがないから、別のことを話す彼女の想像が出来ない。それどころか、この部屋を出た彼女すら想像出来ない。
「それで、どうでした?3作目は」
「まずは、探偵ものの話ではないだろって思いましたね。ほとんど警察と動いているから半分は警察小説と言ってもいいんじゃないかなって。でも読み終わった後の気持ちよさはありましたね。謎が一つずつ明らかになっていくのは読んでいてスッキリします。本当に裏社会があるのか、それがどんな規模なのか、今の自分には何も分かりませんが、小説だから書けるフィクションの世界があるからこそ現実逃避できるんですよね。たぶん自分が仕事に集中できなくなったのはその現実逃避が無くなったからかもしれません。自分にとって読書が一番適応していたっていうことですかね。あとは、白銀の成長が見れたこととか。3作目は最初2作目からすぐのことだと思って読んでましたが、後から思えば続きとはいえ間にいくつかの依頼は挟んでいると思うんです。白銀成長したなーって思っていましたが多分小説には載っていない依頼をこなして成長していったんだと思うんです。これは自分のあくまでの推測ですけどね。あとは白銀の勘と社交的で誰にでも話しかけられるあの性格に憧れを持ちました。真っ直ぐだけどいろんな角度から物事を見ている。誰にでもできることじゃないことを白銀は自身の力でできている。見習わなきゃいけないですよ、自分も。」
「3作目、面白かったですか?内容も結構濃いものですよね。確かに3作目は警察と付きっきりで捜査していたし警察小説というのも分かります。探偵が主人公という名ばかりの探偵小説と言われればそうとも言えますし。でも白銀さんが2作目と3作目の間に他の依頼をこなしてるっていうのは目が良いですね。」最後こっちをじっと見つめながら笑顔で彼女は言った。彼女は物覚えがいい方なのだろうか、きっとすごく前に読んでいたであろう小説を自分が読んで感想を言いに来たというだけですぐに思い出せるものだろうか。それかよっぽど印象に残っている作品なのだろうか。この作品は彼女にとってどんな思い入れのある作品なのだろうか。ここにいると彼女への質問がどんどん出てくる。
「次の作品もしっかり内容も濃くて面白いですよ。」自分がどんどん彼女への質問が出てきている間に彼女から次の話が始まった。
「4作目はどんな内容なんですか?」よくある質問だと思っていたが、彼女は疑問の顔をして怒っているようにも聞こえる口振りでこう言った。
「そんなの読むまでのお楽しみに決まってるじゃないですか!」確かにそうだ。彼女は作品のネタバレを知りたくない人のようだ。自分はそこら辺知っていても良い方なので特に大した質問ではなかった。怖いものは苦手だから怖いものであればネタバレを踏んで読むこと、見ることもあるほどだ。
「それはそうですね。榎本さんはネタバレに厳しい人ですか?」
「そんなことはないですけど、この小説はネタバレというか、読む人が初めて話を読んでほしいものっていうか、そういう風に思っているので。」やはり彼女はこの小説に他の小説と別の感情を抱いている。
「この作品は榎本さんにとってどんな作品なんですか?いろんな作品にこんなに特別扱いしませんよね?」少し突っ込んだ質問をしてみた。彼女はどう答えてくれるのか。
「特別扱いしてるように聞こえますか?んー、やっぱりそう聞こえちゃいますよね、確かにこの小説は私にとってすごく大切な小説です。多くの人に読んでほしいし、明さんにも最後まで読んでほしいです。」我が子を思うように話す彼女の答えは自分もそうしたいと思えることだった。だが、この小説にそこまでの感情を持っていることには疑問が生じる。自分が読んでいる今までの3作は至ってよくある小説だ。話は違えど探偵小説はこの世にごまんとある。何か突出しているものは自分には分からない。作者によって書き方が違うところだろうか。これから起こるのか、そもそも別のところに感情を抱いているのか。聞けたら簡単だが、今の自分に彼女が話してくれるとは到底思えない。もっと彼女との距離を近づけられたら聞ける自信も付くだろう。
「今日帰ってから4作目、読みますね。また4作目読み終えたら感想言いに来ます。全部で何作でしたっけ。」
「全6作です。でも今5、6作目はここには無いんですよ。今度来てくださった時も無いかもです。その時はごめんなさい、別の書店で買っていただくしかないです。」
「分かりました!今度来る前に手に入ったら残しててくれたり出来ますか?」出来ないことは承知の上での希望だったからどちらを言われても良かった。ただ、いいよ、って言ってくれたら嬉しいなっていう軽い気持ちだった。
「良いですよ、もちろん。私がおすすめしたんですし。」彼女は間を開けることなく答えてくれた。それも自分が嬉しい方の答えだった。
「良いんですか!?やったぁ!」自分の素で喜んだ声を出してしまった。「あ、」とまた素で気まずい空気にさせてしまったという声が出てきた。彼女はふふふっと可愛らしい声を出して笑った。めちゃくちゃに可愛い。
「明さんから言ってきたんじゃないですか。何であり得ないって話になるんですか。」彼女の笑いのツボに綺麗にはまってしまったらしい。笑いながら話し、話し終わっても笑っていた。笑い方が綺麗だった。
「ダメって前提で聞いたのでまさか良いですって言われるとは思わなくて。」
「明さんって頭の中どうなってるんでしょう、感想聞いたりしてると私が思っていないことを考えていたり、いきなり素っぽい感情出したり、一緒にいて面白いです。」満面の笑みで言われた。そんなこと初めて言われた。今まで素を曝け出せた人がいただろうか。友達にさえ気を遣っていた時代があったな、とふいに思い出した。
「自分の頭の中は吸収率の悪いスポンジですよ。よく脳をスポンジで表したりされませんでした?高校生だったかな?いや、中学生だったかもですけど、そこはどうでもよくて、子供のころの脳はスポンジだからたくさん吸収できるんだって言われたことがあったんです。だから今は吸収率の悪い廃れたスポンジ。」なんとなく思い出したことを言った。
「吸収率は悪くてもまだ使えますよ。吸収しすぎたら溢れますけど吸収率が悪いだけならまだ吸収できます。自ら諦めちゃったらダメですよ。」そうか、そういう考え方も出来るな。
「榎本さんこそ沢山の本読んで頭の中めちゃくちゃすごい知識いっぱいなんじゃないですか?榎本さんから何かを話してもらうことはないから分かりませんけどきっと話していて飽きなさそうだなって思います。」
「そんなこと無いですよ、知識は一般的な人と同じですよ。どれだけ本を読んだからと言って語彙力が高くなる人もいますけど、ならない人もいます。私は学ぶために本を読んでるわけじゃないんです。よく言うことですけど、本は追体験できるものだから、それがフィクションだろうがノンフィクションだろうが知りたいことを選択して読んでます。それで知識が付いたら良いとこ取りですよ。そんなに人間都合良くは出来てません。」それはそうだ。自分も以前読んだ本を全部覚えているかと言われればそれは覚えていない。自分は一度間違えたことがある。綺麗な字を書くから頭が良いのだと勘違いをして関係がぎこちなくなったことがある。もうすっかり離れ離れで関係すら無い今では思い出すこともなくなっていた。でも今彼女に聞いた質問はそれと同じことをしていた。あれから間違えないようにしようと思っていたのに忘れていた。考えることが昔から変わっていないのは良いことか、悪いことか。でも今のは悪い方だ。
「ごめんなさい、本を沢山読んでるから知識が豊富だとか決めつけちゃってました。」
「謝るようなこと無いですよ、こんなお店もやってたらそう考えちゃうのも分かります。でもその追体験をしていない人からすると知識というか、経験というか、そういうものが人よりも多いと感じちゃう人もいるはずです。それは本当のことだと思うので明さんが言ってることは間違っては無いですよ。」彼女の言葉には考えさせられることがよくある。彼女の考え方は自分とは違う視点を捉えている。簡単に言えばこっちがネガティブであっちはポジティブだ。彼女はどんなことも決して悪いとは言わない。相手に対してもそうだが、彼女自身のこともだ。素敵な考え方だ。自分が頑張ってやろうとしていたことでもある。しかし自分の根底にはネガティブな考え方が居座り続けて消えなかった。
「榎本さんの考え方は素敵ですね。誰も傷つけない考え方で尊敬します。」
「お祖母ちゃんの教えがよかったのかもしれないですね。心が綺麗な人でした。いつも優しくて怒っているところを見たことがありません。素敵な人の家族になれたことが私にとって一番の幸せなことです。」
「お祖母さんにお会いしてみたかったです。きっと榎本さんのように綺麗な方なんでしょうね。今日はこの辺でお暇させていただきますね、また読み終わった後に来ます。その時また色んなお話聞かせてください。」
「分かりました。また来てくださるの、待ってますね。」そう言って古本屋を後にした。扉のカチャンという音が自分を現実世界に呼び戻す。あの空間は今日、前に訪れた空間とは違うゆっくりと時が流れる世界のようなそんな異空間のように感じた。
家に帰りついたのは21時すぎだった。自分の勤める会社の定時は10時から19時。こんなにも早く時間が過ぎたと感じるのはいつ以来だろうか。こんなにも没頭できるものを見つけたのはいつ以来だろうか。好きなものを仕事に出来たらと考えてこの職に就いたものの、自分の思い描いていた人生とは程遠いものだった。実際そんなものだ。やりがいを見出せない限りはどんなに好きな仕事でも嫌な業務はついてくる。やりがいを見つけても嫌な業務は嫌な業務のままかもしれない。でもやりがいが無かった時よりマシになってたりする。勉強を頑張っていた頃はそうだった。自分の苦手な分野があっても他の好きな分野があれば嫌なことも忘れられていた。今の自分より過去の自分の方がよっぽどよく出来ていた。そんな考えもまた、過去の自分からすれば逃げに過ぎないのだ。彼女との会話は店内の明かりも相まって終始暖かな気持ちでいられた。今は好きなことを本につぎ込んでみよう。
4作目に目を入れる。白銀はまだ高校生だった。ということは、1作目から9年ほど前になる。白銀が探偵になるまでのことが書かれている。白銀が探偵を目指すきっかけになったのはとある事件からだった。事件と言っても人が死ぬような残酷な事件ではない。落とし物を巡る事件だった。今回は白銀が依頼人の立場だ。正確に言えば依頼はしていない。ある落とし物をした白銀は、その日来た道を遡って見つけようとしたが、見つからなかった。それは白銀にとってとても大切なものだった。何としてでも見つけ出したい一心で探し回ったが、どこにも無い。そのうち日が暮れてきて、探すことが困難になりそうだったため、一度近くの交番に相談することにした。しかしそこでも何の情報も得られなかった。次の日、学校で身の回りを探してみるも見つからない。もう見つけられない、そう思って諦めようとした時、同級生のある一人の少年が声をかけてきた。探し物があって探しているが、もう見つからないので諦めるところだったと言うと、「探してくるよ」と彼が言った。無理だと断るも、彼は白銀の言うことも聞かずにそそくさとどこかに行ってしまう。白銀は置き去りにされて困り果て、もういいや、と彼のことは追わなかった。そして次の日。彼が白銀の目の前に現れた。白銀の無くした大切なものと一緒に。白銀は彼に問い詰めた。どこで見つかったのか、いつ見つけたのか、それから、何故探している物が分かったのか。白銀は彼に探している物があるとしか言っておらず、探しているものまで詳しくは話していなかった。なぜ探している物が何なのかを分かったのかが一番気になるところだった。自意識過剰と思われるのは承知で白銀のことを普段からよく見ていたのかと気味悪くなった。探している物とは白銀の祖父からいただいたお守りだった。この世で二つとない手作りの唯一無二のお守りだ。いつも肌身離さず持っていたのにストラップから外れていたことに気づくのが遅かった。彼は落ち着いた口調で答え始めた。「まずどこにあったかは、ある人が持っていました。昨日あなたが帰った後、思い当たるところがあったのでそこに行ってすぐ見つかりました。何故私があなたの探し物を知ったかですが、見つけた時に知りました。それまでは私はあなたが何を探していたのかは知りませんでした。まあ、気持ちの良い探し方ではなかったですよね。そこは申し訳なかったです。」白銀は驚いて声も出なかった。魔法かと思った。読者は「彼」の存在を知らない。これまで語られてこなかったから。白銀との関係性も分からない。でも白銀の思った「魔法のようだ」というのは自分もすごく思った。たったそれだけの情報でよく見つけ出せたなと。一体彼は何者なのか。それがこれから語られる。彼は白銀と同じ高校に通う佐々木という名の同級生。クラスは違うが、他クラスにいることは休み時間などでは当たり前に見られる光景。でも白銀と佐々木はほとんど接点のない関係だった。そんな中、佐々木から声をかけられた。白銀からすれば探し物を探している途中に初めまして同然の人にいきなり話しかけられたため、頭がこんがらがりそうな展開だ。それでも白銀は探し物のことを佐々木に話した。そして見つけてもらった。見つけてもらったは良いが、白銀は聞きたいことが沢山あった。それを佐々木に次々と問うた。白銀の真っ直ぐで恐れ知らずなところは昔から存在するようだ。これが後の探偵になった白銀にとっての長所ともなる。佐々木のことについてだが、佐々木は自称探偵なんだとか。高校生で探偵とは、これこそフィクションすぎる。そう思ったが、経歴が面白かった。これまで学校で起きたいくつかの事件を解決したと。事件と言っていいものか分からないが、白銀がやってもらったように探し物を探したり、彼女がいる、いない、彼氏がいる、いない、なんて情報を調べたり。高校生らしいと言えばらしい?小中学生のようでもある。子供っぽさがより顕著に見える。一番面白いのは学校七不思議。大抵は小学校とかで流行りそうなのにまさかの高校。これには声を出して笑ってしまった。それも探偵がするものじゃないだろう。地域別や学校別に様々と諸説あるが、一番広く知られているのはトイレの花子さんだろうか。この学校では音楽室のメトロノームが勝手に動くらしい。それも夜に限らず授業のある昼間にも鳴っているらしい。でも奇妙なことに授業が入っている時には起こらず、空きコマの時にだけ起こる。そして次に来る授業の人か先生が音楽室に入ってから音に気づいて止めるらしい。誰もメトロノームの始まりを聞いていない。七不思議と言っているだけあって不思議なものだ。夜以外に起こるものは初めて知った。多くは人の居ない夜に起こるから七不思議というのではないか。そう思ってここだけ疑問に思った。七不思議の語源は知らない。あとで調べてみようか。その調査をした際に佐々木は法則性を見出した。ある一定時間ごとになっているそうだ。なんだか研究みたいだ。そうして判断されたのはただの不具合。一定時間で留め具が外れてしまっているということだ。納得はできるが面白くは無い。幽霊のお遊びだとか変な言葉で終わらせられたら面白かったものもしっかり調査すれば何かしらの疑問が出てきてそれを突き止める。いかにも研究をしているかのようだ。大学でこんなことを研究できれば面白そうだ。こんな感じで七不思議なんて言われていたものは全て何かしらの現象で解決できるものなのだ。小学生はそんな事考えもしないし考える能力はないからできることなのだとこれを読んで分かった。佐々木はそれらのことをすごい早さで解決しているらしい。今回の白銀の件も一日かからず解決している。白銀はその早さに興味を持った。でもその前に拭いきれなかった奇妙さを解決したかった。佐々木はなぜ白銀が困っていると思って、なぜ探し物が分かったか。佐々木に尋ねると、目が良いことと勘だと言った。あの人困ってそうだな、と思った人に話しかけ、解決していく。探し物がなぜ分かったのかは、見つけた場面が関係していた。白銀は性格柄友達作りが苦手だ。良く言えば恐れ知らずだが、悪く言えば正直にものを言い過ぎる。例えそれが誰かを傷つけてもだ。そこは白銀の考える配慮が行き届いていないと言える。そしてこれを良く思わない人も出てくるわけで。白銀は気付いていなかったが、近寄らない方が良いだの、性格がねじ曲がってるだの裏でいろいろ言われているそうだ。白銀には前作を読んでいて勘が備わっていると思っていた。しかしこの当時の白銀には勘なんて考えたことも無さそうだ。それにそれを聞いたところで白銀は何かを変えることは無い。目の前で言われてもおそらく変えることは無い。変えるメリットなど何一つ無いのだから。それが嫌なら近づいてこなければ良い。近くなければ知ることも無い。でもそうしない人もいる。学校とは、社会の縮図だからだ。弱肉強食、多勢に無勢。そんな場所には相容れない人も出てくる。必ずしも自分を認めてくれる人が側にいるとは限らない。しかしそれで相手に危害を加えることは間違っている。でもそれを間違いと思っていない人がいた。その人が白銀のことを良く思っていなかった。これらのことから今回の事件は起きたのだ。白銀が探しても見つからない訳だ。佐々木は以前から白銀についての悪い陰口を聞いていたため、こうも早く解決できたということだ。この事件を起こした人たちは佐々木が注意したそうだが、今後それがどう変わるかは分からない。変わってほしいと願う佐々木に反し、当の本人白銀はどっちでも良くなっていて、興味を持ったのは探偵業務だった。確かに佐々木の探偵業務はなかなかに面白いが、白銀のあっけらかんとした姿勢にはフッと鼻で笑ってしまった。そこからは白銀の怒涛の質問タイムに入る。これは白銀が昔から持っている技だったのか。いつからやっているのか、一緒にやってる人はいるのか、依頼をされたことはあるのか、それは有料か、一番時間がかかったのはどんなものか、もういくつ質問したか分からない。佐々木はそれにきちんと全部答えてくれた。佐々木は良い人だった。白銀にとって学校という箱で一番信頼できる人の位置に佐々木が入った。相談は佐々木にしようと思っていた。探偵業務が面白いから一緒にやっても良いかと尋ねると佐々木は笑顔で良いよと言ってくれた。そしてその日白銀にとって初めての探偵業務をしようという時、佐々木がいなくなってしまう。忽然と消えた。さっきまで隣にいたと思っていたのに隣には誰もいなかった。辺りを見渡しても誰もいない。その時、不自然なくらいの静寂が数秒。瞬きをした途端、信号の音がした。歩行者に知らせる音。今は誰も使わない音。白銀は不気味に感じた。その後周辺を探してみても佐々木は何処にもいなかった。何なら人一人見当たらない。不気味さが怖くて白銀は帰った。佐々木と連絡する手段は無い。明日登校したら今日のことを話そうと、そう思いながら帰った。次の日、佐々木の姿は無かった。佐々木のクラスの担任に聞くと体調不良と言われた。次の日もその次の日も佐々木は現れなかった。そして佐々木が姿を現すことなく転校したと聞かされた。白銀には全く意味が分からなかった。あの日のことは?どう説明するつもりなんだ、いきなり消えたかと思ったら次は転校?ふざけるなという気持ちを沈めて佐々木の住所を知っている人がいないか聞く。白銀は佐々木のことを何も知らなかった。連絡先も、住所も何も知らない。白銀と同じように他の生徒のほとんどは知らなかった。知っている人も曖昧でよく覚えていない人ばかり。担任の先生に聞いたら個人情報だからと断られた。荷物を届けたいというと、もういないかもしれないよと言われたが、教えてもらうことが出来た。その日の放課後、一目散に住所まで行った。でも誰も住んでいなかった。管理人付きのマンションで少しでも分かることがあればという気持ちで管理人に尋ねてみた。するとその部屋は2年前から使われていないと言われた。もう本当に意味が分からない。「それじゃあ佐々木さんって知らないですよね?」その質問に管理人が反応した。「あなた知り合い?面倒だから帰って。」いきなり突き放された。でも確かに佐々木に反応した。白銀はご自慢の恐れ知らずを存分に発揮し、帰らずにもう一度質問した。「佐々木さんって何かしたんですか?」管理人は答えないと帰らないと一度で判断したのか、答えてくれた。2年前佐々木という夫婦が別の場所で自殺を図った。そのうち一人は部屋で首を吊り、一人は車で事故を装って亡くなった。そして当時中学3年の子供一人が取り残された。夫婦がなぜ自分たちだけ死ぬことを選んだのか、遺書も遺言書もない中で何も分からなかった。生き残った少年は児童養護施設に送られることになった。そういう経緯があったそうだ。おそらく佐々木のことで間違いは無いだろう。ではなぜ何も言わずに目の前から消えたのだろうか、もし転校が本当だったらなぜ言ってくれなかったのだろうか、佐々木は白銀がそんなことを言える関係だと思えていなかったのだろうか。そして一つ残っている机上の空論、佐々木が自殺をした。佐々木がいなくなってから数日、明らかに騒めき立っている職員室を見かけた。何がそうさせているかは分からない。いろいろな内容が考えられるが、ここ数日は異様だった。佐々木が自殺をしていないならその方が良い。でもこういう時に働く勘は嫌ほど当たってしまうものだ。こういう時聞ける場所が無い。どうせ先生に聞いてもはぐらかされて終わりだ。転校なんて言ったのだから。どんなことがあっても転校で押し切られる。こういう時に頼れる場所は、そう考えた白銀は思いつく。探偵だ、と。
それから白銀は探偵を探し始めた。探偵という職業は小説の世界ではよく出てくるものだが、現実はそう多くはないだろう。しかし案外あっさりと一つ目の探偵事務所を見つける。まあ、この中もフィクションなのだが。しかしこちらが学生と分かると断られた。他に行ってもきっと断られると結構きつめに言われてしまった。現実を突き付けてくる。子供なんだと、子供は何も出来ないと。確かにお金を持っていない。自分で稼がなければならない。それより自分で始めればいいのだ、探偵を。そこから白銀の探偵が始まった。
白銀は佐々木に関していそうな情報を集めて回った。新聞に載っている記事、ネットに乗っている記事、ありとあらゆる情報ツールで集められるものを集めていた。しかし2年前の夫婦の方は最初は別の事件として捜査されていて思ったよりもややこしいことになりそうだ。佐々木を探す前に佐々木の両親であろう夫婦の方を片付けていこうとした。人が亡くなるという経験は身近な人では無いことだった。人が亡くなるという経験は人間にとってどんな影響を与えるのだろうか。まさか死について深く探るのが佐々木のことでだとは思わなかった。今でも佐々木がどこかで生きていることを祈りながら学校生活と両立しながら調べていたが、佐々木がいなくなったのは高2の冬。もうじき受験期が来る。白銀自身の将来のことも考えなければならない。白銀は将来のことはそっちのけで探偵に専念していた。しかしそれを親は認めてくれず、適当に大学を決めようとした。しかし、大学の学びで探偵に活かせるものがあるかもしれないと考え、一先ずは学部を決めることにした。そのあとは学力的に行けるところにする。そこで思いついたのが心理学部。人の考えを深められるのではと考えた。これから探偵として生きていくにはかなり険しい道だ。心理学は深めれば深めるほど底はどんどん深くなる。白銀は探偵を人に頼まれ人に頼む仕事だと考えている。そこに心理学を応用できないかと考えた。実際その時になってみないと分からないが、この時白銀が決断したのはそれだった。そして佐々木のことが疎かになりながらも大学に入る道を選んだ。大学は高校よりはるかに自由だ。要らないと思ったものは必修以外少しは切り捨てられるし、空き時間も作れる。その空き時間で佐々木のことを調べ直した。しかし未だに繋がる要素が無い。そうこうしているうちに大学を卒業し、社会に出なければならなくなった。もちろん探偵業を一度もこなしていない白銀がすぐに探偵事務所を立ち上げることは出来ない。そこで探偵仲介業という依頼人と探偵の間に人を挟んでどの依頼を誰に頼むかを決めるという会社に行ってみることにした。そして運よく採用されることとなった。初めての依頼は初心者にも出来やすいからと犬探しを任された。ここで読者は気付いただろう、白銀の初依頼は2作目の猫探しではなかったのだ。確かに初めての依頼と書いていた気がする。そう思って2作目を読み返してみるが、初めての依頼なんて言葉は一つも書かれていなかった。ただの自分の思い違いだったのだ。よくあるなあこういうの。探偵になりたてなことは書かれていた。しかし4年前と時期が確定していたため初めての依頼に遡ったのだと思ったんだ。そして白銀は何事もなく犬を探し出し、依頼を終えた。この依頼主は常連さんらしい。何か別の策を練った方が早いのではと思った。ほのぼのとした感じで物語は終わった。しかし佐々木のことは完結していなかった。
