落下生

@_kyu_

落下生

 私はよく考えている。道を歩きながら考えている。電車に乗りながら考えている。空を見て考えている。とは言え、最初に思いついたのは確か眠っている時だった。とある日の晩、ふと夢の中で思ったことだった。

 死ぬ時は、空を見て死にたいな、と。

 確かあれは夢でドラマのようなものを見ていたはずだ。テレビドラマなんかのフィクションでよく見かける落下死の自殺の仕方は、柵がないところでは正面から体を曲げずに落ちていったり、足からふっと飛ぶように死んでいく。柵があれば乗り越えてさっきのように落ちるか、柵を越えたその反動で落ちていく。そんなものだろう。落ちた後上を向いていることはあったりもするかもしれないが、落ちるシーンでいつも真正面から落ちる様子は、ずっと疑問だった。下を向きながら死にたくはないし、下の人に気を遣うぐらいなら最初から気を遣わないところで死にたい。本当に自殺をする人にはまだ出会ったことは無い。どんな心境で死ぬのか、そんなもの死んだ人には聞くことが出来ない。でもドラマで見る自殺は、いつも恐怖と戦っていた。息を荒くしながら落ちる下の方を見ながら怖がっている。死を選ぶことは怖い。その「怖い」という感情が無くなれば人はいつでも死ねると思う。ドラマでの自死は現実的では無い。フィクションだから。ドラマを見ていると命というものをどう捉えるかで死が怖いものかそうでないかが変わるだろうが、最後自分で死を選ぶのならば最後の景色くらい最高なものを見て死ねば良いのに、なんてことを思う。だからという訳ではないが、私の人生の最後、死ぬ時は後ろ向きに空を見て眠るように落ちていきたい。しかしそんな落下で死ねる保証なんてものはない。死ねたら良いが。実際本当にそんな風に陥ったら死ぬ場所なんて何処でも良くて、自然とふらっと死んで征くのだろう。そんな時の死に方は知らない。落下死以外に死ぬ時空を見ることの出来る死に方はあるのだろうか。知りたいな。別に行動にはしない。外で刺されても見れるかもしれないのでは?刺された後上を見て倒れたらいいのだ。でもそれは他殺になってしまうか。駄目だな。自分で自分を刺すことは絶対に無理だしなあ。他にはあるだろうか。

 学校の屋上なんて今は何処も解放されていないだろう。病院だってそうだろう。ドラマではいっぱい見れるのに。人が死ぬから。危ないから。今考えられるだけで視界いっぱいの空を見れるのは河川敷とかだろうか。立ったままではきついから寝転がって見ることを想定する。汚れなんて気にせず、人の気なんて気にしないのならば公園とかでも見れるか。でも木の生い茂る公園では見れないしな、なんて考える。普通に歩いていても空は見える。都会でも建物と建物の間に狭く閉じこもった空を見れる。田舎ならより広い視野で見れるだろう。どこにいても見れる。外で首を伸ばして顔を上げて上を見ればいつでも見える。でも、私は屋上なんかの高いところから、一人で視界いっぱいに空を見てみたい。誰よりも高く空を感じてみたい。でも飛行機なんかで見るような地球から離れて俯瞰して見るような空ではない。いつも見ているこのくらいの建物として出来る高さの空を見たい。2,3階くらいでも良いのだ。広大な場所で一人寝転がって空を見たい。何も考えずに空をぼーっと眺めていたい。何も考えずに無になる気分ってどんな感じなのだろう。

 そんな景色を死ぬ時にも見てみたい。死ぬ時にそうやって落下してみても落ちてみてどんな風に見えるのかは分からない。私には想像できない。私のやりたい向きでの落下死で即死が出来たら良いが、そうも簡単にはいかないだろう。するつもりはさらさらないが、興味はある。少し調べてみると高層階で地上から20メートル以上離れていても死なずに植物状態になることがあるらしい。条件は分からない。条件があったとてそれが確実とは限らないとは知っている。死にたくても死ねないというのは一番苦痛の状態だ。一か八かの賭け勝負ということになる。自殺なんて全てそんなものなのかもしれない。確実に死ねる方法を探す方が大変そうだ。医療も進歩している今となれば助けてくれることも多くなるはずだ。医療なんてものは命を繋ぐためのもので、緊急ともなれば人の意思などは関係ない。どんなに死にたくても、生きる余力があるならば医師は命を助けるだろう。それが仕事なのだから。落下死というものは事件なんかでよく使われる死に方だと思っていたが、実際にやるとなると難しそうだ。もしそんな状況に陥ったら、私はわずかな時間で空が綺麗だと思えるだろうか。思いたい。思える生涯であってほしい。そもそも私は何で死ぬのだろう。交通事故とかが良いな。

 こんな考えをするようになったのは、私が鬱になってからだった。鬱と言っても軽度の方だろう。少ないながらも外には出られる方だった。社会人になって3か月。仕事もやっと全体が見え始め、任されることも増えた時だった。たったそれだけ働いて体が壊れ始めた。以前からその傾向にはあったものの、学生の頃は何とか生活出来ていた。学生の時は期限というものが発生する。卒業という名の期限。それが私にとって生きながらえる意味だった。その時も空は綺麗だと思っていたが、死ぬ時に一番見たい景色とまでは思っていなかった。そもそも死ぬ時に見たい景色なんてものを考えること自体無かったのか。ずっと勉強しかしていなかったしな。やっと夢を見つけてその仕事を始められたのに、その夢も虚しく、例えれば、体が拒否反応を示した、という感じだろうか。通勤電車に乗れなくなった。足が竦んで動かない。それなのに震える。力が抜ける。最初は乗れていたのに下りると足が進まない。今も何でそうなったか分からない。別に希死念慮というものがあるわけではないが、その頃からなんとなく、死ぬという概念に尊さを感じなくなった。逆を見れば生きることにも尊さを感じてない。生きたいという希望が無くなったのだ。特に思い当たる出来事も無い。ふと自分を俯瞰して見てしまった。私という生き物は何で生きているのかと。周りで人が亡くなるような経験が少ないことも理由にあるのかもしれない。それはとても良いことだが、私にとっては自分の死を軽く考える一つの理由になってしまった。現実味が無いのだ。生きているということにも死ぬということにも。仕事に行っていた時期には乗っているバスが事故に遭ったりしないかな、と周りの人のことなど考えずに思ったりもした。別に会社に不満があったわけでも無いし、ブラック企業でも無かった。会社を辞めて半引きこもりになってから、自分の体調は快調に向かうかと思ったが、全くもってその道には進まなかった。そんな道があったのかも今はもう分からない。会社が原因でこうなったのではないということが分かったのは良かったのかもしれない。気分は毎日バラバラだし、体調も日によって動けない日もあったり。もう気分の良い日が戻ってくることは二度と無いんだなと思わされた。病院に通っている間も体調は変わらず最悪で、遂には目が情報を受け取らなくなってきた。以前から好きだった配信者の配信も、好きなアーティストのミュージックビデオも、ただ聞き流すように音楽も言葉も音でしか受け取れなかったし、目は画面を見ることも出来ずずっと閉じた状態のまま何にもならない音だけを聞いていた。前に好きだった読書も、日を追うごとに出来なくなっていき、読んでいない本が段々と溜まっていった。視界に入れることすら嫌になった。読みたいという欲はあるのに頭はそれを受け入れない。人と話すことも少なくなり、家から出ることも少なくなって、もうほぼ完全な引きこもりになっていた。しかし私は一人暮らしだ。生きるためには絶対に家を出なければならない。実家は遠く、帰るにもついこの間この家の更新料を払ったばかりで惜しいことと仕事をするにしてもこっちの方が稼ぎやすいということで、あと1年か2年はまだここにいるつもりだ。緊急を要したらすぐに帰るという母からの条件付き。死にたいわけでは無かったから食料調達に行かなければならなかった。幸い近くにスーパーがあったから良かった。死にたいわけではないが、生きたいわけでもない。何かのために生きるという理由になるものは、今の私の頭には無かった。だからもちろん今食べたいといったものも無かった。ただ生存を続けるために行う食事は全くもって美味しいとは感じなかった。何かに集中出来るわけでもなく、ぼーっとしているのが精一杯だった。

 そんな状態の私の拠り所になったのが空だった。大抵陽が沈む頃にしか外に出なかったが、いつも綺麗な色をしている空は私の心を落ち着かせてくれた。今まで見ていなかった色の空を見れたりもして面白いこともあった。そう思うくらいには空を見ていなかったということだ。そんな空を見るのはこの時の私が唯一心から楽しめるものだった。目に入るものは雲の流れと空の色のみ。情報をあまり受け取れないこの目にも優しいものだった。夜の空に星はそれほど見えなかったが、月が綺麗に見えていて、月を見ようと顔を上げた時に見えた月はほとんどが満月で、綺麗な丸の形には心が少し嬉しくなった。綺麗な三日月も見れた。これぞド定番と言えるほど綺麗な下弦の月。のんびり歩く道はいつも同じ道だったが、いつも違う色の空を見せてくれた。

歩いて20分ほどの少し遠くの距離にあるお店に散歩がてら歩いて行った時、丁度良く半分くらいの距離で公園があった。帰り道に休憩と称して公園のベンチに座って空を見た。薄い青空が季節を思わせた。この時は日差しはあったが、秋の風が強く吹いていて、薄手のコートは歩いている私には丁度良い暖かさだったのに、座っている私には少し寒かった。かさかさと揺れる木の葉は赤や茶の色を付けながら3分の1ほど落ちていた。長居しても風邪を引くだけだと思ったので気持ちが落ち着いたところでまた歩みを進めることにした。私の目はずっと空を向いていた。家に着いた頃にはもう日が沈む寸前だった。家に帰ると充電が切れたように力が抜けた。今日買ったものを片付ける前に力をまた入れなければならなくなって、少し休憩した。私の今の生活はずっとこうだ。何かするために毎回かなりの力を使う。到底今の状態では仕事をしたくても役に立てることは無いだろう。そんな自分が嫌になってまた自己嫌悪の波に攫われる。ソファーに横になって休憩している時に、ハッと思い出した。アイスを買っていた。ずっと前からアイスやお菓子は好きだから、栄養は取れないし駄目なことばかりだと分かっているものの、食欲が無い時なんかのために家には常備して置いている。アイスやその他冷凍食品も買っていたので、それだけを冷凍庫に入れてまたソファーに横になる。さっき行った時に全部片付ければ良い話なのだが、この時の私には出来なかった。その場で横になりたいくらいには力が無かった。遠くに行っていて疲れたことも影響しているのだろう。どうせすぐに腐るようなものは買っていないし少し置くくらいは大丈夫だ。そしてそのまま休憩のつもりで横になったソファーで1時間ほど眠ってしまっていた。起きた時に部屋が寒くて身震いをした。もうじき冬が来る。頭の痛くなる季節だ。暖房のボタンを押して自動の風量で動き始めたエアコンは設定温度と室内温度の差に気付いて力を上げる。私なんかよりエアコンの方がよっぽど会社にいてほしい材だ。ガーと鳴る音に奮い立たされ、私もさっきの買い物の中身を片付け始めた。片付けが終わるとまたしんどくなって休憩する。もう時間は20時を回っていた。お腹も空かない。もう今日はこのまま寝ようと布団に入った。食事を抜くことは日常茶飯事だったからもうどうでも良くなっていた。お腹空いたなと思った時に必要分だけ食べる。そんな生活。栄養はまあ偏っているだろうが、こんな体ではどうしようもない。そう割り切っている。もっと元気になってから料理をしたり栄養のことは考えようと。

 鬱になってから、今までほとんど見ていなかった夢を見るようになった。いつも変な夢。面白い夢もあるが、不思議な夢の方が多い。そんな夢を見ているおかげで寝ていても頭が働いているようで疲れが取れることなど無い。この日もまた、変な夢を見た。警察ものだろうか、死者が出てくる刑事ドラマでも見ているかのようなアングルと画角の変わり方、シーン展開にテレビを見ているのかと思った。しかし私はその物語の中にいた。現実ではありえない行動も出来事も夢の中では何の気無しに起こってしまう。それが意味不明で頭がおかしくなる。きっとそんな時の私の寝顔を見ると眉間にしわが寄っているのだろうなと思う。誰にも見せられないな。犯人でもいるのか、私は顔すら見たことも無い誰かを仲間と思わしき人と追っていた。最終的に捕まえられたのかも分からないまま目が覚めた。寝起きの悪い私にとってはいつもの気持ち悪い目覚めに夢の結末が分からないもぞもぞした気持ちが同時に襲ってきて更に気持ちの悪い目覚めになった。そんなことを言いながらも時間はもう昼過ぎになっていた。

 私の最近の一日は昼から始まることが多い。最初は夜に眠れず昼夜逆転していた時期もあったが、ようやく薬で眠れるようになった。だから昼夜逆転は脱却した。逆転というより融合と言えば良いのか?しっかり夜から寝ている。人より寝る時間が多くなってしまっているのだ。一日の半分は眠っていることもよくある。睡眠薬の調整がまだ完全には出来ておらず、いつも眠気に襲われている。前は全然眠れなかったのにいきなり眠り過ぎたりして先生も薬の調整が大変そうだ。眠気のせいで日中の集中力が無くなっているのかもしれない。原因は如何様にも考えられる。生産性も無く、途方も無い生活に踏ん切りをつけたいと何度も思った。でも、こんな体になったとて、死を軽く見たとて、自ら死を選ぶことは怖い。怖いと思うことすらなかった頃よりは気持ちがマシになっているのかもしれない。それに何処かしらに迷惑がかかる。一番迷惑をかけたくないのは家族だ。「親より先に死ぬなんて」という言葉はドラマなんかでよく聞く言葉。私もそうしたくはないが、それと同時に家族のいるうちに死にたいとも思う。私は今後家族を持たないという自信がかなりある。どれだけ願ってもそれほど簡単には死ねないし、それなのにあっけなく死んでしまう人もいる。人間は脆いのか、強いのか。毎日の何もしない生活では、要らない考え事をすることも多い。くだらないことも考えたり。まあ、大抵はいつの間にか夜になっていることがほとんどなのだが。こんな辛い生活が続くと、毎日お風呂に入る気力なんて到底出てこない。外に出ると決まっている日の前日には入るが、それ以外は耐えられなくなるまで入らないことが多い。他人に迷惑をかけなければ大丈夫だろう。私の場合は1週間前後。入ってからお風呂場でぼーっとして1時間が経過したこともあった。以前は毎日入らないと気持ち悪いと感じていたのに、もうそんな時が昔のようだ。

こんな生活になっても生きていれば日用品は必要になるのだ。私の最寄り駅周辺には私にとって良い感じの雑貨店がない。一駅進めばあるので月に1度か2度、運動のために歩いて買い物に行く。色々なお店を調べていろいろな場所に行こうとしているが、人混みが無理なので制限はかかってしまう。私の住んでいる地域は都会に近いけれど住宅街の中のため、人混みでごった返すほどではない。平日に行けばよりお客さんも少ない。引っ越してくるときに良い場所を選んだなと我ながらに褒め称えたい。買い物を済ませて帰り道を行く。前と違うお店ではあったものの、途中で前にも寄った公園を通る。この日もまたベンチに座って空を見た。近くにあった自販機であったかいのボタンを押す。もうこの時期になるとあったかいの赤い文字が半分以上を埋めるようになってくる。ガコンと出てきたカフェオレはあったかいを通り越して熱い。首に巻き付けているマフラーをミトン代わりに変な持ち方をしてベンチに座る。このカフェオレを飲み終わるまでは休憩していこう。そう思ってカフェオレを持って空を見た。この日の空は雲一つ見えない快晴だった。日差しはあれど、すっかり冬になったこの外では日差しの熱も何の役にも立ってくれない。悴んだ手を素手で持てるくらいに下がったカフェオレで温める。どうして手袋を買うという発想に至らなかったのか、真相は闇の中ということで。小さな缶のカフェオレはあっという間に終わってしまった。温かいカフェオレが体の中まで温かくしてくれて、体全体が温まった気がした。全然気付いていなかったが、来た時は誰もいなかったのにいつの間にか小学生くらいの子供たちが集まって遊んでいた。もうそんな時間なのかと思いながら、この日買った荷物を持って残りの帰り道も歩いて行った。さっきの缶カフェオレが効いたのか、今回は充電切れになる前に買い物の中身を片付けられた。まあ、片付けた後に速攻ソファーにダイブしてしまったが。開いたままのカーテンが日没を知らせてくる。私は光にも弱い状態で、電気の光でさえもあまり気分は良くならないが、何も見えなくなるから仕方なく電気を点ける。パッと点いた光に目が痛くなった。頭痛とめまいも。顔を手で覆ってしゃがみ込む。目の前を真っ暗にして何とか落ち着く。たまに起こること。さて、今日はご飯を食べよう、と準備を始める。と言ってもご飯を炊くだけ。これだけでも出来ていて偉いと思って生きている。そうしないとメンタルが持たない。以前はほぼ自炊をしていたから支出を抑えられていたが、今はレトルト様々だ。おかげで食費は以前より少し多くなってしまっているが、お金で解決できるなら出来る限り負担を減らせる方を選ぶ。だから通販も使って買い溜めしている。ご飯の炊ける音がして30分くらいぼーっとしていた。ご飯は炊きたてより少し保温で待った方が好き。この間に寝なくて良かった。その後レンジでレトルトカレーを温める。鍋でお湯を沸かす必要も無いという、便利な世の中にしてくれてありがたい気持ちでいっぱいだ。どんぶりにご飯とカレーをよそって、ケトルのお湯でインスタント味噌汁を作って、この日の夜ごはん完成。ちなみにこのご飯が今の私の状況で一番できる料理だ。料理と言えるものでもないのは承知の上で。ご飯までレンジのものにすると一気に食費が嵩むし、もう料理と言えなくなると思って頑張っている。食べ終わったら食器は水につけて明日の私に任せる。その後、この日はなんとなくスマホのメモ帳アプリを開いた。たまに見ている。私は夢を見てもすぐ忘れてしまう人間だが、最近の夢があまりにも面白くて不思議でたまに物語としてメモ帳に書き残している。目が覚めた瞬間の寝ぼけ眼で書き連ねた文は誤字だらけで何を伝えたかったのか記憶にもない物があったり、読んでいると思い出すこともあった。完結していないのは欠点だが、本よりも短い文章で読みやすく、覚えているとその時の映像が蘇ったりして鮮明な物語になったりする。だからこそ、結末が知りたくなってしまうんだが。でも、同じ夢を見ることは今のところ一回も無い。鬱になる前の生活で見ていたわずかな夢の中には夢の続きの夢を見るみたいな不思議体験もしたが、起こってほしい時には起こらない。物欲センサーとでもいうのか。夢にまで反応しなくても良いのに。私の見る夢は大抵顔が見えない。知らない人の顔を作らないのだ。人見知りの性格が夢にも表れているのだろうか。知っている人が出てくると顔もはっきり見える。しかしいずれにせよ画質は綺麗では無い。なんだか、靄がかかったような視界に淡い色で作られた世界は現実と違うことを私に知らせる。まるで加工した映像のようだ。その狭間が最近は薄れている気もして怖い。特に学生時代の夢はかなり鮮明なのだ。でもどこかおかしなところがあって夢と気付く。中学の時の同級生と高校の時の同級生が一緒にいて中学の部活をしていることがあった。現実ではあり得なかったが、もしあったらどんな化学反応が起こるのか、考えてみるのも面白いなと思う。時には私の苦手な発表という場が夢に出てきたことがあった。その時はものすごく心が跳ねた。嫌なのにそれが夢だと気付くのが遅いから不要な心を消耗したこともあった。起きる時は過呼吸になっていた。起きてから自分に嫌悪した。何やってんだろ、って思った。今心が擦り切れそうなのに自分からその最後の一歩を指そうとしているのだ。私の頭は私の言うことを聞いてくれないらしい。

 それから何日か長い日が過ぎた。お風呂に入ったからまた外に出ることにした日。今日は前とは違うお店。服屋さん。何か面白いものを求めて行ってみた。雑貨屋さんとは別方向に進むと知らない道を通る。通りすがる人たちも誰も知らない。そもそもご近所付き合いなどしていないから知る人などいない。知られていることも無いだろう。服屋さんに着くと、今日は案外人が多かった。お店に入って気が付く。今日は日曜日だった。日曜日のセールなんてものをやっていた。そんなものがあれば休日で人が多いところに更に人を呼び寄せてしまうじゃないか。出来れば平日にセールしようよ、なんて心の中で思いながらも来てしまったのだから少しは見て行こうと店内を巡った。引きこもりすぎると曜日感覚も狂ってしまう。今日が何日なのかも分からない。鬱になる前もそんな頭をしていたが、鬱と引きこもりのダブルパンチでそれが進行したとでも言えばいいのだろうか。いつもスマホのロック画面で今日の日付を見る。月の半分、そんな中の日曜日だった。それも真昼。子供連れの人も多くてワイワイしていた。ここはショッピングモール。たいして大きくはないが、近くでは一番お店が入っている場所だ。人も多いが、店が多い分人口密度はあまり高くない。1階にフードコートがあるから多いのだろう。休日は親も休みたいだろう。冬の温度管理は夏よりも辛い。冬は寒いところから急激に温かい部屋に入るから血が沸騰するような熱が発生する。それに頭が痛くなる。子供の笑い声や遊び声は良いものだ。高い声だがキーンと来るような声でも無い。泣き出してしまうと頭が痛くなってくるが、それはお母さんたちも同じだろう。子を育てるということは素晴らしいことだなと子供を見るとつくづく思う。そして親になった人々を尊敬する。子供の頃は結婚して子供が生まれるというものが当たり前だと思っていた。成長すればいつの間にかそんな事子供の時の空想だと気付く。それどころか恋人が出来ることすら無いなんてあの頃は思っていなかった。私は生涯子供を持つことも無いだろうと考えている。そんなこんな色々考えている中で、服を選びながら何が欲しいのかも分からなくなってきた。服屋さんは色が雑多に溢れている。基本は黒や白だが、疎らに色が混在している。それが私の目を痛めつける。服をとってもネットで買える世の中だ。初めから来るべきではなかったか、と疲れた私は落胆し、休憩したくなった。ショッピングモールには所々に座れるスペースがあるのが良いところ。飲み物を買って一息つく。自然とはあ、とため息が出た。座っている人もちらほら。奥さんや子供についてきたお父さんだろうか、男性陣がいた。みんな退屈そうにスマホをいじったりしていた。大切な休日に家族のために、誰かのために付き添うことが出来るのはそれがどんな感情であれ私には凄いことだと思う。興味の無いことにいちいち付き添うほどの心は持ち合わせていない。大切な人というものが出来れば変わるのだろうか。スマホを見ながらイヤホンを付けて音楽を聴く。音楽をバックグラウンドで聴きながら、服屋の前で通販サイトを開いて洋服を見る。これを知れば洋服屋の店員さんから嫌悪されそうだ。どんなものが良いか、実物を見てからの方が良いのは分かっているが、大量の洋服がいっぱい集結させられているハンガーラックを見ると今の私にはどうしても辛い。そうだ、靴を買おうか。このショッピングモールには靴屋さんも入っているっぽいが、わざわざ行くのもなあ、と服屋の中の靴売り場に行った。服屋の靴売り場は靴屋より狭いし色が少ない。白、黒、茶色だったりたまに奇抜な色があったりするが、洋服ほどではない。最近流行っている靴ってどんなものだろう。何故か知らないが、私がこの形良いなと思っているとその形が流行っていたり、前に流行っていたものだったり。私はこの世の人々の平均の興味を集めた好みを考える脳をしているのだろうか。そもそも今の若者の流行は切り替わるのが早すぎる。何故こんなにも目まぐるしく焦るのか。そんなことを考えながら結局靴を一つとタオルを何枚か買って今日の買い物は終了した。今回の道には途中に公園なんて無く、休むような場所も無かった。そのまま休憩せずに帰ったら、陽は落ち切らない程の夕暮れ過ぎだった。荷物を置いた後、なんとなく近くの公園に行った。散歩。あの2回行った公園とは違う公園。私の住んでいるここはさっき行った服屋さんほどの都会では無い。住宅街の名の通りファミリー層が多いのだろう。そのためか小規模な公園も多い。近くには保育園や幼稚園もあるのだろう。何度か横を通ったことはあったが、入ったのは今日が初めてだった。冬ということもあって日の暮れる時間が早いからいつも流れている子供に時間を知らせる放送も早い。そのおかげか、子供の姿も少なかった。日が暮れて真っ暗になるまで空を見ていた。上から藍色が迫る中、淡い黄みがかったオレンジの夕焼けがほんの少し、ここからは見えない地平線よりも上の方だけ見えた。水平線はどんな色をしているのだろう。そのオレンジの光も無くなって、薄い藍色に染まった空はますます濃く、もう黒と言ってもいいかというほどの藍色に染まり始め、人間の作った明かりが無いと道すら見えなくなってくる。もうそろそろ帰るかと立ち上がり、家に帰る方向に進んでいると仕事帰りらしき人が多く逆方向に向かってきた。家に帰り着くと真っ暗な部屋が冷たさを更に感じさせた。電気を点けると少し安心できる。いつもの家だ。今日は散歩も出来て、良い一日になった気がする。ご飯を食べて、早めに布団に入る。しかし簡単に眠りにはつけなかった。疲れているというのにどうしてこうも体は言うことを聞いてくれないのか。記憶の中では、それから1時間ほど経ってようやく眠りについた。眠りに就くというより私には意識を失うという方が合っている気がする。睡眠薬の力を借りないと眠れないこの体はどうしてしまったのだろうか。

 次の日、目覚めた時に少しだけ靄が薄れていた気がした。こんな風に近くの公園まででも散歩をすることで運動不足を少しでも解消できるかもしれないし、気分転換にもなるし。丁度良い暇つぶしにもなると思った。

 それからは度々公園に行くようになった。犬の散歩で寄る人や、学校終わりに寄る子供、保育園か幼稚園の帰りに寄ったであろう親子の姿を横目に空を見ていた。この日は雲の多い日だったが、曇天ではなく、白く大きい雲がわらわらと存在していた。昼に見る青空の中の雲が風によって動く様は見ていて面白い。音楽を聴きながら、目を閉じて音楽に浸ったり、空を見るために顔を上げて見ていたり。家では満喫できない体験に少し気持ちが昂った。もう少し気温が高ければ更に居心地が良くなりそうだ。しかし季節はこれから寒くなる。

 ある日、もう日課のようになってきた散歩で公園に行ってベンチに座っていた時、ある人が声をかけてきた。私はもちろん不審すぎて戸惑った。片方のイヤホンを外して脳内では道案内か何かに巻き込まれるかのどちらかだろうと思いながらも人見知りな私の心は防御態勢に入っていた。

「空、見ているんですか?」同世代くらいの女性。そう言うと彼女は隣に座ってきた。予想外の質問に脳内が一瞬混乱した。思考を停止した。

「・・・はい、どうかしましたか?」何で私に声をかけてきたのか分からないし、いきなり座ってきたのも訳が分からずに疑問を投げかけた。

「やっぱりそうだったんですね、実は以前もお見かけしまして、いつも空見てるのかなって思って声をかけたんです。」何だかぎこちない会話だ。今もまだ彼女がなぜ声をかけたのか分からない。彼女の返答は趣旨が分からなかった。

「空を見てるだけで何もしていませんよ。怪しかったり邪魔でしたら帰りましょうか。」そう言う私の声を塞ぐように彼女は声を出した。

「違います違います、一緒に空見ようかなって思ったんです。」何を言っているんだこの人は。私は彼女の言葉に耳を疑った。それが顔に出ていたのか、

「多分あなたの思ってるような怪しい者じゃないですよ、いや、怪しくも見えますよね。ただ、公園に来て空を見る人なんて初めて見たものだから珍しく感じて、私、あなたがいない時に空を見てみたんです。そしたらなんか心が落ち着いて、ああ、こういうことか、って言葉にならない思いがしたんです。あなたが空を見ていた理由が分かった気がして。本当に分かったかは分からないですけど。それで、あなたに会いたくなったんです。」確かに公園でずっと空を見ている人は私も見たことないかもしれない。よくそんな人を見つけたな。私なら素通りだ。

「今の私はこの空が唯一の楽しみなんです。」ぼーっとした気持ちの私には彼女がいることもいないことももうどちらでも良くなっていた。もう人ではなく喋るもの。

「体調でも悪いんですか?」彼女からの質問に適当に答える。

「まあ、そんなところです。」こんな時に人のコミュニケーションで労力を使うとは思っていなかった。気を遣いすぎていつも人とのコミュニケーションが苦手なのに、更には知らない人。普段知らない人は気を遣うことも無くずけずけとものを言ったりもするが、この人には何となく気を遣ってしまった。なんだか話が長くなりそうだったのだ。どうしてか嫌われたくないと思ってしまったのだろうか。でも私は気を遣いながらも虚ろな話し方しか出来なかった。もう余裕なんてない身だ。

「そうなんですね、それは心配です。私ここにいても良いですか?」本当に心配しているのかも分からない口ぶりとAIのような言葉だったが、さっきも思ったように彼女がいてもいなくても変わらない。それにこの人はどうせ質問に対する答えを聞かずともここにいるだろう。私の勘がそう言った。

「好きにしてください。私はここにいます。」そう言って彼女との話を切り上げたつもりだった。かなり酷い言い方をしたと思ったのに、彼女はその終わりに気付いていなかった。

「じゃあ、私もここにいますね。話しかけますけど、嫌だったら無視してください。」変な人だった。不思議というより変だった。俗に言う天然とかいう性格なのか?でも別に変態とか嫌な人というイメージは無かった。隣にいられても嫌な感じはしなかった。学生の時の友達くらいの距離で自然と私のパーソナルスペースに入り込んできた。同世代の女性という目に見える情報がそうさせたのかもしれない。私は以前から引っ込み思案な性格だったから、友達になるのはいつもこんな風にそっと横に入ってくれるような人ばかりだった。相手から来てくれないと友達作りは難しい。私にとっての友達作りは面接ほど緊張するものなのだ。私の友達になってくれる人はいつも多くの友達に囲まれていた。彼女も同じような性格をしているのだろうか。私は彼女のことを想像しながら空を見た。ああ、こんな人なのかもしれない。空のように広い心を持っている。懐がどこまでも深い。でも何でそんな人が私に興味を持ったのか。彼女は話しかけると言ったのに何も話しかけては来なかった。私は何を思ったのか、彼女に話しかけてしまった。

「何で私なんですか?」ふいに出た私の質問に彼女は驚いた。多分。きっと私が声をかけるとは思っていなかったのだろう。靴がズズッと動く音がした。その後彼女は話し始めた。

「なんか、あなたの周りの雰囲気が穏やかだったんですよ。生き急いでいるようには見えなかった。」確かに私は今別に生き急いでいる訳ではない。しかし生きている感覚すらも無い。

「現実がそうだからきっとそう見えたんでしょうね。あなたは生き急いでいるんですか?」私は一度も彼女の顔を見ずに彼女に話しかけた。彼女がこちらを向いているかは分からない。だが、彼女はそれを気にも留めていないようで、自然に話を続けてくれた。

「生き急いでいるんですかねー、ここにきて時間がゆっくり過ぎてる感じがするんですよね。あなたの隣は居心地が良い。あ、そうだ、私の名前、代崎かやのって言います。ひらがなでかやの。かやのって呼んでくれますか?年は23。同じくらいじゃないですかね?」

「今22だけどもう少しで誕生日で23です。同級生です。名前は山名結生です。結ぶに生きるって書きます。」共通点が見つかった。なんだか嬉しくなって彼女の方を向いてしまった。その後、気まずくなった私はまた空を見上げたが、彼女が話を始めた。私は大学に通って4年後、社会人になった。彼女は先に社会に出ていた。専門学校を卒業してもう3年目だそうだ。彼女から聞く知らない職種は面白かった。彼女の仕事は音楽関係らしい。子供のころからやっていたピアノを含めていくつかの楽器を演奏できるらしい。そしてライブなどの音楽隊の仕事や劇中歌の楽器を担当したり、その影響で曲なんかも作れるそう。音楽は聴いてもその裏事情なんかは知らないことだらけで彼女の話は聞いていて飽きなかった。彼女は自分の仕事のことを私に構わず喋ってくれた。私は彼女の話に口を出すことも無く、ラジオのように扱った。それでも彼女は嫌な顔一つせず話してくれた。私にとって今一番側にいてほしい相手だった。私に何かを強要するでもなく、ただ何かを話してくれる人。それを聞いていようが聞いていまいが関係ないと思ってくれる人。

「結生ちゃんは何の仕事してるの?」突然聞こえた質問は聞かれたくないことだった。私が口を開かず黙っていると、すぐに察知したように1秒足らずで彼女は言った。

「あ、言いたくないよね、ごめん。言わなくていいよ。」本当にどこまでも私の求めている人だった。それからしばらくの沈黙の後、私が辞めた仕事を話した。彼女は何か話を繋げようとしていたのか、私の言葉に驚いた。その時数分ぶりに彼女の顔を見た。また空を見直して、辞めたことも話すと、

「そうだったんだね、辛いね。頑張ったね。」今にも泣き出しそうだった。ずっと誰にも話していないことだった。母には言っているが、他の友人には言っていない。初めて打ち明けたのは初めましての人だった。今まで空を見ていて顔は上に向けていたから涙が零れそうになってすぐに下を向いた。彼女は私の行動を理解したようにハンカチを渡してくれた。それを受け取って声を出せないままお辞儀をした。

「あ、あれ何の花だろう。」彼女は私が下を向いたことを良いように、さっきまで見ていた空から下の地面に目を下げた。ベンチの横には花壇があった。気付かなかった。花なんて咲いてるんだ、冬なのに。なんでも卒なくこなす彼女は一体何者なんだと思った。彼女は人として出来すぎている。こんな人になれればもっと素敵な人生が送れたのかな、なんて思ってしまった。日が暮れそうになった頃、彼女が「帰ろっか。」と言った。暗くなる前に帰ろうと。私もそれに従った。帰り道、彼女は私の家と反対方向に進んだ。もうきっとこの先彼女に出会うことは無いだろう。挨拶もすることなく歩き出した彼女と同じように私は私の家の方向に進み始めた。直後、後ろから正確なリズムを刻んで軽快な音を立てて人が近づいてきた。肩をポンポンと叩かれて、思わず跳ねた。その様子に耐えられなかったらしい。彼女の溢れてくる笑いをただ見ていた。

「なんですか。」少し拗ねたように言う私に、

「ふふっ、可愛い。」とまだ笑いながら彼女は言った。人を小ばかにしてるのか、と少し拗ねていたが、彼女は私が同じ方向に来ると思っていたらしく、一緒に帰れると思っていたらしい。後についてこない私を追いかけてきたと。何でまだ一緒にいる意味が?と思ったが、彼女は私のことを完全に友達になった人だと思っていたらしく、「友達でしょ?」と。連絡先を交換しようと言われた。私はそんな事全く考えていなかったから、驚いた。鬱になって友達を作るなんて思考に行ったことが無かった。鬱になって初めて友達が出来た。学校という確立されたコミュニティでは馴染みやすい人の中でなんとなく友達かな、という関係だったが、社会人になればそんなコミュニティは無い。自分で行動を起こさなければ友達など出来ないと思った。でも彼女はそのコミュニティを作ってくれた。連絡先を交換し、お互い別方向の家に帰った。帰り着くと彼女から「よろしくね」というメッセージと共にスタンプが送られてきた。可愛い変な生き物のスタンプだった。変なところの合う趣味を持っていそうだ。私からも「よろしくお願いします」という以前バイト先の上司に使っていたスタンプを送った。一応まだ疑り深いため、敬語は外すことが出来なかった。

 その後も彼女は関係ないことでも私にメッセージを送ってきた。そもそも私にはメッセージを送ることすら必要性があるのか分からなかった。私の履歴は日記のように使われている感覚だった。ある日は「おはよう」だけ。ある日は料理の写真だけ。ある日は「今何してるの?」と質問が来たり。ほぼ毎日のように。彼女の行動は読めなかった。それに毎回返す訳でもなく、既読を付けるだけの時の方が多かった。そんな折、彼女が「今何してるの?」と送ってきた時に丁度良く前に会った公園にいる時があった。その公園にいる旨を伝えると、彼女は既読を付けただけで返信はしてこなかった。彼女は私からの返信にほぼ全て返してきていた。いつも会話の最後は彼女だった。だからか、私は返信しないことも多々あるのに彼女からの返信が無いとなんとなく不安になった。そしてそれから5分くらい経った頃、彼女は現れた。

「久しぶり!」元気な彼女には付いて行けないが、彼女は私が付いてこなくてもお構いなしに自分の行動をするから私は気兼ねなく自分らしくゆっくりしていられる。久しぶりという彼女の言葉には何も返さず、ベンチのスペースを開ける。そこに彼女はすっと入ってきた。その時、まだ出会って間もないのに彼女とはなんとなくだが、馬が合うような、気持ちが通じ合えるようなそんな気がした。この日は初めて会ってから数週間は経っていた頃だった。今日もまた二人で空を見た。その光景が目に留まって面白かったのか、公園の横を通ったおばあさんから、

「仲良いのねー、二人して上見てて。何かあるの?」と話しかけられた。もちろん私は戸惑ったが、彼女はコミュニティなどお手の物のようにおばあさんと少し話をしておばあさんはどこかに行ってしまった。彼女はおばあさんとの会話が終わって

「あのおばあちゃんオシャレだったね。」と話しかけてきた。私はそんなところを見ずに自らコミュニティを断ったため、何も言えなかった。彼女はそれでも私を見放すことは無かった。こういうところが彼女の良いところなのだろう。でも、だからこそ私みたいな人に話しかけて、自らの自由を奪われていないかが気になった。

「かやのさん、私と会うの嫌じゃないですか?」不安越しの私の質問に彼女は

「え!全然嫌じゃないよ!むしろ毎日会いたいくらい!」何で彼女がここまで思ってくれるのかが分からなかった。彼女は私のその心境を見透かしたように言ってきた。

「結生ちゃんは私が結生ちゃんのためにメッセージ送ったり、今日会いに来たと思った?私の行動は全部私の自己満足でやってることだよ。それが結生ちゃんにどう影響しようがそんな事私は考えていない。もしこの行動が結生ちゃんのためだと思ったのなら、それは、私たちの需要と供給が綺麗に合わさったっていうことかな。」彼女の言っている言葉を理解するのに時間がかかった。無言の時間が続き、これを破ったのは彼女だった。

「総じて言えば、私と結生ちゃんは気兼ねなく仲良く出来る友達になれるってことかな。」私の思っていた、今の私にとって一番側にいてほしい人というものを彼女も私に思ってくれていたということだろうか。

「私が隣にいて良かったって思うんですか?」

「もちろん。出会ってくれてありがとうって思ってるよ。あの日、声かけて良かったって。」

「私も声かけてくれて嬉しかったです。」幼い時からずっと優等生を演じていた私には、優等生というレッテル以外に私を見せる材料が無かった。だからそれを駄目にした鬱は私にとって最もの恥だったのだ。あの日から何も出来なくなってしまって、自分が嫌になって。知らない間に泣いていたり、いきなり悲しい感情に飲み込まれて抜け出せなくなったり。もう私には生きていく希望なんて無かった。そんな中でも遠くに家族がいるから、自分が死んだら被害を受ける人がいるから、何とかして這いつくばるように生き続けてきて、そんな生活で人からありがとうなんて思われる機会なんてある訳が無かった。この時一気に涙が溢れた。そういえば洗濯したまま返していない彼女のハンカチが家に置いてある。彼女の前では何故か自然と涙が出る。私はこの時頭で考えることが出来ずに何も言わず彼女を残して家に帰ってしまった。彼女のハンカチを手に、また公園に行った。走った。彼女がまだいることを祈って久しぶりに走った。泣きながら走った。運動不足の体には数分の距離でも苦痛を与えた。呼吸が荒くなりながらも彼女の元に行った。彼女はまだそこにいた。彼女が視界に入ると私は歩いて呼吸を整えた。涙も抑えてさっき座ってたベンチにまた座って彼女にハンカチを返した。感謝も伝えて。

「いい香り。洗濯してくれたんだ。ありがとう。」彼女の落ち着いた言葉は一つ一つが私を安心させてくれた。ありがとうを大切に言ってくれる人はこちらからも大切にしたい。

「こちらこそ、返すのが遅くなってしまってごめんなさい。さっきまで忘れてました。」私の発言がどうやら気に食わなかったらしく、彼女は首を傾げた。

「結生ちゃん、ずっと敬語だよね。同い年だからタメ口でいいのに。私は勝手にタメ口使い始めて逆に失礼だったけど、結生ちゃんは謙虚すぎるね。」

「こんな私が私なんです。小学校から高校まではクラスメイトとか仲の良い人には普通に喋れてたんですけど、大学から距離感が分からなくなって、学年が同じでも距離が近くても、あんまり敬語が抜けなくて。仕事してると上から下まで年齢関係なく序列が決まるから後輩であってもなんとなく敬語使ってしまって。どうしたら治るんでしょうね。これは。」ほぼ独り言のようにつらつら口から出た言葉を彼女は全部しっかり聞いてくれた。

「そっか、それならそれで分かった。結生ちゃんは結生ちゃんののペースで良いよ。私は結生ちゃんにそのことを教えてもらった。最初に会った時言ったでしょ?生き急いでるって。仕事も軌道に乗り始めて何とかやれるようになって来て、でもこの忙しさが一生続くのか、なんて考えて、それに丁度相性の合わない依頼人にめちゃくちゃ言われた時でむしゃくしゃしてて、そんな時にたまたま公園で座ってる結生ちゃんを見かけたの。最初はなんかぼーっとしてる人だなーって横目に見てて。不思議な人だなって思ってたの。今まで会ったことの無い人だった。私の仕事の場で会う人って忙しい人が多くて締め切りとかで大変なこともあるから。そんな感じにしか思っていなかったのに、何度か見ているうちに結生ちゃんの周りはなんだか、ふわふわしているような、なんて言えば良いのか分からないけど、時間に追われる私とは違う世界線で生きているような、そんな空気を纏ってたんだよね。そして、意を決して声をかけた。」

「私はただ働かずにぼーっとしていただけなのに知らない人から見たらそう思うこともあるんですね。意を決してって、話しかけた時緊張でもしてたんですか?そうは見えなかったけど。」