4作目を読み終えた。白銀の探偵になるまでのストーリー。前半は笑えるような部分もあったのに、終盤にかけてシリアスな雰囲気になっていく。白銀の探偵に対する考え方を知った。そんな過去があったとは思わなかった。佐々木という青年はこれからの作品に出てくるのだろうか、白銀が思っているように、自分も佐々木が生きていてほしい。白銀が見つけ出して感動の再会をしてほしい。彼女は前に1作ごとに完結しているから読みやすいと言っていたが、この作品は完結しているように見えるよう時系列がバラバラになっているが、絶対全てを読まないと完結しない。そして全てを読み終わった後時系列順に変えてもう一度読んでみたいと思った。それにしても高校生の時の熱が大学生になっても、社会人になっても続いている。そんな白銀が羨ましい。自分もこうなりたいと思ってしまった。これから始めても遅くないだろうか。自分も始めてみようか、本さえも忘れるくらいの情熱を仕事に注いでみようか。
次の日、曜日は火曜日。前と一緒だ。今週金曜日夜、古本屋に行こう。それまでにやりたいことが出来た。ちょうど本を読み終わったことだし、仕事に没頭しよう。そう考えさせてくれたのは白銀だった。前回は白銀によって大変なことになっていたのに、今回は白銀に励まされている。白銀のひたむきさが自分の気持ちを更に高める。いつもと同じ時間、定時10分前。タイムカードを押してPCに向かう。自分は1を100にするより0を1にする方が難しい。1を100にするような業務である今の作業でいても良いのだが、白銀に背中を押された。0から1を作り出すデザイナーになる勇気が出てきた。この気持ちをしっかりと形に残したい。そのために頑張りたい。定時の時間になった。上司に話しに行く。「今、お時間良いですか?」
「お、どうしたの?」上司の上野さん。会社を休んだ時に優しくしてくれた上司。
「デザイナーになるというお話です。何度も断っていて今更で申し訳ないのですが、そのお話やってみたいです。可能でしょうか。」
「おお!考えてくれたの!よし、やってみようか。今丁度良い依頼あるから。でもちゃんと今の仕事をこなしながらだからね、大変だけど頑張ろう。」
「お願いします。」今回任された案件はとある会社の商品広告。同じような依頼の過去のデータが残っている。それらを見せてもらい、締め切りまでの期間を倍にしてもらった。この案件を完了して、それを上野さん、そしてその上の夏目さんという上司に見せ、二人からの許可が下りたら晴れてデザイナーに昇格できる。比較的易しい条件だ。これを現時点の仕事の目標にした。
まず、先輩方の過去のデータを見る。先輩方には人それぞれ個性がある。デザイナーというのはそういうセンスを持っている人が多い。自分にセンスがあるのかないのか、それがこの案件で明らかになるだろう。とはいうものの、自分の個性を全開に作ってはいけない。依頼してくださった方の理想像というものもある。大抵は大まかなテーマや条件、雰囲気なんかを言っていただき、それに従って作る。それが苦手な分野かもしれないが、依頼された以上は作らなければならない。この会社はデザイン会社と言ってもビジュアルデザインを主としている。今回自分が任された広告から企業の顔となるホームページ、CMのような動画なんかも作る。作品の幅は広い。それぞれ得意分野を活かして依頼を振り分けてくれる上司がいる。そのおかげでほぼ得意なものを作れる。もちろん忙しい時や空いている時などで苦手な分野もしなくてはいけない時はある。それを了承したうえでこの会社のデザイナーにならなければならない。いつか辞めたいと思う日が来るかもしれない。でも今はデザイナーになることで自分の足を地に着けるようになりたい。彼女のように、そして白銀のように。今日は時間の確保も出来ないから先輩方の過去のデータを見ることに専念した。何か傾向を掴めるかもしれないし、ヒントも得られるかもしれない。全て初めてのことだから慎重に作業をしたい。
休憩時間に過去のデータを見ていると、同期でデザイナーになった瀬川が来た。どこからか自分のデザイナーになる話を聞いてきたらしい。
「調子どう?」まだ始めてすらいないのだぞこっちは。なんて思いながら、
「今日はしない。明日からする。今日は座学?いや予習?みたいな感じで。」と言うと、
「まあそうだよね、初めては。あ!俺の初めてやったやつこれ!」参考にしようとしていたものの中には瀬川が作ったものも入っている。
「懐かしいな。って言ってもまだ半年しか経ってないけどね。最初は大変だと思うけど頑張れ。応援してるぞ。」彼なりに励ましてくれた。同期でありながら先輩でもある。頼もしい。そして応援は嬉しい。家に帰っても今週は読書をしないから仕事に専念できる。今自分は新しい仕事にワクワクしている。おそらくこの案件は家に帰ってやらなければならない。家にPCはあるからできるが、自分一人でできるだろうかという不安もあった。次の日、朝来た時に夏目さんが「頑張ってね。」と言ってくれた。そして自分のいつもの業務をしている間デザインの案を考えていた。どう会社の良さを客観的に見せることが出来るか、難しい。大学でデザインの知識だけ得ていても実際には経験していない。自分はデザインには興味はあったものの、ホームページやCMなんかにはエンジニアの技術が必要になってくる。自分はそのあたりが苦手で大学の半分以上の時間はそれにつぎ込んだ。様々なデザインを毎日いろいろな場所で見ることがある世の中でどうやって客を引き寄せられるか。大まかな色や雰囲気など依頼者からの要望を聞いている。自分には好きな色がある。だから嫌いな色もある。好きな色、嫌いな色があれば配色が似たようになってくる。自分は前からそれも苦手だった。デザイナーになるにはそれを乗り越えなければならない。苦手なことが多すぎて辞めた方が良いかとも考えたが、興味を持てたのがデザインだったから頑張りたかった。だからそれを今回の仕事で払拭したい。今回の依頼者からの要望がまさにそれだったからだ。それをどんな風に落とし込めるか。やってみて思ったのは広告は配色が難しい。そして、これは0から1を作るのではなく、100を彩るものなのだと。完全にこの会社で使うデザインと言うものの解釈を間違えていた。今回の依頼は駅に貼るような大きな広告。沢山の色を使うと目が情報を受け取ってくれない。もちろん様々な色を使う方が良いこともある。ただ、今回は多くの色を使わない方が良い。しかし鮮やかな色を使うなどして目を惹かなければならない。遠くからでも見えて近くでも分かるようにしなければならない。悩みに悩んで、悩んだ挙句5案も作っていた。自分は優柔不断なところがあるため、どれも捨てられずいろいろな案を考えてしまった。翌日、上野さんに案を見てもらった。上野さんから「いいね!」と言ってもらえた。案は多ければ多いほど依頼者の選択権が増えるから良いらしい。良かった。次は夏目さんに見せに行く。「初めてにしては良いね。こんなに案を持ってきたのも良い。1案しか持ってこない人もいたから十分優秀。」と言ってくれた。優しい。しかし、案が似たり寄ったりで依頼者が選ぶのが難しくなるから案を出すときは差のあるものを作る方が良いとアドバイスしてくれた。締め切りより結構早く完成した。ここからは依頼者が一度確認に来る時まで修正を自分なりに差のあるようにしてみた。そして依頼者と会う日、再度上野さんと夏目さんに確認してもらった。これでいってみようということになり、夏目さんと一緒に初めて依頼者と会った。5案、提出してみるも、「あまりパッとしないなー」ぽつりと言われてしまった。少し傷ついた。どうすればいいのか初めてで焦ってしまった。夏目さんがフォローしてくれて一命を取り留めた。
「どこら辺が腑に落ちませんでしょうか、一番良いものも教えていただけると今後の修正に役立てるのでお願いいたします。」
「この中では3つ目が一番良いですね。もっと商品を大きくして、綺麗さをアピールできるような感じでお願いしたいです。次の修正ですが、1週間後オンライン上でも大丈夫でしょうか。」二人の会話についていくのに必死で自分から何も言えなかった。
「分かりました、修正しておきます。次回オンライン上ですね、かしこまりました。今回はご足労いただき、ありがとうございました。」夏目さんが言った後に、
「ありがとうございました。」それしか話すことが出来なかった。
「こちらこそありがとうございます。またよろしくお願いします。」と依頼者が帰っていき、修正のミーティングが終わった。これから夏目さんに何か言われるだろうか、と思ったが、夏目さんは何も怒ること無く言った。
「今日の人、運が悪かったね、最初の言葉が否定的な人少ないから落ち込むことないよ。よく頑張った。」もうそれだけで泣きそうになった。だが、ここで泣くわけにはいかない。あの人が納得できるものを作ってみせる。そう自分の中で誓い、またいつもの業務に戻った。その日の夜に修正を考えて、次の日の朝、もう夏目さんに直接許可をもらいなさいと上野さんに言われたので夏目さんに見てもらう。依頼者との連絡は夏目さんがしてくれているため、自分は修正に時間をかけられる。
「おお、早いね。そんなに焦らなくていいよ。」と言ってもらった。自分は何かにずっと焦ってしまっているのかもしれない。これは慣れるまで時間がかかる。
「これはまだ駄目でしょうか。」
「一応見るけど、焦っても良いものは作れないよ。時間はあるんだからしっかり悩んで作りなさい。」と言われた。そして、まだこれは駄目だと言われた。早さは今必要ない。集中して作ろう。そして修正の前の日、自分の精一杯を込めたものを夏目さんに見てもらう。
「うん、あの日よりずっと良くなってる。焦るものじゃないって分かった?」
「はい。期限を設けると焦ってしまうのでもう少し丁寧にすることを心がけます。」
「そっか、でもちゃんと自分で理解できたのは偉い。その調子で頑張りなさいね。あと、明日の修正オンラインだから、やり方を見ときなさいね、時々オンラインでって言う方いるから。」
「分かりました。明日、よろしくお願いします。」
次の日になった。今までは傍から見ていただけだったからこんなに不安になると思っていなかった。就活の時のような緊張。夏目さんが気にしてくれて、「大丈夫かい?」と声をかけてくれた。全然大丈夫では無いが、「頑張ります。」と言うと、「あなたが頑張ることは一旦終わったんだから肩の荷下ろしなさい。今はまだ新人なんだから。」と笑顔で言われた。とても心強かった。親のような安心感。そして、オンラインでのミーティングのやり方を教えてもらい、依頼者を待った。案をデータで依頼者に送り、確認していただいたのち、修正もしくは完成となる。デジタルデータと印刷後の色味が多少異なる場合があるということも説明した後、今回のミーティングでなんと完成となった。あの人を納得させるものが作れたということだ。ものすごく嬉しかった。ミーティングの後、夏目さんにすごく褒められた。修正が一回で終わることは少ないと。よく頑張ったねと言ってもらえた。そしてこれで自分のデザイナー採用が決まった。さらっと決まったもののそうガラッと変わるわけでは無い。今自分がやっている作業の引継ぎ等で一日終わった。「明日からデザイナーということで。」と言われ、デスクの場所も変わり、デザイナーの一人になった。これには皆が祝福してくれた。瀬川からも「一緒に頑張ろうね」と言われ、先輩デザイナーからも「何でも聞いてね」と優しく歓迎してもらった。
そうして一段落した時にすっかり頭から抜けていた本のことを思い出した。本を読み終わった時から1か月は経っていた。
次の休みの日、食事をした後に古本屋へ向かう。前に古本屋へ行った時からは2か月ほど経ってしまっていた。OPENの札を見てカチャンと懐かしい音を聞いて中に入る。今日は雨が降りそうな天気だった。あのスポットライトのような日の光を今日は見ることが出来なかった。全体が薄い靄に囲まれているようで冷たい印象を抱いた。カウンターへ行くと山積みの本の横で本を読んでいる彼女を見つける。そして2か月聞いていなかった彼女の声が聞こえた。
「明さん、いらっしゃい。」と。彼女に話したいことが沢山あった。
「こんにちは。今日、話したいことが沢山あるんです。聞いてもらっても良いですか?」
「もちろんです。良かったら椅子に座ってください。」と彼女は手を使ってある場所を差しながら柔らかな笑顔で答えた。今まではなかった空いた椅子が一つ、カウンター横のこちら側においてあった。自分のために用意してくれたのだろうか、そうだったら嬉しい。初めに一番伝えたい仕事のことを話し始めようとしたが、同時にお世話になった本のことも話すことにした。
「4作目読みました。おかげで仕事で昇進することになりました。まだ全然慣れてないですけど、皆さん頼りながら頑張れてます。」
「そうなんですね!すごい!でも、本のおかげでですか?4作目に何かありましたか。」彼女は不思議そうな顔をした。
「はい。正確には本の中の白銀と、榎本さんとの会話も含んでですかね。4作目の話って白銀が探偵になるまでの話じゃないですか。大抵の探偵小説って事件があって、それを解決したり、依頼を完遂したりっていう話ばかりじゃないですか。なぜこの探偵は探偵になったのかなんて書かれていないものが多いと思うんです。その人の人生の1ページを切り取ったような、そんな小説ばかり読んでいたので一人の人生の分岐点の始まりを読んだことは初めてでした。そして白銀の探偵になった理由を知って、この人心が強いなって思ったんです。普通ならいなくなった人のことなんて忘れるか悲しくなって終わりだと思うんです。白銀が佐々木にそのくらいの信頼を置いていたということもあるとは思いますが、白銀のようにそれを行動に移せる人はすごいと思います。かっこよかったです。物語としてはかなりコミカル調で声出して笑ったところもあったんですけど、白銀の気持ちはすごく真っ直ぐで心が強い人で。こんな人になれたらなんて思ったりもしました。」
「あれは結構コミカルな感じで書かれててそんな風に言う人は少ないですよ。よく伝わったなと思います。白銀も辛いことを乗り越えて今に至るわけで、そこら辺、現実味のある探偵小説ですよね。それで、私の会話って何ですか?」そうなのだ。辛さを乗り越えている人は強いのだ。そしてそれは彼女も当てはまる。
「それはですね、前回ここに来た時に話してくれたじゃないですか、このお店のこと。覚えてくれているかは分からないですけど、その時に榎本さんのことを、心が強くてかっこいいって思ったんです。口に出していなかったら今初めて聞きますよね、いきなりすみません。」
「前回は素敵だ、とか、綺麗だ、とかって言ってくれました。嬉しかったですよ。」
「自分にとってその時話していた榎本さんと4作目の白銀が重なって見えたんです。本当にたまたまなんですけどね。どちらも違うことではあるけど辛い何かを経験して、それを乗り越えて心を強くして前に進んでいる。乗り越えたかどうかは本人しか分からないことだし、心を強くしているのか、境遇で心が強くなったのかは自分には分からないことだから全て自分の空想でしかないんですが、そのことを聞いて、読んで、自分も心を強く出来たらと思ったんです。でも自分の今の環境に苦労はない。逃げていたんですよ、今まで。自分デザイン会社に勤めているんですけど、デザイナーになる話をこれまで何度も断ってきていたんです。ただ、責任から逃れるために。でも白銀と榎本さんに背中を押してもらったって勝手に言っちゃうんですけど、今回デザイナーになる道を選んだんです。初めてで怖かったけど、結末を言えば成功しました。初めての案件でよく出来たって褒めてもらえて、デザイナーになることになりました。その案件にすべての頭を使って本のこと忘れちゃって今日になってしまいましたが、このことを伝えたかったんです。ありがとうございました。」深々と頭を下げる。
「そんなことがあったんですね、力になれたならそれはもう嬉しい限りですよ。明さんの力があってこそのことなんだから明さんは明さん自身を褒めてあげてくださいね。でもそうしたらここに来るのも大変ですよね。嬉しいけどちょっと寂しいです。」彼女に褒められた。もうこれ以上の嬉しさは無いだろう。だからこそ自分も寂しくなった。まだ慣れていない仕事に休みの日も使ってしまうことは抗えないだろう。でも自分はここに来ることを辞めることは考えられなかった。
「いえ、来ます。また読んだら合間を見て来ます、無理のない範囲で。というか、来たいんです。まだこれからも。通い続けたいです。」
「じゃあ、無理のない範囲で、待ってます。これからも。」
「それで、次の本ですけど、入ってきたりしましたか?」
「それが、残念ながら無いんです。ごめんなさい、他の書店で買ってください。」
「そうですか、残念ですね。でも謝らないでください。榎本さんのせいじゃないんだから。じゃあこれから書店に行って買いますね。あ、そうだ。他におすすめの本とかってありますか?」
「私のわがままで申し訳ないんですけど、今読んでるシリーズを全部先に読み終えてほしいです。全然、出来ればでいいんですけど。」そんなことを言われたらそうしたくなる。
「分かりました。でも一冊ずつ買って感想言いに来るので、もし在庫入ったら教えてください。」
「はい、そうします。」こうして彼女との話を終えて、別の書店に行く。彼女との会話を思い返しながら。思い返すと彼女の変化に気づいた。なんだか前より距離が近くなっていないか?と。何なら最初から、「いらっしゃい。」だった。前までは「いらっしゃいませ。」だったはずだ。なんだか嬉しくなった。この思い込みが自分だけではないことを祈るばかりだ。今日も彼女はポジティブだった。それにつられて自分も前向きな気持ちになれる。そうしながら書店について本を探す。前に一度来ただけだったのでもうすっかり忘れてしまっていた。文庫本の場所は何処だったか、店内を彷徨い歩く。平置きの文庫本を見つけてやっと探し始める。5作目。どんなタイトルか。知らない。これまで知らずに買えていたのだ。1作目は店員さんが持ってきてくれた。2,3,4作目は彼女の店で買った。どれも固定のタイトルではない。今までのタイトルは表紙を見れば思い出せるが、残りのものは順番が分からない。というか、彼女の店で買ったとき、どの順番で読むかなんて聞かなかった。たまたまあの順番に読んだが、本当は違う可能性もある。読むときにわざわざ出版時期を見てはいない。では彼女は何故読んだ順番が分かったのだろうか。偶然とは言えない程の偶然に寒気がした。さっきまで充てられた外の風では無く、なんだかゾッと体の中から鳥肌が立つようなそんな寒気が。今日は時間が十分にある。何ならもう一度古本屋に戻ってタイトルを聞こうか、うん、そうしよう。
またOPENの札の前にたどり着く。カチャンとさっき聞いた音をまた聞く。何度聞いても嫌にならない自然の音みたいだ。機械が動くあの音とは違う自然で聞くような音。彼女は二度も自分が来るとは思っていなかったらしく、
「あら、お帰りなさい。どうかしました?」と初めてカウンター以外の場所から彼女の声を聞いた。彼女が立っている姿すら初めて見た。おそらく女性の平均くらいの高さ。でもなぜかこんなにちっちゃかったのかと驚いた。自分は身長が彼女の10センチほどは高い。
「あの、5作目のタイトルって何ですか?今までタイトルなんて気にしていないで読んでたんです。1作目は書店の店員さんが持ってきてくれて、2,3,4作目はここで買ってそのまま上から読んだだけで、タイトルが違うことを気にしていなかったんです。だから5作目のタイトルも分からないし、今まで榎本さんが自分の読んだ本を分かった理由が分からないんです。変なこと言ってごめんなさい。」絶対理解できない質問だ。でも彼女の言葉は聡明だった。
「5作目は『変な噂についての最後』というタイトルです。表紙は全体的に暗いものです。このシリーズって時系列がバラバラじゃないですか、どの順番に読んでも別にさほど影響ないんです。あと、読者の全員が気づくか分からないことですけど本来の順番にするとタイトルがしりとりになってるんです。面白いですよ。それで、なんで私が明さんの読んでる本が分かったかっていうのは、おそらくで喋っていたからです。私は明さんの感想に相槌かオウム返しでしか答えていません。言い方は悪くなりますけど、明さんはうんうん言っていた私に気付かなかったんです。そういうことなんです。どんな順番で読んでも良いんですが、本来の順番で読んでもらうのが一番良いです。明さんは今その理想通りに読めていますよ。2,3,4作をよく間違えずに読めていて驚きましたよ。偶然が重なり合っていたんでしょうね。」そんなこと本当にあるのか、と思ったが、思い返せば彼女からこの本の感想を詳しく聞いたことは一度も無い。まんまと彼女に騙されていた。騙されていた?騙していたわけではないのか、どういう考えなのか自分には分からなかった。
「そんな本なんてあるんですか。」
「ここにあります。」そう言って彼女が買ったであろう見たことのある本を出してきた。不思議体験をしたみたいだ。本当なんだもんなあ、不思議なことに。
「じゃあ、5作目、『変な噂についての最後』、ですよね。買ってきます。」
「行ってらっしゃい。」彼女は笑顔でそう言い、作業を再開してしまった。自分はまたさっきの書店に行く。確かに彼女の言っていたタイトルの本があった。本当にあるものなんだな、そう思いながら会計に行く。会計が終わり家に帰る。今日買ったものを含めて全てのタイトルを見る。1作目「奴とふたりの独りごと」、2作目「とあるあの子は自由な猫か」、3作目「悲しみに染まる悪巧み」、4作目「未知なるあなたへ」本当だった。本当にしりとりになっている。作者の頭の中を覗きたい。そう思いながら5作目を読み始める。