「もう、めちゃくちゃ緊張しましたよ。ただでさえ知らない人に隣良いですか?って普通気持ち悪いでしょ。現に警戒されちゃったし、結生ちゃんに。」それもそうか。でも、

「でも、電車では普通に知らない人の隣に座りません?あれと同じ感じかと思ってました。それと、前回はすみませんでした。初対面の人は怖いから入るので…。」

「良いんですよ、謝ること何もやってないし。あと、電車ではお隣さんと話しませんよね?私が思うのは、例えれば病院とか?たまに待合室で話しかけてくるおじさんとかおばさんいません?」

「出会ったことないですね。」お互い意味がわからなくなってきたところで二人とも笑った。

「結生ちゃんの笑顔初めて見た気がする。可愛いね。」何だか久しぶりに自然と笑えた気がする。彼女はいつも私に肯定の言葉をくれる。そしてそれで救われる心がここにある。そう思った。彼女の澄んだ気持ちが私に向けられるのは何だか嬉しい。

「かやのさんの名前の由来って何なんですか?分からないとか言いたくなければ言わなくて結構ですけど。」

「茅野ってまあ、ざっくり言うと原っぱかな?広大な原っぱ的な?そんな感じで付けたんだと。で、読みにくいからかひらがなで。でもひらがなの『かやの』って可愛くない?私は気に入ってるんだよねー、この名前。」

「私も可愛い名前だなって思いました。語感?が可愛い。」

「結生ちゃんは?名前の由来。言えればでいいけど。」彼女は私に無理強いをしてこない人だ。

「人と人を繋ぐ存在。だそうです。今の私には全然出来てないですけど。」苦笑いをして言った。

「出来てるじゃん。私と結生ちゃん。それに、きっと結生ちゃんのお父さんとお母さんのことも言ってるんじゃないかなって私は今聞いて思ったよ。結生ちゃんの命がお父さんとお母さんを繋げた。そう思わない?なんとなく出てきた考えだけどね。」それを聞いて思い出した。私の両親はいわゆるデキ婚。私がお腹にいることが分かって結婚したらしい。結婚式はしていないけど写真だけ私が生まれてから撮っていた。その写真は実家のリビングに飾られている。弟が生まれた時も家族写真を撮った。それも一緒に飾られている。もう父とは死別してしまって母と弟が実家にいる。母は再婚する気は無いそうだ。一途な恋とは凄いな。家族4人で撮った写真は数少ない。だから母は父の映っている写真を昔からリビングに飾っていたのだ。私は母の反対を押し切って大学に入って夢を目指した。そしてその先の姿がこの様だ。母は生存確認でもしているのか、度々連絡をくれる。自分の死はあまり危機感が無いのに実家にいる家族の生存はたまに急に心配になる。その度に過呼吸手前の状態になる。母は私のことを責めなかった。大学まで出してやったのに、的なことも言う時はあれど、一番は私の体調の心配をいつもしてくれる。優しい母だ。そんな母に親孝行出来るような人間にならなかったことを申し訳ないと、鬱になってずっと思っている。反対はしても最後は頑張れと見送ってくれた母に。

「思い返したらそうも思えてきました。気付かせてくれてありがとうございます。」斜め45度、彼女の方を向き、お辞儀をする。そしてまた正面に体勢を戻して空を見上げる。今日の空は青空が大半を埋めているが、横から少し黒い雲が押し寄せてきていた。これから雨でも降るのだろうか、ただの曇りであってほしいなと思うばかり。彼女の横顔を見ると彼女は目を閉じていた。音楽を聴いている訳でもないのに目を閉じていた。眠いのか?私は目からの情報が辛くなった時、目を閉じるのだが、そうすると耳が敏感になってしまう。少しの音でも近くで音がすると不安になって目を開ける。だから音楽を聴いていない時に外で目を閉じることはあまり無い。空を見て耳の情報を紛らわしている。彼女はどうして目を閉じているのか。彼女に聞く前に自分で真似をしてみた。何故やろうと思ったかあの時の私には聞くことが出来ない。彼女が隣にいると安心出来たからかもしれない。やってみると視覚からは得られないものがあった。子供の遊び声、ペットの鳴き声、車の通る音、人の歩く足音、そして風に揺れる木の葉が擦れる音。全部私が拒絶していた音。閉じることをしなかった視界を遮ったら、今まで何とも思っていなかった、もしくは嫌だと決めつけていた様々な音が楽しそうに聞こえてきた。今聞こえる音がどんな感情で出てきている音なのかは分からない。それを私は想像できる。勝手に感情をも決めつけられる。空ばかりを見ていた時とは違う新しい良さを知った。

「どう?音もいいでしょ。空を見るだけじゃなくて音も癒しになるよ。」彼女は私が彼女の真似をしていることに気付いたらしく、そう声をかけてきた。

「視界と音が合わさると辛いものも片方ずつ感じるとそれぞれの良さを感じますね。木の葉の音が好きです。冬でも葉が付いている木があって良かった。心地良い音がします。」

「良かった。この世は空以外にもいっぱい素敵なものがあるんだから。結生ちゃんが好きなもの探していこう、一緒に。これから楽しみだな。」彼女の顔はワクワクを抑えきれずに満面の笑みを浮かべていた。そんな彼女の表情に私も励まされた。心が少し軽くなった。

 彼女の仕事は不規則だ。そう聞いたわけではい。ただ、メッセージが送られてくる時間、会う時間がバラバラなのだ。休みの日が決まっている訳ではなさそうで、そう思った。仕事の内容的にもそうなのかなと思ったし。もちろん仕事終わりに会うこともあった。その時は「疲れたー」と疲労を嘆いたりもしていた。そんなある日、メッセージを送ってもいない日の夜に公園でばったり出会った。もう陽は完全に沈み切って夜だった。スマホの中ではもう毎日のように彼女からのメッセージが送られてきていて、いつも会っているような感覚に陥っていたから、なんとなく久しぶりな感じは無かった。彼女も同じように思ったらしい。驚く素振りも無く、まるで今も一緒にいたように話しかけてきた。

「ねえねえ、これ食べる?」彼女は買い物帰りだったようで、私に近付いてきてお菓子を出してきた。二人ともどちらからともなくベンチに近付いていた。もうベンチが私と彼女の定位置になってしまっている気がする。彼女の変わらぬマイペースさに安心感まで覚えた。彼女とこうして会ったのは前回から1か月も経っていた。私は1か月前と変わらず自分の優れない体調と気分に振り回されていた。そんな最中の出会いに、私は嬉しさを感じていた。そして私もまるで一緒に買い物に行ったかのように言った。

「私チョコが良いです。」彼女がさっき出してきたお菓子はビスケットだった。ちなみに彼女の食の好みは知らない。彼女がチョコを食べるのかどうかも知らない。だから今彼女の手元にチョコのお菓子があるかも分からない。勝手のわがままを言ってみた。彼女はどんな反応をするのだろうか。なんか私にも友達と楽しく会話をする余裕が出来たみたいだ。今日だけかもしれない。買い物に行こうとしていたもだから。

「チョコ好きなの?私も好き!じゃあこれどう?」彼女はビスケットを袋に入れて次のものを取り出した。チョコビスケット。彼女はかなりビスケットが好きなようだ。

「え、もらっていいんですか?」まさか本当に出てくるとは思っていなかった。そんな私の反応に彼女はきょとんとしていた。

「結生ちゃんがチョコが良いって言ったんじゃん。」それはそうだが、そんなに簡単に人にものを与えるものなのか。彼女の性格ならまあ納得できる気もするが、そんな感じでいたら彼女は奉仕しすぎて疲れたりしないのだろうか。彼女の心の深さには心底憧れるが、それと同時に可哀想に思ってしまう。私が勝手に思っているだけで彼女は別にそんなことも気にしていないのだろうな。

「はい、どうぞ。」一緒にベンチに座った私の目の前に彼女は開けた袋を出してきた。

「いただきます。」手を合わせてそう言って一つ取った。彼女から「行儀が良いね。」と言われたが、毎回手を合わせている訳ではない。人から貰う時は必ずしているだけだ。彼女も一つ取り、口に入れる。二人してサクサクと無言で食べた。静かな空気にサクサク音だけが流れる。一種のASMR。ビスケットは口が渇く。チラッと彼女の方を見ると彼女も同じだったようで彼女は買っていた飲み物を袋から出して飲んでいた。私は何も買っていない。近くの自販機で飲み物を買ってこようと立ち上がった時、彼女が私の服の袖を引っ張った。驚いてバッと振り返る。彼女は二個目のお菓子を口にしてもぐもぐと口を動かしていた。だからすぐには喋ってくれなかった。口にお菓子が入っているであろう彼女は前もってお茶を出してくれていたようで、そのペットボトルを指差した。私が座っていたその近くにお茶のペットボトルを置いてくれていた。喋らずともあげると言ってくれていると分かって、

「お茶まで良いんですか?ありがとうございます。」そう言うと彼女はニコッと笑ってベンチの空いた場所をトントンと叩いた。私はそこに座る。もらったお茶を開けて飲む。私は緑茶が好きだ。彼女が置いていたものは緑茶だった。彼女が飲んでいたのはミネラルウォーター。私の好みを把握しているかのようでびっくりした。

「私が緑茶を好きなのよく分かりましたね。」

「え?別に知らなかったよ。好きだったの?それは良かった。本当は水渡した方が良かったんだろうけど、なんも考えずに先に私が飲んじゃったから。紅茶は好き嫌いありそうだけど緑茶なら大半は飲めると思って。どうせ紅茶は私飲めないんだけどね。」笑って言った。彼女はなんとなくで渡したのだろう。私がもし緑茶を好きじゃなかったらきっと別の物を買ってくれるんだろうなとも思った。

「かやのさんは緑茶好きなんですか?」

「うん、お茶の中では一番好きかな。」今まで飲み物の好みも食の好みすら知らなかったことにびっくりするくらいには話が通じ合いすぎていた。

「ビスケット好きなんですか?」

「おお、今日は質問多めですね、好きとか考えてなかったけど、確かにさっきから私ビスケットしか出してないね。ビスケットが好きというか、この商品が好きなんだよね。さっき出したビスケットも。結生ちゃんは何か好きなのある?お菓子で。」

「チョコですね、もうずっとチョコばっかり食べてます。チョコなら多分何でも。あ、でもオレンジにチョコかけたやつだけはどうしても無理なんですよね、だからそれ以外は多分食べれますし好きです。」

「そうだよね、さっきも言ってたもんね、チョコ食べたいって。オランジェットっていうやつね、私は好きだな、あれ。」彼女はそっか、と笑いながら言った。

「あの、いつか、一緒にご飯食べに行きませんか?」何となく彼女といて言ってしまった提案だった。まだ仕事には復帰できていない。誰かと食事に行くなど考えてもいなかったが、彼女となら行けるかもとふと思ってしまった。多分、行きたいと思ったのだ。それがさらっと口から出てしまった。この提案に、彼女は

「え!行こう!」とノリノリで乗ってくれた。しかし彼女は私のことも考慮して予約はせず、どちらも都合が良い日にしようと細かく提案してくれた。私は彼女に鬱だとまでは言っていない。でももう彼女は気付いているだろう。仕事を辞めたことすら言っているのだから普通勘づいてしまうか。それでここまでしてくれるのはもしかしたら同情なのかもしれない。でも私はその気持ちを利用した。二人でどんな店が良いかとか、何時くらいにしようかとか、細かく決めていってあと決めるのは日付だけになった。二人が大丈夫な日を何日か挙げて複数日決めておいた。その日になってどちらかが行けなくなればまた次の候補日に、という感じで食事の話し合いが終了した。その後も彼女のお菓子が無くなるまで他のことを話して一緒にいた。最近の仕事は辛いらしい。期限が短いのに大変な作業を担当させられて必死だという。それでも仕事を頑張っているだけ私には素晴らしいと思う。

「かやのさんはそれでも投げ出さないんだから凄いですよ。良いですね、頑張れて。」私は彼女に私が出来なかったことを投げつけるように言ってしまった。言った瞬間後悔した。彼女はこの発言に少しの間無言だった。その静かな間は私の不安を焚きつけるのに十分な時間だった。ごめんなさい、と謝ろうとした時、隣から鼻をすする音がした。彼女は下を向いていた。泣いている。私が彼女を泣かせた。あんなにいつも笑顔だった彼女の顔を悲しくさせた。そのことに自分を恨めしく思った。

「ごめんなさい。私の一方的な八つ当たりです。気にしないでください。かやのさんは凄いです。私には出来ないことを出来ている。それだけでもうしっかり過ぎるほど凄いんです。」

「え?八つ当たりで言ってたの?結生ちゃんが凄いって言ってくれて嬉しかったよ。全然八つ当たりなんて思わなかったし、それが本当でもそれでも私に何かを話してくれるだけで私は嬉しいよ。」彼女が泣いていた理由は私の言葉に目が緩んだからだったそうだ。私の発言が傷つけたと思っていたが、安心を与えていたそうだ。良かった。彼女の綺麗な心を傷つけなくて本当に良かった。

「さっきの話ですけど、大変な作業の中で今ここにいて大丈夫なんですか?」

「24時間時間は使えるけど、それを全て仕事に当てたくはないし、こうやって結生ちゃんに会えたんだからこっちを優先したいよ。それで仕事が駄目になったとしてもそれは全力を尽くした結果だから残念なんて思わないと思う。それだけ私の実力に合わなかったってことになるだけだよ。なんなら結生ちゃんに会えて元気が出たまであるし。」彼女はそう言って今回も私のことを責めることは無かった。彼女の仕事が、どうか成功に終わることを願った。そうしてお菓子も無くなって、時間もかなり経っていることに気付き、彼女とは別れた。私は今日買い物に行こうとしていたが、帰る頃にはすっかりその目的も忘れて家に帰っていた。帰り着いて一息ついたところで買い物を思い出だしたが、明日に回すことにして、今日はそのまま眠りについた。

 それから2週間ほど経った頃、最近彼女からの連絡がいつもよりそっけない時期が1週間ほどあって、遂には連絡が無い日があった。もう既に彼女のメッセージを見るのが毎日の日課になっていた私は、メッセージが届かない日の方がなんだかそわそわしてしまっていた。そんな日の夜、彼女からメッセージが来た。夜はあまりメッセージを送ってこないから意外だった。しかしメッセージの文を読んでその理由が分かった。この間彼女が大変だと嘆いていた仕事が成功したようだ。この連絡には私も嬉しくなった。本来はこの先に食事に行こうとしている日があったのだが、私が提案して今日この後行かないかと言ってみた。彼女はそのことにメッセージ越しからも伝わってくるほどの勢いで了承してくれた。待ち合わせはいつもの公園。もう夜だから人なんていない。側の道路にいくつか街灯はあるものの、ベンチのところにポツンとある街灯と近くにある自販機の明かりが公園を照らす数少ない光だ。ベンチに座って彼女を待つ。数分後、彼女は走ってやってきた。

「ゆっくりでよかったのに。走らなくても。」

「結生ちゃんに早く会いたくて。」笑顔で言う彼女の言葉はきっと恋人が聞いたら惚れ直すこと間違いないだろう。彼女にはそんな気が一つも無いのがまたあざとさを煽る。

「さ、行こ!」彼女はすぐに呼吸が整ってまた歩き出した。私もその横を歩く。決めたお店は昼から開いているのに夜遅くまでやっているカフェレストランのようなお店。チェーン店では無いが、夜遅くでもディナーが頼めるから凄く重宝されそうなお店。本来は昼に行く予定だったのを私が夜にしてしまった。思った通りお店の中は客で埋まっていた。しかも今日はまさかの土曜日。その光景を見て、彼女が私に聞いてきた。

「人多いね、やっぱり止めとく?」彼女のちょっとしたお祝い的な名目で来たのにここまで私に配慮してくれるのは私が彼女にとって大切な存在だと思ってもらえているのかもと思わせてくるようだった。人は多いが、ここを除けばこの近くにこの時間から入れるお店は限りなく少ない。

「大丈夫。入ろ。」そう言う私を彼女は止めて外に出した。

「私のためにしてくれてるのはとっても嬉しいけど、それで結生ちゃんが我慢するのは違うと思う。それなら帰ろう。それか、公園で前みたいにお菓子食べながらとかでもいいし、寒いから良ければ私の家でも良いけど、結生ちゃんも楽しめる場所で一緒に楽しみたい。どうかな?」私の顔が引きつっていたのか、彼女に心配までされてしまった。それじゃあこの際甘えよう。

「心配してくれてありがとう。かやのさんのおうち行ってみたいかも。」そう言うと彼女は「よし!」と私の手を握ってすぐさま方向を変え、彼女の家があるであろう方に歩き始めた。私はその彼女に黙って付いて行った。この時の胸の高鳴りはただの発作だったのだろうか、彼女に手を取ってもらって気持ちが浮ついたことは今でも覚えている。今どこを歩いているのかも分からない程知らない道を歩いて5分くらいだろうか、彼女が建物の敷地内に入っていった。おそらくこのマンションが彼女の家なのだろう。私の家よりもずっと高そうな家に驚いた。中層くらいのマンションだが新しそうな外観と綺麗な見た目は高級さを窺わせた。2年も前に社会に出ているからそんな差が出来ることもあるかもしれないが、改めて彼女の仕事の凄さを知った。オートロック付きマンション。私はオートロック付きの家に住んだことが無いから彼女の操作にいちいち何をしているのか興味を持った。ただ鍵を開けているだけではあるが。そして自動ドアが開きエレベーターに乗る。どこかの階で降り、彼女の部屋に着く。スマホをドアの取っ手の上にある長方形ともまた違う形の何かに近付ける。その瞬間ピー、ガチャ、と音がして彼女がドアを開ける。何の機械かは分からないが鍵のようだ。未来だな。「どうぞ入って。」と言われて「お邪魔します。」と言って入る。人の家に入るのなんていつ以来だろうか。友達と遊ぶとなってもいつも外だったし、家に上がるほどの親密な関係になったような人もいない。この選択は私にとってかなり強気に出たものだった。彼女の部屋は綺麗に片付けられていて、もう何年も住んで勝手が分かり切ったような、言わば実家のような雰囲気があった。これを言うと彼女は怒ってしまうだろうか。なんて考えて言うのを止めた。「好きなところに座って待ってて。」と言われて促された部屋の真ん中にソファー、その横にローテーブル、テレビもあってまさに実家感があった。その中には実家には無いものもあった。隅に置かれたキーボードとギターだ。近くにデスクもあった。彼女の商売道具だろう。この広い部屋はおそらくリビングと仕事場を兼任している。ソファーがその二つを仕切っていて、ソファーとローテーブルの下にはカーペットも敷いてあり、こんな時何処に座るのかというものの正解を知らない私は一応ソファーとテーブルの間のカーペットに座った。後にお茶とお菓子を持ってきた彼女に笑われてしまった。そんなに笑うほどかと思ったが、前から感じていたもので、彼女の笑いのツボはかなり浅そうだなという考えは更に確信を持ち始めていた。

「ハマりが良くて笑っちゃう。そんなとこに座んないでソファー使っていいんだよ。」と爆笑されながら体を持ち上げられ、ソファーに座らされた。テレビをつけて見もしない番組をただ流すだけ流して彼女はお茶を2つのコップに注いで、「乾杯しよ!」と。私もコップを持って、二人で「乾杯!」とコップを交わした。彼女はアルコールは飲まないのだろうか。その後は彼女が仕事のことを話し始めた。今回の仕事について。今回の仕事が終わったことでこれから少しは休みが増えるかもと嬉しそうに言っていた。彼女が楽しそうで何よりだった。時々誰かの愚痴を言っていたりもして感情の起伏が激しくて面白かった。彼女の話は終わりを知らず、もう1、2時間は経っただろうか、彼女の話を聞きながら、私の頭は虚ろになっていった。これは寝てしまうな、と思いながら、耐えきれずそのまま意識を失った。目が覚めると知らない部屋だった。おそらく彼女の寝室。如何にも隣にはまだ眠ったままの彼女がいた。眠り姫。誰かと同じベッドで寝ることなど、もう実家のお母さんと一緒に寝ていた幼少期以来だ。掛け布団の中の温かな二人の体温が心も温めた。一人では感じることすら出来ない出来事だ。彼女を起こさないようにベッドから出て、寝室を出る。初めて入った他人の部屋をこそこそ詮索するのは良く無いと分かっているが、何とも思っていなくても気になるものは気になってしまう。寝室にはかなりの数の本が本棚に並んでいた。小説から漫画、少しの雑誌なんかもあった。あとは楽譜か?ト音記号と5線譜の書かれた本もあった。かなりの数。彼女の趣味は音楽以外をそこからは推測出来なかった。そして寝室を出ると玄関があり、リビングに行く道も分かった。リビングに行くと昨日の記憶からほぼ何も変わっていなかった。喉が渇いて何か飲み物を飲みたくなった。彼女はまだ起きてこない。お借りしますと心の中で言いながらキッチンに行って冷蔵庫を開ける。緑茶があった。それとコップを拝借して飲む。水分を得た体は生き返ったようだった。そう言えば昨日は睡眠薬を飲まずに眠った。こんなことは鬱になって初めてだった。しかも夢も見ていない。何なら何の記憶もない。お酒も飲んでいないのに。おそらく彼女はこの重い体をベッドまで運んでくれたのだろう。申し訳なくなった。帰りたい気持ちが強くなったが、家主が眠っている時に帰ったら鍵が開いたままになる。それは危険だから彼女が起きるのを待った。待っている間にリビングで残っていたお菓子をちょっとずつ食べていたら、何だかまた眠くなってその場でまた眠ってしまった。次に起きた時には彼女も目を覚ました後で、私の体にはブランケットが掛かっていた。手には油のようなもの。お菓子の油分だ。お菓子を食べながら寝たという決定的証拠。やばい、カーペットを触りそうになった。テーブルの近くにあったティッシュで手を拭きつつ起き上がる。彼女は向こうで何かしているようだった。リビングの扉を開けると彼女は料理をしていた。

「あ、起きた?一回起きたのにまた寝たでしょ。なんかドタバタ音がして起きてこっち来たらそこで寝ちゃってるんだもん。びっくりしたわ。風邪引くよ?気を付けな。暖房も付けてなかったし。あと、お菓子を食べながら寝ないこと。」料理をしながら私に話しかける彼女は母を思い返した。お菓子を食べながら寝たこともバレてしまっていた。申し訳ない。

「おはよう。以後、気を付けます。」そう言った私に彼女も「おはよう。よろしい。」と返してくれた。

「朝ごはん作ってるけど、食べる?パンは今ないからご飯になっちゃうけど。」

「じゃあ、遠慮なくいただきます。」

「分かった。準備するからテーブルの上片付けといて。」彼女に言われたようにテーブルの上に散乱していたお菓子のゴミを片付け、見つけたウェットティッシュでテーブルを拭いてティッシュでその水分を拭いた。彼女の料理の手際はかなり良いのだろう。そんなに待たずして彼女がやってきた。その間も私はうとうとしていた。彼女の「出来たよー」という声で目覚める。ご飯と卵焼きとウインナーとお味噌汁。ザ・朝ごはんという感じのラインナップは私には久しぶりの料理だった。更には誰かが作ってくれたもの。

「いただきます。」今回はソファーには座らず少しテーブルをソファーから遠ざけて二人横に並んで一緒に食べた。温かいご飯はこれまでも食べていた。でもこのご飯はそんな温かさではなく、人の心がこもっている温かみを感じられて美味しかった。彼女の苦手分野は何なのだろうか。あるのだろうか。なんて思いながら黙々と食べた。この時は自分でも思わないくらい食欲があったのか、いつもは絶対食べないくらいの量のご飯を食べていた。

「ねえ、感想無し?」彼女の声が聞こえて視界が広くなった。彼女の方を見ると、

「なんも言わずに食べてくれてるなら美味しいって思ってくれてるんだって分かるけどさ、やっぱり何かしらの言葉欲しくなるじゃん?結生ちゃんがそういうことを言わないっていうのもまあ分かってはいるけど、私のことガン無視で食べるのはどうなのよ。」彼女の整った横顔は唇をツンと尖らせていかにも拗ねている格好で彼女はウインナーを箸で転がしながらそう言った。

「あ、ごめん。美味しい、とっても。作ってくれてありがとうございます。」最近は何だか彼女のタメ口につられて私もタメ口になってしまう時がある。いっそ全部タメ口に変えた方が良いのかもしれないがまだそんな勇気は無い。

「そう?良かった!」私が言うと彼女は目をキラキラさせてとても嬉しそうだった。

「誰かに料理作ることなんて家族以外に無かったから緊張したんだよ。味の好みって分かんないじゃん。好きな味?」

「好きな味です!濃い味あんまり好きじゃなくって。私も人の家に上がったのなんてもう何年振りか分からないくらいで、昨日は大変お世話になりました。」

「お世話なんてしてないよ、私も楽しかったし、お互い様だよ。」

「でも昨日寝た私をベッドに運んでくれたんですよね?重かったでしょ、そのままでも良かったのに、本当ごめんなさい。」

「昨日のこと何処まで覚えてるか分からないけど、結生ちゃんが寝た後私も寝ようと思ってちょっと起こしたんだよ。で、結生ちゃんは覚えて無いのかもしれないけど一回起きて、私に引っ付きながら自分の足で歩いてくれたよ。寝ぼけながらだけどずっと『ありがとう』って言いながら。可愛かったな。」まさかそんなことがあったとは。恥ずかしくなって顔が熱くなった。

「結生ちゃん顔赤い」と笑いながら言われた。それにまた恥ずかしくなって熱くなり、もう顔を隠した。

「耳まで赤いよ。」もうどこまで隠せば良いというのか。

「もういいでしょ!」触った耳は確かにとても熱かった。ご飯を食べ終え、私は皿洗いを買って出た。彼女はもちろん断った。でも私はここに来て何もしていない。何か一つでもやらせてもらわないと気が落ち着かない。私が触るのが嫌なら無理にとは言わないと言うと、そんなことは無い、と案の定予想していた返事が返ってきた。それならばと皿洗いをさせてもらった。彼女もこれには観念したようで、

「じゃあお願いしようかな。」と言ってくれた。それから私はお皿を洗って料理で使ったであろう調理器具も洗って、最後は拭くところまで一気にやると聞いたので全て拭くところまで終わらせた。

「終わりましたー。」彼女を呼ぶととても感謝しながらお皿とその他を戸棚の中に入れていった。キッチンが片付くと、彼女は私にもう帰るかを聞いてきた。もう帰ると返事をして帰る準備をした。彼女も外に行く準備をしていた。

「どこか行くんですか?もしかして仕事?そんな時に家に寄っちゃったりしてすみません。」自分の中で考えを展開してしまって彼女が喋る前に色々な予想を口に出していた。

「ふふっ、違うよ。仕事なら昨日終わったお祝いしたでしょ。途中まで結生ちゃん送ろうかとしただけ。良いでしょ?散歩がてらにね。」なんだそういうことだったか。彼女の仕事の邪魔をしたわけではないことが分かって安心した。しかし彼女の準備は散歩という割にはかなりしっかりとした準備だった。でも彼女が話さないことに触れるような要らぬ話はしない方が良い。散歩がてらにそのまま買い物に行ったりもするし。準備が終わると二人で外に出た。昨日通った道を歩いているのか、私にはさっぱり分からなかった。夜に見る道と日が昇ってから見る道は大きく変わって見える。更には初めて通る道だし、私は方向音痴だから初めての場所はいつもマップアプリを利用している。知らない道を行き当たりばったりで進んだりはしない。出来ない。一人で迷子になる。しかし今日は彼女がいる。彼女の歩く道を歩く。彼女とは公園まで行こうとしているため、そこから私の家までは私も分かる道だ。アプリを開かなくても大丈夫。二人で歩いている間、どちらも話をしなかった。いつもは苦手なその沈黙も彼女とならあまり不快に思わなかった。彼女もそう思ったのか、いきなり声を出してきた。

「こんなに落ち着く沈黙が続くの初めてかも!」そんな彼女の言葉は私の脳内に衝撃を与え、混乱させた。何も喋らないと思っていた矢先に元気な声が聞こえてびっくりしたのもあるかもしれない。朝に聞くには幾分か輝き過ぎている。眩しい。そして私たちはいつの間にか公園に着いていた。寒い朝の公園には人などいなかった。二人でベンチに座る。この公園にはベンチが3つある。その一つをいつも使っている。木のベンチでも朽ち果てて木のぬくもりなど知らない冷たいベンチ。

「どうしました?」彼女に尋ねると、その時初めて彼女の見えていなかった苦労を知った。彼女は私と初めて会話した時のように、相手が聞く側の人間だと思って話をしているそう。だから自分が喋らないと今のような沈黙が続く。それを後ろめたいと思ってずっと生きてきたと。私が話しかけなかったから会話が始まらなかったとか、会話が弾まなかったら私のせいだとか思っていたらしい。話す側の人も話す人なりの苦労があるのだ。それはきっと聞く側の人間よりも常に辛い状態に晒される。それを聞いている側は何で話さないのかと責めるのだ。そんな環境にいれば確かに自らコミュニティを作るというのも納得が出来る。彼女の癖になってしまうほど過去にそんな出来事が起こり過ぎていたのだろうか。彼女を不憫に思った。でも同情という感情では無かった。どちらかと言えば怒りに近かった。彼女を貶した人、責めた人、自ら動かなかった人、その中には私も入ってくる。でもそんな人が彼女の心を刺していた。誰が話し始めようが、誰が聞く側に回ろうが、どうでも良いことなのに、生きてきてどちらかの立場に確立された人々もいる。性格や立ち回りなど、要因は多く見られるだろうが、私が聞く側の人なのも、彼女が話す側の人なのも、全てはこれまで生きてきた環境で自然とそうなってしまったから出来た凝り固まった考え方で、そもそもどちらかにならなければいけない理由なんて無いのだ。私は鬱になって周りのことを考えられない状況で必然的に自分の過ごしやすい環境を作っていくしかなくなった中で結果がこうなったというだけで、彼女が話す気分じゃなければ私が話したって良いし、どちらも口を開かなくたって良い。そもそも彼女との関係さえ断ち切ったとて誰も責めはしないのだ。そんな簡単なことなのに、私は彼女の辛さを何も考えず自分がいたいようにいた。彼女のことも拒否しなかった。私がそうしたかったから。彼女はそれがありがたかったらしい。彼女の周りの人々は多くが彼女のコミュニケーション能力を買っていた。私もそれは感じている。だからこそ、それを強いられる環境が出来上がってしまった。彼女はどんな自分が本当の自分なのかも分からなくなっていた。聞く側の役割の人に話す役割の彼女が話しかける。それが彼女のこれまで生きてきた結果だった。その時私の頭にはファーストペンギンが浮かんだ。群れの中で何がいるかも分からない海に1番に飛び込むペンギン。勇敢とされているが、その言葉は恐ろしく他人事だ。自分はそれになる勇気すら無いのにその人を称える。その人の気も知らないで。彼女も同じだと思った。多種多様な人に囲まれる中で一番に声を出す人、行動する人。自らを犠牲にする人。私との関係が始まったのもそれと同じように彼女が話しかけたからだ。でもその時の彼女はやりたいと思って行動したのだ。今の彼女は真の自分を見つけようとしている。彼女の目には私の姿が芯を持った人間のように見えたそうだ。もし彼女の真の姿が話す人じゃなくても私と彼女の関係が無くなることなど無いとこの時自然と思えた。私は彼女の心の変化を応援したかった。でも応援の仕方なんて分からない。彼女が私を見て新しい考え方をし始めたのならば、私はそのままの私でいることが彼女のためになるのではと自分よがりの自己満足な考え方をした。彼女は初めて会った時の私のマイペースさに憧れを抱いたらしい。逆に私はその時の彼女のことをマイペースだと感じていた。変な人だとまで思っていた。そんな事を言うと彼女はかなり驚いていた。

「え、何処がそう見えたんだ?」そう戸惑う彼女に私の脳内を全て話した。そうすると彼女は理解や納得するという様子もなく、笑い始めた。やっぱり彼女はよく笑う人だ。そして、彼女が感じたマイペースと私が感じたマイペースには大きな違いがあることを知った。私は彼女の人を気にせずに話しかける姿をマイペースと考えていたが、彼女は私の時間を気にしない様子をマイペースと考えたのだ。人によって考え方は違うが、どちらも確かに自分の自由に動いた結果だった。マイペースという言葉に間違いは無い。とは言え言葉の受け取り方というか、捉え方は人によってこんなにも違うことがあるのかと何だか面白さを感じた。

「私はかやのさんに会う前は誰かといるより一人でいた方が良いと思っていたんですよ。余計な情報を考えるだけのコミュニティに時間を使うのなんてもったいないし、私は積極的に会話を促すようなことはしません。それなのに誰かと一緒にいて相手から話しかけてもらえないと不安になったりもして。矛盾してるんですけどね、沈黙が耐えきれないのに自ら先陣を切ることも出来ない。でもかやのさんに会って私に気にせず隣でずっと喋ってくれて、その時の私はとっても救われていたんです。失礼ではあるんですけど、最初はいてくれて良かったとかは思っていなくて、ただ実家で永遠についているテレビのような、車に乗っている時にかかっているラジオや音楽みたいな、何も考えずに焦点を当てられるようなそんな感じに物のように思っていたんです。このご時世、情報が溢れすぎてるじゃないですか、嘘が出回るほどには。そしてその嘘を簡単に信じてしまうくらいには。その時の私には目から得る情報と耳から得る情報で頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していて、そんな時に隣で知らない話をしてくれるかやのさんの声が、その時の私の耳を全て埋め尽くして、空が私の目を埋め尽くしてくれた。目や耳って何かに焦点を当てればそれ以外の情報を遮断したりもするじゃないですか。私にとって嫌悪を感じる情報がその時だけ消えたんです。誰かが隣にいることが良いと思ったのもかやのさんが初めてかもしれないです。私はかやのさんが話しかけてくれなかったら一生かやのさんと関わることは無かったと思います。そもそもかやのさんが何度も見ていたって言っていた私の姿も、その時の私はかやのさんを一度も見ていなかった。ただの耳障りな足音としか感じていなかったと思います。さっきかやのさんが言ったように私もこんなに居心地の良い沈黙は感じたことが無かったです。隣にいるから声を出さなくて良いと思える。そんな事って普通思わなくないですか?何でしょう、安心を得られるというか。」私の思ったことを言った。彼女はうんうんと頷きながら最後まで聞いてくれた。もう今はかやのさんのことを変な人だとは思っていない。物としても扱っていない。ちゃんとした一人の大切な人間。むしろ好意的に思っている。お互いがお互いを認識した時から時間を経て今の感情は変わっていると思う。でもお互いの需要と供給がぴったり合うなんて奇跡に近い。彼女と出会えたのも運命なんかの科学で証明できない空論で出来上がった不自然な巡り合わせだったのだと思っていたい。偶然でも必然でも無い。私の無機質な生活にいきなり飛び込んできた代崎かやのという名の異物。その異物は取り除けるはずだった機械の不良によって起こったものかもしれない。彼女に出会ったこと自体私の人生の中で唯一の予期せぬ出来事だったに違いない。鬱になることも想像などしていなかったことだが、それよりも想像していなかったことである。もしかしたら私の鬱が機械の不良を起こしていたのではないか?私と出会ったことが彼女にとっても同じような出来事なのかは分からない。彼女には沢山ある出来事の一つかもしれないが、彼女が自分を見つめ直すような機会を作り出したのは私の存在も入っている。彼女がそう言っていたから。そんな機会はそう訪れることは無い。人と関わることを避ける私なら尚更だ。私が誰かの人生の大きな分岐点に関わることなど無い。でもそんな機会に携われたという記録は私の記憶に刻まれることはもちろん、彼女の記憶にも刻まれることだろうと思っていたい。

 彼女と別れた後、自分の家までの見慣れた景色には、見慣れない色の空があった。いつも見る夕日や夜空ではなく、朝の青くも白んだ明るい空だった。冬の朝日は私の中で一番か二番に好きな景色だ。あの儚さは儚いという言葉で表されるものでは無い。一瞬の景色だ。夏の青空の濃さとまではいかないが、昼になるまでにいつの間にか青が濃くなってしまう。今年の冬になって初めて見た気がする。冬は晴れが多いが、つい最近夜に豪雨までとはいかない雨が降った日があった。今日が晴れの日で良かった。今日は一日中晴れだそうだ。母が使っていたよく当たるとご自慢の天気予報アプリを入れていて、いつも天気予報はそのアプリを見ている。テレビがあればテレビで見るのも良いが、今のところは使い道がないから買っていない。家に帰って来て一番に思った。私の家ってこんなに狭かったっけ。いや、そもそもかやのさんの家が広いだけだ。かやのさんの家で安心できたのは何故だったんだろうと、自分の4年以上使っている家を見て思う。大学入学から使っているから馴染んできているが、かやのさんの家は初めてだったのに何か安心できる要素があった。やっぱり実家感というものか。ずっと思っていたな、と昨日を振り返る。これを言うとかやのさんは怒るだろうか。これも昨日思ったことだ。ずっと思っている。彼女の反応を知りたくて私の知らない心がうずうずしている。それならば昨日言ってしまえばよかったのにと思われるだろうが、昨日は昨日でそんな余裕なかったしな、と取って付けたような理由を考える。別に誰かに責められることも無いくせに。そんな意味のない考えを頭の中でいっぱい考え、ソファーで横になりながらうとうとしていた。まだ朝というのに、さっきまで眠っていたというのに、ご飯をあんなに食べたことが原因になっているのだろうか。あんなに食べたのもいつ振りか。そしてまたいつものようにいつの間にか眠っていたという展開だった。ソファーに横になる癖を止めるべきかとも思うが、これはきっと止められないだろう。私の家で二番目に好きな場所。もちろん一番は布団だ。暖かい場所ならきっとどこでも私の好きな場所になる。追加で眠れる場所なら尚更大好きだ。かやのさんの家もそうだ。暖かかった。心地の良い場所だった。

 

 私は今、鬱病でメンタルクリニックに通っている。今日はその通院日。それから頭痛も持っているから脳神経内科という科にも通っている。脳神経内科は大学時代から通っている。この脳神経内科は、総合病院の中の一つの科であるため、1か月から2か月に一度ではあれ、かなりの人ごみに入る。最近の予約時間は大抵受付ギリギリのおそらく最後の受付時間。そうやって人がより少ない時間に行くようにしている。だから受付の時には混み合っている待合室でも診察を受ける頃には人ごみすら疎らになっている。会計の場所もかなり広い吹き抜けになっていて封鎖的なイメージも持たないため、気分はいくらか楽でいられる。この二つの外出はかなり労力を使う。買い物などとは比にならない。病院という場所はどうして行くだけで気分が悪くなったように感じるのだろうか。この現象に名前はあるのだろうか、本屋に行ってトイレに行きたくなるあれのように。特にメンタルクリニックは駅が少し遠い。近いところに通ったこともあったが、言い方を悪く言うとあまりにも配慮の無い医師に気持ちがやられてしまってメンタルクリニックの意味が無くなってしまっていた。だから別のところに移ることにした。私には合わないだけできっとその医師に合う人もいるのだろう。言うなれば背中を押してくれるような人なのだろうが、その時の私は背中を押されても電車に飛び込むような押され方だった。それよりも立つことを支えてくれるような先生が必要だった。それから少し遠いクリニックに通っているが、そこは私の意思を尊重してくれる良い医師と会えて何とか命を繋げられている。このクリニックは2週間毎に予約を入れる。先生から薬の様子を見るためにそうしましょうと言うことで月2回ほど行かなければならないが、この2週間毎という短いスパンでの通院はあまり意味を成していない気がする。前回からあまり改善されていない体調と気分を伝えるために行く。また同じ薬をもらってまた2週間後の予約を入れる。その繰り返し。でもあのままクリニックを変えなければきっと私はかやのさんに会う前にこの世を去っていたのではないだろうか。さっきの例えのように。でも私の最寄り駅にはホームドアが設置されているからよっぽどの意志が無ければすることは無い。それに電車に飛び込むのは迷惑がかかり過ぎる。死に殻も酷くなるらしい。二次被害も相当なものだし、出来れば今後もそんな人が出ないことを祈るばかり。そんなもので日本の素晴らしいダイヤ運行が覚束なくなるには理由があまりにも短絡的過ぎる。それで時間を失うのはきっと多くの人の頭をイラつかせるのだろう。しょうがないことだが、一人の死を弔うことなく、そこにいる人は迷惑という感情で終わるのだ。まあそんな死ぬ勇気すらも無い私だからクリニックを変えただけで終わったものだ。あの頃はずっと泣いていた。何故泣くのかの理由すら自分で分からなかった。起こること全てに悲観的になって心がおかしくなっていた。最近その点は良くなっているはずだ。生きようとはしなくても、死にたいわけではないという考えに変えられただけ良い方か。ずっと死にたいわけではなかった。ただ、生きたくも無かったというだけ。このニュアンスはかなり大きな食い違いをもたらす。気持ちはグラグラしているし体調もまだ快調とは言えないけれど、鬱で病院に掛かって約半年弱、かやのさんと出会って約3か月が経ったらしい。時が過ぎるのが早い。こんなにも何もない半年は生きてきた22年の中で無かっただろう。それでも少しずつ変わっている気がする。もちろんこの先以前と同じような実感のある生き方が出来るとは考えられないし考えることも無い。同じ生き方をする必要などないのだからと、鬱になって頭を空っぽにするしか無かった私が教えてくれた。空っぽとは言え、考えることは止まらない何かがずっと頭に残る。一度聴いた曲が頭から離れないように。そのおかげでかやのさんが見つけてくれたようなマイペースな私が出来上がったのだ。案外こうなったことが私にとって良かったのかもしれない。今のところ後悔はしていない。ただ、未だに鬱になる理由が分からないでいた。鬱になった原因が今もまだ分からない。不安材料は全て取り払ったはずなのに治らない。どうして自分が好きなことをやっていただけで鬱にまでなってしまったのか、そもそもいま私は鬱なのだろうか。そんな疑問さえ浮かんでくる。こんな疑問は私の頭を痛くさせる。ぼーっとしている中の出てきた疑問はなんとなく考えるくらいだが、この疑問はどうしても深く考えてしまう。今後の私に必要な疑問だからだ。それでもどんな答えも出てこない。それがもどかしい。原因は探りたくなるものだ。原因があればの話だが。私の人生そのものが鬱を引き起こしているとしたらもう取り返しようのないことだな。私の生き方そのものが鬱を引き起こす。そんなものなら生きる資格すら与えてくれなかったのか、生きる資格を自ら無くしたのか。そうなるとどちらにせよどうして私はこの世に生を受けたのか。という疑問が出てきた。よく聞く問題だ。何で私は生まれたのか。論理的に考える人や詩的に考える人など、考えればどんな答えも出そうと思えばどんどん出てくる。人の数だけ答えがあるってやつか。でもそのどれも納得出来る答えではないのだ。永遠の課題とも言える。生きる理由。そう言うとまたニュアンスが変わってくるか、生まれた理由と生きる理由は別物か。しかしどちらの答えも死ぬ理由を探すよりもよっぽど難しい問題だと言える。