5作目の今回は1作目の後のこと。神谷はまだ警察官だった。1作目で警察官だと分からなかったのは2,3作目の伏線だったのだろうか。ただ不要な情報だったのか。なんて考えながら読み進める。今回の本題は佐々木のことだった。探偵になって4年、ずっと佐々木のことを探っていたが、何せ探偵になったばかりの新人。そのことに専念出来るわけもなく、他の依頼で収入を稼がなければならない。これまで様々な事件に巻き込まれた白銀にはもうどんな依頼でもこなせるのではと思ったが、白銀は違った。もうこんなに事件に巻き込まれたくは無い。なぜならばそれらによって佐々木のことを後回しにしなければならなくなってしまうからだ。そんなことを読んだらそれはもちろん佐々木のことに時間を作ってほしいと自分は思った。そんな中、今まではなかった指名での依頼が入る。一体何なんだと白銀は不安に思ったが、依頼人の名前を聞いてハッとする。「佐々木緋良々」あの時姿を消した佐々木の名前だった。珍しい名前は白金の頭の中にずっと残っていた。どうやってここにいることを知ったのだろうか、何を依頼したのか。疑問は色々出てきたが、白銀には引き受ける以外選択肢はなかった。依頼は会った日に伝えるということらしい。そして佐々木と会う日、前もって指定された喫茶店で佐々木を待つ。どんな顔をしてやってくるのだろうか、今佐々木は何をしているのか、今までにない緊張をしていた。そしてやってきた佐々木はあの時とさほど変わらない顔で白銀に気づいて目が合うと、あのいつもの笑顔を見せて近寄ってきた。あの頃の白銀の気持ちなんて考えてもいないように。「ごめんね、待たせて。ちょっと出るときに色々あって。」そして佐々木は白銀の目の前の席に座った。白銀は色々聞きたい気持ちを一度抑えて今回の依頼について聞いた。「それで、何の依頼?」すると、佐々木は一瞬顔を強張らせたのち、真顔で話し始めた。「実は、依頼じゃなくて、白銀に会いに問い合わせたんだ。高校の時、一方的に居なくなってしまってそれから白銀が俺のことを探しているって人伝に聞いて、白銀を見つけるのにこんなに時間が経ってしまって申し訳ないけど、謝りたかった。」なんだよそれ。一方的に居なくなったことを謝る?そんなのもうどうでもいいよ。「もういいよ、そんなこと。それより何で急に居なくなったんだよ。あの日、探偵業務をしようってなった日、隣にいたのにいきなり消えただろ。あれは何だったんだ?」そう聞くと佐々木は考え始めた。思い出そうとしているのだろうか、あんな日を忘れているのか?「ごめん、そんな日あったか?いつだ?そもそも俺がやっていること自体探偵でも何でも無いって言ったのは白銀じゃないか。」え?確かに白銀も読者の自分も佐々木のやっていることは探偵と言えるのかとは思った。でも佐々木は白銀に探偵のことを色々教えていたじゃないか、そしてあの日は確かに白銀の初めてとなる探偵業務の日だった。「白銀からそう言われてからめっきりしなくなったの覚えてないのか?一緒にいたじゃないか。細かい日は覚えていない?俺が学校休み始めたのは高2の時の6月14日。よく覚えてる。白銀に何も言わずに休み始めたからな。罪悪感で覚えてる。毎年その日が近くなると白銀のことを思い出してたよ。今どうしてるかなって。ずっと会いたかった。」4作目、白銀は佐々木の探偵業務を傍で見ていたはずだ。そう書かれていた。だが、もしそれが白銀の主観の妄想の範囲だったら?白銀は思い出していた。佐々木が忽然と消えた日、あの日は何月何日だったか、6月14日ならば梅雨時なはずだ。でも雨は降っていなかった。少しムシッとしていた日だった。薄着で過ごせる日だった。スマホで4年前の6月14日の天気を調べる。すぐに調べられる環境になって良かったと思う。雨と曇りに挟まれた晴れの日だった。この日だ。「6月14日だ。」白銀がそう言う。「その日はもう俺はいなかった。」佐々木から言われた言葉に恐ろしくなった。あの日の佐々木は白銀が作り出した虚像の佐々木だったということか。それだと忽然と消えた理由も納得は出来る。だが、それでも納得できないことがある。何故いきなりいなくなる必要があったのか。それが一番の疑問だ。「何でいなくなったんだ?何か一言でも残してくれなかったんだ?」「それはごめん、いきなりで俺も困惑していたんだ。」「そうだったのか、そうだよな、無理なこともあるよな。こっちこそごめん。それで、いなくなった理由は教えてくれないのか?」「そうだね、それを今から話そう。」佐々木は過去にあったことを一つずつ話してくれた。両親のこと、そのあと養護施設に行ったこと、そして両親の死について調べているうちにとある人に辿り着き、自殺ではなくそう仕向けられていたのではと考えたこと、調べるうちに身の危険を感じて学校を中退したこと、中退と言っても通信制に転校して高校は卒業出来たこと、そして今までその人から逃げるために色々なところを回っていること。沢山聞きすぎて脳が疲れてしまう。それほどの過酷な経験を佐々木はしてきたということだ。佐々木は白銀に助けを求めるためにこの話をしたわけではない。しかし白銀は助けになりたいと言い出した。佐々木はもちろん断る。でも白銀は引き下がらなかった。今の白銀には後ろに警察もいる。保護をすることだって出来る。今までの力を総動員して佐々木を守ることが出来ると信じていた。だから提案したのだ。それでも佐々木は断った。白銀は頼み込んだ。お願いだから頼ってくれと。最悪の想像だった佐々木の自殺が本当になっていないことに安堵したが、それと同時にこれからの危惧をした。いつ死んでも殺されてもおかしくない状況に置かれている人をみすみす逃すわけにはいかない。佐々木なら尚更そうだ。4年越しに出会えたのに次会うのが葬儀場なんて冗談あってほしくない。必死に頼み込み、無理のない範囲でならということになった。しかし白銀は当たり前にそんなことは聞かない。佐々木にとって命の危機になるようなことがあれば飛んで行くだろう。ここからは白銀と佐々木、そして神谷も加わって事件の解決に向かうことになった。今佐々木は別の県にいるため、神谷の管轄内にいない。とりあえず白銀と一緒に住むという名目で住所を変更、荷物も届いてしっかり住めるようになったところで警察に保護をしてもらいつつ捜査を進めた。佐々木の両親の死の真相に関わっているであろう人間、佐々木が逃げている人間、その名は長谷部という男らしい。佐々木の両親の遺品を整理しているうちにこの名を知ったらしい。でもそれは偽名の可能性が十分ある。前科のある長谷部という男が推理上の有力人物に挙がった。佐々木はその人物の名前と存在だけしか分かっていない状態で逃げ回っていたため、顔が分からない。よくそれで今まで耐えられたなと思う。前科を持つ人間が危険であることに変わりはないが、この長谷部は窃盗という罪のみだった。それなら佐々木は逃げるほどではない。相手は殺人を平気で出来る人間なのだ。それが自分の手を使っているのか、何か他の力を使っているのか分からないことが多すぎる。白銀は佐々木よりも危険が少ない。周りを探れるのは白銀が頼りになる。白銀は長谷部のことを調査し始めた。しかし結果は白だった。この長谷部は出所したのが7年前。それからは全く悪いことに手を出さず、家庭を築いていた。しっかり更生していた。良いことではあるが、また振り出しに戻る。そして次に挙がったのが3作目に出てきた裏社会の組織である。自分の読んでいる順番的には現時点でその組織は壊れて無くなっている。しかし末端までも捕まえられているとは限らない。警察が入った現場にいた人間のみしか捕まえられていない。ただ、そこにいた者は一人残らず捕まえているため、考えられるのは単独行動をしている人がいた場合だ。神谷は警察が見つけた組織のアジトの全ての場所を教えてくれた。白銀はその場所を一つずつ見て回った。そしてある場所に人がいたのだ。その場所は以前警察が初めに入って誰もいなかった場所。犯人は現場に戻ってくるというものか。それが本当ならこいつが犯人ということで事件は解決する。神谷にそのことを告げ、警察に入ってもらった。以前ここが犯罪の場所として使われていたからパトロールで来た、と称して。そしてそこにいたのは藤田と名乗る男だった。警察が職務質問したところ名前を偽っている形跡はなかった。しかし万が一のことを考え、署まで来てもらい、事情聴取してもらうことになった。藤田は抵抗せずパトカーに乗って署まで来てくれた。そしてなぜあそこにいたのか尋ねると人を待っていたと言う。それが何者かは藤田自身も分からないという。初めて会う人だったそうだ。犯罪の匂いがする。それから藤田に佐々木の両親のことを尋ねた。知らなければ知らないと言うはずだが、知っていたら動揺なりするはずだ。しかし藤田はあっけなく知らないと言った。これは誰が見ても本当に知らない時の反応だった。この人も白だった。しかし会おうとしていた人のことを聞くと思わぬ情報を得られた。会う人の名前は渡。渡はおそらく偽名。渡は裏社会の何でも屋と言われているそうだ。窃盗、薬、更には殺人までもやってしまうという噂らしい。あくまで噂止まり。藤田は借金に追い込まれ闇バイトに手を出してあの場所に呼び出されたところ、渡に会う前に警察に見つかったということらしい。藤田が抵抗しなかったのは闇バイトに手を出したことの後悔と渡に会う前に警察に捕まった方が良いと判断したからだそう。藤田の判断は藤田自身の最善の答えだった。白銀は次に渡という者について調べ始めることにした。そんなとき、佐々木が口を開いた。「渡という文字をどこかで見た」と。もし渡という奴が長谷部と関係しているか、佐々木の両親の死に関係していたら事件は急速に真相に近づく。しかし致命的なことがあったのだ。佐々木の以前住んでいた部屋、佐々木の母が首をつって死んだ部屋は事件当時荒らされており、金目のものは無くなっていなかったことも考え、当時の警察の見解は佐々木の母の精神が崩壊して死ぬ前に自ら部屋を荒らしたとされていたが、佐々木は誰かに殺された後か前に部屋を荒らされて何か証拠になる物を持ち去ったと考えていた。佐々木の父は警察官だった。母も警察関係の職場に勤めていて犯罪を近くで見ている夫婦だった。母は結婚を機に仕事を辞めたが、父の仕事をよく手伝っていたらしい。その父の手帳が無くなっていたのだ。手帳は父の手元にあると判断されて家の中にないことに触れられていなかった。警察手帳も無かったからだ。そして父が亡くなった交通事故現場で手帳は見つかった。しかし最後に何か書かれていたであろうページが破られていた。誰が破ったかはその状況では分からない。その破られたページにはおそらく長谷部に繋がる何かが書かれていたのだろうと佐々木は考えている。この両親の事件がうまく関連付けられていないのは父が亡くなった場所が別の県だったからだ。警察は管轄が決まっていることが欠点だ。管轄を出れば協力するために再度報告したりと面倒くさいこともある。その現場には警察手帳も身分を証明するものも無かった。それで身元が分からないまま捜査が始まったのだ。佐々木の父はひょっとして長谷部と会っていたのではないだろうかと白銀は考えた。その場に長谷部がいれば色々合点がいく。しかし当時の鑑識の捜査では佐々木の父以外のものは何もないとされ、一人で乗っていたと考えられている。そこを覆すのは難しい。佐々木の見た渡と言う文字は何処で見たのだろうか、佐々木に思い出してもらっている間に白銀は佐々木の両親の事件を再度振り返っていた。すると重要なことに気付く。裏社会の組織は隣の県も跨いでいる。3作目で白銀は気づいていないというかおそらく知っていなかったのだろう。組織のアジトはいま白銀のいる県の隣の県にもあったのだ。警察の管轄のことを悪く言っていたのに県境をすっかり忘れていた。ちょうど県を跨いですぐのところに一つのアジトがある。もちろん警察が協力して入った場所だが、白銀は気になった。それが佐々木の父の亡くなった県だったからだ。そうこうしているうちに佐々木が思い出してくれた。佐々木の母の文字で書かれたメモ帳だったと。それが遺品の中にあり、長谷部と言う名も渡と言う文字も見ていたそうだ。佐々木にそのメモ帳を持ってきてもらう。佐々木の母の文字はとても読みやすく綺麗だった。そしてそのメモ帳はおそらく何でも書いていたものだったようで、買い物のメモだったり、ペンの試し書きだったりと全く事件とは関係ない物のようだった。しかしそれは急に現れた。長谷部と渡の文字。同時に数名の名前も書かれていた。これは佐々木の母がわざと残してもらえるように買い物のメモや試し書きをしたのだろうか、もうその真相は分からないが、佐々木に残してくれた最後の抗いのように感じた。心が苦しくなった。そんな中で次は神谷が声を出す。「この長谷部と渡の下の3人、あの組織で捕まえた奴だよ、間違っていなければ。」そこが繋がるのか。ますます組織と長谷部と渡の関係か濃くなっていく。確認のため、警察で資料を見ると、神谷の言う通り下に書かれた3人はあの事件で逮捕されていた。おそらくは下層帯の方に属していたのだろう、あっさりと捕まってしまうほどの危機感の無い人の中にいた。長谷部と渡の存在はどのくらいの地位なのだろうか、それを一番知っているであろう人はあの人だ。組織のトップだったツクモ。今どうなっているか分からないがきっと独房の中だろう。裁判も終わり刑務所にいたツクモは以前見たときの圧はすっかり消え、ずっと下を向いていた。一人のか弱そうな女性だった。そして長谷部と渡、そして佐々木の両親について聞く。ツクモは名前を聞いた途端ハッと顔を上げ、目が合ったかと思うと酷く怯えたような表情をした。一体誰に怯えているのか一人ずつ聞いていった。まず佐々木の両親。ツクモは知らなかった。そして長谷部。ツクモはそれが渡の別名と言った。渡と長谷部は同一人物だった。よく使われている名前は渡の方らしい。ツクモの予想では渡は裏社会での偽名で、長谷部が本名だと考えているそう。渡と言う名前はほぼ聞いたことが無い。そうなるとおそらく佐々木の両親は長谷部と渡が同一人物と知る前に、と言うより渡と言う言葉が名前だとも気づいていなかったまま殺されたのだ。もうはっきりと殺されたと判断した。もうそう判断するしか無かった。それはツクモも同じ意見だった。ツクモは組織のトップになる前に孤児だったそうで、居場所がなく、住む場所もたらい回しにされて心が荒れていた時、渡が声をかけてきたと言う。そうしてツクモは裏社会に入ってしまった。しかしその世界に女は少ない。女だからと特別扱いされたくない思いで力をつけるために渡に相談したとき、人を殺せるようになりなさいと言われたんだとか。そう言われてツクモが連れていかれたのが殺害現場だった。当時の少女にはショッキングな現場だ。そんな事当たり前のことだ。しかし渡はそんなこと考えもつかなかったのか、ツクモにいきなり人を殺させた。バイト感覚じゃないんだからとか思ってしまうほどフィクションすぎた。それがツクモに精神的ストレスを与え、トラウマと化してしまった。おかげで渡と言う名を聞くだけでトラウマが蘇り酷く怯えるようになったそうだ。そんな中、渡がいきなりツクモを組織のトップにした。もちろんツクモには渡に居場所を提供してくれた恩とトラウマで拒否権などなかった。あの組織にはトップの上に渡と言うボスがいたのだ。おそらく渡は組織と絡んでいるが、組織の中の人間じゃない。ツクモはトラウマから解放されることは無く、人を消すとかそういった行為は出来ないまま組織の仲間にやらせていた、という訳だ。ツクモもかなり過酷な生い立ちだ。彼女もまた被害者だった。すべての元凶である渡を早く捕まえなければならない。白銀はそう思ったが、相手は何でも屋。何でもこなせて証拠を残さない。捕まえるのは至難の業だ。おそらく警察の動きにも敏感だろう。さてどうするべきか。白銀と佐々木は様々な方法を考えた挙句、ある危険なことを思いつく。今危険に晒されている佐々木が標的にされるということだ。白銀は困った。これが失敗したら佐々木の命は無い。標的にされると言ってもそれがどんな殺され方をされるか分からなければどうしようもない。否定されたが、もうこれ以外に思いつかなかった。白銀は幼いころから武道の習い事で護身術を教わっていた経験があった。それを踏まえて佐々木の代わりに白銀が現場に行く。それで落ち着き、行動に移す。まずは殺される準備をしなければならない。自分で自分を殺さなければいけない。何と残酷なこと。ただなぜか上手くいって渡が動き始める。そして渡の正体が明るみになる。と言っても警察はその姿に見覚えが無かった。この人物は果たして本当に渡なのか、それは現れた人物を捕まえた時に分かることになる。捕まえた人に気を取られている間に別の場所から音がした。白銀は音がした方へ極力音を出さずに近付いていく。少し離れた太い柱に隠れている人物がいたのだ。別の角度からの反射で見ることが出来た。この相手が十中八九、渡である。どこからか警察も付いていることを考えたのだろう。さすがの白銀も一人で渡を相手にすることは怖い。もう一人誰かがこちらに気付いてくれれば良いのだが、誰も別の方に目をやれない。白銀は覚悟した。一人でこの人物と戦うと。そしていざ白銀が対面した。渡の方も来ることを想定していたのだろう、手には拳銃を持っていた。白銀は果敢に飛びかかり、運よく渡の放った1発の銃声は向こう側の柱に当たって被害者を出すことなく、白銀が渡から拳銃を放すことに成功。しかしそれでは終わらなかった。渡はいくつの可能性を考えて行動しているのだろうかと感心するくらい先のことを読んでいる。そして渡が次に出してきたのはナイフだった。それでもこの時の白銀は火事場の馬鹿力並みの頭の回転で渡の動きを止めることに成功した。神谷が拳銃の音でこちらに気づいて来てくれたのでそのまま渡を現行犯で逮捕した。渡が連れていかれるのを見届けた後、腕に痛みを感じた。あの時はアドレナリンが出まくっていたのか気づかなかったが、渡がナイフで腕に切り傷をつけていた。傷にいち早く佐々木が気付いてくれて応急処置までしてくれた。そして佐々木が病院まで連れて行ってくれた。絶対渡の方に行きたいはずなのに、と白銀は申し訳なさを感じていたが、きっとこれは佐々木のお礼とせめてもの謝罪の意味があるのだろう。病院での手当終了後、急いで警察署に向かった。逮捕した2人の聴取をまだ取っているところだった。最初に捕まえた人物はあの組織のはぐれものだった。警察が一斉に検挙したときに運よく単独で行動していた一番下の地位であろう人だった。そして逮捕した二人目、渡であろう人物は決して声を出さなかった。名前に反応も動揺すらしない。流石何でも屋。こんな騙しは利かない。しかし最初の人物がこの渡であろう人からやれと言われてあの場所に来ていたそうだ。逆らえば殺される、そんな脅しだったのだろう。彼は正直に全てを話してくれたことにより、銃刀法違反、殺人未遂で逮捕されたが、渡であろう人は一切口を開かないため何も聞き出せなかった。銃刀法違反、傷害は現行犯で罪になるが、それ以外の話が出来ていないため、刑が軽くなってしまう。白銀は聴取に入れてもらうことにした。本来ならあり得ないことだが、ここはフィクションの世界。あり得ることだ。そして白銀は佐々木の両親について話し始めた。渡は名前には反応しなかったものの、亡くなり方を話し始めると少し変化が出てきた。二人の死に方に何か質問でもあるか、と聞くも喋らない。「女性の亡くなった部屋から長谷部、渡、その他3人の名前が書かれたメモが出てきたんです。」そういうと彼は顔を上げた。不気味な微笑みを浮かべていた。「あなたはこの名前をご存じではありませんか?」と聞くも何も喋らずさっきより大きな笑いを顔に出してこちらを嘲笑うかのようだった。ここからは時間の問題になる。期限内に彼が渡である証拠を集めなければならない。佐々木と情報を集めて聴取を白銀と神谷がする。毎回同じような聴取するため双方疲れが見え始める。白銀はそれを狙っていた。亡くなった佐々木の両親の顔写真を見せる。彼は写真をじっと見つめた後、フッと鼻で笑った。「この人物は知っていますか?」そこで初めて彼が口を開いた。「知ってますよ。と言うか覚えてます。この人警察官でしょ。以前この男に職質されたことあるんですよ。職質は結構されるので大抵の警察官は忘れますけど、彼はなんか特別おかしいことを聞いてきたんですよ。その時身分証がなかったのでそう伝えると、いきなり渡と言う人を知ってますか、なんて言われて。知りません、と答えたら次は長谷部と言う人は、って関係ないことまで聞かれて。それ関係ありますか?って言ったんですよ。もちろんその警察官の勝手な質問だったんでしょうね、簡単に引き下がってくれました。でもね、まあその時警察手帳みせてもらって顔も名前も覚えちゃってたんですよ。運が悪かったですね、その方も。ご愁傷さまです。」終始笑った顔の彼に恐怖を感じた。きっとこの男は自分に罪の意識が無い。「この前逮捕されたツクモと言う女を知っていますか?」「ああ、彼女ですか。最近見ないと思ってたらそんなことだったのか。おかげで組織のはぐれものたちがやり場をなくして可哀想ですよ。彼女は身寄りがなくてね、頭は良いのにそれを発揮出来ていなかった。名前も私が付けました。新しい人生をスタートさせてあげるために。そして組織をまとめる立場になってもらったんです。彼女が自分の手で誰かを殺すことがないように。」「彼女があなたの行動にトラウマを持っていたことを知っていたんですか?それなのにトップにさせたんですか?」「ええそうです。そうしないと彼女はすぐに抹殺されるかおもちゃにでもされてたんじゃないですか?だからあの時の彼女が今後生き抜くにはそれが最適な方法だったので。その何が悪いんですか?彼女に生きる道を与えたんですよ。優しいでしょ。」彼は異常者だ。サイコパスと言う名では収まらない極悪人だ。「今の話は本当のことですね?」白銀が聞くと彼は言った。「はい、そうですよ。」なぜ彼はここにきて自供したのだろうか。そんな中裏で警察が渡と思われる人物の戸籍を特定していた。浮上したのは長谷部藍。前科はないが警察の職質でよく話が挙がる人物だったそうだ。職質の際の彼はとてもフレンドリーで決して悪いことをしているようには見えなかったと職質した警察官は言っていたそう。裏社会の何でも屋と言われるほどだから話術に長けているのだろう。しかしこの彼の発言で殺人をほのめかす言動をしたのは事実だ。白銀は質問を続ける。「なぜ今日になって話をし始めたんですか。」「この写真を見て思い出したからですよ、彼のことを。確か彼にはあなたと同じくらいのお子さんがいたそうで、さぞ辛かったでしょうね。」「彼の家を知っていますか?」なんとなく白銀が聞いた質問は意外な答えを出してきた。「ええ、知ってますよ。何せその自宅、私の家でもあるので。彼らの上の階に住んでます。今は住んでいないようですがね。」「そんな偶然あり得ますか?」「あり得てしまったんですよ。残念ながら。本当に不運な家族だ。私の目に入ったばっかりに。そういえば、あなたに似た人も一度見たことありますよ。あれはあなただったんでしょうか。あの時は制服着てたから高校生とかだったのかな?管理人室でなんか色々聞いていたでしょ。」高校時代のあの日のことを言っているのだろう。どこで見ていたのか、白銀は思い当たらなかった。しかしあの時白銀は佐々木のことで一杯一杯になってしまって視界が狭くなっていた。もしかしたらあのマンションの玄関ホールで遭遇していたのかもしれない。途端に怖くなった。もうあれから高校卒業、大学卒業、更に探偵を仕事にして、高校から数えると計10年ほども経っている。ただの高校生をそんなに覚えていると言うのか。しかも夫婦ではなく家族と言った。それは佐々木が今後も標的にされる危険があるということのようだ。未だに捕まっていない組織仲間もいる。でもその仲間は渡のように頭が働くような人ではないだろう。渡のような人間は残っていないはず。渡が逮捕されれば残りの人たちは自ずと散らばるはずだ。再度犯罪を起こせば、その時はきっと警察が捕まえてくれるだろう。渡が殺人教唆の罪で裁かれれば刑はほぼ殺人と同等だ。また、他の殺人にも関わっていると分かれば更に刑は重くなる。一先ず佐々木の一番恐れていた人物は無事檻の中に入れられる。一件落着と言いたいところだが、まだ油断も隙も無い。白銀と佐々木は共同生活を始めることとなり、佐々木も白銀と同じ探偵業に就くこととなった。ひとまずは佐々木の単独行動はしない方が良いので白銀とペアで依頼をこなすこととなった。そして5作目は終了した。
長谷部はまだ何か隠しているような意味深な終わり方をした。果たしてこれは彼女が言っていたように完結していると言えるのか。ともかくとてつもなく怖い。ゾワゾワ感。実際起きている殺人事件でもそう思うことがある。そんな殺人犯がどんな思考をしているのか考えたくもない。でも無事捕まえられることになって良かった。佐々木は10年も前からずっと気を張っていたということになるし、少しは気を落ち着かせることが出来ることだろう。今後佐々木が辛いことに巻き込まれないように願うばかりだ。もちろんそれは白銀も同様だ。
4作目、佐々木は不思議な人間だった。思えば佐々木は特定の人物と長い間一緒にいることはなかった。かと言っていつも一人で教室にポツンといるわけでも無く、広く浅くの交友関係を持つ人間だった。白銀は性格上の理由で交友関係が狭く深くなタイプだった。相反する性格が彼らを惹き付けたのか、彼らが共にする学生生活は短くもとても有意義なものに感じた。だからこそこの5作目は白銀にとって大切な物語になったことだろう。それが白銀の一方的な思いだったとしても、佐々木に対する気持ちは白銀にとって新しい気持ちだったはずだ。自分のことを裏で何か言う訳でもなく、気を遣われていることもなく、素直な感情を受け止めてくれた佐々木は白銀にとって信頼のできる限られた友達だった。そんな友達が急にいなくなってしまった白銀の気持ちを自分が慮ることは出来ない。これまで自分に信頼の出来る友達などいたことが無い。いつも周りのことを考えて動き、考えて行動していつも家に帰ってから気を抜くまでずっと気を張り詰めていた。家に帰るといつもドッと疲れていた。白銀にとっての佐々木のような人物が欲しかった。どこにいてもいつも友達の友達のような、そんな感覚だった。社会に出れば自分から行動しないと交友関係が広がることは無い。学校のように毎日同じ人40人ほどと同じ教室に入って過ごすことは限りなく無いに等しい。今自分が勤めている会社の人数も20人強だ。その中でも毎日会話をしているのは極わずか。それも仕事の内容ばかりでプライベートでも仲が良い人はほぼいない。同期とたまに飲みに行ったりするくらいの関係だ。歓迎会などを会社で開いてくれたりするが、自分は得意では無い。場に馴染めないことがとても多い。どこにいればいいか分からない。それがしんどい。飲み会にずっといるよりは仕事をした方がよっぽど楽だ。デザイナーになったことでこれからまた新しい忙しさが増える。それが自分にどう影響するのか、今は分からないが、白銀のように自分のやりたいことを真っ直ぐ思い続けることの出来るやりがいを見つけよう。それが自分の仕事への思いを強くする方法かもしれない。
そして話はまた仕事に戻る。新しいデザイナーとしての案件をもらった。今度はとある会社のホームページ。言えばウェブサイト開発。商品広告は一枚の大きな画像としてデザインできるが、ホームページにはプログラムの作業が入る。様々なページを作らなければならない。今回も夏目さんがついてくれて、前はしなかった依頼者との初対面ミーティングから教えていただいた。どういうイメージがあるか、どんな雰囲気にしたいか、どんなページが必要か、などを夏目さんが聞いていく。それを自分はメモしていく。これを本来は一人でしなければならない。最初から慣れるまではどなたかが付いてくれるらしい。基本的な質問を終え、今回の依頼の初ミーティングが終了した。本来プログラム作業の部分は別の会社に依頼したり、業務委託を契約している人などに任せてデザインに専念する方が多いらしいく、今回もプログラム作業は終わった段階のものから始まった。とは言え広告とは明らかに異なる作業が入る。同期の瀬川が付いてくれて、基本の作業を一通り教えてもらいながら操作をやっていった。自分はデザインには興味はあったものの、機械系がとことん駄目で学生時代ずっと苦戦していた。今回も瀬川に教えてもらいながらも難しさを感じ、投げ出したい気持ちにもなったが、瀬川はそんな自分にも優しく教えてくれた。そうやって作業をしていると、夏目さんが話しかけてきた。
「どう?うまくいってる?」声のする方に顔をやった時、時計が視界に入った。いつの間にかいつもの休憩時間に入っていた。この会社は休憩時間の決まりは無い。自分で決めて良いが、基本的には13時から30分、16時に30分と分けて取る人が多い。1時間一気に取る人もいるが、きっと代々そんな感じで継がれているのだろう。自分もみんなに合わせるようにそうしている。理由なんて考えたことも無い。いつものことになっているから。それに指導されている身になれば指導者に合わせる他無い。
「あ、休憩ですね、すみません。全然思うようにならなくて。難しいです。」
「一回休憩でスッキリさせてからまた再開しなさい。瀬川さんもありがとうね、私が教えられたらいいんだけど、あいにく今案件が立て込んでて教えてあげられなくて。」夏目さんはそう言って外に出ていった。瀬川は外に休憩しに行くようで、すぐに別れた。休憩の間も今回の案件のことが頭から離れなかった。スッキリさせたいのに頭の中に居座ってやがる。何か別のことでも考えて気を逸らそう。その時ふと出てきたのは以前聴いていた楽曲だった。もう何年前になるだろうか、ふと頭に流れてきた。なんとなく気になってスマホで調べる。この会社はかなり自由で、音楽を聴きながら仕事をしている人もいる。調べてみると、いつの間にか解散してしまっていて、個々人で活動していた。あの時の曲は消えずにまだ残っている。久しぶりに聴くと、聴いていた日々の頃を思い出した。高校に行く通学路が目に浮かんできた。あの頃は自分がこんな職に就くなんて考えていなかった。早く大人になりたいと思うばかりで現実を想像していなかった。幸いなことに後悔するほどの嫌な道は通っていない。周りの人のおかげもあるだろうが、自分もその時その時で良いと思う道を選んできた。様々なことが巡り巡って今の自分がいる。後悔のない人生を今は歩いて行けていると思う。これからも道を踏み外すことがないように頑張りたい。そして休憩が終わって、また新しい励みを頼りに、作業に戻った。夏目さんが作った期限内に瀬川の力を存分に使わせてもらって何とか一先ずの物を作り、夏目さんに見てもらった。今回は初めてということもあり多めに見てくれた。「まあまあの出来だね」と言われて夏目さんから変えたほうが良いところを教えてもらい、夏目さんが変えていくのを見ながら操作を覚えた。また新しくデザインを変えていく。その期限をまた設けてもらい、その期限までに自分なりの案を作った。これに関しては何案も出すことが出来ないため、トップページの案をいくつか作り、それぞれプリントアウトして残しておき、自分の中で良いと思うもので他のページのレイアウトなどを作っていった。そして期限のギリギリに夏目さんに見てもらい、アドバイスをもらった。トップページについては夏目さんの意見は別のものの方が良いということだった。しかし依頼者の意見はどれか分からないからそのままにしておくことになった。他のページのレイアウトはかなり良い反応だった。このまま依頼者に見てもらい、反応を窺うこととなった。ミーティングまでの間、また新しい広告のデザインを同時並行で作ることになった。多い時は3つ4つの案件を同時並行でしなければならない時もあるそう。その代わりではあるが期限はそれだけ長くなっている。そして修正ミーティングの日。最初の時にいなかった方も連れて二人でいらっしゃった。一人は以前来た方、もう一人はその会社の社長だそう。会社の顔ともなるため、社長直々に見たいとのことだった。自分は予想外のことに冷や汗が出そうだった。臨機応変を身に付けなければ、と思ったが、このことを夏目さんは知っていたようで、自分には隠されていたのだ。新人の教育中だということも了承してくださっていたそう。このことを相手の社長から聞き、ほっと詰まっていた息が出てしまった。ため息のように出てしまった息にすぐ「申し訳ありません」と言うと、相手の社長と以前来た方、そして夏目さんまでもが笑った。誰も怒らないでいてくれて心底良かった。救われた。そしてミーティングに入る。ここでかなり大幅な修正が入ったものの、相手の社長からデザインに関しては褒めてもらえたところもあった。今後もそこは残してほしいとまで言ってもらえたことに嬉しくなった。ミーティング後、夏目さんに修正をいつまでに提出、と期限を設けられ、修正作業に入ることになった。今回の期限がかなり早く、詰め詰めで作業をしていたが、結局期限ギリギリになった。自分でも分かってはいたが、見てもらうも良い反応はもらえなかった。どこが駄目で、どこが良いか、徹底的に教えてもらい、その中に自分なりの要素を入れなさいと言われた。そして次のミーティングの日が迫る中、何度も見せに行っては突き返されてを繰り返し、なんとなくではあるが、コツというかどこに重点を置くかが分かってきた気がした。これが今回だけに適用されることかもしれないが、それを頼りに作り上げた。そしてやっと夏目さんの許可が下りた。その時の嬉しさというか、達成感は初めて感じたものだった。そして次のミーティングの日、この日もまた社長が同行していた。作ったものを提案すると、以前より高評価を得られた。しかし今回も駄目だった。万人に受け入れてもらえるものは作れない。しかし依頼者の満足するものは作れるはずだ。どこが駄目かまた様々なところを聞いて「次回のミーティングが最後だと嬉しいです」と言われた。これはまあ、次で終わらせろよという圧がかかっている。もちろんそれがどっちの会社も良いことに決まっている。だからできるだけ早く作り上げて夏目さんも納得のいくものを作った。今回は夏目さんもどこが駄目かどう変えればいいか悩んでいた。そんな中で自分が勝手に変更してみたものを夏目さんに見てもらった。すると、夏目さんも靄が消えたように「これか!」と納得してくれた。そしてまたミーティングの日。これが最後と意気込んで案を出す。しかし社長は気に食わなそうな反応をした。会議中に変更しながら作り上げ、やっと納得の表情をしてくれた。予定していた時間よりかかってしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、「これでいきましょう!」と言ってくれた時はもう安堵で心から息を吐きたくなった。でも今は会議中。依頼者の前のため、その会議が終わるまでは耐え続けた。やっと納得してくれるものを作れた。出来上がるまでものすごく長い時間のように感じたが、かかったのは3週間だった。その間に同時並行していた広告デザインも残すところ修正の修正を提案する日を待つまでとなった。ちょうど週終わりになったので古本屋に行くことにした。デザイナーとしての2,3回目の案件がもうそろそろ終わることで張りつめていた緊張からも解放されて金曜日の夜は古本屋に寄ることなく、家に帰ってそのまま寝てしまった。でも今までの疲れとは違う、やりがいのあった仕事の疲れで気持ちは最高に良かった。
土曜日の朝、目が覚めたのは10時。今日は古本屋に行く。今日の天気は晴れ。カーテンを開けて目に入る光が絶好の散歩日和を思い込ませた。お風呂に入り、食事を終わらせ、出発する。家のドアを開けた途端強い風が吹いてきて開いたドアを閉められた。天気は綺麗な晴れなのに風がとてつもなく寒い。ネックウォーマーをしていたがこれでは埒が明かない。分厚いマフラーに変更して強い力でドアを開ける。今度は風が弱かった。読めない空気に「はあ?」と言いたくなって口を開けたところで息を出すのは堪えられた。今日は古本屋は開いているだろうか。開いていることを願ってもうすぐ覚えそうな道を歩く。風ももう強くない。冬の乾いた日の光に照らされて鼻歌を歌いながら歩いていた。この曲はこの前久しぶりに聞いた曲。思い出してからずっと頭の中にいる。何曲もプレイリストを作って繰り返し聴いていたのに何も見ずに思い出すのはこの一曲のみ。聴けば歌えるほどに思い出すのに頭の中で自ら出ようとはしてこない。この曲だけは自ら出てきてあの頃を思い出させる。いつの間にか古本屋の前に来た。扉にかけられた札は残念ながらCLOSEDだった。ちょっと落ち込み、肩を落とす。また今来た道を戻ろうとした時、上から声が降ってきた。「明さん?」彼女の声だった。一瞬幻聴かと思った。そういえば彼女の家は知らない。もしかしたらこの古本屋の2階が家なのかもしれない。顔を上げて声のした方を見ると、残念ながら太陽が邪魔をして姿を見れなかった。木の陰に隠れるとやっと姿を現したのは窓から上半身を出した彼女だった。笑顔でこちらに手を振っていた。こちらが手を振り返すと彼女は姿を消し数十秒後、CLOSEDの扉から現れた。
「今日も感想会ですか?」純粋な笑顔で彼女が言った。
「まあ、そうですね、その予定でした。ちょうど仕事もキリが良かったので。」すると彼女は、
「どうぞ、入ってください。まださっき暖房入れたばかりなので寒いですが。」と店の中に入った。おそらく店を開けている時と普段の服装は変えているのだろう、今日の彼女の服装はダボっとしていて彼女の小ささを強調していた。札はCLOSEDのまま。自分から変えてはいけないので聞いてみるも、今日は開けるつもりないと言われた。
「自分いてもいいんですか?」そう聞くと彼女は椅子に手を向けて自分に座るよう促した。
「明さんの感想会は仕事じゃないのでいいんです。私の憩いなのでね。」と言われた。憩い?
「憩い、ですか?そんな風に思ってくれてたんですね。」彼女の言葉には疑問しか残らない。
「明さんが前言ったじゃないですか、読書仲間って。それですよ。友達としての会話は仕事じゃないですよね?」それは確かに自分が前に行ったことそのものだった。しかしそれを今更覚えてくれていたとは思わなかった。いつも仕事の邪魔をしている感覚で少し罪悪感があった。とは言え話している時は誰もいないこともあり、本のことに夢中になって喋っている。でも友達とまで思ってくれているとは。嬉しい。
「5作目、面白かったです。佐々木が無事で何よりでした。一番危険な話だったんでしょうね、白銀が怪我するほどの危険は今までありませんでしたし。そう思うと逆に3作目の組織事件で銃が使われていなかったことに疑問が生じますね、上からものを言うようでなんか嫌ですけど。それと最後ら辺の渡の話、何かまだ隠しているようで怖かったです。6作目はその後の話でしょうか、榎本さんは全部完結してるって言ってましたが、妙に繋がりがあるんですよ全部。事件は解決して終わるので読み終わった後の解放感的なものは味わえます。そういった点で完結しているというのであれば完結してるんです、おそらく。だからこそ人の繋がりは簡単には終わらないってことがよく分かりますね。時系列順に読めばまた何か変わるかもしれませんが、この本を書いた人の思惑は一体何なんでしょう。どうして時系列をバラバラにしたんでしょう。」
「6作目への期待がますます高まりましたか?時系列をバラバラにした意図ってもしかしたらもう分ってるんじゃないですか?」にこやかな笑顔で彼女が言った。自分にはよく分からなかった。もう分っているとしたらそれは今まで自分が言ってきたことの中で答えになることがあったということなのだろうか。
「榎本さんはその理由を知ってるんですか?時系列がバラバラな理由。」
「これはあくまで私の解釈ですよ。読んだ人それぞれの解釈があっていいと思っているのでこれが正解ということは無いです。それを踏まえた上で、ですよ。私はさっき明さんが言っていた人の繋がりについて切っても切り離せないものだと思ってるんです。人は一人では生きていけないなんて言うように関わってきた人たちの存在を忘れることはあっても無かったことには出来ません。好きな人も、嫌いな人も。だからこそ人が成長すると思うんです。時系列がバラバラなのにはそれに気付いてほしいということもあるんじゃないかと。いきなり4年前になった時、白銀さんがものすごく出来ない探偵に見えたと言ってましたよね、それも4年という時間の空白があったからそう見えるだけで、1日1日成長はしてるんです。それを伝えるためにあえて時系列に差があるように出版した。そう考えると合点がいきませんか?」なるほど、さっき自分が思ったことも一つの正解なのか、確かに毎日見てる人の成長なんてほぼ分からない。でも4年もの期間があれば絶対分かる。佐々木と白銀は10年も間が空いていたことだし。彼女の言っていることにすごく納得した。
「なるほど、とても納得しました。普通に過ごしていてもあまり実感できないことですよね、数年ぶりに会う友達とか、変わったなってところもあれば変わらないなってところもあるし。自分の場合そんな友達がごくわずかなのでほとんど会うことも無いからそんな事実確認出来ることも少ないですけど。」なんて自虐を言いながら言う。でもそれが嘘を一切言っていない事実であることが残念なこと。傷なんて無いのに自ら傷口をえぐるようだ。
「これからは私も仲間入りですよね、その友達の中に。」笑顔で自分の自虐を軽やかに返してきた。それに自分は救われていた。彼女はそれを知ってか知らずか、その時々で欲しい言葉をくれる。自分の中で一人ふらふら浮いている言葉や気持ちを彼女はその手で掴んで引っ張ってくれる。それがここにいて居心地の良い理由なのだろう。好きなことを好きなだけ言っても責めないでいてくれる。自分の出している物を全て受け止めてくれる人は今まで親以外にはいなかった。というより自分で出してこなかった。自分でも何でか分からないが、彼女には何故か言うことが出来ていた。
「6作目が最後なんですよね、このシリーズ。最後はどんな終わり方なんでしょう。楽しみです。今ここにありますか?6作目。」
「ありますよ、6作目。どうぞ。」そう言って手渡されたのは真新しい本だった。
「こんなに新品みたいなのにどうして売っちゃったんですかね、前読んでた人は。」そう思ってつい言葉にしたがそんな事彼女が知ることも無いはずだ。
「あ、ごめんなさい、そんなこと分からないですよね。」すると彼女は
「これね、元々私が持ってた本なんです。あなたに貰ってほしいと思いまして。今更ですけど、このシリーズ本たちは私が書いたんです。でも前買ってもらった3冊は別の人が売りに出した本です。明さんがここに来た時ちょうど読み返してた時だったんですよ、今新しい物語を作ろうとしているところで、そんな時に明さんが来てくれて、それも感想まで毎回くれて、直接もらえたファンレターみたいな感じでとっても嬉しかったんです。」なんとなくそういうこともあるかなとは思っていたが、現実にそうなるとびっくりするものだ。作家なんて自分にとっては芸能人レベルの感覚で出会えたら嬉しいものだと思っていた。本当にそうだった。声が出なかった。瞬きを何度か不自然に繰り返し、心の中を整理する。そしてやっと事実を飲み込んで、
「作家さんだったんですか、驚きすぎて声が出ませんでしたよ。」
「ふふっ。見てたら分かります。そんなに驚かれるとは思いませんでしたけど。」笑いながら言われるとなんか気が狂う。
「この本が初めて書いた本ですか?」
「はい。自分の思いついた物語を書いてみました。書くのはすごく楽しかったです。前から本を読むのは追体験のようで好きだったんですが、実際書いてみると、書いてるだけでも追体験というか、その中の人物になったようなそんな面白さがありました。明さんは追体験出来ましたか?」
「ええ、それはもう仕事の合間に読んでは白銀の気持ちを考えたり、白銀の心情が自分の考えと違うとそれもそれで新しい気持ちを知れて、読書の楽しみを再確認できた良い機会でした。」
「それは作家として申し分ないお言葉です。ありがとうございます。」見たことのない笑顔だった。嬉しいのか悲しいのか言うまでもないのだろうが、何故か泣きそうな笑顔だった。
「おいくらですか?」
「お金はいただきません。私とお友達になってくれたお返しです。」そんなこと言われたらこちらこそなんだが、そう言っても聞いてくれないと思って大人しくいただくことにした。
「お言葉に甘えさせていただきます。」6作目のタイトルは「誤認逮捕の目撃者」だった。そしてこの後家に帰って6冊並べてから6作目から1作目にかけてもタイトルがしりとりになっていることに気がついて自分はまた驚くこととなった。
次の日、日曜日だが、珍しく早い時間から出かける準備をしていた。なんでも彼女からお誘いをされたのだ。しかしあくまでも本屋巡りという、彼女の古本屋でも出来そうなことだ。読書仲間という欲しかった友達が増え、これからも好きなことを言い合える仲になれたら嬉しいと思った。待ち合わせは彼女のお店。いつものように同じ道を歩く。もう大体の道は覚えられてほぼスマホをいじりながら道を探すことは無くなった。そしていつものように喫茶店の前を通りあの道に入るとすぐ彼女の姿が見えた。お店の中で待っていてくれてよかったのだが、自分を見つけたときに全力で大きく手を振る彼女には出てきてくれていて良かったと思ってしまった。いつも向かうだけの人間だからだろうか。迎えられたわけでもないのになんだか気恥ずかしくなった。
「今日もこんにちは。」そう言うと彼女も
「こんにちは。早い時間からお誘いに乗ってもらえて嬉しいです。さあ、行きましょう。」と言って、今日行くところが何処かは告げられないまま彼女の思う進行方向にどんどん進んでいった。彼女は案外足が速い。その彼女を追うように自分も進んでいった。何処に行くかも分からないのに。
「あの、何処に行ってるんですか?」
「あれ、言ってませんでしたっけ、昨日言ったと思ってた。電車に乗ってちょっと遠くに行きます。お金あります?」
「それは大丈夫ですけど、詳細は」
「着いたら分かります。さあ、電車に乗りますよ。」
電車に乗ってから満員電車だったこともあり会話をすることも無く、自分はどこに行くのかが気になってそれ以外考えられないまま揺られて10数分後5,6駅遠くのとある駅に着いた。ここに何があるのだろうか。初めて来た駅で周りに何があるかなんて分からない。今は彼女が命綱。駅から数分彼女の後を追うように歩きを進めるとあの、彼女のお店があるような不思議な空気を醸し出す小道に進み始めた。しかし見たところこの道にはお店なんてない。
「あの、この道に何かあるんですか?見た感じ何もないですけど・・・」そう言ったものの彼女からの返答がない。不安になって彼女の隣に行く。彼女の顔を覗き込もうとした時、彼女の足が止まった。驚いた反動でひっくり返るかと思った。
「ここです。」さらっとそう言う彼女の指の先にはごく簡易的な看板のようなものに「book cafe→」という文字が書かれていた。その看板の奥には下に続く階段があり、何の躊躇いもなく階段を降りようとする彼女を引き留め、
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ!あの、ここには何の関係があって?いきなりすぎてどんな反応すれば良いのか分からないんですけど。」
「書いてあるでしょう、ブックカフェです。そのままの意味で、本も買えるし、お茶も出来る。良いとこ取りのお店ですよ、最後の言葉は私によればですけど。」
「それはまあ、分かりました。よくここに来るんですか?」
「ここも古本屋さんなんですよ。前に私の用事があってここら辺に来た時に偶然このお店を見つけて、古本屋同士の交流が出来たんです。」
「行きつけのお店みたいな?」なんとなく出てきた言葉で話す。