 メンタルクリニックに着くと狭い待合室がかなりの密度で埋まっていた。規模的にはおそらく小さいクリニック。座る場所はあるものの、コロナパンデミックの影響と日本人特有の他人を寄せ付けない広いパーソナルスペースで知らない人の隣には容易く座らないという暗黙の了解のようなものにより、座る場所は選ばなければならない。電車では一人分の席が確立されて設計されているためにほぼそんなことは起こらないだろうが、それでも人が少なければ一席空けて座ってしまう。ここのメンタルクリニックはその席の確立がされていないタイプのベンチ式になっているため、4,5人座れそうなベンチは2人でさえ少し迷うし、3人では入りたくはなくなるし入る余裕もなくなる。荷物もあるから。私は空いていればいつでも隅っこを取る。電車でもこういう場所でも。落ち着くから。両側に人がいると呼吸が荒くなる。パニック障害予備軍なのかも分からないが、まだ一応は酷くなったことも無く過ごせる程度だから心配はしていない。が、念のために電車には端の車両に乗って人の少ない時間を狙って乗る。そうし始めて以前ほどの荒呼吸は無くなった。

「山名さん、どうぞ。」クリニックの先生に呼ばれて診察室に入る。

「こんにちは。どうですか?」これが先生の最初の言葉。いつもこの言葉で私に答えを求めてくるが、私はもう少し具体的に聞いてほしいとも思う。何がどうなのか。その何の部分を明確に聞いていただきたい。先生が何のことを聞いているのか分からない状態で私は私の今の睡眠状況や薬での影響を話す。これが先生の思惑なのかも分からない。通い始めた最初の頃はどんな薬を処方されても眠れなかった。これには先生も頭を悩ませていた。一番強いからこれ以上は出せないと言われた睡眠薬も効果がなかった。しかし最近別の薬と合わせることで嘘かのように眠れるようになった。代わりに眠る時間が多くなってしまったという訳だ。今日はそのことを伝えた。最近睡眠薬が効きすぎていて昼まで眠ってしまうこと。大体の診察で睡眠のことを言っている気がする。他に何を言えば良いか分からない。これで大丈夫なのかも分からないが、先生からその先を聞いてくることは無いから合っていると思って話している。その発言に先生はパソコンを見ながら、おそらくカルテ?を見ながら言う。

「眠れるようになったのは良いんだけどやっぱり眠りすぎちゃうよね。起きてからも眠気があったりしないですか?」まさにその通り。

「はい、早く起きれた日も夕方とかに1,2時間眠ってしまったりしてます。」

「そうだよね、やっと眠れたからあまりいじりたくは無いんだけど、んー、じゃあ睡眠薬を少し減らしましょうか、でもそれでまた眠れなくなることがあると思うので、処方は同じで、ご自身で減らしてもらって様子を見て行く感じでいきましょう。他には何かありますか?」

「・・・」何も浮かばなかった。何も浮かんでこずに下を向く私に先生が聞いてきた。

「気分の方はどうですか?」その言葉で顔を上げて言う。

「浮き沈みが激しい感じですかね。」

「そうですか、抗うつ薬の変更をしてみても良いですか?ちょっと不安ですかね?」実際この時私は抗うつ薬の実感を全くもって感じていなかった。死ぬことを考えることが少なくなったのが薬の影響なのかもしれないが、他は全くもって変わっていないと感じる。変わっていてもミリ単位。薬を変えることに抵抗は無かった。

「大丈夫です。」

「じゃあ、変更してみましょう、それでまた状況を見ていきましょう。」

「はい。」

「では、また2週間後、大丈夫ですか?」

「はい。ありがとうございました。」

「お大事に。2週間後お待ちしてます。」こうして診察は終了した。たった5分程度の診察のためにわざわざあまり乗りたくも無い電車に乗ってやってくることにため息を漏らすことも少々。帰りの電車を待っている間に思うことがある。薬局に寄ってまた10数分待つ。薬剤師さんの苦労は以前流し見していた動画に出てきてよく知っている。別にその待ち時間にイライラすることも無く、ただ淡々と待つ。鬱になってイライラしたことが無かった。イライラという感情が無くなったみたいだった。嬉しいことだ。実家にいたころは母と意見が合わなくて何度も喧嘩した。そもそも価値観が全く合っていなかった。喧嘩がしたくてしている訳ではない。反抗期というものか、私にはそれを止める力が無かった。そして私の考えを聞き入れない母に対して怒りながら泣いていた。私にも分からない感情だった。今思えば。そんなことも過去のようにただ他人事のように頭に浮かべた。クリニックに一番近い薬局に行っているが、ここは待つときの席に背もたれがない。猫背気味の私にはかなり辛い。背もたれがあっても辛いものは辛いか。薬局の待ち時間はクリニックの待ち時間より退屈しない。情報がかなり溢れているから。薬局の商品や流されているテレビ、地域のチラシなどを読んだり見たりしているだけで時間が過ぎる。いつも行く時間はほぼ同じで、ニュースが流れているが、残忍なニュースを見るととても辛くなる。今日も殺人のニュースが流れていた。罪のない人を殺す発想をする人の気は一生分かることは出来ない。この情報量には頭が疲れるという欠点も持ち合わせているのが本当に玉に瑕だが、どちらかを取ればどちらかは失う。仕方のないことか。薬剤師さんは優しい人が多いと思う。もちろん接客に値する分野も入っているからお客様対応が染みついていて優しく感じるものなのかもしれないが、病人には医師の次に、もしくは一番と言っても良いほどに助けになる人だ。あらゆる薬を覚えているとか?そんな記憶を入れられる脳はもうどこかに捨てたな。最近は新しく聴く曲の歌詞も覚えにくくなっている。吸収しきったスポンジではなく、石化してぎゅっと圧縮された吸収できないスポンジだ。使えない脳だ。それなのに神経は痛みを与えてくるから溜まったものじゃない。偽りかもしれない人の優しさに触れてまた帰りの電車に乗って家に帰る。会社帰りであろうか人の波が最寄り駅で起こっていた。何やら向かいの電車で遅延が起こっているらしい。丁度重なった二つの電車の乗客によってホームから改札までの上りのエスカレーターに長蛇の列が出来ていた。類に漏れず私もその一人になった。階段で下りるのはまだ良いが上るのはきつい。この列を作ったこの数の人も同じような人が多いだろ、と勝手に同志を作り、言い訳をする。運動不足が祟っているのは承知の上で、今は無理をしないという自分の甘やかしを許している。時間に追われている訳でもないのだからこのくらいの甘やかしは良いだろう。体力だって鬱が治ってゆとりが出来たらジムにでも行ってダイエットまでしたいくらいだし。そう考えると今の私の体は筋肉が全部脂肪へと変わっているのだろうか。そう思うとそれはそれでなんか辛い。今までの行動が全部なくなったようなそんな思い。駅から15分弱で着く自宅。駅からそこまで遠くも無く、近くにスーパーもコンビニもある。田舎出身の私にとってはかなり良い場所だが、住んで思った。線路の向かい側の方が栄えている。東口と西口に分かれているが、私は西口の方に住んでいる。東口には駅の近くにもドラッグストアがあったり、もっと行くとスーパーはもちろん、ファミレスもある。対してこちら側はスーパーはあれどファミレスは無い。食事が出来るお店も少ない。その点だけ惜しいところ。でもそこまで損失は無いので今はどちらでも良い。こうして出かける日が私にとっては大事な日。ついでに買い物ができるから別のスーパーに寄れる。普段家から買い物に行く時はほぼ絶対と言って良いほど家から一番近いスーパーに行く。そのスーパーは駅と逆の方向にあるのだ。公園と同じ方向。だから駅を使う日は駅から家に着くまでの間にあるスーパーに寄って帰る。楽が出来る。2週に一度というのも買い物の点で言えば良いことかもしれない。今日も買い物をしにスーパーに入る。お菓子とパン、あとはインスタントで作れるものや冷凍食品なんかを買って買い物終了。スーパーの入り口からすぐのところにある青果コーナーやその先の肉、魚のコーナーももう見なくなってしまった。買っても料理をしないから。でもたまに総菜やおにぎり、弁当も買ったりする。こんな時じゃないと買うことも無い。今日は買わなかった。食べたい気分じゃなかった。そして残りの帰り道を行く。ぼけーっと信号が変わるのを待つ。大通りを一つ渡る必要があって信号の待ち時間が長いところがある。その間にいつも空を見る。目の先には高層階の建物がないから結構見晴らしが良い。そんなところも良いところ。けれどこの前不思議なものを見た。何かの看板なのか分からないが、「部」という文字のラミネートでもされた紙のようなものが落ちていた。部活とかだろうか、それとも部屋?交差点の角の所で誰を邪魔するでもなく隠れていた。しかし近くにはそれの仲間らしき紙も看板も見当たらない。どこからやってきたのかも分からず辺りをなんとなく見ていると後にやってきた自転車に乗った女性と目が合った。もちろん知らない人。気まずくなってその看板は諦めてまた空を見上げた。次にその道を通った時には既に無くなっていて、一体何だったのか、真相は闇の中に葬られてしまった。特段気になりすぎるほどのものでもなかったからいつの間にか忘れていた。信号が変わると向かいからやってくる人、こちらから向こうに行く人たちが一斉に進み出す。自転車に乗っている人は颯爽と先を行き、歩くのが遅い私は早く歩く人にも先を越されてしまった。そんなことも気にせずゆっくりと家に帰った。家に帰るとドッと疲れが襲いかかってきた。それも無理はない。今日は特にクリニックに行く前から体調は万全ではなかった。しょうがない。重い体を必死に動かし、先に買い物の品を片付ける。こういう時の手の動く速さはいつもこの速さでいてほしいくらいしっかり動いて仕事をしてくれる。一人の部屋で疲れを口にしながら片付ける。頭を使わないからかもしれない。終わるとまたいつものようにソファーに座る。以前のようにこのまま横になったり布団に行ってしまうともうそこから這い出ることは出来ない。布団もソファーも私にとっては人をダメにするなんちゃらと変わらない。電気を点けずにソファーに座ってしまって暗い部屋でスマホを持つ。パッと光るスマホの画面は瞳孔を刺激し、そこに映る溢れ返った通知は寂しさを搔き立てた。世界の中で私だけが暗闇の中にいるような悲観しているのは私だけなのかと思ってしまうような通知のそれぞれが嬉々としていて、メンタルが落ちに落ちている今、自らが見たいと通知を付けているはずの全てが私にチクチクと針を刺す。致命傷にはならなくも少しずつ傷をつけてくるようなそんな感覚。傷は治っても傷跡は残りそうだ。それすらも受け止めきれずにスマホを放り投げて目を閉じる。やはり今日はもう寝ようか、寝れば解決する問題ならばそうしたいが、そんな簡単に対処できるものでもないのが辛い。今日の分の抗うつ薬と睡眠薬を飲んでさっき放り投げたスマホをまた手に持ち、布団に向かう。スマホを充電器に差して再度光る画面をすぐに消して布団で頭まで覆い、ダンゴムシになって目を閉じた。

 次に目を開けたのは朝だった。頭まで被っていた布団はいつの間にか普段の状態になっていた。窓から入る眩しいほどの朝の光が視界に入る。昨日カーテンを閉め忘れていた。寝ぼけ眼ながらもスッキリした目覚めに昨日のあれは何だったのかと思いつつ、スマホを目にする。おそらく何かの通知がついさっき来ていたのか、画面が光っていた。そしてその一番上にはメッセージアプリのアイコンが出ていた。公式のアカウントは通知が出ないようにしているため、この通知は友達もしくは家族の誰か。まだ時間は7時過ぎ。こんな朝早くにメッセージを送ってくる人など今までほぼいない。今日が何かの記念日とかでも無い。誰なのか、何なのか気になって開けてみると、かやのさんだった。「公園にいるよ」と。何かあったのだろうか彼女から如何にも来てほしそうな連絡が来るのは初めてだった。それに最近は彼女からの連絡が毎日じゃなくなっていた。少なくなっていた。このメッセージはその原因だろうか。しかももし私が今起きていなかったらどうするつもりだったのだろうか。まだ冬と言って良い時期だ。外はまだ寒い。そういう思いはどうあれ今日は起きたのだから行くしかない。彼女のことも心配だし。いつもは寝起きが悪いこともあり起きてからも1時間以上は布団に包まってスマホをいじったりしているが、今日はさっさと起き上がって外に出る準備を始めた。顔を洗って歯を磨いて、のろのろとしてしまったが緩めの服装に着替えてあのアプリで今の気温を見た後上着を決める。決めたらスマホと鍵のみ持って家を出る。最近は自販機でもスマホでのキャッシュレス決済を使えるからスマホのみで外に出られてありがたい。以前は現金主義者だったが、キャッシュレス決済を使い始めてからというもの、便利すぎて即刻現金からキャッシュレス決済に切り替えた。公園まで行くとベンチに座っている彼女が見えた。彼女はおそらく空を見ていた。どことなく浮かない顔をしているように見えた。ベンチに向かう前に自販機で温かい飲み物を彼女の分と私の分、ココアとコーヒーを買った。私はどちらも飲めるから彼女の飲める方を選んでもらおうと思った。二本買った後、彼女に近付く。進んでいる途中で彼女もこちらに気が付いた。彼女はいつも通りの笑顔を見せた。

「来てくれると思ったけど思ったより早かった。」彼女はいつもの笑顔で声を出したが、明らかに声に暗い印象を持った。一体どうしたのだろうか。

「どうしたの?」数秒の沈黙ののち、彼女は話し始めた。

「ただ会いたかっただけ。それじゃダメ?」いつもの彼女の元気さは無く、良く言えば落ち着いていると言えるのだろうか。しかしそんな綺麗事ではないような気がした。落ち込んでいる。

「そんなことないよ。でも今日元気ないね、これ、どっちかあげる。どっちが良い?」コーヒーとココアを同時に出して彼女に選ばせる。「こっち。」彼女はココアを取った。

「ココア好き?それともどっちも嫌いだった?要らないなら無理に飲まなくていいからね。」もう完全に彼女に対して自然と敬語が消えていて、私にとってはとても嬉しい進歩だった。

「いや、貰う。ありがとう。今はココアの気分だっただけでちなむとどっちも飲めるよ。」

「そっか、良かった。」彼女は声色からも分かるように口数も少なかった。私は彼女から何かを聞き出そうとは思わなかった。もし何かを話すにも勇気がいる。それは私もよく知っている。沈黙が流れて風が靡いたときの落ち葉がササッと動く音や木に付いている葉が擦れる音が私には心地良く聞こえた。そう思えるようになったのも彼女のおかげだ。空は満面の笑みを浮かべているように晴れ晴れとしていた。こっちの気も知らないで。コーヒーの缶を開けてまだ熱い中身に怯えながらちびちび飲む。熱いとすぐ舌が火傷してヒリヒリする。猫舌って治せるもんなのか?治せるものなら治したいものだ。

「あのね、」彼女が口を開いた。目は空を見ながら、耳を立てて聞こうとするが、数秒、その先の彼女の言葉が出てこないことに不審に思って目を下げて彼女を見る。彼女は俯いていた。ココアも開けないまま。彼女からココアを取ってカシャッとプルタブを開ける。

「はい、一回飲んだら?冷めちゃう。」開ける方が覚めやすくなるが、開けたココアを彼女の前にズイッと出して彼女に渡す。彼女は顔を上げて一口飲んだ。ふう、と一息こぼして心が落ち着いたのか、空を見上げた。彼女の顔は疲れているようだった。

「仕事でなんかあったの?眠れてる?」つい声をかけてしまった。彼女が話してくれるのを待とうと思っていたのに、ついポロッと出てしまった。嫌な癖。

「仕事はまあ、今のところ順調なんだけどね、不安が消えなくて眠れなくて、」彼女のいつもの威勢はどこかに消え、私よりも弱っているようだった。

「私が言うのも説得力無いかもだけど、我慢せずに病院に行きなね、心配だよ。」初めて会った時と逆の立場になっているような感じに思った。そしてこっちの立場になって、彼女と初めて会った時の彼女の計らいが如何に素晴らしかったかを実感する。あの時の彼女は私の欲しい言葉をくれて、行動をしてくれた。今私はそんなことなんてさらさら出来ていない。逆に彼女の不安を煽っているかもしれない。そんなことを思いながら彼女にかける言葉を探していた。彼女はそんな私を気にかけくれたのか、

「ごめんね、いきなり呼び出すような真似して。本当に会いたかっただけなんだよね。」彼女はきっと何かを隠している。私のためか彼女のためか。さっき言っていた不安とは何なのだろうか。首を突っ込んでも良いのだろうか。彼女が私にしてこなかったことは極力したくは無い。きっとそれは彼女もしてほしくない事なのだろうから。でもそうすると私に出来ることなんて何もない。彼女の力になりたい気持ちはあってもどうすれば良いのか分からない。今までやってこなかった代償だ。大切な人の力になれない。これほど辛いことは無い。彼女はずっと空を見ていた。その姿を私はただ、見ていた。

「結生ちゃんに会ってちょっと元気出た。」素直な彼女から出そうもないテンプレートが暗い声で出てきた。彼女の言うちょっとは本当にちょっとなのだろうな。例えればそうだな、お茶碗一杯分のお米のたった一粒。出来れば一口ぐらいはあってほしいが、無くなったとて分からない程の感情。彼女の気遣いなのだろう。自分が辛い時こそ相手のことも考えずに自分の感情を曝け出せたらどんなに良いことかといつも思う。自分の素を曝け出すのはとても勇気がいる。それで友を失うことだってゼロでは無い。人によっては死を選ぶより難しいことだってある。彼女にとってそれがどのくらい難しいのかは分からない。彼女が出したくなければ出してもらわなくても良い。私がそれを受け止めることが出来るかすらも分からないのだから。私は彼女のような相手のことを考えた行動が出来ないから受け止められてもそれを包んで返してあげられない。こんな時彼女ならどうするのか。考えてみた。きっと笑顔で元気に話しかけてくれるのではないだろうか。私のことなど気にせず、彼女は彼女の道を進む。その道は明るく、時に私もその中に入れてくれる。私には出来ない。私の道は霧が濃い。反って彼女を彷徨わせる危険がある。どうしようか。私にも出来ること。強いて言えば寄り添うことくらいか。しかしそれは彼女がこちらに寄りかかってくれないと出来ない。などなど考えている間に私の視界はかやのさんを超えて先のところを見ていた。かやのさんは途中でそのことに気付いたらしい。私が我に返ったところで目が合ってその瞬間から爆笑をかまされた。今回は私の恥ずかしさとかなんてものは通り越して、ただかやのさんに笑顔が戻ってきて嬉しくなった。良かった。私も力になれたかな?かやのさんの笑いは人を巻き込む笑いだ。聞いていると私まで笑いが伝染して二人静かな公園で馬鹿みたいに笑い合っていた。彼女もさっきより元気が出てきているようで安心した。しかしまあ最終的に私は何もしていない。それでも良かったらしい。彼女は今日一番の笑顔を見せた。

「あー、笑った笑った」彼女は涙まで出していた。私は涙を流すほどの笑いなんて数年は起こっていない。彼女は私より多くの頻度で涙を出して笑いそうだ。

「元気も戻ってきたみたいだね、さっきより気は楽になった?私の思うところじゃなかったけど笑いも起こっちゃってなんかもうどうすればいいのか分かんないけど」もう何が何だか分からなくなってきた。彼女のことを考えれば考えるほど頭の中は混沌と化していく。

「うん、元気出たよ。結生ちゃんは何もしなくてもなんか面白いよねー。居心地も良いし一緒にいて飽きないよ。何とか声をかけようとしていたのも丸分かり。ありがとうね。気遣ってくれて。」バレてたか。そりゃあバレるか。どのくらい前から気付いていたのだろう。私はどんな顔をしていたのだろうか。初めて会った時の彼女のようにさらっとこなせたら誇れるというのに、どうも上手くいかない。やはり鬱になってからというもの頭の回転速度が極端に落ちている。何とかせねばならないか。先生からも無理はせずと言われているが、何処からが無理になるのか。現状の私には考えることがもう無理なのだ。ここまで彼女のことを考えられていたのも凄いことだ。