「まあ、そんなところですかね、毎週日曜日によく来るんです。お店休んで。ここなら他の読書仲間もできますし、良いところですよ。居心地も良いです。」彼女は説明が少ない。自分の中にある言葉は相手にもあると思っている節がある。これまでも何度かそんな場面があった。それでもなんとなく言いたいことが伝わっていたので良かったのだが、これは怖い。彼女はきっといつでも自由奔放にいろいろなところに入っていけるのだろうが、自分はまだそんな風に心が出来ていない。
「榎本さん、自分は榎本さんのような心を持ってはいないんですよ。初めての場所は緊張するし、入ることが出来ないこともあります。榎本さんは新しい場所にもガンガンいけるんでしょうけど、自分は無理なんです。何も言わずに知らない場所に連れてこられても心の準備が出来てないんです。」言ってしまった。彼女が良かれと思ってやってくれたことなのだろうに、否定するような言い方をしてしまった。でもこの時は自分の気持ちを初めて心の底から言えた。いつも誰かに合わせて行きたく無くても自分からそんなこと言えなかったあの頃の自分が聞くと拍手喝采だろう。
「ごめんなさい、明さんのことを考えずに勝手に出しゃばってしまって、申し訳ないです。でも、私も別にいろんな場所に飛び込めるわけではないですよ。都会だと尚更そうなるし、自分の居心地の良い場所を見つけたらずっとそこにいるし、出不精だし、明さんが思っているようないつも元気でアクティブで何も分からないところを突っ走れるようなそんな人間では絶対に無いです。ここを教えたかった理由は、明さんの好きな場所が増えたらいいなって思ったからです。私のお店が明さんの好きな場所かは聞いたことないので私の憶測でしかないですが、私のお店を見つけてくれて、何回も訪れてくれて、きっと居場所にしてくれてるのかなって気持ちで、だったらここも好きな場所になるかなって。そうなったら明さんの行動範囲も広がって読書仲間も増えるかなって、本当に勝手に出しゃばっただけなんです。」すごく謝られてとても申し訳なくなった。別に謝ってほしくて言ったわけじゃない。ただ、理解してほしかった。何でこんなことになってしまったんだ。なんて考えても言い出したのは自分だ。この空気を作り出した張本人。どうしようかと戸惑っていると、
「君たち道の真ん中で喋ってちゃ邪魔じゃない、お店入んなさい。」綺麗に年を取ったおじさんが階段から上がってきて自分たちに言った。今日来ることを知っていたのだろうか、それとも本当にうるさくして邪魔になって上に上がってきたのだろうか。階段を降りている時に、
「ブックカフェの店主の速見さん。」と小声で彼女が紹介してくれた。その声に速見さんは気付いていないようだった。階段を下りるとステンドグラスの綺麗な擦りガラス調の窓の付いたドアがあった。そしてそのドアの中はどこかのウッドハウスのような木の温かみを感じる内装だった。そして何故か窓があり、日光が入っていた。ここは入り口からは地下に見えるのに、入ると地上の部分があるという不思議な作りだった。面白い。彼女の勧めたいと言っていた理由が分かった気がした。こんな場所来てみないと分からないことだから自分を連れてきた理由も分かった。自分が大人しく付いて行けば良かったんだ。
「それじゃあ、お二人でお話ししてください。」と水を持ってきた速見さんから言われた。店内に客は自分たち二人以外いなかった。向かい合って話すのはあの古本屋で最近置いてくれている椅子に座っているスタイルと同じだ。あそこでは飲み物はないものの、今の場よりずっと喉は渇かなかった。今はすごく喉が渇いている。水を飲み、彼女をちらっと見る。どちらが話し始めるかと沈黙の間が続くと思われたが、彼女にそんな間など無かった。
「本当にごめんなさい。昨日喋っているものだと思っていたから説明が飛び飛びだっただろうし、分かんなかったですよね、黙って連れてくるような意図は無かったんです。」そうだろう。彼女のことだからそうだとは思っていた。
「いえ、自分も榎本さんのおすすめの店を見もせずに嫌々言っていたのは友達として、というか人としてどうなのかっていう感じですよね。すみませんでした。」
「いや、友達はそんなことも言っていいと思います。友達に合わせてばっかだとつまらないし息苦しいでしょ。明さん、ここ見て良かったなって思ったでしょう?きっと明さんも気に入ると思ったんです。」彼女はもう既にこの謝罪争いを終えていた。こんな人が友達だと、もし喧嘩になっても謝っては謝られての繰り返しなんてことにはならないだろう。そんな意味のない繰り返しが一番の時間の無駄だ。本当につまらないし一人で苦しくなっている。そう思っても自分からは止められない。そんな自分が嫌い。彼女はここに入って来て自分の顔色を窺っていたようで、店に入った時の自分の顔が好奇心に満ちた表情をしていて嬉しかったとのこと。
「どうしてそんな考え方出来るんですか?榎本さん羨ましい。」
「何処が良いんです?私の何処がそんなに良いのか。私は明さんの独創的な感性が欲しいです。デザイナーとして頑張っているんでしょう?それにいつもくれてた感想も私の考えたもの以外の言葉で喋ってくれたし。誰でも自分にない物を欲しがってしまうんですよ。」人間とはそういう生き物なのだろうか、抗えないのだろうか、自分はそれに抗えた人間を見たことが無い。だから人間は成長できるのか、と自分の心の中で結論付けてしまった。
「そっか。」ふと考えている言葉を口に出してしまうこの癖を何とか直したいものだ。
「なんか、納得しました?理解できないことがあれば話し合いましょう、さっきみたいに道端で邪魔はしないようにお店の中とかで。」と彼女は笑いながら言った。
「速見さーん、注文したいです。」いつの間にか姿を消していた速見さんを奥から引っ張り出すように彼女が大きな声で呼び出した。藍色の暖簾からひょこっと顔を出す素振りはダンディーな紳士の雰囲気なんてなく、可愛らしいおじさまに感じられた。
「はいはーい。なんね、もう喧嘩は終わりかい?」
「何?面白がってるんですか?せっかく連れてきたのに。」仲睦まじい会話が目の前で繰り広げられている。ああ、友達の友達が来た時こんな感じだったな。なんて考えていたら。
「明さん何飲みます?」といきなり会話に入れられる感じもあったなあ、と。
「カフェオレでお願いします。」
「ホットでいいね?」速見さんに言われて
「はい、お願いします。」と初対面での緊張でかしこまった言い方になっていると、
「もっと気を楽にしなね、今はこの3人しかいないんだから。」とにこやかな笑顔で暖簾の奥へ戻っていった。また二人になり、話す内容も思い当たらなかった。
「明さん、待っている間本見ます?」そういえばここは本屋でもあったんだった。でも本なんてあったっけ、と思い辺りを見渡すと、窓側の壁以外余るところのないくらい本棚でいっぱいだった。さっきは気付いていなかった。窓しか見えておらず、視界も狭かったからだ。本棚にはなっているけど本が置いていないところもあってそこには小さなオブジェなんかが飾られていた。まさに理想の空間だった。将来はこんな部屋を家の中に作りたい。
「すごいお店ですね、理想的な部屋です。これ全部古本ですか。」
「そうです。ほとんどが速見さんのものなんですけどね、だから利益はほぼカフェの方しかないので大変だろうなって思っているんですけど、それでも速見さんはいつも元気で楽しそうなんですよね。本は買わずに読むだけでもいいんですよ、その代わり汚したりしたら買い取りですからね。」最後ににまっと笑いながら言われた。本の方は速見さんの趣味だということか、すごいな。こんな趣味を仕事にという理想を目に見える形で作り上げている。素敵な人だ。本を見ながらいつも書店でやっているように気になった本を取って表紙とあらすじを見ようとした。するとびっくり、簡易的な紙のブックカバーで表と裏の表紙全体が見えない形式になっていた。どおりで同じ背表紙が並んでいると思っていた。それもここにある本全てだ。中身の見えない本を売るという書店もあるらしいし、これはすぐ取れるから縛りという訳ではないが、これも新しくて面白い。
「びっくりしたでしょ。私もここに初めて来た時に驚きました。速見さんが言うには本を守るためって理由らしいんですけど、客にとってはそれ以外に面白みも加わって良いですよね。」よく考えるおじさんだこと。そんな風に思っていたら速見さんが奥から出てきた。
「あら、良い本あった?」
「今さっき見始めたところでまだ全然見れてません。」彼女が答える。
「まあまあ、一回休憩としますか。今日はおまけでホットケーキ付き!お昼まだでしょ?」にこにこと笑顔な速見さんに拍子抜けする。
「いつも速見さん色々おまけって言って作ってくれるんですよ。プリンとか。」優しい人には優しい人が側にいる。類は友を呼ぶでは無いが、実感する。
「ありがとうございます。おいしそうですね、いただきます。」巷で流行りのふわふわホットケーキではないが、昔懐かしい平らなホットケーキ。何も付けないで食べても甘くておいしい。ホットケーキを食べたのは久しぶりだ。
「おいしい。懐かしい。」ふっと出た声に速見さんが、
「ありがとう。そんな風になんとなくで出てきた言葉は一番素の声だからねー。嬉しいよ。」
「おいしいね、今日まだ何も食べてなかったから空腹に染みる・・・」彼女の発言に
「あら、何も食べてないの?じゃあもう一個なんか出そっか。」そう返して速見さんはまた藍色の暖簾の奥に入っていった。自分は要りませんということを伝えるには遅すぎた。二人でパンケーキを食べている間、奥から音楽が聞こえてきた。この前思い出した今は解散してしまったあのユニットの曲だった。その時、
「あ、」と二人同時に暖簾を見て声が出た。その後もちろん二人は顔を見合わせた。目が合って数秒、音楽だけが耳に響く。
「もしかしてこの曲知ってます?」彼女が聞いてきた。
「はい、榎本さんも?この曲知ってる人初めて出会いました。しかも速見さんもですよね。」
「こんなことってあるんだー!」本当に驚いた。こっちで盛り上がっていることに気付いたのか、速見さんは音楽と共にやってきた。音楽の元は速見さんのスマホだった。置いていたところ誤って触れてしまって曲が流れたといったところか。
「どうしたどうした?何かあった?」混ぜてよ、とでも言うように速見さんが言う。
「その曲二人とも知ってたんですよ。二人同時にこの曲に気付いてびっくりしていたところで!速見さんまで知ってたとは!」
「この曲ね、最近知ったんよ。間違えて押して聴き始めたけどまんまとハマってしまって調べたらもう解散してるんだよね。悲しかったわ。もっと早く出会いたかった。」
「その解散後にファンが身近にいたと知るとはまた不思議なものですね。」
「自分は高校生の時にハマって一度ブームは過ぎ去ったんですけど、最近また思い出したんですよ。すごくタイムリーでびっくりです。同じ趣味を持った人に会えたのはとっても嬉しいです。」こんな偶然が起きるなんて本当に不思議なことだ。あの時あの曲を思い出して他の曲も聴いていなかったらこの曲も思い出すことは無かっただろう。偶然を通り越して奇跡ではないか。そうやってみんなで喜びや驚きを分かち合ったのち、速見さんはサンドイッチを持ってきた。卵サンドにBLTサンド、ツナサンド。おいしそうでお腹がいっぱいだったのも忘れて食べていた。彼女は元からお腹が空いていただろうからパクパク食べていた。おいしそうに食べる姿を微笑ましく眺めていた。その目に彼女が気付き、問いかける。
「どうしました?」
「おいしそうに食べるなって思って。まあ本当においしいんですけど。」
「やだうれしっ」とわざと照れてるように彼女が言う。それには笑いそうになった。そうやってサンドイッチも食べ終えた二人は読みたい本を探すことにした。自分はまだあの6作目を読んでいない。それを読み終えた後で読む本を探そうか、今日この場に一応6作目の本を持ってきている。このまま何かを読んで帰るのか、本を買うだけ買って帰るのか彼女はどちらを考えているのだろうか。
「榎本さん、今日は何か読んで帰るんですか?買うだけ買って帰るんですか?本屋巡りって昨日は言ってましたけど。」その質問に彼女は、
「どちらでもいいですよ。明さんがもしこういう場所で本が読めないのであれば帰ってもいいですし。他に行きたければ考え付く場所はあるので行ったりも出来ますし。私はいつも何かしらキリの良いところまで読んで帰りますかね。一杯の飲み物飲みながらゆったり過ごしてます。それでもいいですか?」
「はい、そうしましょう。でも自分まだ6作目読み終えていないのでそれを読みます。他におすすめとかあれば教えてください。」
「そうですねー、これなんかどうですか?探偵小説をずっと読んでいたんで次は恋愛小説とか。これは泣けます。こっちはコメディー要素強めで泣くこととかは無いですけど、読み応えはあります。私のおすすめはこのあたりですかね。」
「どっちも買います。たくさん読みたいので。」
「おお!買いますねー。じゃあ私はこれを買おうかな、最近この方の書いている本を結構読んでいるんです。この本は見たこと無かったです。結構前のものかな?面白そう。」彼女も本を選んで購入した後、さっきの席に戻ってそれぞれ本を読み始める。彼女は今買った本。自分はあの6作目。読んでいると、
「なんか恥ずかしいです。私がプレゼントしたのにこんなこと言うのもあれなんですけど、自分が書いたものを目の前で読まれるとは思ってなかったので恥ずかしさが・・・」そんな事彼女は平気だと思っていた。
「嫌でした?すみません、読むの辞めた方が良いですか?」
「いや、そうじゃないんです。読んでくれるのは嬉しいです。ただ、今思ってる感想っていうだけです。」彼女は肩を竦ませながらそう言った。それに意地悪を言うように、
「じゃあ恥ずかしがりながらいてください、自分は読んでますね。」と笑いながら言った。
「うわ、いじわるー」と彼女からも言われた。大正解。二人笑って会話は終わり、またそれぞれの本に戻っていった。
6作目。「誤認逮捕の目撃者」というタイトル通りとまではいかないが、今回の本題は濡れ衣を着せられそうになった被害者。5作目は1作目の後の話だったが、今作は5作目から数年後のことだと推測される。白銀は探偵の実績を積み独立し、佐々木と共に探偵事務所を立ち上げていた。佐々木は情報収集に長けており、白銀はその速度を買って一緒に過ごすのを辞めなかったそう。佐々木は白銀に感謝しているため仕事の助手を買って出たが、独立した探偵事務所の人員は白銀と佐々木の二人。きちんとした給料なんて無いも同然だ。そのことについてそこまで考えていなかった佐々木がぐちぐち言っている様子は面白いものだった。当事者になれば同じことをするかもしれないが、傍から見ると笑ってしまう。収入はあれどもちろん一定では無い。生活費を稼ぐことすらできない事もあるのではないかと考えると独立した理由が分からなかった。もちろん前の探偵事務所にいたころも歩合制だっただろうが、それでも依頼を配当されるから最低金額は保っていられるだろう。だから余計自分には分からなかった。今回の依頼人は白銀。そう、探偵の白銀だ。と言っても今回は依頼人兼探偵。白銀は自分ともう一人にかけられた罪を晴らそうとしていた。白銀が一人で依頼人だった皆川という男の元へ訪れた時のこと。前回訪れた時はチャイムを鳴らすと遠隔で鍵を開けてくれたのだが、今回はチャイムを鳴らしても鍵の開く音はせず、何処からも誰かが歩く音一つ聞こえなかった。不気味なほどに静か。不審に思った白銀は扉に手をかける。ガチャッと何事も無く開いた扉は、白銀に危険を示した。白銀は恐る恐る家に入り、人の姿を探す。かなり広い家で、一人で使うにはもったいないほどの豪邸だ。もし強盗なんかが入って来ても納得できる。玄関ホールを見渡した後、リビングがある方に進む。玄関ホールから見える扉は全て閉まっていた。玄関ホールからリビングに繋がる扉を開けて、ゆっくりと、部屋の中のものが動かないように、そして足音を立てないように慎重に歩みを進める。万が一のことがあれば犯人がまだいるかもしれないと思ったからだ。しかしそこには誰の姿も無かった。白銀がここを訪れたのは3回目。1回目は皆川と白銀の事務所から共に向かった。鍵はもちろん皆川が開けたが、白銀は不思議に思ったことがあった。扉には3つの鍵穴があったのだ。しかしその時皆川は一つの鍵で扉を開けた。そのことについて聞くと、全て違う鍵として機能しているが、いつもは一つしか閉めていないのだそう。もし不法侵入してこようとしている人がピッキングで開けたとしても一つは開いて二つは閉じることになる。簡単には入れなさそうだ。しかしこの土地は一帯を皆川が買っており、大きな音がしても誰かが駆けつけてくれることはほぼ無いだろう。警備会社に通知が行っても時間はかかりそう。それなのに律儀にピッキングをして入ってくるだろうか。金品目的であっても人の恨み事であっても自分はきっと窓ガラスを割って入るだろう。入ることに変わりは無いのだからそっちの方が楽だ。強盗をしたこともされたことも無い自分が何か言っても説得力に欠けるが。しかし皆川はこれを自慢げに話し、普段住んでいる家でもこれを採用していると言っていた。確かに普段住んでいる家では有効だろう。まあ、そのことはさておき、物語に戻ろう。白銀は2回目の時にこの遠隔装置のことを知ることとなる。チャイムを鳴らして皆川が現れるかと思ったら鍵の開く音がしてどこか遠くの奥まったところから「入っていいよー」と声が聞こえてきて、恐る恐る入って1回目に招待された部屋、リビングに行くと、コーヒーを入れている皆川を見つけるのだ。相変わらず危機感の無い皆川。そして今回の3回目、2回目で見えた皆川の姿も無く、人すらいなかった。白銀はそれ以外の部屋に行ったことが無い。人の家を無断で探るのは非常識だと分かっているが、今は皆川の安全をいち早く確認したい。何故なら今回の依頼は身辺警備なのだ。普段の生活では警備会社も近く、万が一の時も心配は少ないが、別荘にまで警備員を出すのは嫌だそうで、ここの別荘に来る時に警備を依頼したいと。白銀と佐々木の二人だけの探偵事務所にその余裕は無く一度は断ったものだった。しかし更なる皆川からの依頼と依頼料の増額を提案され、そこで白銀が折れて依頼を受けることになったのだ。皆川がなぜ白銀に固執していたのかは現時点で分からない。しかし白銀は受けた依頼として徹底的にやり遂げようとしていた。そんな矢先の今回なので、白銀にも読者の自分にも皆川に危険が及んでいるのではという考えが浮かんでいた。白銀はよく知らない家の中を徹底的に調べ始めた。テーブルにはコーヒーを飲み終えた後のマグカップと、シンクにはおそらく今日水を使った形跡。ゴミ箱にはインスタントコーヒーのゴミだけが入っており、逆に違和感を覚えた。そしてリビングの窓すら全て閉まっていることも確認した後、白銀も入ったことの無い部屋に向かう。リビングは玄関から入って右側にあり、その他の部屋は左側にある。再度玄関ホールを通って左側に向かおうとした時目に入ったものに違和感があった。玄関だ。靴が白銀のものしかない。さっき入ってくる時には特に何も思わなかったが、玄関ホールから玄関を見た時にその違和感を知った。おそらくは靴箱の中に入れているのだろうと考えるが、白銀は2度ここに住む皆川の様子を見ていた。1回目は招かれてそのまま二人とも靴を出した状態で部屋に入った。2回目は外行き用の靴の他にサンダルのような外履きのスリッパのようなものも出されている状態だった。今回は何一つ出されていない。変だ。別荘ということで自由な生活もでき、玄関の広さも十分にあるために靴の一つや二つは出していても問題無い。何なら2,30人は靴を置けるだろう。それに皆川には少々だらしないところがあるように思う。月に2回普段暮らしている家に家事代行を頼んでいるという話を聞いたことがあったり、会った時に見えたカバンの中がぐちゃぐちゃでどこに何が入っているなど気にしていなさそうな様子を見ることがあった。自宅では知らないがきっとここでは靴を靴箱に入れる習慣は無さそうだ。そして今回のこの違和感の正体が何を示しているのかを知るのはまだずっと後のことになる。
玄関ホールから左側の1階はバスルームとトイレ、その他パントリーのような収納部屋があった。収納部屋には誰かが手を加えているのだろうか、この部屋は無駄に綺麗だ。そしてどこにも皆川の姿は無かった。2階に行くといくつかの似たような扉と、他と比べて大きめの扉の部屋があった。ゲストルームと皆川の寝室だろうか。一部屋ずつ見て回るもゲストルームには誰が使ったという証拠も無く、残りは皆川の寝室と思しき部屋のみとなった。ガチャッと開けるとそこは書斎のようだった。本棚には様々なジャンルの本が雑多に並んでおり、几帳面な性格など微塵も感じなかった。しかし前にもあったようにそれは皆川の性格を表すものだったため、白銀には納得できた。そして書斎の奥にもう一つ、扉を見つける。扉を開けるとそこには充電が切れたように大きなベッドから足が出た状態で横たわっている皆川の姿があった。一瞬死んでいるのかと見えた白銀は皆川の元に行き体を揺さぶり、大きな声で「皆川さん、皆川さん、」と声を掛けた。体は温かい。すると皆川は、何だようるさいな、とでも言うように眉間にしわを寄せて頭を振った。起きた皆川に事情を説明した。皆川は昨日からずっと眠っていたわけではないと。今日の朝までの記憶はあったそうだ。白銀がここを訪れたのは11時過ぎ。皆川が言うには今朝の8時には起きて、リビングでコーヒーを飲んでいたと。確かにゴミ箱にはコーヒーのゴミが、テーブルにはマグカップがあった。嘘は言っていないだろう。しかし皆川は何か隠しているようにも見えた。何か焦っているようだった。白銀はそれに気付いて尋ねた。「その時一緒にいた人は?」その言葉に皆川はあからさまに目を逸らした。皆川の答えを聞く前に「一度リビングに行きましょう。」と言う白銀の提案に皆川は従い、一緒にリビングへ戻った。家の中に不審な点が無いかを調べている時に、皆川が叫ぶ。そこに行った白銀は恐ろしいものを目にする。人の死体。乱雑に倒れているそれは、キッチンの壁だと思っていた扉の奥にあった。血が服に染みている。何なら地面を血で染めている。さっきまで知らなかった部屋に死体があった。白銀は驚き声を失った。今まで何度も人の死に直面していた白銀だが、実際の死体と直面するのは初めてだった。皆川は大声を出した後、白銀を押しのけるようにリビングまで飛び出した。酷く怯えていた。白銀はすぐさま警察と救急に連絡をし、駆け付けた警察たちによって早々と皆川の別荘は殺人現場となってしまった。事情聴取を受けることになった白銀と皆川だったが、皆川は警察に確保されて連れていかれることになった。白銀も連れていかれることとなったが、どうやら白銀より皆川の方が怪しまれている。それはまあ、家主だからだろうか。白銀もあり得ないとは思いながら、皆川に1パーセントの罪も無いとは言い切れずにいた。警察官に従って連れていかれる皆川を見ることしか出来なかった白銀は、近くの刑事に尋ねた。遺体の身元は分かるのかと。刑事によるとあの遺体は皆川の知る人だったそうだ。月に2回来ていた家事代行者だそうで、顔見知りと知り事情を詳しく聞くということで連れていかれただけで暫定では逮捕はされないと。白銀は何故その場所にいたのかという尋問を受けるために連れていかれた。とは言え警察にはよく手柄を与えている白銀だったため、白銀を知る警察官も多かった。白銀はそんなことをしないという彼らの無実の主張でほぼ白銀は無罪だった。亡くなったのは家事代行の会社に勤める浅見という女。死因は刺殺。死亡時刻は午前6時から9時。2年前から皆川の自宅の掃除等をしていて、会社の方針でほぼ担当のようになっていたそう。そして皆川は浅見にセクハラまがいなことをしているという浅見の言葉で一度会社から注意をされていたらしい。それが今から1年前。その後は浅見の意向で皆川には別の担当者が付くようになった。それからは浅見と皆川には何の関係も無かったのに、いきなりこうして浅見の死体が皆川の別荘から出てきたと。何とも不思議な事件だと思っていたが、皆川の発言によって事態が一時急変する。