「頭の中がこんがらがっちゃって今脳内混乱中です・・・」疲弊した気持ちを言葉にする。思った通り彼女は私の心配をしてきた。

「うわー、ごめんね、」彼女は何も悪いことなどしていない。謝るところなんて何処にもない。

「謝らないでください!私が勝手に考えてこんがらがってるだけなので」ただ自分でやってみたら自分で自分を苦しめた。何ともまあ無様なこと。

「ちょっと頭がおかしくなりそうなので一回全部忘れても良いですか?」

「突拍子もないこと言うね、要らないところはどうぞ忘れて。黙っとくから。」自分でも突拍子の無いことだとは思っている。自分でもどうしたらいいのか分からず一周回って手持ち無沙汰になったような気分だ。手に持つ前に勝手に動いて手元には何も残っていない。自分で言っといてまた訳が分からなくなりそうだ。分からないの連鎖が繰り返されるのをぶつ切りし、無理やり記憶から除く。でもこういう時こそ何故か頭が働いちゃって忘れるということを忘れられないのだからもう面倒くさい。人間みんなこんな仕様になっているのだろうか。もし同じ人がいたら集まって交流会でも開きたい。ただ共感して終わるだけの会だが。とまあこんな感じで私の頭が元に戻る時には来た時に伸びていた影が見るからに分かるほど短くなっていた。その間私は精神統一するかの如く目を瞑って無になっていた。目を閉じて少しした時かやのさんがどこかに行った足音がした。さっきの缶を捨てにでも行ったのだと思ってそのまま私は目を瞑っていた。やっと目を開けてスマホを取り出すと11時を過ぎていた。彼女はいつの間にか隣にはいなくなっていて、いつの間にか帰ったのかと思ったが、すぐに視界に入った。丁度公園の入り口付近でお散歩中の犬と戯れていた。彼女は動物にも好かれそうな性格だと思う。まさに今回のワンちゃんも尻尾をブンブン振ってすごく嬉しそうにしていた。飼い主さんも「ありがとうございます」と笑顔で話しかけていて平和な世界だなと思わせてくれた。もうこういうもので世界が埋まりつくせば良いのに。いつか動物でもお迎えしたいな。私を癒してくれる誰かを。でも命を失う失望感は味わいたくないな。今の私の最適解はペットロボットか。もしくは植物とか?何か見つけてみようかな。ワンちゃんが散歩に行っていなくなってしまった後、彼女はこちらに戻ってきた。

「お、目が開いてる。もう忘れる儀式は終わりましたか。」どんな儀式だよ、と思ったが儀式と言われても口答えは出来ないおかしな行動であることは認める。

「忘れようとしたという事実を忘れるって難しくないですか?」いきなり出てきた変な質問に彼女は頭を捻っていた。回りくどいことは苦手なようだ。私も苦手。そんな彼女に聞く。

「ねえ、今更だけど聞いてもいい?喋りたく無かったら強要はしないけど、何が不安なの?」

「そこは忘れられてないところだったのか、あちゃー」彼女は余裕を装って喋っている。彼女の顔がそれを物語っていた。口が引きつっているし目も心から笑っている時とは全く違う。本当は聞かずに今日そのまま別れることも考えたが、二人とも何かしら心にわだかまりを感じてしまうのではないかと思ったのだ。ただの勘というか私がもやもやしていたから。力になれない非力さに。彼女は今言おうか言わまいかまだ決め兼ねているようだ。

「無理して言わなくたっていいんだからね、ってなんかもうほぼ強要してるみたいになってるよね、ごめんね。そうだ、お昼ご飯どこかに食べに行かない?いい時間だし。」

「あ、ご飯、少し買ってきたんだ。結生ちゃんが精神統一してる間に。」彼女は笑って言った。良かった、まだちょけられる余裕が彼女に残っていて。そしてさっきの質問を自然消滅させるべく早速ご飯を食べようと言い出したが、その時の外の状態がかなり変わっていて外でご飯を食べられそうにも無かった。朝はそよ風程度だったはずの風がどんどん強くなって寒さが私たちにどっか行けとでも言うように煽ってきたのだ。このままでは風邪を引きそうだ。どちらかの家に行くかということになった。かやのさんの提案で今度は私の家に行くことにした。家に行くまでの短い道で、私はずっと保険をかけるように彼女に話した。

「かやのさんの家の3分の1くらいの広さですからね、全然広くないので『狭っ』とか言わないでくださいね、傷付きますから。あと、私の家が狭いんじゃなくてかやのさんの家が広いだけですからね。」何度も言う私に、

「分かってる、分かってるから。」とくすくす笑いながら彼女は言った。家に着くと鍵を開け、ドアを開けて「どうぞ。」とかやのさんを先に入れる。「お邪魔します。」と律儀に言って入るところが良き人という印を押す。玄関を入ってすぐのところにキッチン、反対にトイレやお風呂があり、その先の扉の向こうに部屋が一つ。それで私の家の説明は終わり。リビングも寝室も書斎なんてものもあったものじゃないので全部兼用。大学生の独り暮らしには少し大きいほどの一間だ。だから布団を敷いた状態でソファーも置ける。布団とソファーの間にローテーブルが入っている感じ。何か作業をするときはこのテーブルで全てやっていた。何ならテレビも置けなくはない。しかしここにテレビは不要なのだ。使い道が無いから。あとはまあ、面倒臭いというのもある。家具を入れ替えるのには労力が必要だ。

「狭いって言ってたけど全然狭くないじゃん。大学からここに住んでるんでしょ?むしろ大学生には大きいほどじゃん。」彼女の言葉に

「でしょ!良い物件見つけたと思わない?」私が褒められたわけでは無いのに誇らしくなれる。

「セキュリティーだけ不安だからそこがしっかりしてくれたらいいのにね。」親目線みたいな言葉が出てきた。私はオートロックをそこまで信用していないというか身近に無くて縁が無いからどっちでも良いと思っている。モニターホンがあればオッケーと思っている。

「案外気にならないよ。ここら辺って全然治安も良いしね。」そうやって彼女を納得させようとしたが、何を言っても納得してくれることは無かった。私の心配をしてくれることはとても嬉しいことだからありがたいのだけれど。部屋に入ってソファーの下に座る。私はソファーを使わない時もソファーの座席部分を背もたれ代わりにして座ることがよくある。今回もそういう座り方をしたら、

「その座り方、慣れから来てたのね。」と言われた。確かに彼女の家に行った時最初に座ったのはこの座り方だった。そして笑われた。自然とそういう思考になっていることもあるのか。癖とはこうやって生まれるのか。人の思考というものは自分のものでさえ分からない時がある。私以外なら尚更だ。彼女が買ってくれたご飯をテーブルに広げてレンジで温めたいものは温めつつ、そのまま食べるものを先に食べ始めた。行儀は悪くなるが、私は食事中に何か欲しい物があるといつでも取りに行く。一人暮らしが故の行動だ。何か追加で食べたくなったとか、色んなパターンがあるが、今回はコップを取りに行った。飲み物まで買ってくれていたが、念のため。私はペットボトルよりコップの方が飲みやすくて好きだ。彼女も使うか分からないから洗ってあるコップを持って行って「使う?」と聞く。「うん、ありがとう。」と言って受け取ってくれた。私の分までお茶を注いでくれてこちらからも「ありがとう。」と言いながらその後もレンジの音が鳴るたびに立っては座ってを繰り返し、痺れを切らしたのであろう彼女から遂に言われた。

「忙しいねー、もっとゆったりしていようよ。おもてなしとかそんなのしなくて大丈夫だから。」

「そう見えるよね、ごめんね、私いつもこうなのよ。行儀悪くてごめん。」

「そうなの?まあそれならいいけど、焦んなくていいからね。」

「うん、ありがとう。」もう既に食べ始めてはいたが、一通り料理も揃った。テレビが無いから静かな時間が続く。たまに「これおいしい」とかいう話はすれどそこまで展開するほどのものでもない。二人食べ終えてゴミも片付け終わった後、彼女はすぐ帰るかと思っていたが、そんなことは無かった。私がキッチンの方にあるごみ箱にごみを捨てに行って部屋に戻るとソファーに横になっていた。小さく体育座りの状態をそのまま横にしたように。

「そこ、沼だよ。一回横になると絶対眠る。あと今寝たら牛になるよ。」

「なりませんー。確かに寝心地良いねー。でも眠るほどじゃないよ。結生ちゃんじゃないし。」なんて言われてしまった。が、それはどうかな?と思いながら私は布団の方に座った。スマホをいじりながら通知の整理をしている時に彼女が話を始めた。さっきの自然消滅させたはずの質問だった。私の中ではすっかり消滅していたが、やはり当の本人である彼女は忘れていなかった。私が聞いてしまったから。

「結生ちゃんはさ、仕事を辞めてくださいって言われたらどうする?」今仕事をしていない私に聞くには思い切ったことを聞いてきたな。

「それはクビってこと?」

「ううん。辞めてくださいというか、ニュアンスは辞めざるを得ない、って感じかな。クオリティーが落ちるというか。」

「なんかあったんだ。」

「うん。私音楽の仕事してるって言ったじゃん。この業界の人の大事なものって何か分かる?」考えてみたが、思いついたのは私に無いものだった。

「実力とかセンスとか?」

「確かにどっちも必要だね、でももっと必要なものがあるの。耳。」彼女は自分の右耳を触って言った。それは言われるまで気付かなかった。当たり前にありすぎて存在価値が低かった。無くなればそれは絶対に困るものなのに日頃はあまり気にするものじゃない。しかしそれは一般人にとってだ。彼女のような音楽を主とした仕事をしている人には必ず要るし、質もこだわらなければならないだろう。言わば一種の商売道具と言えるだろう。

「そっか、そうだね、一番必要だね。」

「それが使えませんってなったらどうするべきかな。」答えが出なかった。現実味の無いことはすぐに想像できない。ましてや仕事となると趣味なんかとも違ってくるし、臨む姿勢も違う。好きというだけで仕事はできないのだから。しばらくの間沈黙を作ってしまった。

「いきなりごめんね、そんなこと言われてもって感じだよね。」

「違うよ、今考えてるの。私の答え。もう少し考えさせて。今日出るかも分からないけど。先に一つ聞いてもいい?かやのさんは答えを出したの?」

「出せてない。じゃないと結生ちゃん巻き込んだりしないよ。」

「いや、一回選択した方を後悔してるとかでも聞いちゃったりしない?あー、なんでこっちにしたんだろう、とか。」

「無くは無いかも。」

「でしょ?だからそれ気になって聞いただけ。今耳が不調ってことなんだよね。それはもう治らないの?」

「分かんないなー。」そう声を漏らす彼女の目にはもう溢れる寸前の涙できっと視界はぼやけていただろう。すぐにティッシュを渡す。涙を拭く彼女を見る。彼女にとっては人生が変わるかもしれない出来事なのだ。そんな簡単に言って良いものでは無い。彼女がこんなにも弱みを見せるのは目の前が私で良かったのかとも思うが、私との関係で涙を出せるようになったのならそれは私にとっては嬉しい進歩。これまで友達というものに素を見せたことなど無かった。そもそも私には自分の素すら分からなかった。何年も同じようにしていると、癖と同じでいつしかそれは私の素になった。嘘かもしれないその言動が、私の素になった。おかげで私は裏表のない人になった。私の素が今どこにあるかは私も分からない。ただ、彼女に会って私は彼女に一度も嘘なんてついていない。この人には安心出来たから。隠さなくても受け入れてくれるとどこかで思ってしまったから。かやのさんにとっても私がそういう存在になってくれたらと思った。この彼女の涙はその答えを私に教えてくれた気がした。

「辛いね。いっぱい泣きな。家だから誰の目も気にしなくて良いし。泣いたらすっきりすることもあるからね。私も仕事を辞めるって決めた時の精神状態が本当にヤバくってね、何もしないでも涙が出るの。あんなの初めて体験したよ。」彼女が遠慮なく泣けるように心配する素振りを見せずに私の話を始めた。もしかしてこれがあの時の彼女か。あの時の彼女の行動を半年ほど経ってようやく理解した。あれは私が彼女のことを考えることを無くすために彼女が空気になるという彼女なりの気遣いだったのか。今の私が彼女に気を遣ってあげているぞと言いたい訳ではない。でもあの時の彼女はそこまで計らってくれていたのだと気付くことが出来た。彼女は一泣きして落ち着き、私は彼女の質問の答えを考えた。どういう答えでもきっと彼女は責めてこない。でも私がそうなったらどう思うか。悩みに悩んだ。耳の不調がどのくらいのものなのか。失聴、難聴、耳鳴り、色々あるかもしれない。本当はもういっそ一回全部辞めて新しいことに挑戦しようよとか言いたかったが、そんなこと彼女にとってはそう簡単に飲み込めるものでもないしとても許し難い言葉だろう。今までの彼女が人生をかけてやってきた一番の努力の結晶をそんな簡単に放り投げられたらもう既にそうしているはずだ。でも私にはそれしか経験が無かった。私の夢だった仕事はかなりの経験を要し、体力も必要になってくる。大抵の仕事もそうかもしれないが、そんな中でも技術が求められる仕事だった。どんどん酷くなる体調で集中力は無くなりミスばかり起こすようになり、指導してくれた人は優しかったもののマニュアルがあるかのような怒られ方をされ、心は萎れて仕事は辞めざるを得なくなった。今も仕事は出来ないが、仕事を始められるようになっても前の仕事にはそう簡単に戻れない。今の私は諦めて違う仕事を始めようと思っている。私はその経験しかない。始めたのもまだ1年経っていない。彼女は20年近い時間を使った。彼女の人生そのものが今の仕事なのだ。ついこの前まで夢を持っていなかった私が彼女の気持ちを思い図ることなど出来ない。こんな私になぜ彼女が打ち明けたのか。私はいっそ、と私の思惑を全て話した。

「私はね、夢だった仕事を半年経たずに辞めちゃって、人生どん底の中でかやのさんに会ったんだけど、私はもうその仕事に戻れないと思ってる。私の経験ではそれしか言えない。だから私が出す言葉は嫌だって感じると思うけど、一度辞めて新しいことをやり始めたらどうかなって。それしか言えなくてごめんね。何の役にも立てない友達だねー。」最後はおちゃらけた感じで少しでも堅苦しくないようにした。彼女が拒否をしやすいように。彼女は浮かない顔をしていた。

「やっぱり辞めるしかないのかな。」落ち込んだ暗い声で彼女が呟く。今彼女には辞めるという選択しか無さそうにも感じた。

「耳は両方不調なの?」

「ううん、片方。まだ違和感程度だけどまだ酷くなることもあるって聞いて。」

「そっか、それは不安だよね。でももしそれが一過性のものなら辞める必要なんてないし、もしかしたら前より良く聞こえるなんてミラクルも起こるかもしれない。そんなことは無いか。でも、酷なこと言うけど、その症状が生涯を経て続くものなら、私は私の側にそれを置くことはないと思うな。目が駄目になれば物語は読まないし、カメラのシャッターも押さない。耳が駄目なら音楽も聴かない。味覚を失えば食事もしたくなくなると思うけど、それは生きる上で必要なことだからどうにか策を立てなきゃね。目も耳も、失ってなお頑張って生きている人はいる。だからと言ってかやのさんにそれを強要したりはしないよ。でも、一つだけ、自ら死を選ぶなんてことは選ばないでね。」彼女は私の言葉にただ頷くだけだった。私は私の話を続けた。

「ちょっと私の過去の話するね。もしかしたらかやのさんには辛いことも言うかもしれないけど。私の中学の時のクラスに難聴気味の子がいてね、その子は聾学校を選ばず普通の中学を選んだ。可能なら選択は自由だからね。その子はとっても頭が良くて、クラスの中心に居た。補聴器を付ければ聞こえるほどの症状だったんだって。最初の頃は声も出してた。至って普通の子だった。この普通は健常者って意味ね。クラスメイトはみんな耳のことも知っているからむやみに大きい音を出したりその子の負担になる行動はしなかった。皆優しい人だったな。でも高校からは聾学校に行き始めた。進行してたんだって。中3からは顔を見る頻度が少なくなってたからみんな口には出さずともなんとなく予想は出来た。その後、高校生になって結構経った頃に、偶然道でばったり会ってね、話しかけたの。もちろん彼は聞こえてない。だから近付いて手を振って。そしたら私に気付いてくれて、覚えててくれて、私が手話は出来ないから筆談っていうのを初めてやった。言っちゃ悪いけど耳が使える人にはかなり苦痛。声に出せば届く距離なのに届かないんだよ。だからいちいち書いて、見て、それに返事を書いて、見せて、の繰り返し。スマホのメモ帳使ってね。でもね、何だか秘密の会話してるみたいにも感じて面白くもあったの。彼ね、あ、その子男の子なんだけど、声も出さ無くなってて、でも声は聞こえなくても目は見える。笑顔が見えるんだよ。そして彼が気付いてるのかも分からない程の小さい笑い声が聞こえて、彼はまだ喋れるって実感した。喋るのは嫌だからって始めた筆談だったけど、最終的には声も聴いた。私だけ。会話に時間がかかるっていうこともあったと思うけど、長い時間話してて、色々聞いてて、その時思ったの。彼は音楽を聴くのかなって。こう見えても私当時結構音楽好きだったから。今も時々聞くし。でも耳の聞こえない人にする質問としては分かりきってる疑問でしょ?でもね、違ったの。彼、音楽聴いてたの。びっくりじゃない?」その言葉に彼女は顔を上げて大きく目を見開いた。

「ただ、この時の聴くは普通の聴くじゃなくってね、振動を感じたり、演奏する姿を見たり、あとは手話で歌詞を繋げたり。手話のやつが一番身近かな、教育番組とかで見かけない?振付に手話を使ったりするアレ。小学校とかでやったかもしれない。一見聴くって言葉で合ってるの?って思うことだったんだけど、私も誘ってくれて、その体験させてくれて、振動の音楽を聴いたの。なんて言ったらいいのかな、耳で聴くじゃなくて全身で感じるって言った方が良いのかな。聴くというより感じるの方が私のイメージには合うかな。聞こえる人間だからね。一番よく理解できるので言えば太鼓とか。太鼓の振動ってすごいでしょ。あれが色んな楽器にも使えるの。凄いなっていうそんなちっぽけな感想だけど、本当にすごいの。音楽が芸術って言われる所以が分かった気がした。でも私は一度知った音楽を違う形で聴くことに不満というか物足りなさを感じた。でも彼は楽しんでいた。本来の音楽も知っているのに。私には出来ないなって思った。どっちでもいいと思うんです。本来作られた楽器や人の声で演奏されるものも、振動や目で見るものも、どっちもどれでも音楽って言ってもいい。芸術ってどんな形でもその人が芸術だと言えば芸術になっちゃうものなんだよ。変な文章も作者が詩だと言えば詩になるでしょ?面白い話だよね。言わないなら言わなくても良い。言いたければ主張しても良い。自由です。かやのさんが音楽と思えればそれが音楽で良い。あ!耳の聞こえないアーティストがいたっていいじゃないですか!」何と良いアイデアか。つらつらと自語りをしている時に出てきたものだったが、私は良いアイデアなんじゃないかと思った。でも彼女は私の話をうとうとしながら聞いていた。ほら見て見ろ、沼のソファーだったじゃないか。彼女に毛布を掛けて「おやすみなさい。」と言った。私も少し眠ることにした。疲れたしね。さあ、彼女は起きた時何処まで私の話を覚えているだろうか。起きると彼女はいなかった。え、あれ、と思って玄関ドアを確認するが鍵は閉まっていてチェーンも掛かったままだった。鍵はいつもの場所にある。するとトイレからジャーと水が流れる音がした。扉を開けると洗面台で彼女が手を洗っていた。音に気付いて彼女は鏡越しに私を見た。あたしと目が合うと手を洗い終えたのか、こちらを向き、さも自分の家のようにタオルを使っていた。よく把握していることで。

「あ、寝てたから起こすのもあれかなと思って勝手にトイレ使っちゃった。ごめんね。」

「いや、全然いいよ。どうぞ好きに使って。」知らぬ間に帰ったかと思ってしまった。二人でまた部屋に戻る。そこで私が聞いた。

「寝る前のこと覚えてる?」私より前にいた彼女が後ろを向く。立ち止まったことと振り向いてきたことについ驚いてしまった。

「私はいつ寝たでしょう。」え?いきなりなんだ?

「分かんない。」

「そうでしょうねえ、だって寝てないもん。」え、え?