「今日の朝、浅見が別荘に訪れてきて、一緒にコーヒーを飲んだ」と。白銀も聞いていなかった事実に周囲も騒然とする。あの時に白銀が先に質問の答えを聞いていたら何か変わったかもしれない。いや、それは皆川を擁護する白銀にとっては悪い方に傾くだけか。記憶は曖昧だが、自分の記憶を辿ればそんな記憶が出てきたらしい。もしそれが本当であれば浅見は8時から9時の間に殺されたとなる。死亡時刻が更に限定されたところで皆川の容疑は晴れるどころか益々確信に変わってしまう。最初は夢かと思っていたが、白銀と一緒に行ったリビングで浅見の遺体を見て確信する他無かったらしい。しかしこの時白銀には引っかかることがあった。あの時、まだ皆川が寝ていた時、白銀は一つのマグカップしか見ていない。浅見は自分でマグカップのみを洗って帰ったということか。もしそれが本当なら浅見は自分の証拠を消そうとしていたことになる。そんな浅見がなぜ殺されたのか、誰が殺したのか。今一番有力なのは皆川になってしまうが、白銀はそれが違うことを信じていた。でもその証拠は無い。証拠を出さなければ犯人を捕まえることも出来ない。現時点では犯人の目星が白銀には付いていなかった。皆川以外の人物を知らないから。白銀は皆川が白銀に何かを隠した状態で依頼をしていると思っている。理由として、自宅の場所は教えられていないこと、身元を保証してくれる人がいないと言われたことが挙げられる。皆川はある企業の役員をしていて、かなりの収入がある。それで大きな別荘地を買ったり家事代行を頻繁に依頼したり出来ているのだが、誰かに恨まれるようなこともしていそうで白銀は気がかりだった。誰かから恨みを買われて危険に脅かされて警備の依頼を任せてきたのか、詳細は伝えたくなければ必要ないことまでは聞き出したりはしない。身の危険が及んだ時にすぐに対処が出来ればそれで良いということだったので、連絡がいつでも取れるようにした上で別荘地に向かっていたので殺人まで起こるとは白銀も思っていなかった。しかも被害者は依頼人じゃないのだから尚更だ。白銀は皆川と話がしたいと警察にお願いし、取調室で警察の目のある範囲で話せることになった。これまでの事件が役に立った。白銀が聞きたいことは2つ。1つ目は浅見がいつ来て、何をしていたのか。2つ目はいつ意識がなくなったのか。1つ目の答え。皆川は昨日から別荘にいて、白銀に警備を依頼する前にあの場にいた。一夜明けた後、起き抜けのコーヒーを飲んでいる時に鳴ったチャイムの音で白銀だと思って遠隔で鍵を開けたが、時間が経っても来ないことに不審になって玄関に行ったら浅見がいたと。セキュリティーというものを分かっていないのだろうか、この皆川という男は。それが8時ごろ。丁度皆川が起きたころだ。こんな何もないところまで何の用で来たのか分からなかったが、何か用件が無いと来ることは無い。浅見は顔も良く見えないほど下を向いていたそうだ。何かを喋ることも無く、その場に立ったままだったそうで、そのまま返すわけにもいかずお茶でもどうぞと部屋に上げ、コーヒーを用意してテーブルで向かい合って話をしたそうだ。話をしたと言っても、浅見は何も話を切り出そうとはしなかったそうで、気まずい沈黙に痺れを切らし、皆川が口を開いた。皆川は以前した愚行を謝罪し、浅見はあっさりと許してくれたそう。そのままなぜここまで来たのかを尋ねた。しかし皆川はその答えを覚えていなかった。おそらくその時点で皆川の意識は朦朧としていたことだろう。これが2つ目の答えだ。2つ目の質問は眠らされたとはっきり分かっているような質問だった。白銀は分かっていたのだろうか。白銀の見立てでは浅見が皆川のコーヒーに睡眠薬を投入して眠らせた後、誰か力のある共犯者によって皆川を寝室に運び、皆川の飲んだマグカップを洗って睡眠薬を流した後にマグカップに皆川の指紋を付けて、普通のコーヒーを飲んだように見せかけたということだ。そしてこの時白銀は鑑識からうっすら聞こえた内容で皆川は犯人でないことを着々と確信していった。初めの訪問の際に食事をした時に気付いたそうだが、皆川はコップを右手で持っていた。白銀は左利きでコップを右で持つ。皆川は右利きでコップも右で持った。対面で食事をした時にそれだけ対象になっていないことに気付き、面白いと思ったことで頭に残っていたのだ。そして現場にあったマグカップから出てきた指紋は皆川のものではあるものの、左の指紋だった。不自然だ。いつもする行動をある日いきなり変えることは難しい。犯人が意図的に付けたものだろう。白銀が今理解できていることは、皆川は睡眠薬で眠らされ、マグカップに指紋を付けられ、浅見は被害者であり、加害者であるということ。これから考えられるのは第二の犯人がいるということ。家の中はおろか、外にも監視カメラは無かった。こんな豪邸で鍵を3つも付けているのに防犯カメラが無いのはおかしい。皆川にそのことを尋ねると、彼は目を逸らしながら理由を考えていた。何か付けなかった理由があるということだ。「もう本当のことを話してくださいよ。」これ以上は擁護できない。白銀の言葉に皆川は観念したように話し始めた。どんな理由があれど、人殺しにされるよりはマシだろう。皆川はあの別荘に多くの客人を招いていたらしい。中には皆川と恋愛関係を持っている人もいたと。まあ、体のいい隠れ場所だし使い道は豊富だ。しかし普通別荘まで連れてくる必要があるのだろうか。有名人というわけでも無い。こんな何も無いところではなく自宅でも良いのではないだろうか。愛人を作っているような連れ方じゃあるまいしと思っていた。そう思ったが、なんと皆川は既婚者だった。身元保証人がいないことは嘘だった。連れ込んでいたのは本当に愛人だった。しかし浅見と皆川は関係を持っていない。あの場所も教えた覚えはないと。しかしそれは皆川から浅見に対してであって、浅見は以前家事代行として皆川の元にいた過去がある。その時に別荘のことを知ったのだろう。浅見は金銭目的であそこに行ったのか、もう真実は分からないが、皆川もしくはあの家から何かを奪おうとしていたと推測するしかない。そしてそれを皆川が隠すことも知っていた。以前のセクハラ問題があったから皆川から浅見には何も出来ない事を知っていたからだ。浅見は皆川から見るとか弱い女だったのだろうが、本来の彼女はかなり悪い考えをする女だと推測できる。そして今日それを実行しようとした。しかしタイミングが悪く、別の訪問者が現れた。浅見を殺した人物だ。この人物は皆川の知り合いで浅見を知らない人物だと推測した。最有力者は今のところ皆川の妻だろう。しかし皆川はそれは無いと断言していた。あの別荘は皆川の妻は知らないらしい。それでも知らないはずの浅見が訪れてきた理由はどうなるのかということになる。浅見は皆川の話もしくは何かの紙などから別荘の情報を知ったと考えるのが自然だ。それならば妻という立場ならもっと知れる方法が十分あると考えられる。それでも皆川は決してそれを肯定しなかった。妻とはビジネスパートナーだと。実際二人は同じ家に住んでないそうで、言わば書類上の関係と言ったところ。恋愛関係には一度もなっておらず、お互いの恋愛についても寛容。仕事に差し支えない程度であれば了承しているそうだ。そのためかなりの出費であるはずの別荘も妻には知られていないと思っているらしい。皆川はそう主張しているが、警察も白銀もそれを信用はしなかった。皆川の妻を警察に呼び、事情聴取を行う。こちらの予想以上に彼女は皆川のことを知らなかった。浅見のことは知らないし、もちろん死んだ人のことも知らないと言った。別荘のことも知らなかったし、皆川が家事代行を頼んでいることも知らず、本当に妻かを疑うほどの他人だった。何故夫婦関係を作ったのかの理由すら分からない程だ。金だろうか。アリバイは証明してくれる人がおらず、明確に容疑が晴れることは無かったが、それは皆川も同じだ。その場にいたんだから容疑は皆川の方が高い。白銀は警察に依頼したいことがあった。別荘内のパントリーに付いている指紋の採取。あのパントリーは明らかに皆川以外の手が加わっている。出てきた指紋は5人。皆川、白銀、浅見、身元の分からないものが2つ。一つは消えかけのもの、もう一つは新しいもの。皆川は家事代行を別荘にも入れていたらしい。おそらく消えかけのものがその家事代行者。呼んだのが3か月前だという皆川の言葉から。残り一つが断言出来ない。浅見は来たことがあったのだろうか。それならば一人で訪れてきてもおかしくは無い。皆川は浅見が家事代行を担当している間に入れたことは無かったし、その後も一度も呼んだことは無いと言った。浅見が初めて来たのは殺害日。パントリーは普通に考えて初めて訪れた人は入ることは無いだろう。現に白銀は皆川捜索以外で入ったことは無かった。残りの指紋は警察に任せることにして、白銀は皆川の無実を証明することにした。しかし今回の事件、皆川が容疑から外れるのは真犯人が出てくることしか方法が無い。証拠不十分で不起訴になっても一度犯罪者という名が付くとそれは冤罪であれ一生誰かの中には残っている。第一皆川は浅見の殺害時刻に別荘にいたのだ。アリバイどころか犯罪を証明しているようなものだ。一度事務所に戻って佐々木と話をしたかったが、白銀もほぼ白とは言え今は一応容疑者の一人。さてどうするか。ここで神谷が登場。神谷に佐々木を連れてくるよう頼み、佐々木を待つ。神谷はまるで白銀の付き添いか。佐々木が来てから佐々木も交えて話がされる。神谷は本当に佐々木を呼ぶためだけに駆り出されたのか。駒使いのようだ。刑事のけの字も無かった。捜査に入っていないこともあるのだろう。佐々木はもちろん白銀が犯人だとは思っていないし、白銀が無実だと言う皆川のことも疑っていない。しかし真犯人が分からなかった。皆川に浮かび上がる人がいないか聞いてみるも分からないの一点張り。「女性関係にだらしないですよね」切り詰めた白銀の言葉には佐々木も皆川も恐れ戦いた。白銀は無実を証明するために言った言葉だ。この際皆川には隠し事をせずに喋ってもらわないと味方になんてなれない。まずここまで来て隠し事をする方がどうかしていると思うが。皆川は別荘に連れてきたことのある女性を数人挙げた。警察はその人全てと連絡を取り、指紋を採取して、パントリーの身元不明の指紋と照合した。そんな中で当てはまる人が一人。まさかの人物だった。浅見。まどろっこしい展開だが、結果として浅見が何かを探していた証拠になってしまった。そんな中で皆川の妻が警察に再度訪れる。白銀が捜査協力をお願いしたのだ。皆川の妻の名前は亰佳。亰佳は前回の聴取で皆川のこと、事件のこと、全ての質問に首を横に振っていた。白銀はそれに疑問を抱く。ビジネスパートナーとは言え連絡を取り合わなければ節度を弁えた恋愛など出来るだろうか。皆川には無理な話だと思った白銀には亰佳が嘘を吐いているようにしか見えなかった。殺人が起こったというのに冷静なことも不思議に思った。皆川の発言と食い違うものもあったのだ。それが決定的になって亰佳はますます白銀に目を付けられた。話をしていると、亰佳はまんまと白銀の罠に引っ掛かり、別荘のことを知っていると白状してくれた。何故黙っていたのかという質問に、「関係ないと思ったから」と、これも冷静なものだった。ふと、白銀は気付いた。亰佳の髪の長さはロング。警察を訪れた時は纏めて結っていて髪の長さなど気付かなかったが、浅見の髪の長さもロングで、発見時は髪は結われていなかった。乱雑に散らばる髪は長く見えた。白銀にはこの二人の髪の長さが同じだったらと考えた。警察官に言って長さを測る。二人の髪の長さの差はわずか3センチメートル。更に言うと二人の身長もほぼ同じ。髪を下ろせば後ろ姿では見分けは付かないだろう。
このことが根拠になり、白銀には一つの仮説が浮かび上がった。それを警察に唱えた。皆川は8時に起きて、リビングでコーヒーを飲んでいる時に訪問者が来る。玄関まで行き、浅見と知る。浅見を家に上げてコーヒーを持ってくるために一度キッチンに行く。その間に訪問者は皆川のコーヒーに睡眠薬を入れる。皆川がコーヒーを出し、睡眠薬の入ったコーヒーを皆川は知らずに飲み、眠る。そこから訪問者は自分の形跡を消すために隠ぺい工作をする。おそらくその訪問者には別の協力者がおり、そこまで体格が良いとは言えない皆川は易々と寝室に運ばれる。そうこうしている間に白銀が別荘にやってくる。訪問者と協力者は一度どこかへ姿を隠す。おそらく浅見の遺体を置いていた場所だろう。白銀が寝室の方に向かったことを確認して浅見の遺体を置き去りにして、颯爽と帰っていった。この一連の行為をしたのが亰佳だと。警察はもちろんそんな無茶な、と意見を聞き入れ無かったが、道路の監視カメラに載っていた亰佳の所有する車を見つけたことをきっかけに動き出す。
白銀の目論見では浅見は皆川が起きるより前に殺されている。そして浅見のふりをした亰佳が訪れたのをまんまと騙され浅見と勘違いする。皆川はこれまでの発言で亰佳ともう半年以上会っていないと言っていた。半年前の髪の長さを亰佳に聞く。白銀の予想通り亰佳の髪は短かった。ボブからセミロングにまでなることは出来る。皆川は知っての通り性格のだらしない人間だから、女性の変化にも気付かない。ましてやもしこの仮説が本当になったら人を間違えている可能性だってある。普通ならあり得ない話でも皆川にとってはあり得そうな話だ。皆川に事件当時来た女性の服装を教えてもらう。どうせ皆川のことだ。覚えていないだろう。そう思っていたのに喋り出した。青いシャツに黒いズボン、グレーのコートを羽織って黒いバッグを持ってやってきたと。何故覚えているのか。一度見たことのあるコーディネートだったからだそうだ。一度だけ見た服装を覚えていられるかは分からないが、更に言えばコートは浅見の愛用していたことだったから覚えていたという発言で、一気に現実味を帯びる。それが皆川に目の前の人物は浅見だという意識を固定させたのかもしれない。それには理解出来るかもしれない。髪を下ろし、視線を合わせなければ間違えるとでも?今までの皆川なら起きかねないか。声はどうするのか?浅見の声は知らないが、1年前のそれほど知らない人の声は聞き覚えていないのか、もう皆川ならなりかねないという言葉で全て纏まってしまいそうだ。皆川からの証言で浅見は大人しい人だという印象を抱いたのだから、声も小さかったのかもしれない。それなら騙されてもおかしくないか。亰佳は口を閉ざした。これはもう肯定という結露を指し示している。しかし何も言わなければ現時点で警察も逮捕に踏み切れない。警察はある男を探し出した。亰佳と共にいた共犯者。亰佳はとある会社の社長をしてる。同じ会社に勤める原波という男が一緒にいたことを認めた。この原波という男は亰佳と恋愛関係にあったそうだ。亰佳は原波の裏切りでぷつんとことが切れ、事件の経緯を話し始めた。これで亰佳は殺人、原波は殺人幇助の罪で起訴されることになった。
この事件は幾つもの偶然が重なって起こった事件だった。
まず、浅見が別荘を訪れる。浅見には借金があり、そこから金品目的の侵入であると思われる。これは亰佳の話でおそらく7時より前。そしてあの別荘には白銀も知らない部屋がある。裏玄関がある。その裏玄関は一般的な玄関。ここまで3つの鍵は付けていなかったらしい。それは普通に来ても知ることは出来ない作りをしているから。白銀も知らない秘密の部屋というもの。隠し扉と隠し部屋を作っているようだ。それはキッチンの裏にある。なぜそこを浅見が知ったかは知らないが、そこから入った浅見はまだ眠っている皆川を起こさないように静かに物取りをしようとした。しかしここで亰佳が訪れる。亰佳の目的は皆川。皆川を自殺に見せかけて殺すつもりだったそうだ。保険金目的。誰もが金、金。人の残酷さとは恐ろしい。ただの紙切れに、ただの金属の塊に、人を殺すことまで考えるほどにまで思考が陥るのだ。亰佳が訪ねたのは6時半。その時に二人が鉢合わせたのだろう。亰佳は裏玄関を知っていた。何なら別荘地に盗聴器を仕掛けたこともあったらしい。一つ言い出すとキリの無い罪の数々。亰佳にとってはビジネスパートナーとは言え旦那の愛人に見えたのだ。皆川にその気が無くても亰佳はあったのかもしれない。それもかなり強く。浅見の姿を見た亰佳はカッとなって近くにあった包丁を掴み、一突き。我に返り、一緒に来ていた原波を呼んで死体を隠し部屋に運び、冷静に考える。そして二人の中である行動を考えた。浅見を殺した人を皆川にするのだ。亰佳が浅見になって皆川の前に出てくることで死体の発見時間をずらそうと考えた。運良く服装まで似ていた。浅見のコートを着れば、遠くから見たら分からないだろう。そして8時、亰佳がインターホンを押す。皆川は数分後にドアを開ける。亰佳の髪を下ろした少し長い髪と以前に似た服を見て皆川は浅見と判断する。家に招きコーヒーを入れている間に亰佳は本来使おうとしていた睡眠薬を使って皆川を眠らせる。その後でコーヒーカップの証拠を残し、靴を隠した。白銀が感じた違和感の正体はここで、亰佳か原波が間違えて皆川の靴も持ち去ってしまったということだろう。そして皆川を寝室に隠し、誰かが来るまでの間に裏玄関から逃げようとしていた時、丁度良く白銀が来てしまう。亰佳と原波は隠れ部屋に身を潜ませ、白銀に見つからないようにした。白銀がどこかに行った後、二人はその場から逃げ出した。ということだ。
卑劣な現場だな。あの場で一番マシな考えをしているのが皆川ということに心が煮え滾る思いだ。皆川でさえ自分にはあまり良い人という印象を得られなかったのに、それ以上に気持ち悪い人がうじゃうじゃいる。しかしなぜ亰佳は皆川を殺さなかったのだろうか。その時に殺していれば心中として事件も簡単に解決しそうなものなのに。しかしそれは浅見と皆川の恋愛関係を表すものとなると気付き、亰佳が殺さなかった理由が分かった気がした。これも現実なのだ。いつまでも夢見がちな子供ではいられないのだ。大人になるということはそういうことなのだ。夢を見るということも確かに良いことだが、大人はしっかり現実を見なければならない。自分の身を守る術を知っておかなければならない。その後、皆川は警察から解放され、別荘も売り払ったらしい。事故物件だしな。警備の仕事も無くなり、白銀は日常に戻った。長くも短い事件だった。拘束されているという行為はかなり精神をすり減らすことも分かり、白銀と佐々木はまた事務所に戻って新しい依頼を待つ。ある日事務所に1通の手紙が届き、意味深な言葉とともに、物語は終了した。この先は読者が想像しなさいと言っているようだった。そう思った最終作の6作目だった。
6作目を読み終わると窓の外はすでに真っ暗だった。集中しすぎて頼んでいたホットカフェオレも飲み終える前にアイスになってそこにいた。目の前にいたはずの彼女はいつの間にか読書を止めて本棚に向かっていた。残ったカフェオレを飲み終え、カップをテーブルに置く時にカタッと音が鳴った。その音に気付いた彼女は振り返ってテーブルに戻ってきた。
「すごく集中してましたね。気を休める暇もないほど表情がコロコロ変わっていって面白いものを見れましたよ。」彼女は笑いながら言っていたが、自分がそんなに表情を変えながら本を読んでいたことを知って恥ずかしくなった。
「すみません、お見苦しいものを・・・もう読み終わったんですか?」
「一冊読み終えました。次何を読もうかなって本棚見てたところです。」
「時間すごくかかってましたよね、すみません。」
「謝ってばかりですね、謝ることないですよ。本を途中で止められるのはなんか気持ち悪くて出来ないんですよね。」彼女の言っていることはすごく分かった。この言葉は以前の自分に向けて言われていたりするのだろうか。そんな曲がりくねった言い方は彼女はしないか。
「時間たっぷり貰って自分も読み終えました。感想言ってもいいですか?」
「お、はいどうぞ。」彼女が座ったところで自分は作者を前に感想を話し始めた。少し緊張した。
「最初から分かり切ってはいましたが、白銀が犯人じゃなくて嬉しかったです。よくどんでん返しの展開で主人公が犯人になるものとかあるじゃないですか、そういう系かなとも思ったんですけど、白銀はそうならないでほしかったんです。だから白銀じゃなくて良かったです。犯人が分かり切っているのに意味の分からない事件という感じで、何だか頭を使う事件だなって思いました。人間の恐ろしさ?ヒトコワ?みたいなゾクゾク感がありました。気持ちが悪いって小説の中の人で感じることは無いと思ってたんですけど、これでは思いました。人の憎悪が凝縮してますね、作者に言って良い言葉か分からないんですけど。」
「言っていいんですよ。この作品の登場人物はみんなクズですから。頭を使ったってことはそれほど考えたってことですよ。考え方は人の数だけある。あの小説に恐れを抱く人も、嫌悪を抱く人もいる。逆に面白いと思う人も、何も思わない人もいるでしょうね。小説というのは大抵がフィクションです。現実ではありえないことも平然と出来るんです。人だってバンバン死にますしね。だからこれが現実だとは思わなくて良いですよ。」笑いながら言う彼女がちょっと怖かった。それに何故自分が思っていたことが分かったのだろうか。
「何話してるのー?」奥から湯気の立ったコーヒーを持ってきながら速見さんが言う。
「今読んでた本の感想を聞いてたんですよ。私が書いたもの。」彼女が答える。まだ自分から速見さんの質問に答えることが出来ていない。彼女はそんな自分を助けてくれるように速見さんの言葉に返す。
「なに?ビブリオバトル的な感じ?」『的な?』という若者言葉を話すおじさんの容姿が目に入って笑いそうになった。可愛いおじさまには似合っている気もする。
「はい、あったかいコーヒー。砂糖とミルクもあるよ。これ飲んで帰りなね。」今日ここに来て支払ったのは1杯目のカフェオレと本のお金だけ。最初に彼女が言っていたカフェの方で利益を得ているという言葉は果たして合っているのだろうかと思ってしまう。ホットケーキにサンドイッチ、このコーヒーも速見さんのおまけだと言ってくれている。払っているものより貰っているものの方が多い。とてもありがたいが、今自分の近くに経営をしているようでしていない人が二人いる。笑えてしまう。自分のために生きていないところに尊敬を感じる。今の自分は自分のために仕事をし、自分のために休みを過ごしている。人のことを考えるほどの余裕は無い。本一冊で気持ちが浮き沈みするくらい情緒不安定なのだから。コーヒーを飲み、一息ついたところで「帰りましょうか」と帰る支度をする。彼女の支度を待っている間にドア付近で速見さんと二人になった。少し気まずいなと感じている時に、速見さんから声をかけてくれた。
「今気まずいなって思ってる?」自分は正直に答えた。
「あ、少し。すみません。人見知りなもので。」
「正直でよろしいね。でもほんとに謝るの好きね、そんなに謝らなくていいんだよ、謝るっていうのはね、自分を傷つけてるの。何回も傷をつけると身も心もボロボロになるよ。自分のことは自分で守らないと、守ってくれる人がいなくなった時、自分すら守れない人間になる。生きれなくなるからね。ここにはいつでも来な。来たいときにフラッとでもいいから。千晴ちゃんみたいにね。まあチハルちゃんは来過ぎな気もするけどね。それにしても人見知りなのによくチハルちゃんと友達になったね。」速見さんの言葉には実家のような安心感があった。しかしここで気が付いた。今、速見さんは「チハルちゃん」と言った。誰のことか?彼女か?
「今、チハルちゃんって言いましたよね?榎本さんのことですか?」
「うん、そうだよ。千に晴れるで千晴。あれ、まだ知らなかったの?ここにまで連れてきたからもう知ってるもんかと思ってたわ。」確かに自分はフルネームも伝えて明さんとも呼ばれている。それに対して彼女の名前を聞くタイミングを失っていたんだった。
「知りませんでした。先に聞いちゃって榎本さんには申し訳ないですけど、ありがとうございます。また来ますね、今度は一人で。本のお話しませんか?一緒に。」
「もちろん。そのための場所ですから。その時に千晴ちゃんとのことも聞こうかな。」速見さんは爽やかな笑顔で答えてくれた。
「お待たせしました。帰りましょっか。」彼女の支度が終わり、自分たちは今日来た道を戻っていった。駅までの短い道も来た時と帰るときの道は全くの別物に見えた。もちろん暗闇だからということもある。でも彼女が隣にいたから不思議と不安感は無かった。駅に着き、同じホームで反対車線の電車を待つ。都会から少し離れているとは言え、10分に1本ペースで電車がやってくるほどの街だ。すぐに電車がやってきた。さっき通った5,6駅分、日が昇っている時に見た景色とは違う夜景のライトの輝きを綺麗だと感じた。満員電車では見れない景色。初めて見た景色が満員の時ではないことに嬉しさを感じた。電車を降りて彼女の本屋へ行く。外のライトは手動だそうで、真っ暗なお店はいつもと違う暗闇に飲み込まれたようでいつもの暖かみを消していた。
「今日はここで帰ります。あのお店教えてくれてありがとうございました、千晴さん。」
「そうですか、気をつけて帰ってくださいね。あれ、今、千晴って、」彼女の顔は暗闇の中で見えにくかったが、きっといつもの笑顔から驚きの表情に変わっただろうと想像出来た。
「速見さんと二人で話していた時に速見さんがぽろっと言っちゃったのを聞き逃さなかったんです。漢字も教えてもらいましたよ。千に晴れる。良い名前ですね。綺麗な名前です。あ、でも気持ち悪いですよね、いきなり知らなかったはずの名前を言われると。呼びたくなっちゃっていつ呼ぼうかちょっとタイミング見てたらこんなに遅くなっちゃいました。」名前を呼ぶ時、なんだか告白でもするかのような照れくささがあった。今顔が見えにくい状態で良かった。
「私友達と言える人いなくて、同世代の人から名前を呼ばれたのも久しぶりで、嬉しいものですね。」彼女の声は最後ら辺涙声になっていた。泣かせてしまったかと思って「ごめんなさい」と言うと、彼女はまだ震えた声で、
「違うんです、なんか、昔のこと思い出しちゃって。明さんの声って、今まで言ってませんでしたけど、なんかどことなくお祖母ちゃんに似てるんですよ。悪い意味じゃないですよ。雰囲気というか音の高さとかそういうのが。お祖母ちゃんもさっきみたいに優しい声で千晴ちゃんって呼んでくれていて。その時の気持ちも全部溢れてきて体が受け止めきれなかっただけです。」
「そっか、気が回らなくてごめんなさい、お祖母さんのこと、思いながらゆっくり休んだらどうかな?もし一人が辛かったら一緒にいますけど。どうします?」
「一人で大丈夫です。この涙だって悲しみの涙じゃないんですから。嬉しいんですから。これからも名前、呼んでください。」
「はい、ではまたこれからも。お休みなさい。」そう言って彼女と別れ、彼女が住んでいる2階の部屋の明かりが点いたのを見届けて、帰り道を進む。今頃はもう泣き止んでいることだろうが、名前一つで泣くほどの感情を抱えていた彼女の心を推し量ることなどできないなと思いながら、自分が彼女にとってそんな感情をぶつけられるような人でありたいと感じた。一人で帰り道を歩いていると、数十分でも今日のことが頭に浮かんだ。図書室と自宅以外であんなに集中できた場所は初めてだった。これからも通いたいなと思った。通って、速見さんとも仲良くなりたい。彼女も速見さんも本以外にも話の出来る友人になれる気がした。なりたいと思った。
月曜日。昨日一冊丸々本を読んだので疲れが出るかと思ったが、案外すっきりした目覚めだった。古本屋を見つける前までは発散できていなかった知らないストレスが古本に出会って現れて、古本のおかげで解消した。知らなかった頃はそれでも良かったのかもしれないが、今となっては知って良かったということだ。今日はこれから広告デザインの修正ミーティングが入っている。広告デザインでもミーティングの時側で誰かが一緒にいてくれるが、ほぼ一人で行わせてもらえるようになり、コツコツと目で見える成長を周りにも認めてもらい、出来るものを徐々に増やしてもらえるようになった。とは言え先輩デザイナーの足元にも及ばない。速度も顧客とのコミュニケーションも格段に劣る。これからの仕事をやっていく中で成長できるかはやってみないと分からない。今のところは上手くいっているが、いつか立ち止まることもあるかもしれない。でもこれからの目標は自立して一人でデザインを考えそれを多くの方に認めてもらえるようになることだ。認められるとは言っても、電車の中の広告や道の途中で張られている広告、宣伝で作られたパンフレットやポスティング等で配られるチラシ考えるとキリがないほどデザインというのは身の回りに溢れ、ありふれている。明らかな広告では「デザイン」と言うものを考え付くが、家電や家具でもデザインというものはある。ペン一つ取ってもそうだ。デザインは人の気を惹かせる。この世で人工的に作られたものは全てデザインから入る。その一部を担うことが出来るというのはとても嬉しい。広告デザインとはすなわちデザインを惹き立たせるためのデザインと言える。0から1では無く100を200に、彩る。何かの商品を多くの人に見てもらえるか、どこかの会社を誰かのために見せるのか、様々な理由でこの会社にデザインを依頼する。会社の顔をより綺麗にして見る人の元へ届ける。デザイナーになって間もない自分でもデザイナーになる前では考えたり目に入ってこなかったことが沢山ある。デザイナーになって気付いたこと。今まで目に入れないようにしていたのかもしれない。これからはきっと目を逸らすことは無いだろう。この仕事の意味を、やりがいを見つけることが出来たから。
デザイナーになってかれこれ3年が経った。会社員になってから数えればもう5年ほど。デザイナーになった後の方の時間が多くなった。あの頃先輩だったデザイナーにも意見を出したり、共同作業を任されたりと充実した仕事が出来ていると思う。あの頃のやりがいを見つけられずふらふらしていた時が嘘のように毎日忙しなく働いている。しかし疲れがたまって体調を崩すことも無く今の仕事が天職だと言えるほど元気に働けている。この理由には読書も関係しているのだろう。自分の下にもデザイナーになる人がいたりと会社も絶好調で動いている。自分が操作を教えることも増えてきた。今は前のように責任逃れをしようという考えは無い。自分のやり方に自信を持ち、教え、それが間違っていたら誰かが教えてくれる。そんな環境だから、自分も自信を持てるようになってきた。自分やこの会社が成長しているということは世界も成長しているのだ。この会社にとっては新しいデザインのソフトが出来て効率が格段と上がったり、それを習得するのにずいぶん努力したり、デザイナーの中には独立して会社を立ち上げていなくなってしまった人もいる。寂しいこともあるが、新しい出来事はいつも光って輝いて見える。そんな時は自分が暗く見えてどうしても自分からはひどく惨めに見えてしまうが、それはその時の人がいつにも増して輝いて見えるだけで自分は変わらず今の光を照らしている。自分の存在を発揮できている。そう思うことで自分を持てている。前はこれすら出来ていなかった。誰かに隠れて陰に潜んで波風立たせずひっそり過ごしていた。もちろんそれが天職の人もいるだろうが、自分はそんな自分が嫌だとどこかでずっと思っていた。それがふらふらしていたあの頃の浮ついた気持ちだったのだろう。そしてそれを自分の力で改善することが出来た。正確に言えば自分だけの力ではないが、自分の人生を構成してくれたものたちのおかげで出来たことだ。それは自分にとってとても素晴らしいことだった。これからも自分の人生にも困難が沢山出てくるかもしれないが、自分らしい何かを見つけ、実行することの出来る人生を送っていきたい。
変わらず本屋にも通っている。今仕事を張り切って頑張ることが出来ているのは本のおかげ。彼女の古本屋に行ったり、前に通っていた書店にもたまに通っている。速見さんのお店にも行っている。彼女の古本屋にはいつも金曜日の夜か土曜日に行っている。もはやルーティーン化し始めている。相変わらずお店の中はがらんとしているが、窓から差し込む陽の光や夜にお店全体を照らすやや暖色の光が暖かみを醸し出している。その景色はとても綺麗で好きな場所。大抵は行くと本を読んでいる彼女を見る。彼女の前に積まれている本の山は行く度に変わっていて、彼女の顔を扉の所から見れることもあれば見えずに驚かせることもある。最初の内は彼女の驚く顔を見れたが、段々と彼女も察しが付くようになってきて逆に驚かせられたり、本で見えないけどカウンターにいると思って見に行った時に彼女がいなくてあれ?と思ったら後ろから彼女が飛びかかってきたこともあった。ビビりが苦手な自分はすっかり声の出るおもちゃにされてしまった。おかげで距離も縮まって千晴さん呼びにも随分と慣れてきた。彼女の読書姿を見るたびに読んでいる本が変わっていることも見つけたりと新しい発見や光景を見たりすることもある。ほとんどの時間を本に注ぎ込んでいる彼女の読書量はとても気になるところだ。一体彼女は何冊の本を読んできたのだろうかと考えることがある。もちろんそんなこと聞いてもしっかり数えてくることも曖昧な答えをすることもしないだろう。きっと彼女なら「分かりませんよ。」と笑って答えるだろう。と思っていても答え合わせをしようとは思わない。ただそう想像するだけで楽しいからだ。会社の帰りにいろんな本屋に立ち寄っては気になった本を見つけるとこの本を彼女は読んだことがあるのだろうかと想像してただ一人気分が良くなってくる。こう聞くと気持ち悪いが、決して彼女のことを付け回すような行為をしたいとかそういう訳ではない。そんな事絶対したくない。でも、自分が読みたい本を読んだ後彼女に会いに行ってこの本は読んだことがあるかと聞いて彼女が読んでいたらその時は前のように感想会を開く。感想会を開かない日もあるが、あの頃からずっとカウンターの側には空いた一つの椅子が置いてある。それだけで自分の居場所が一つ増えたような、そんな気持ちになる。いつでも帰ってきていいよと言ってくれているようで、それがとてつもなく幸せだ。そして一つ、あの頃と変わったことと言えば、感想会で自分だけが感想を言うのではなく、彼女も彼女の言葉で感想を伝えてくれるようになった。彼女はまた自分とは違う言葉で感想を言うので新しい発見になったり、新しい言葉を知ることが出来たりメリットしかない。彼女におすすめしてもらった本や、自分からおすすめした本も、沢山の本を彼女と共有し、いつも朗らかな気持ちで帰り道を歩く。たまに、その足のまま速見さんのブックカフェに行ったり、日曜日にフラッと遠出したい時なんかに速見さんのブックカフェに寄る。たまの散歩に丁度良い。何駅か歩いていくこともある。
彼女にここを教えてもらった後、彼女は誘わず一人で寄ったことがあった。その時は夕方近くになっていて日没寸前の暗くなりそうな時間だった。速見さんのブックカフェがいつもどのくらい繁盛しているのか分からなかったから多い客も想定した上でドアを開けた。中は彼女のお店のように本棚が転々とは置いていないから店内の見晴らしも良い。その店内はおそらく10人ちょっと入ることが出来るが、がらんとしていた。一人飲み物を片手に本を読んでいる人がいた。彼女だった。一人で来るつもりが前の時と同じ風景になった。と思ったが、彼女と速見さんが自分に気付くと速見さんは「いらっしゃい。」と、彼女は「こんばんは。」とすぐに声をかけてくれた。そして彼女は自分の意図を汲んでくれたのか「速見さん今日はもう帰りますね。」と帰っていった。速見さんと二人になり、飲み物を頼んだ後、速見さんのことを待ちながら本棚の本を見ていた。前に来た時には全然見ていなかった本をずらっと見て行って、今回はタイトルで興味を持ったものを選んだ。タイトルは「曲がり道の途中にある出会い」。タイトルを見た感じ恋愛小説かなと思いながら包まれているカバーを外す。表紙は綺麗な女性の上半身を描いたものだった。印象は暗い。表紙からはどんな小説か分からない。あらすじを見て内容を知る。先に言えば恋愛も絡んでくるものだった。しかしあらすじには書かれていない恐怖が小説を読んで明らかになる。言えばこれは「執着」をテーマに書かれた短編連作小説だった。短い物語が最後には一つの大きな膿となってこの本を恐ろしいものとして捉えさせる。彼女が書いたシリーズものを一冊にギュッと詰め込んだそんな感じ。彼女の本より一つの物語が短い分音楽で言うところの歌詞のように人によって如何様にも考察が出来てしまうようなものもあった。例えばある物語は登場人物の性別も年齢も名前も分からない一見意味不明な文も勝手に登場人物に特徴をつけるだけで全く変わった物語になるような面白い文もあった。読んで新しい物語を知ったという良い経験と、経験したことの無い深い執着というものが同時に襲ってきて恐ろしい気持ちになった。これを買った時の速見さんはすごく妙な顔をしていた。何か変なものを見るときのような妙な視線だった。読み終わった後にはあの妙な視線も理解が出来た。そう思うとあの時の速見さんはついにでもこの本について話したかったのではとも思ってきた。この日、自分は速見さんと本についていろいろな話をした。一番話したのは彼女が書いた6作の小説。二人が今わかっている時点で同じく話ができるのはこれだろうと思った。案の定速見さんも彼女の6作を読んでいた。しかし彼の場合は自分から見つけたらしい。見つけて読んでこの本棚に置いていたら彼女が訪れた時に意気投合して仲良くなり、この本の作者だと知り驚いたと。いややっぱり驚くよな。この本について話していると彼と自分の興味のあるジャンルも同じようなものだと知っていった。そこからどんどん仲が深まっていき、彼女を挟まずとも二人でよく話もするようになった。彼女の言っていた通り、ここも自分にとっての一つの居場所になった。彼女ともよく速見さんの話をしたり、予定を立てずとも同じ日にカフェに通ってばったり遭遇なんてこともあった。それはまあ、大きな理由は自分が彼女の言っていたように日曜日に通っていたからだ。他の曜日に通っても彼女は現れたことが無い。そして別の曜日には少ないながらも常連さんか、お客さんがいた。本を見ている人もいた。彼女の古本屋よりは儲かっていそうだ。要因はやっぱりマップへの搭載。彼女もマップに登録すれば少なからず来客は見込めると思うのに、彼女は何故かしない。出来ないのか?こんな時間も彼女はお店で本を読んでいることだろう。
もしかして速見さんも本を書いているのでは?と疑問が出てきたので試しに聞いてみると、やはり彼も本を書いていた。知らない小説だったが、速見さんは「これはバカ売れしたぞ!」と自慢げに笑いながら紹介してくれた。彼は彼女よりも多くの本を書いているそうだ。今書いている本で13作目になるそう。「しがない物書きで、全然売れていないけどね」と笑いながら言った。小説家の売れるという基準が分からない。だが、自分にとっては一冊でも書いたことがある人はすごい人だ。しかも初の作品は賞までも取ったそうだ。その作品を聞いて、もちろん彼と興味も同じようなものだから、自分も興味を持ってしまってそのまま購入した。しかもサイン付きだった。なんてことではなく、ただ速見さんが速見さんの名前を書いただけだが、作者の名前付きは価値があるものだ。それを売ってくれたことが嬉しかった。これまで本好きの人に出会ったことはあっても本を書く人にまでは出会ったことが無い。とは言え人と交流していたのも学生の頃だから当たり前と言えばそうなってしまう。それなのに彼女に会ってから彼女もそうだが、本好きから進んだのか、本を書く人に短い期間で二人も出会っている。その二人は本を多くの人に与えるためにほとんどの利益を気にしていないという共通点もあった。本を書いているその利益で賄えているのだろうか。こんなこと現実で起こるものなのだろうか。知らない世界に入ると途端に何も分からなくなる。当たり前のことではあるが、自分を入れずに友達同士だけで知らない会話をしているような疎外感を感じてしまう。職業のことはどうしようもないとは分かっているが、どうしても心はむずむずしてしまう。こんなことになったのも彼女が全てを運んできたと言っても良いくらいだ。この嫉妬に似たむずかゆい気持ちも、友達という言葉の重みを感じたのも、全部。しかしまあ、不思議なことが続くこんな日々に前ほど驚かないのは自分が慣れてしまったのだろうか。こんなこと慣れたくはないのだが、慣れないことには自分の寿命はどんどん削られる。それでもこれからの毎日もこんな日々の繰り返しであってほしいと願うばかりだ。読書を再開してからというもの、不思議な縁の巡り合わせが続くのは嬉しいことだし、これからも新しい縁が出来ることを望んでいる。
そうそう、彼女はまた新たな小説を書いたと言ってきた。
「パソコンで書いているから見ませんか?」と言われたが、自分は電子で小説が読めない。何度か試したことがあるが、何故か集中出来ない。同じ人もいるのではないだろうか、あれはブルーライトが関係でもしているのだろうか。漫画はまだ読めるため電子で購入したりもするが、小説はどうしても出来ない。だから断った。彼女もまた、電子で小説は読めない人だったそうだ。そんな人がよくPCで原稿をか書けたな、と思ったが、実際PCを操作しながら見る画面と操作をせずにただページをめくるだけの作業では全然違う。思えば自分だって仕事でずっとPCを使って仕事をしているのだから同じことだ。今になって気付くとは遅すぎだったが、彼女の書いた新しい小説は出版されるまで気長に待つとしよう。次の小説は一人の人生を描いた物語だそうだ。一体どんな人の人生を見れるのだろうか、彼女はどんな人のことを書きたいと思ったのだろうか。「出版できたら一度声を掛けてくださいね。」とお願いをし、二人はまた他の本に目を向けた。
いつだったか、彼女と連絡先を交換した。しかし彼女から何かのお誘いをもらうことなど無く、連絡先を交換した意味はあったのだろうかと思うほど使われないものを眺めている時、彼女から一つのメッセージが送られてきた。
「間違いだらけの道だらけ」と。
ん?これは何だ?なんだか毛むくじゃらみたいな語感に感じた。ネットで調べてみると映画が出てきた。絶賛上映中という言葉の入ったサイトも見つけた。もしかしてこれは一緒に映画に行こうということなのだろうか。と、少しワクワクしたが、よく見るともうほとんど上映されておらず、今は一日に2,3本上映されている程度で誘うには時期が遅くはないか?とも思った。見つけて興味を持ったのが遅かったのかもしれない。でも出てきたネットニュースには大ヒットと書かれていた。2か月前の記事で。彼女はネットに疎いのかもしれない。遠出した先で偶然映画のポスターを見たのかもしれない。ここは無難に聞くだけにしようと、
「どうしたんですか?」と送ると、秒で既読が付き、ずっと待たせていたのかもしれないと思った。が、彼女の返信はその日中に帰ってくることは無かった。次の日、彼女が起きたであろう時間に返信が来た。
「この本面白いです」
本のことだった。再度調べると映画の原作となった小説もあったようで、彼女はそれを言いたかったようだ。
「映画かと思ってました」と返すと、また秒で既読が付き、
「映画あるんですか 見たいです。」と。彼女はメッセージからも分かりそうなほどネットに疎そうだ。
「行きますか、映画。早く行かないと終わっちゃうんで早めがいいんですけど、今週日曜どうですか?」
「オッケーです。行きましょう。」
「じゃあ、千晴さんの店の前に13時半でいいですか?」
「はい。」そうやってメッセージでの会話は終わった。
約束の日曜日、お店の前に行くと彼女の姿は無かった。まだ約束の時間より5分早いから5分待とう。そうして5分待ったが、彼女は出てこなかった。CLOSEDの扉のずっと横にあったインターホンを押す。ピンポーンとよくある音が鳴った。すると扉の結構奥からドドドッとバタバタしている音が聞こえた。少し笑ってしまった。そしてその後すぐに扉が開いた。
「お待たせしました。」とやってきた彼女は普段より格段にオシャレだった。
「一段とオシャレですね。」そう言うと、