「ん?どういうこと?なんかうとうとしてなかった?最後とか目閉じてたじゃん。」

「まあ確かにちょっと本気で寝そうではあったけど、そんな結生ちゃんみたいなことはしないよ。」まさか、この前かやのさんの家に行った時のことか。確かに事柄的に同じことが起こっているとも言える。あの時は私がかやのさんの話を聞きながら寝てしまった。おそらくそのことを言っているんだろう。二人でソファーに座る。

「残念ながら寝る前に起きました。なんか言葉おかしいな、寝てないのに起きるって。まあそこはどうでも良くて、結生ちゃんが毛布掛けてくれた時も起きてたよ。」

「え、私の勘違い?ほら見ろって思ってたのに。」

「なにそれ?」

「あのソファー沼って言ったでしょ?横になったら絶対に眠るって。かやのさん眠らないって言ってたからそれはどうかなって心の中で思ってたの。だから寝たって思った時にほら見ろって思ったの!」

「ああ、そういうこと。残念でしたー」ムッとしていたら笑われた。

「狸寝入りってこと?まさかおやすみも聞こえてた?」

「もちろん、しっかり聞こえました。優しく包んでくれる声だったね。」なんて、彼女が自分をハグするような動きとにこやかな顔で言われた。うわ、恥ずかしい。

「じゃあ私のあのなっがい話も全部聞いていたと。」

「そうだね。なっがかったね。ありがとうね。いっぱい話してくれて。耳の聞こえないアーティストか、って確かに面白い発想だなって思ったよ。その彼とはまだ連絡取ってるの?」

「ううん、連絡先すら知らない。」

「え、話聞いてると結構仲良かったのかなって思ったけど。」

「前は連絡先持ってたけどスマホ変えた時に一回全部消えちゃってそこからは身近の仲良かった人しか入れて無いんだよね。高校も違ったし、それ以来会っても無いし。だから友達の数めっちゃ少ないよ。見る?」見せたメッセージアプリには少ない友達とバイト先の上司だった人など、もう連絡すら取っていない人も多い。だからまだ連絡を取っている友達はすごく少ない。

「確かに少ないわ。」さらっとしっかり言われた。

「うわ、グサッときた・・・」と刺されたかのような振りをした。二人して笑った。笑いが収まったところでしんとなり、彼女が話を戻してまた話し始めた。

「私の右耳なんだけどね、突発性で違和感があってから病院で見てもらったんだけど、治療しても改善があまり見られなくて、まだ病院行ってるけど今のままなら私の仕事をずっと続けるのは難しいかもって言われたの。もしかしたら左もなる可能性もあるって。今はまだ聞こえているという点では生活出来てるけど、左もなったら補聴器付けて生活とかも言われて。もう不安しかなくって。今日寝て次の日もし聞こえなくなってたらって思うと怖くてまともに寝れなくなっちゃって。今日も寝れなかったから朝早くに結生ちゃんに連絡したんだけどね。」彼女はこの話をした時、少し手が震えていた。彼女は今とてつもない恐怖と戦っている。私は鬱になった時恐怖は無かった。鬱は死ぬような病気では無い。行動に移したら死ぬこともある。このまま死ぬのかななんて俯瞰した考えをしたりもした。でも死ななかった。感情が沸き上がらないから怖いという気持ちはあまり無かった。しかし死ぬことは誰でも怖い。そのストッパーが外れていないなら一先ずは大丈夫。今の彼女はその感情を必死に両手で強く握りしめている。生きる意志はある。それだけで十分だと思った。生きればこれから先の将来を如何様にも出来る。変えることも戻ることも前進することだって出来る可能性はある。

「眠れないのは病院で診てもらって、今は不安を無くすために動いたらどうかな。一度安定した心を作る。それからでも遅くないと思う。かやのさんの仕事が毎日の練習で成り立っているのは分かっているからそういうのに振り切るのも難しいと思うけど、今は出来る限りの仕事をするか、一旦全部休むのもありだと思うし、まあ、今言ってるのは全部私が通ってるクリニックの先生の受け売りなんだけどね。かやのさんは生きる意志がある。生きる意志があれば人って案外何だって出来るって思ってる。もし辞めるとしたらかやのさんにとっての人生をかけたものが無くなるっていうことになるだろうから私には想像もつかない程のとてつもない覚悟が必要になると思う。辞めるならこれから何をするかも考えないといけないしね。でも、もしいつか振り返ってこの時の選択が後悔するようなものだったとしても、きっとどこかに良かったって思えるところはあるからね。後悔するっていうことはそれだけ悩みに悩んだっていう結果だって思って良いと思うから。こんなことを言うと仕事変えようっていう意見に賛成してるみたいだよね、そういう訳じゃないからね。どんな選択をしても私はかやのさんの側から離れてやんないから。私がかやのさんのこと必要だから。」最後はちょっと恥ずかしいことを言ったが、全部本音で言ったことだ。

「ありがとう。こんなこと誰に話したらいいか分からなくって、無いって分かってるけどもし結生ちゃんに愛想つかされたらどうしようって思ってたんだけど、やっぱり言って良かった気がする。心が軽くなった。」

「でしょ。私もかやのさんがいてくれて段々元気が出てきてる。いつもありがとう。お互い支えながら生きて行こうよ。ゆっくりと。」なんてのんびり考える余裕が彼女にあるかは分からないが、まずは心を落ち着けないと変な考えをしてしまって最悪の事態を招きかねない。私が通っているクリニックの先生から一番に言われたことだ。仕事を辞めるべきか相談した時に言われた。休むのが先だと。まあそうした結果がこれなのだが。

「私の仕事は定時とか無いから今やってる仕事が終わったら一回休む時間を入れようかな。」彼女が最善の策を考えられたことは良いことだ。それからは彼女の仕事の話を聞いた。もうすっかり日が暮れていた。うちにある数少ない食材とレトルト食品を使って夕食を食べ、まただらだらと過ごした。のんびりとした空気が心地良かった。

「今日、うちに泊まる?見ての通り狭いしベッドもシングルだけど。」彼女の不安が私といることで紛れられたらと思って提案した。

「良いの?」

「もちろん、ここで良ければ。私的にはかやのさんちの方がよっぽど過ごしやすいと思うけど。」

「いや、そんなことは無いよ。ただ防音で選んだだけの部屋だし。」

「そうなんだ。まあ、あんなに広いと一人でいると不安も大きいよね。防音の部屋ってことはその分やっぱり家賃高い?」

「うん、高い。でも音が聞こえないから普段から隣人の音とかほぼ分からないし気に障ることは無いかな。楽器使えるとこって少ないからしょうがないんだけどね。」

「うわー、いいなあ、私も住んでみたいわー。そんな家に。一軒家とか良いよねえ。」

「確かに一軒家は良いね、買っちゃえばリフォームし放題だし音も気にせず出せるしね。」

「良いねえ、夢がある。楽しそう。かやのさんと住んだら生活すらも楽しそう。シェアハウスみたいにね。」なんか想像したら楽しそうだな。

「一緒に住む?」

「良いねえ、」もううとうとしていた私は彼女の提案に流れるように受け答えた。目も虚ろになり、下を向きながら答えた。無言が流れる。その後すぐに、ん?と眠気が吹っ飛んだ。

「え?ガチ?」彼女を見ると、

「ガチ。」にこやかに彼女が笑った。

「どういう意味で?」

「もう、そのまんまの意味で。さっき私の部屋良いなって言ってたでしょ。どうせなら一緒に住むのはどうかなって。今の家持て余してるくらいだし。一緒に住めば良いこと尽くしじゃない?シェアハウスオッケーだし、家賃安くなるし、結生ちゃんにとっては部屋が広くなるし、一人じゃないし。一人じゃないって結構大事じゃない?今の私たちには。私はそう思う。どうかな?」確かに良いこと尽くめだ。でも私はまた次第に眠気に襲われ、眠すぎて頭が起動せず何も考えられなかった。

「ごめん、眠い。明日話そう。」もう目すら開けられず口を何とか動かして彼女に答える。

「また眠くなってるじゃん。良いよ。明日起きても覚えててね。」彼女はソファーからこっちに来て、一緒に布団に入った。小さな布団はかなり窮屈で、きっと明日の朝になれば彼女は私の体で布団から落ちているだろう。そんなことを考える間もなく、私の意識は無くなった。早めに飲んだ睡眠薬。いつもは効き目が遅いのに今日は何で早く効くんだよ。そう思ったが、事実は違った。ただ、彼女との話に花を咲かせている間にいつも効くのを待っている時間が過ぎて行っただけだった。そんな事にはいつまで経っても気付かなかった。

 朝起きると隣に彼女はいなかった。いつも目を離すとどこかに消える。そんな言い方、まるで犬か猫か。どちらも飼ったことは無いから分からない。とかなんとか思いながらあくびをする。案外彼女は布団に留まっていたようだ。私が眠っていた場所以外にも温もりがまだ残っていた。スマホを取ろうといつもの場所に手を伸ばす。いつもの置き場所に手は届いているのにスマホの感触が見当たらない。あれ?と思って目をそっちに向ける。いつものことだからもう見なくても取れていたからいつもとの違いに目が覚める。向けた場所にはスマホは無かった。あれ?どこにやったっけ。昨日の記憶を辿るも、私の視界は彼女と瞼の裏しか覚えていなかった。何ということか。ようやく布団から這い出て彼女とスマホを探す。スマホは意外にもすぐに見つかった。ローテーブルに置いてあった。充電していない。あらら、と先に充電器に差す。その後部屋の扉を開けると見覚えのある格好をした彼女がいた。

「おはよう、もう昼だけど。ちょっと寝すぎじゃない?ご飯作ったよ。食べよー。」彼女の家でも見た彼女の料理姿がそこにはあった。相変わらず器用なことで。というか何も無い冷蔵庫でよくご飯が作れるな。何作ってるんだろう。

「おはよう。昨日眠れた?寝すぎなのは睡眠薬のせいです。かやのさんもそうなるかもよ。大変だぞー、色んな薬試すことになるからね。頑張れー。」まだ眠りの中に片足入れている私は彼女にそう言った。昨日のこともしっかり頭には残っている。

「うん、ばっちり眠れた。結生ちゃん抱き枕にして眠った。結生ちゃんいたら睡眠薬要らないかもなー私は。」笑いながら彼女は言った。

「それは良かった。」今日は夢を見た。視界が固定され、私の視界の中で何やらアクション的な大きなことが起こっていた。夢の変なこととして、私は自分のことを俯瞰して見る時がたまにある。時には私の状況を教えてくれたりする。今日はどこかに縛られ、動けなくなっていた。もしかしたら金縛りとかかもしれない。視界は広い。それでいて狭い。私の後ろは見えないのに今行われている全てが分かる。実に不思議なことだ。普段から夢をここまで真剣に考える人自体少ないだろう。金縛りというものが現実で起こっていたのかは分からない。生まれてこの方心霊現象に遭ったことは無いからおそらく違う。ただ彼女が抱き枕にしていたという事実があればその弊害だろう。現実で起こっていることが夢の中で別のことに変換されている。そうすれば納得だ。彼女の作ってくれたご飯を食べながらその話をした。彼女は相変わらず爆笑していた。あなたのせいだぞ。

そして話は昨日のことに巻き戻る。一緒に住まないかという話。私は一人暮らしを経験したことで、家族以外の人と一緒に住むなんて無理だなと思っていた。でも彼女と会って考えが変わってきているかもしれない。何ともなくごく自然と彼女の家に入り、一緒に寝た。そして昨日今日もまた彼女を家に招き、一緒に寝た。彼女なら大丈夫なのかそれとももう誰とでも大丈夫だと思っているかは分からない。ただ、彼女と一緒にいることが出来るという事実はある。ただし懸念点があった。私の生活がままなっていないことだ。彼女が二度もしてくれたような料理も毎日の掃除なんてものも出来ない。出来るほどの力が足りない。私は同居するには居候にも程がある。私にメリットはあっても彼女にメリットとなるものは家賃くらいだろう。それなのに良いのだろうか。

「私と一緒に住むメリットって何かある?」

「そうだね、まずは家賃が安くなるでしょ、そして家事の分担が出来る。負担が減るのはかなり良いと思うんだよ、あと結生ちゃんもいる。」

「私、家事出来る日と出来ない日あるし、かやのさんみたいに料理も上手くないし、掃除もそこまで出来るほど元気じゃない。私といたって負担は減らないよ。何なら負担は増えるかもしれない。かやのさんのメリットと言えば家賃くらいしかないんだよ。」

「違う!というかそれでも良いよ。」かなり食い気味に言われた。でもそんなこと言われたところで「はいそうですか、じゃあ一緒に住みましょう」とは到底ならない。他にも色々な点も加味しなければならない。家賃はどのくらいで分けるのか、家事分担はどうするのか、部屋をどうするのか、シェアハウスをするには部屋数が足りない。仕事場とリビングを兼用にしている彼女の部屋には私が居れる場所はない。寝る時は同じベッドに寝るのか、新しいベッドを買うのか。考え出すとキリがないほどの懸念事項が出てきた。彼女はそれを全て考えて言っているのかは分からない。私が思うにはきっと考えていない。とっさに出た提案を閃いたかのように推しに推している気がする。彼女は同居の提案を眩しいほどキラキラした目で私に訴えかけてきた。

「かやのさんは色々考えてます?」

「え、何?なんか嫌なことある?結生ちゃんが昨日言ったんじゃん。」

「そりゃあ言ったけど、でもそれは上辺の戯言っていうか、なんて言うの?分かんない?」言葉に出来ないというか、語彙が乏しいが故に言葉が分からない。「行けたら行く」は「行かない」みたいな感覚で空想上の思いを口にしただけで、本気になってそれをしたいと思って言ったことではない。それを彼女は本気にした。さあ、どうするべきか。別に嫌ではないが、そこまでの度胸は無い。困り果てた末、彼女が真剣な表情で話し始めた。

「ねえ結生ちゃん、同居は嫌?心から嫌ならしない。結生ちゃんに嫌われたくは無いからね。でも、もしちょっとでも良いなって思うなら試しに一緒に住んでみない?」よく言えるな、他人を今まで自分が作り上げたテリトリーに入れるということはかなりの関係でないとしないものだと思う。彼女の性格を体験したことは無いから何とも言えないが、フットワークが軽いというのはこういうことなのだろうか。彼女の意図が分からない。誰のための行動なのだろう。私のため?彼女のため?それとも本当にただの思いつき?ずっと考えても彼女の意図は分からなかった。だからやってみることにした。

「分かった。お試しで住んでみる。良い?」

「うん、その答えを待ってた。よし、じゃあ一旦1週間くらい?その分の荷物持って私の家に行こう!」私の答えを聞いて彼女はすぐに動き始めた。生き生きしているようだった。

「今日は仕事ないの?」

「うん、無い。だから何でも出来るよ。何でも言って。お手伝い。」

「いやあ、別にすることは無いかな、服とかだけでいいでしょ?持っていくの。」

「そうだね、のんびりでいいから準備しててー。」彼女は食べ終わったご飯の食器を片付けて洗ってくれた。その間に大きめのバッグに服を入れた。1週間とは言えきっと外に出る日はほぼ無い。部屋着を多めに持っていく。ササっと準備をして1時間かからず家を出ることとなった。その時に1週間家を空けるということで色々思い出して他にも持っていくものが増えていった。歯ブラシ、スキンケア類なんかは彼女のを使えないから持っていかなくては。それに賞味期限の近い食料など、なんだかんだで持っていくものは多くなってしまった。旅行するほどでもないが、近くに行くというには多すぎる量だった。少しかやのさんにも持ってもらって、彼女の家に行く。何だか一緒にピクニックでも行くかのような光景だな。昼間に歩くのは久しぶりだ。公園まで着いて、今日は立ち止まることなく足を進める。ここからは彼女の後を付いて行かないと道が分からない。さっきまで隣で我先にと歩いているように見えたのか、公園から先は彼女の一歩後ろを歩くようになり、

「私の家行ったじゃん、覚えて無いの?」と彼女に言われた。

「一回行った道なんてそれだけで覚えられるわけないでしょ。それにこっち側からは初めてだし。あと私かなりの方向音痴だからね。マップ見ながら違う道に行ったりするからね。あんまり舐めないでよね、方向音痴を。」

「まあ確かにそれもそっか、でもマップ見ながら道間違えるは無いかな。方向音痴を誇らないで。」笑いながら彼女は言った。だろうね、こんな変な機能を私の頭に付けないでほしかった。そのせいで小、中、高、大、と全ての道を覚えるのに毎回苦労していたよ。特に住宅街の中だと何処が何処か分からない状態に陥るから大変。だから私の基本として大通りを歩くということを心がけている。あとは曲がる数を減らす。しかし彼女の家までの道は細かい道を介してでしか行きつかない。私なりに頑張って彼女の家までの道を覚えた。というより私の家から公園までより公園から彼女の家までの方が近かった。ほぼ一直線。一回曲がるだけ。こんなに近かったとは思わなかった。前回はこんなに早く着いたっけ。そして彼女は番号を入力して自動ドアを開ける。その自動ドアを抜けると彼女が振り返る。

「そうだ、暗証番号教えるね。」そうか、私が一人で外に出たら締め出されるのか。しかしそれも虚しく、私は番号を覚えることも苦手だ。苦手があり過ぎて頭の中は大混乱。今でも毎日必死に記憶を練習する日々だ。

「ごめん、覚えるの苦手なんだよ、あとで部屋に行ってから教えて。」

「分かった、いいよ。」そしてエレベーターに乗って5階に上る。大きめのマンションで一階ごとに6,7部屋ある。彼女の部屋はエレベーターから降りて左に進んで一番端。エレベーターは階の廊下の真ん中にあるから一番遠くはあるが、覚えやすくてありがたい。部屋に着くと彼女は以前と同じようにスマホを近付ける。ピー、ガチャ。この前聞いた音がして鍵が開く。

「これどういう仕組みなの?」これからは私もしなければならないものだから彼女に聞いた。すると彼女はさっきスマホを当てていた場所に手を近付ける。何をするのかと思えば、何やら蓋のようになっているらしく、スライドさせると番号が出てきた。まさに暗証番号を入力するあの形だった。それもつかの間、ピー、ガチャ、とまた音がした。彼女が取っ手を握ってドアを開ける素振りをするが、ガチャッという音と共に扉は開かなかった。勝手に鍵が閉まる仕組みらしい。鍵という小物の存在自体無いのだと。そんなものがこの世には生まれているのか。登録すればスマホも鍵になるんだと。面白い。番号の登録もしており、どの方法でも開けられるらしい。ひとまず部屋に入って鍵のことを教えてもらう。未知の領域だった。私は時代遅れで淘汰されそうだ。番号が覚えられない私にメッセージアプリで送ってもらって、私はそれをメモアプリに書き込んだ。もう私のスマホが盗まれたら彼女の身の安全は保障できない。しかし彼女はさも当たり前かのように教えてくれた。マンションの玄関ホールの番号と部屋の番号はほぼ同じだった。覚えるものは少なければ少ないだけありがたい。まるで子供におつかいでもさせるかのようにマンションの外まで出され、1分後に一人で帰って来てと言われ、それに従って番号を打ち込み開くドアに入り、エレベーターに乗り5階で降りる。左に進んで一番端の部屋に着く。カバーを開き、番号を入力する。ピー、ガチャ。ドアの取っ手を下げる。下まで下げるとそれを手前に引く。開いた。その瞬間に彼女の顔が目に入る。

「おかえりー!」我が子の帰りを今か今かと待っていたお母さんだった。

「ただいま。」自分からも何故出たのか分からない言葉が自然と出た。もうすっかり彼女の言葉に私自身言い包められているのだろうか。

「よく出来ました。」ちょいちょいっと手を動かして部屋に入るように促す彼女の言いなりになって部屋に入る。次は荷物を片付ける。以前彼女の家に入った時には気付いていなかった部屋があった。彼女の寝室の隣にもう一つ部屋があったのだ。全然気付いていなかった。視野が狭いのも私の欠点。その部屋には彼女の古い荷物や楽器なんかが置かれており、ほぼ物置部屋状態になっているらしいが、そこを私の部屋にしようと提案してくれた。部屋一つもくれるなんてなんとありがたいことか。これならシェアハウスも出来る。そういう訳で提案してくれたのか。彼女と一先ずの置き場を相談しながら服、スキンケア、その他を置き、食品類は今日の二人の夕食となった。この日は一緒にのんびりした時間を過ごした。わが家のように扱うつもりだったが、やはりそんなに簡単に人の家という緊張が取れるわけではない。この日は前と同じように一緒に寝ることにした。この先私の部屋が出来るまでは一緒に寝なければならない。彼女が苦痛を感じないかが気がかりだ。私は苦痛になりそうな予感。まだまだ自分の家という実感が無いからそう感じるだけだとは思うが、これはしょうがない。時が経てば部屋が出来るし、それに準じて緊張感も無くなっていくだろう。これはもう抗えない順序だ。

 次の日、家の中で物音が聞こえて目が覚めた。なんだなんだと思って寝ぼけたままの目で寝室から出る。そこには私の部屋になる予定の部屋を片付けている彼女がいた。

「ごめん、起こしちゃった?眠かったらまだ寝てていいよ。自由にしといて。」彼女は一人でこの部屋を片付けようとしているようだ。

「いやいや、手伝うよ、私に出来ることがあれば。何か言ってくれたらするよ。」寝起きの低い声で自分でも何を言っているのか分からない程の舌っ足らず口調で笑える。

「いや、良いの、大丈夫。まだ朝早いから眠くない?私は目覚めちゃったからやってるだけだから放っといていいよ。」と、彼女が言うので今が何時かも分からない状態でその言葉に甘えてまた眠ることにした。

「じゃあ、寝るね、また起きた時に続けてたら手伝うね。」

「うん、おやすみ。」そう言う彼女は私がすぐに消えたと思ったらしく、あくびをしていた。何だよ、あなただって眠いんじゃないの。頑張らなくていいのに。ありがとうと思いながら、眠りにつく。睡眠に導入する時間は1分も無かっただろう。意識を失い、次に起きたのはまさかの夜だった。ここまで寝たのは久しぶりのことだった。いつもは寝ても夕方。夜まで寝ると完全に体内時計は狂っていく。私の場合は睡眠薬でそれを無理やり訂正している節がある。今日はそれも難しいかもしれない。夜まで寝たことは無かった。やっと睡眠薬が効き始めたとは言え、毎日しっかり眠れるわけではないのも困ること。今日は一晩中起きているかもしれない。ベッドに彼女はいなかった。リビングの方に行くと彼女はご飯を食べながらテレビを見ていた。