「時間かけたのでオシャレですよね。」と自慢げに髪を撫でた。その仕草が彼女の可愛さを更に際立てた。自分たちが住んでいる場所の近くには映画館が無い。一番近くの映画館を前もって調べたため、彼女を案内するように先導していたが、初めて行く場所の道順など知るわけが無いマップで調べ、間違わないように道を進んだ。彼女はそんな自分のことも悪く言わないし、変わりましょうかとも言わず、自分にまかせてくれた。何とかして映画館の入っている大型ショッピングモールに着くことが出来た。しかしなんとまあ、計算通りにいってはくれなかった。映画館の時間を見たらすでに上映が始まって半分は経っていた。最初から見た方が絶対に良いが、そうすればこれから2時間は暇が空く。彼女に相談すると彼女は快くそのことを引き受けてくれた。先にチケットを買い、待っている間にモールの中を歩き回った。彼女と好きなところを回っては何も買わずに新しいお店に行ったり、本当に買いたいものがあれば買ったり、そんなこんなであっという間に2時間が経った。映画館ではポップコーンと言うが、自分はポップコーンが苦手だ。彼女にポップコーンを買うか聞くと、彼女も苦手なんだそうだ。彼女の嗜好と同じなのは嬉しかった。家族でも自分だけが要らない立場でなんだか肩身が狭かった。ポップコーンが嫌いな二人が飲み物だけ買って受付を通って、買った席に座る。大ヒットだと言っていたのにもうすっかり人の量も減っていた。このくらいの量だと近くにわざわざ席取りするような人もほぼいない。悠々自適な風に過ごせるのはとても嬉しい。会場の照明が消え、いくつかの広告映像とあのカメラの泥棒さんが流れている間に、あらすじを見ていなかったことに気付いた。何系の物語かすら知らない。
「千晴さん、これってどんなジャンルなんですか?」小声で彼女に今更聞く。
「え、知らないまま来たんですか?じゃあそれを利用して何も知らない状態で見てみたらいいんじゃないですか?」彼女の提案は面白いことだった。しかし自分は怖いものは無理だ。
「怖くはないですよね?」そう聞くと、
「さあ、どうでしょうね?」とにやけながら彼女は言った。彼女は自分がホラー等の怖いものが苦手なことを知っているため、この発言はおそらく冗談で言っていることだ。そう思って少しだけ安心した。きっと人が死ぬようなものではないのだろう。
映画製作のあの文字が出てきて映画に切り替わった途端、暗闇の画面にこれは救急車のサイレンだろうか、サイレンが鳴った。サイレンが遠ざかりながら音が低くなっていくにつれて静かになっていく音響とともに画面が徐々に明るくなった。ある部屋の一室。病院のようだ。一人の少女が眠っていた。それから数秒の静寂の後、彼女が目を覚ますこと無く場面が変わった。おそらく高校と思わしき制服を着た多くの人だかりが教室の中でおしゃべりしている様子を見るときっと休憩時間なのだろう。さっきの静寂と打って変わって騒がしい言葉が連なって人から人へと続く。カメラは教室のクラス看板が付けられているあの付近から教室全体を映していた。皆がある程度のグループを作っている中、誰も近寄らない一つの席があった。一番後ろの窓際の席。カメラのピントはこの席に合っているよう。特にいじめをしているという訳ではない。そもそもそこには誰も座っていないのだ。一つの小さな袋が一つ、机の横にかけられているのが一瞬だが見えた。誰も使っていないわけではなさそうだ。チャイムが鳴り、生徒たちが各々の席に座る。それでもその空白の席には誰も座らなかった。先生が教室に入り、おそらく授業が始まった。生徒たちが各々の席について先生を待つ間静かな時間が流れるのは自分も経験したことがある。しかし、それは先生が来てからも変わらなかった。無音で授業が始まる。これが何を意味しているのか分からなった。そしてピントの合った空白の席の意味もまた分からなかった。次の場面はまた眠ったままの少女の病室だった。きっとこの少女も高校生だと思った。さっきの空席は少女のものか。数秒して、重めの音でガラガラと扉が開いた。彼女の母親だろうか。彼女の部屋に飾られていた花はこの人が変えているようだ。そして彼女に話しかける。何を喋っても反応しないことを知っているように独り言のように喋る。彼女の意識が無いのだと明らかに分かった。そして「また来るね」と言って彼女は帰っていった。その時、少女の目がピクッと動いたのだ。半目ではあるがそのまま少女は目を覚ます。そして丁度良く現れた看護師によって医師に伝わり、さっきまでいた彼女も帰ってきた。やはり彼女は母親だった。母親は泣きながら少女に嬉しさを伝えるも、少女は目を開けただけで他は目を開ける前と何も変わらず反応がなかった。動くことすらない。母は疑問に思って医師の方を見ると医師から「説明します」と別室に連れていかれ、説明を聞く。少女は事故で怪我をして入院していたのだが、少女の見た光景を考えるとトラウマになってもおかしくないと思えるような、事故の時の回想が流れた。おそらく事故の二次被害で脳内が物事を捉えることを拒絶している可能性があると。一種のPTSDのようなものだと。言葉を話すのもすぐには無理だと。これから家族が出来ることは未来に希望を見せること。音を聞かせ、声を掛け、文字を見せ、手を触り、顔を視界に入れ、笑顔を見せる。出来ることを増やすことで日常に戻せる可能性が高くなる。母は全てのことを時間のある限りずっと試し続けていた。そんな中、少女の自宅に一人の女子高生が訪れる。少女の容体はどうかと尋ね、目を覚ましたことを伝える。すると、お見舞いに行ってもいいかと提案される。母にとってはとてもありがたいことだった。「ぜひ」と言った。次の日からというもの、毎日何人もの同級生、クラスメイトがお見舞いに訪れてきた。表情を変えない少女のことを見てもみんな優しく声を掛け、様々なお見舞い品を置いていき、母が飾る花だけではなく、色々なもので溢れた部屋になっていった。少女は学校では嫌いな人がいない程の優しく明るい人だったと。そうして沢山の人が訪れる中で少女にも変化が現れる。少しずつ笑顔が戻っていったのだ。その変化には観客の自分も泣きそうになった。最近は何かしらの盛り上がりがあるようなストーリーが望まれているように思う。ただの日々の暮らしを見るだけの物語には意味を持たないような。でもそれは違うな、とこれを見て思った。日々の中の変化でも涙が出てしまうようなそんな日々を送る人だっているのだ。少女はその後徐々に体を動かすようになり、母の手握り返したり、遠くの机に置いてあった友達からも手紙を自ら手に取り読んだり、そして遂には言葉も話すようにまで戻っていった。しかし記憶が断片的にしか残っていないようでたまに今いる場所が分からなくなったりするためまだ入院生活が続くようだが、それでも誰かしらが来て近況を話したり、今流行っている物を教えてくれたりとずっと少女を見守っていた。そして遂に少女の退院が決まった。まだ通院は続くが、自宅に戻ることが決まった。事故現場が学校から自宅の間であり、通学路だったことからPTSDを引き起こすことを考え引っ越しをして事故の道を通らないようにした。それと同時に学校にも復帰し始めた。記憶が所々無くなっていて大変そうだが、少女を囲む優しい友達のおかげで笑顔で学校にも通っている。半年以上休んでいたことで進級は出来なかったものの、休み時間等で友達が来て一緒に過ごしたりと素敵な学校生活を送っている。それで映画は終了した。
「間違いだらけの道だらけ」。このタイトルの意味は何なのだろうか。彼女はどう解釈したのだろうか。このタイトルと映画だけ見ると自分は人生を想像した。人は一日に何万回?かの選択をすると言われているからだ。人生を線路や道と表す人もいるし。
しかし少女の最後の笑顔には涙が出るほどだった。そして隣に座っていた彼女もまたそうだった。エンドロールが終わり、照明が付いて隣を見るとハンカチで涙を拭っている彼女がいた。
「良かったですね。すごく原作通りの物を作られてて、でもここまで泣かせてくるとは思ってませんでした。」と言いながら、彼女はまだ止まっていない涙を拭いていた。
「原作も読みたくなりました。大きな出来事が出てこないような、言い方は悪くなるけど平坦な物語って途中で飽きると思うんですけど、これは飽きるどころか感情移入できてしまう良い作品でしたね。」
「原作も負けていないくらい素晴らしいのでぜひ読んでください。」彼女の涙が止まったところで外に出る。映画を見て会場から出た後の解放感は見た映画が面白くてもつまらなくても同じように伸びをしたくなる解放感だ。彼女は自分の横で堂々と伸びをしていた。それを見ていたことに気付いた彼女が、
「今回の時間は短い方でしたけど、2時間近く同じ姿勢だと部屋から出たら伸びしたくありません?」と聞いてきた。まさしくさっき考えていたことだ。
「なりますけど、ここでします?結構人いますけど、」と出てきた客と入る客でごった返している周りの様子を見ながら言うと、
「そうですか?邪魔しなければ気にせず伸びしたら良いじゃないですか。気持ち良いですよー。」と。彼女の真似をして自分も伸びをした。気持ち良い。
「ね、気持ち良いでしょう?」
「まあ、はい。」
「ほらー」と笑われた。きっと彼女にはこれからもかなわないんだろうなと改めて思った。
「これからどうしましょうか。帰りますか?」尋ねると、彼女は
「本屋に行きましょう。」と言ってどんどんどこか行く場所を知っているように迷わず進み続けた。大型モールを出てからも自分はその彼女の後ろを付いて行くばかりだった。大型モールなのだから本屋だって入っているのではと思ったが、映画を見る前の空いた2時間では見ていないから彼女はここに本屋が無いことを知っていたのだろうか。この彼女の後ろを行く感じ、どこかで・・・あ、速見さんのお店に行った時だ。ここら辺にも彼女の行きつけの本屋があるのだろうか。彼女の後を進むと住宅街に入っていった。こんな場所にあるのか?と思っていたらまたお店の並ぶ大通りに出た。右に曲がり数歩、彼女の足が止まる。その建物を見るもそこは喫茶店のようで、本屋では無い。彼女は振り返ってこう言った。
「お腹空きません?」いきなりの発言にびっくりした。
「えっっと、空いてません。」
「なーんだ、ここのごはん美味しいのに。」これは食べたいのだろう。
「食べますか?」
「良いですか?」彼女の目はキラキラしていた。お腹空いていたのか。喫茶店に入ると彼女はがっつりハヤシライスを頼み、自分はお腹が空いていなかったためコーヒーとプリンを頼み、料理が届くのを待った。その間に映画のタイトルのことを彼女に聞いた。
「さっき見た映画のタイトルってどういう意味か分かりますか?」
「原作小説を読むと多分同じ答えになると思うんですけど、私は記憶のことだと思います。映画には載っていなかったところで小説にはあるところを読めばそう思うと思います。その本を今から買いに行くんです。」あ、本屋に行くというのはそういうことだったのか。
「記憶が飛び飛びだったシーンがあったでしょう?あんな感じの表現が結構出てくるんです。映画では美化されていたけどそれで苦しむ姿とかも出てきて、記憶に残っているものが全て正しいことかは分からないじゃないですか。都合の良い感じに変えたりできるものなんですよ人間というものは。思い出補正ってやつですよ。道というのはきっとこれまで歩んできた人生の記憶を表してるのかと私は思っています。あとは、あの映画には続きがあるんです。映画として作る際に切ったんでしょうけど、元の本にはあるのでぜひ読んでみてください。」そういうことか。面白い。
「面白いですね、原作を読んだ人と映画のみを見た人とで解釈が変わる。」
「明さんは違うんですか?解釈。」
「自分が最初に思ったのは人生です。」
「同じような感じですよね。」
「いや、自分は色んな人のこれからの人生を思ったんです。千晴さんはあの主人公の人生の記憶ってことですよね?過去と未来で違うんですよ。まあ、映画のことを考えると未来とも違う気もしてきましたが。」
「いいじゃないですか。その考えもありだと思います。主人公の道だけではなく他の人とかの人生も考えたっていうことですよね、あとはこの作品の始まりをどこに置くかで解釈が変わるって感じじゃないですか?」彼女は読み終わりをスタートにして考えた、自分は映画の見始めをスタートにしたということだ。確かにそうするとかなりの差が出来るはずだ。
「そういう考え方が出来るんですね!面白いです。」話しているうちに料理も届き、彼女はハヤシライスを食べ始めた。それを見ていると
「見てたらお腹空きますよ。ここのナポリタンとか絶品ですよ。」とメニューを差し出しながら言われた。おすすめはハヤシライスじゃないのかい。そう突っ込みたくなった。でも、
「大丈夫です。」と言ってメニューを元の場所に戻し、コーヒーと共にプリンを食べる。甘いものだからコーヒーをブラックで飲んでみた。大成功。苦みと甘みが程よくて別格だった。
「また今度お腹が空いてるときに来てみます。それより、プリンとコーヒー合いますよ、ブラックだと苦みと甘みで美味しいです。千晴さんもこれ試してみてくださいよ。」
「絶対そうした方が良いですよ!私もコーヒーとプリン試してみますから!」彼女は空腹から解放され、食欲の赴くままに食べて元気になった様子にこちらも元気をもらった。そして彼女が食べ終えたら外に出て、また彼女の後ろについて本屋に向かう。すぐそこだったらしく、1分かからず本屋に着いた。かなり大きめの本屋だった。こんなところにこんな書店があったとは。そして入店してすぐにあの映画の原作小説が目に入った。きっと興味がない人にも見てもらえるような配置にしたのだろう。映画はもうすぐ終わりそうなのにこの書店ではまだ激推ししている店員さんでもいるのか、かなり売れているのか、どっちか分からないが、こちらとしては分かりやすくて大助かりだ。
「これですね!」淡い色の表紙にはあの映画の雰囲気が込められている気がした。彼女はこの表紙を見たことがなかったらしく、これは映画仕様の表紙が上に付けられているのだと気付いた。映画化されるとよくあるものだ。彼女は良いなーと言いながらも同じ本は二冊も要らないと言って自分が買うのを待っていた。それに対して、
「今日これ買って前千晴さんが買ったのをお店で売ったらどうですか?」と提案してみた。彼女はそんなことを考えていなかったようで、
「その手があった!」とそそくさと一冊手に取りレジへ向かった。一部始終を見ていた自分はもう笑ってしまって周りからきっと変な目で見られていたことだろう。彼女の行動の速度には笑うしかなかった。まあそれほどお客さんもいなかったし、それにその時はいつも気にしていた周りの目など全く気にしていなかった。これが彼女の素敵な力だと思っている。周りの人を笑顔にしてくれる力。二人ともこの本一冊を買って帰ると思いきや、二人同時にまた文庫本のコーナーに戻って本を見始めていた。二人の息も3年経ってかなり近くなってきたことだろう。自分はそう思っている。本屋は図書館のように静かにする必要はない。でも自分はなんとなくスーパーやショッピングセンターなんかに行った時ほど声を出さないようにしていた。理由は自分でも分からない。でもこの時はそんな事考えることも無く、お互いに興味の出た本を見せては面白そうだとか、読んだことあるとかずっと話していていつの間にか何冊も買おうとしていた。山のように積んだ本を持ってレジに行こうとした時、彼女は出費を考えたのか、残念そうに少し減らそうとしていた。しかし自分は選んだものを全部買おうとしていた。どうせ本以外に趣味も無い。お金を使うものと言えば本なのだ。彼女が諦めようとしていた本は丁度自分も買おうとしていた本だった。だから自分は提案した。
「これ買うので千晴さん、貸しましょうか?」と。それに彼女は
「良いんですか!?」と嬉々としていた。彼女のもやもやも晴れたようで、二人でまたレジに行って購入を済ませる。彼女の方は知らないが、自分の方は1万円を優に超えた。服に1万円は使えないのに本にはすぐ出せる。オタク心というものか。会計後、外に出るともうすっかり暗くなっていた。彼女のお店まで帰ってきて、彼女にさっき言っていた本を渡す。
「先に読んでくださいよ、明さんが買ったんですし。」彼女はそう遠慮したが、
「読むのに時間かかっちゃうと思うので持っててください。全部読んだ後にまだ千晴さんが読んでなかったら私が先に読みます。それでどうですか?それまでここで預かっていただいて。」そう言うと彼女は、
「分かりました。大切に読みます。ありがとうございます。」と受け止めてくれた。
「それじゃあ、今日はありがとうございました。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」彼女からの返事も聞いた後、家に帰った。帰り着いて電気をつけると時計は21時をもうすぐで指すところだった。帰り着いて安心感からか、お腹が空いた。さっきの喫茶店ではお腹も空いていなかったのに今になって何かを食べたくなった。適当に料理をして食べ終えた後、今日買った本を本棚に並べる。3年前には無かった少し大きめの本棚を引っ越しと同時に1年位前に買った。前の家より少し大きめの家に置いた本棚ももうすぐ全て埋まってしまいそうだ。3年分の読み溜めた本。大半は古本で埋まっている。古本屋に入ったことの無かったあの頃の自分には古本の価値など全く分からなかったが、今となれば自分にとって古本の価値は大きなものになっている。彼女と出会えたこと、速見さんに出会えたこと、読書仲間が出来たこと、自分の人生の支えになってくれていること。最後は新品の本でも出来たことかもしれない。しかし本一つで自分の人生は彩りを取り戻した。誰かが読んだ本が次の読者に届くその受け継がれはいつか風化してしまうかもしれない。それでも自分は捨てずに本を売るという選択をした本を愛する者の意志を大切に出来る人とこれからも一緒に大切にしていきたい。労働環境もプライベートも今の自分を形作ってくれている本たち。この本棚を見ると、いつも自然と笑顔になれる。優越感に浸れる気分だ。誰かに見せるわけでもないのに、それでも自分の憧れの部屋に近づいている気がして嬉しくなる。この本棚が埋まる前に今度また大きな本棚でも買おうか。そして彼女にそれを自慢してみよう。どうせふーん、とかで終わるんだろうけど、そんな話でも聞かないことは無いのが彼女の良いところだ。写真でも撮って見せてみようか、なんとなく、ペットを自慢するSNSアカウントの気持ちが分かった気がした。
彼女の新しい本も出た。前作は私が思っていたよりもすごく社会に影響を与えていたようで、アニメ化かドラマ化かされるほどだったようだ。確かにあの本は読んでいてとても面白いもので、ただ知識をひけらかすようなものでもなければマニアックな層のみに惹かれるほどの難しさも無い、映像化することでよりわかる部分もあるのだろう作品だと思う。あれは6作全てを読んで完結するものだ。これを社会もしっかり見つけていることに自分は嬉しく思った。彼女の新作はある人物の一生を描いたもの。人間、生まれたからには与えられる試練が誰しも存在するのだと、今壁にぶつかって倒れてしまいそうな人に届いてほしいと思った作品だった。彼女の作品をこれからも楽しみに自分も自分の選んだ道を自分らしく生きようと思った。
それから数か月、相も変わらず1か月毎くらいのペースであの古本屋を訪ねた。色んな本を交換して感想を交流させて、ずっと自分の居場所となっている。そんなある日、何年かの時を経て考えていたことを思い出し、質問した。
「この古本屋の店名って何て言うんですか?」何だそんな事か、となると思うが、ずっと思いながらここに来るといつの間にか忘れているという出来事の連続でなかなか聞けていなかったのだ。それにしても遅すぎることは知っている。彼女の返事を待つ。彼女は1秒も待たずに答えた。
「『古本屋』ですよ。」一瞬頭が思考を停止した。知ってますが?
「えっと、それは知ってるんですけど、」彼女は私にかぶせるように
「店名が、『古本屋』なんですよ。」笑顔で彼女は言った。そんな、犬にポチと名付けるように言わないでほしい。当たり前じゃないんだよ、それは。
「まんまを名付ける人初めて見たかもしれない。」
「良いじゃないですか。逆に当たり前にはどこにも無いから良いんですよ。」確かにそう考えることも出来るのか。彼女の思考は面白いものだな。きっといいアイデアが浮かばずそのまま名付けたとかなのでは?
「まあ、お祖母ちゃんから貰った時の名前もあったんですけど、名前は変えて新しくお店を作りなさいっておばあちゃんの手紙に書かれてて、何も思いつかなくてこれにしたんですけどね。」まさか予想が合うなんて。クスッと笑い声が出てしまった。
「何ですか?悪いですか?」
「いえ、悪いとか冷やかしで笑いが出たわけじゃなくて、予想していた考えだったので。」
「一緒の思考しいているなら分かりますよね、この店名にしたことも。」
「いや、それは分からないですね、千晴さんのことを考えてその考えに至ったというだけで。」
「なーんだ、どうせ誰も分かってくれないんですよ。」ムッとする彼女にまた笑ってしまった。それに更に彼女はムッとする。自分は笑いが止まらなくなってしまった。
「もう、もうやめてください。」笑いながら酸素の足りない声で彼女に言う。それが面白かったのか、彼女まで笑ってしまった。笑い声の連続でそれは収まる気配を見せなかった。暖かな空気を作り出す二人は春の日の光のような暖かみを帯びていた。
二人の笑い声だけがこの店に長く響いた。
誰も知らない『古本屋』 @_kyu_
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