「おはよう。」

「もうおやすみだよ。お寝坊さん。」

「私もびっくりしちゃった。こんなに寝たのも久しぶりだし。あのベッドはダメだな、私を沼に沈めてくるわ。」

「何でも沼にするんじゃないよ。大丈夫なの?今日これから寝れるの?」

「無理かもしれない。」同居を始めて初日というのにもうずっと前から一緒のような会話は日常的で、でも私にとっては非日常で嬉しかった。彼女が見ていたテレビはドラマ。おそらく刑事ドラマ。内容などは全然見ていないから分からない。でもそれはもうエンディングを迎えていた。クレジットと共に主題歌が流れている。聴き覚えのある歌声だった。クレジットを見ていると知ったバンドの名前を見た。やっぱりこのバンドだったか。

「面白い?このドラマ。私この主題歌のバンド昔好きだったんだよね。聴いたことある声だったからびっくりしちゃった。ドラマの主題歌するようになったんだ。」

「え、知ってるの?このバンド。」

「うん、なんで?」

「この曲の作曲したの私なんだよね。」

「え!?すご!かっこいい曲だね!依頼されたの?」

「うん。協作したの。だから見てたんだよねこのドラマ。ドラマに合った曲になったかなーって気になって。」

「ドラマ見て無いからその点は何も言えないけど曲はマジかっこいい!こんなの作れるなんて凄いわー」

「そっか、良かった。この曲作りは楽しかったからいい思い出なんだよね。」彼女の嬉しそうに仕事の話をする顔はとても好きだった。

「さ、ドラマも終わったし寝ようかな。」ニヤニヤした笑い顔をこちらに向けてきた。

「アイス食べようよ。」その顔を跳ね除け、私は提案した。

「分かった。食べようじゃないか。」彼女が折れてくれた。二人でそれぞれ好きなアイスを選んだ。私はチョコアイス。彼女は抹茶アイス。部屋の暖かさでアイスが美味しく感じる。冬のアイスも乙なものだ。食べ終えて、彼女はいそいそと眠る準備を始めた。私は目が冴えすぎて眠れるわけがない。眠気が来るまでリビングで待つことにした。彼女はそれを了承してくれて、毛布を1枚持ってきてくれた。ここで寝る気がするからと。そんなことは無いと言いたかったが、2度もやってしまっているから図星を付かれたようで何も言えなかった。「おやすみ。」とあくびをしながら彼女は寝室に向かって行った。次の日まで、私は眠らなかった。リビングの電気を間接照明にして、実家で隠れてテレビを見るかのようにソファーの上で毛布に包まって、スマホをいじっていた。テレビを見ようとしたが、深夜帯の番組で興味のあるものは無かった。朝まで眠れず、早くに起きてきたかやのさんに驚かれた。それも無理はないか、ソファーに丸まった大きな物体があれば誰でも驚く。

「おはよう。」と顔だけ上げて彼女に挨拶をした。

「寝て無かったの?今日昼から寝るんじゃないでしょうね。」まるでお母さん。

「お母さんみたいなこと言うね。大丈夫ですー。まだ片付け終わってないでしょ、それをしてたらあっという間だよ。」まだ私の部屋となる場所は片付いていなかった。

「それならいいけど、無理はしないでね。」

「うん、分かってるよ。」二人で彼女の作った朝食を食べた。洗い物は私の担当になりつつある。料理は彼女、洗い物は私という限りなく少ない家事分担が決まってきた。彼女のご飯はいつも美味しい。結婚したら良いお嫁さんになるだろうな、でも私といて出会いはあるのだろうか、なんて考えたが、そもそもこの生活を言い出したのは彼女だ。きっと今の生活はこれで楽しいはずだ。嫌になれば自ずと別れてしまうと思う。二人で私の部屋になる予定の部屋を片付ける作業に入った。これが終わらない限り私も彼女も一人で眠れない。人にもよるとは思うが、私は寝る場所に一人分の余裕がある方が良い。二人で寝るならダブル、出来ればシングルで一人で寝たいタイプである。

「かやのさんって一人で寝たい人ですか?それとも何人でもオッケー?」

「んー、どっちでもいいかな。結生ちゃんと寝てても何とも思わないし一人でも寝れるし。もしかして今嫌?だから昨日寝なかった?」

「いやいや、そうでは無いんだけど、ずっと二人でシングルベッドはきついなあと思って。思わない?気を遣ってくれてるとかなら申し訳ないなって思って。」

「気なんて遣ってないよ。何とも思ってなかっただけだね。あとあのベッドセミダブル。結生ちゃんの家の時よりは広いでしょ?結生ちゃんは私のことなんて気にしなくていいよ。ここが片付いてベッドも来たら一人で寝れるからそれまで辛抱ね。」確かに彼女のベッドの方が可動範囲が広い感じはあったし、これこそ気を遣わせた気がした。この部屋を片付けているが、私の触れたことの無いものばかりで役に立たなかった。ただ彼女の指示に従うことだけを頑張った。色々なものに目がいくから眠気なんて一度も来なかった。ただ一度、ご飯を食べた時に出たあくびだけが私の眠気だった。彼女は仕事道具であろう物を私に託してくれる。こういうことはなんだか嬉しい。ギター弦にジャララーと当たって音が鳴った。やっちまった、と思ったが彼女はそれを咎めることも無く、

「あ、チューニングが酷いなー、大分昔のものだしなー、弦からやり直さないと。」彼女が言った。この音だけで分かるのか。やはり凄いな。私のことじゃないのに誇らしい。あの感じをまた体験した。こんな近くにこんな凄い人がいるという事実。昨日のドラマの主題歌を作曲した人が同じ部屋にいるという事実。胸の内に秘めながらもその内側で輝かしく光っている。有名大学に進学した子供自慢をする親の感情が分かった気がした。心の中が発熱している。そして何とか今日中に片付けを終えた。彼女が掃除をしてくれて、綺麗になった部屋は彼女の寝室とほぼ変わらない広さをしていた。彼女の寝室に入りきらなかったものを少しこっちの部屋に、飾るように置いた。使ってもいいよ、とのこと。そんな、絶対使えない。初心の時に弾き倒してもう使わないものらしいが捨てる気にもならずに置きっぱなしだったらしい。使えなくは無いから気分転換にどうぞと。知識が無くても出来るのかと聞いたが、興味があればオッケーって。軽いなー。楽器なんて一切触ったことは無いがまあ、気が向いたら触ってみようかな。その時は彼女に教えてもらおう。片付けが終わってご飯を食べた。今日は炊き込みご飯。市販で売られているような素を使わずに食材を切るところからやっていた。彼女が作る上で一番好きな料理らしい。最近になって土鍋を買い、それを使って作るらしい。作っている間にも良い匂いがしていた。その言葉通りとても美味しかった。炊き込みご飯はおかずと一緒に食べるものとは違うと思っている。おかずは欲しいが炊き込みご飯と一緒には食べない。何ともわがままな考えだが、彼女も似たような思考をしていた。おかずに味の濃いものは一切なく、おかずだけで気軽につまめるものを作ってくれた。価値観が合うとはこういうことなのだろうか。私が男ならこの人と結婚したのに。でもきっと性別が違っても彼女と結婚する未来は何故か見えなかった。友達止まり。今の関係。もしくは知り合うことすら無いか。それ以上になる気持ちは一切なかった。そもそもどちらかが男性なら声をかけられることもかけることも無いだろう。同性だったからこそ今の関係が成り立っているのだと思う。お皿を洗ってお風呂に入ったりテレビを見たり、それぞれの時間を過ごした。今日は二人一緒に寝た。体内時計か睡眠薬かどちらかも分からない眠気もやって来てスッと眠れた。

 今日で同居のお試しも4日目に入った。起きるとまた彼女は隣から消えていた。スマホを手に取ると13時を過ぎて14時にさしかかりそうだった。きっともう彼女はリビングにいるか仕事にでも行っただろうか。頑張って気持ちの良いベッドから出ていく。体がとても重い。薬の影響だが、これにはどうしても慣れることが出来ない。しかも彼女のベッドはうちのものより何倍もふわふわで気持ち良かった。沼だから。しんどいと頭を抱えながら起きる。私の出す音以外には何も聞こえなかった。きっと彼女は外に出ている。メッセージには何も送られていないが、まあ心配するようなことはないだろう。寝室を出てリビングに行く。やはり彼女はいなかった。しかしテーブルに紙が置かれていた。言伝ならメッセージでも良かったのにと思ったが、紙の内容を見る前に玄関の扉が開く音が聞こえた。こちらから扉を開けると彼女が「ただいま。」と言った。私も「おかえり。」と言う。彼女が何の理由で外に出ていたのか私はまだ分かっていない。彼女は以前見たバッグを手に提げていた。買い物帰りということだ。なんだ、買い物に行っていただけだったか。そして私はテーブルの上に置いていた彼女の言伝をなんとなく見る。もう内容は分かりきっているが、なんとなく私から捨てるような真似はしたく無かった。紙を見ると、短い文が。

「仕事辞めてくる。」読みやすい字で書かれたそれは、目に入った途端私の心を動かした。ダダダ、と勢いに任せてリビングから飛び出して彼女に近付き、さっき買ったであろう食品を冷蔵庫に入れたりしている彼女に言う。

「仕事辞めてくるって。」

「うん、辞めてきた。また新しい仕事は探すかもしれないけど、まだ無職でも過ごせるくらいの貯金はあるから。さっぱりした。」さっぱりしたとはどういうことだ。

「そんなあっけらかんとしないでよ。絶対昨日今日だけで考えちゃダメなやつだよ。大丈夫なの?」彼女の意図がまるで見えないことが怖かった。この前一回休みを入れると言っていたではないか。私が言った何かが彼女の辞職の引き金になったのだろうか。焦って過呼吸になりそうだった。彼女がそれに気付いて私に近付き、ソファーまで連れられて二人で座る。私の背中を擦りながら彼女が言う。

「一回落ち着いて、そもそも私の仕事の形態が普通とは違うから。普通の会社員は毎日働いてお給料をもらうでしょ?私の場合、不労所得って聞き慣れていない人からすると聞こえは悪いだろうけど、関わったものが売れた分だけお金が入ってくるの。まあ印税とかいうやつね。私の3年分で関わったものと今残っている貯金を考えれば1年くらいは余裕で働かなくても生活は出来る。今後もその収益は入ってくるしね。その間にまた音楽活動に戻るか新しい仕事に移るかを考えようと思っているだけ。もちろんそれは結生ちゃんと一緒に住むことも含めてね、だからもし結生ちゃんがヒモ状態になっても大丈夫だと思う。そりゃあ嫌になったら私が追い出す可能性だってあるし結生ちゃんから出ていくかもしれないことは承知の上で、一緒に過ごせたらいいなって思ってる。この1年は二人のんびり過ごさない?もしかしたら仕事の復帰が早くなったり違う仕事をすぐ見つけることもあるかもしれないけど。でも結生ちゃんは急がなくていいからね。気を落ち着かせる環境が必要って言ってたじゃない?だからこの案が二人にとって一番良い考えなんじゃないかな?」彼女の言いたいことは理解した。落ち着きを取り戻した私に再度どうかな?と彼女が聞いてきた。

「理解はした。でも辞めるなら辞めるで一言先に言ってほしかった。と言うか言葉足らず過ぎるよこのメモ。それに本当に私がヒモになって良いの?ずっと縋り付くかもしれないのにそんなに簡単に言って良いの?」クシャクシャにしてしまったメモを見せながら言う。

「辞めてきたって言っても、依頼を止めただけで籍としては置いてもらってあるよ。耳のことも話して、あと今やってるものとかは全部他の人に振り分けをお願いしてもう仕事は無い。だから結生ちゃんが今思っているようなことは多分無いよ。普通の会社で言う休職みたいなものだから。今私は結生ちゃんと一緒に住みたいと思ってる。だから自ら行動した。きっとこのことを今日言ったところで結生ちゃんは止めたでしょ。」そっか、良かった。確かにいきなり仕事を辞めると言われたらきっと止めただろう。あんなにかやのさんの意思を尊重すると言っておきながら私は私の意志を彼女に押し付けているのだ。自分でも笑えるほど矛盾している。私が考えることが浅はかなだけで、彼女は私が思うよりしっかり将来のことも考えているようだ。それに1年分以上の貯金があるということは彼女の仕事はかなり儲かっているということだ。同い年にして経済的にも精神的にも自立している彼女に頭が上がらない。そんな人に私みたいな人が近付くなんて金取りのようなものじゃないか。本当に彼女の言っていたように彼女のヒモになってしまいそうだ。

「今更聞くのは遅すぎると思うんだけど、ずっと思ってたことで、この同居ってかやのさんに何の意味があるの?」私は下を向いて言った。もう何回言ったか分からない質問だ。私のやるせない気持ちを彼女にぶつけたとて、それで何かが変わるわけでもないし、変わると言えば彼女が私を嫌うだけだ。沈黙が流れる。彼女の顔を見ることが出来ない。沈黙に耐え切れずチラッと目だけ上を見る。彼女は私の視界に入らないギリギリのところにいた。彼女と目が合った。瞬間、彼女は笑って言った。

「前にも言ったでしょ?結生ちゃんがいるからだよ。」いつもの心からの笑いでは無い。申し訳なさそうな、ハの字眉になった彼女の顔は初めて見る顔だった。初めて見たということは今までにないほど彼女を心配させる言葉だったのだろうか。いつも言っていることと変わらないと思っていた。ただ私が心配で勝手に言っているだけの言葉。遂には彼女をも心配させる言葉にしてしまったのだろうか。言霊を甘く見過ぎたようだ。それならば私はとことん馬鹿だ。こんな自分が嫌になる。彼女の窮屈な笑い顔に何故か涙が出てしまった。彼女はそんな私を抱きしめてくれた。その結果私は更に泣くことになる。泣いている間もずっと彼女は抱きしめてくれた。背中を擦ってくれた。

「ね、一緒に住も?」彼女の言葉に私は自然と頷いた。泣いている私の頭には言葉の引き出しの中身が空っぽになっていた。何も無かった。言葉を使わないYESかNOだけの意思表示。そんな私が何も考えずに出した答えはそれだった。心の中ではずっと一緒に住みたかった。もちろんそれは私にとってメリットしかないのだから断る理由も無い。でもそれで良いのか決断できずにいた。彼女の重荷になると考えるそんな私が嫌だった。損得を考える前に、利益不利益を考える前に私の思いを彼女に伝えなければいけなかった。彼女はその言葉をずっと待ってくれていたのではないだろうか。私は彼女の心を一人にさせていたかもしれない。

「よし、その答えで良いのかな?ありがとう。」彼女もまた涙声で私の頭を撫でながらそう言ったが、彼女が私に感謝を伝えるのは間違っている。感謝を伝えないといけないのは私の方なのだ。

「ありがとう。」泣きながら消えそうな声で彼女に言う。彼女はただ黙って私の頭を撫で続けてくれた。二人して泣き疲れ、外から入り込む光も無くなり、すっかり夜になった。私はというと、これっきし彼女に対しての遠慮を無くした。彼女に嫌われるためでも無ければ二人の間で何かするわけでも無い。彼女に嫌われたらそれはそれでしょうがない。ただ、普段の私でいなければ段々と私の心は死んで征く。きっと今までの私よりも早い速度で死に近づく。私にとっても彼女にとっても言わばこの同居は生きるための生活だ。言い換えれば死なないための生活とも言えるかもしれない。私は今考えている懸念点を彼女に言った。今の私は普段通りのように出来ないこともかなりある。毎日お風呂に入ったり、朝しっかり起きることも出来ない。たまには起き上がることすらままならないこともある。それを全て加味してくれるのか。私はかなり深刻なことだと思っていたが、彼女は何なく全てを受け入れてくれた。家賃の配分や光熱費、食費の配分など、一通り決めておきたいことも話した。家賃は私の元々住んでいる家の二倍ほどで、7対3の配分で決まった。もちろんのように彼女が多く支払ってくれる。光熱費も食費も同じようになった。最初は全て彼女が払うとまで言ってくれた。しかしそれでは私の気が浮いてしまう。少しは払わせてくれということでこんな結果に至った。お互い得を感じられる配分になった。最初にお試しとして1週間の期間を設けたが、新しいベッドが予想よりも早く到着し、予定よりも少ない期間でお試しを終了した。そもそももう既にお試し期間なんて終わっていたとも言えるかもしれない。私の家からも私の荷物と必要そうな家具を少し持っていった。家具は私が持っているものより彼女が持っているものの方が価値はあった。そのため必要最低限でいるものだけ持っていくこととなった。その運びを二人で少しずつやったが、そこで気付いたことがあったのだ。公園を介さずに私の家と彼女の家を行き来した方がよっぽど近かったのだ。公園を介した場合は私と彼女の家まで約12分。介さずに行くと5分ちょっとにまで短縮された。マップアプリを使わなかった弊害がここに出てきた。たまたま開いたマップアプリでそれが判明することとなる。彼女の家に持って行かない家具や家電なんかの売れそうなものは全てお金に換えた。予想よりも結構な良い値段になった。案外綺麗に使えていたようだ。このお金も同居生活に充てることとなった。そして家も契約を解除していよいよもう帰ることは出来なくなった家とさよならをした。彼女の家が私の新しい帰る場所になった。以前よりも物が多くなった彼女の部屋もとい二人の部屋は人間が二人ということもあって狭く感じた。しかし彼女が一人だった時の部屋はかなり広く感じたため今の方が空間には合っている。きっとファミリーでも住めるような物件なのだろう。ここに入る時にもよくベビーカーを押した人や子供と手を繋いでいる人などの家族が多く見受けらえた。防音という点も子供持ちにはありがたい要素だ。私の部屋も大分整ってきた。私がもし仕事を始めるなら在宅ワークも良いのではということでデスクも買って置いてくれた。彼女の仕事場と私の仕事場は分けようと。きっと買うのにはかなり早かったと思う。しかし彼女はデスクを選ぶのに私よりもウキウキしていた。届いたときの感動も使うはずの私よりはしゃいでいた。大抵誰でも新しい家具を買うことは楽しいことである。彼女はそれが全面に溢れ出ている。日々の様々なことに興味を示すのは生きる上できっと大切で素敵なことだ。心を豊かにさせてくれる。彼女は日頃からそうやって色々なものに興味を示して、沢山の喜びを見つけているのだろう。

 それからの彼女との同居生活は彼女が言っていたように本当にゆったりと時が流れた。時間が流れるのはゆっくりだが、日が変わるのは早い。奇妙なものだ。あっという間に1週間が経っていく。私の体調は未だに治る気配を見せないが、家にいる間は今までよりも心が揺らぐことが少なくなっている。彼女がすごく働いてくれるおかげで一人暮らしの時ほどの家事をしなくても良くなった。そもそもあまりしていない家事だったが、それ以上に負担が軽くなった。しかしそれでは彼女の気がいつまでも持つことは無いだろう。彼女だって不安の要素があるのだから、安静にする必要があるのだから。そこを私は心配していた。彼女は良くしてくれた。聞こえは悪いがまるで介護をするかのように。彼女にそのことを言うと、少しずつ気持ちの緩さを見せ始めた。朝早くから起きる必要も無ければいつまでに寝ると言った決まりも無い。ましてや今の二人には予定など病院以外にほぼ無いのだし。二人の家になったのなら二人で自由に住みたい。何なら私の方が行動しなければならないところだ。どんどん素を見せ始めた彼女に親近感を覚えた。ようやく彼女の本質が見え始めた。そこから分かったのは、そもそも彼女の生活が綺麗だったということだ。私は一人で住んでいた時、ほとんど体を横にして過ごしていた。掃除は気になったらやる程度で毎日掃除機をかけることなど無いし、料理なんかもしない。出来るだけ動かない生活をしてしまって牛になってもおかしくないくらいにはぐうたらしていた。彼女はおそらく仕事に充てていた長い時間を別のことに充てるという考えでそこに家事が入っているのだ。確かに主婦も立派な仕事だ。一人暮らしだと会社などで家を空ける人も家に帰れば家事をしなければならない。常日頃からしていないとそう効率的には出来ないだろう。その証拠に私は効率の高め方が分からない。彼女は家事さえも楽しくやっていた。最初の頃は私に気を遣って面倒くさいところも自ら進んで取り組んでいるように見せているのかと思っていたが、彼女は本当に自らの意思で楽しく家事をしていた。きっと彼女は家政婦や家事代行なんかの仕事も楽しく出来る気がした。

 彼女の耳の具合は完全に改善することは無かった。しかし悪いことだけでも無かった。治療を始めてから聞こえが悪化することは防げたのだ。右耳だけでは音として聞き取れるものの言葉としてはあまり聞こえないくらいの状態だった。学校でよくやった聴力検査もほぼ問題は無かった。ただ聞こえる音に限界はあった。日常生活には問題の無いほどで、歩行者信号の音やクラクションの音、アナウンスの音も、音としては聞き取ることが出来た。しかし急激に高い音を聞かされると聞き取れないこともあったようだ。両耳を使えばほぼ普段通りの生活は出来ている。しかし完治はしなかったということもあり、通院は続いている。何も変わらないことに時折弱音を吐くこともあった。前向きな時もあれば後ろ向きの時もある。人間はみんなそうなのだ。そういう生き物なのだ。頭が良くなったが故の欠点。しかし彼女はそれを自分の心の中に閉じ込めることは無かった。嬉しいことも嫌なことも、家にいると何でも私に話してくれた。私はただそれを聞いて受け止めてあげることしかしなかった。彼女は気持ちを吐き出すことでスッキリするから良いそうだ。私が彼女にとっての悪い気持ちのはけ口になっていた。私はそれで良かった。彼女の弱音を聞くことは私にとっても良いことだった。孤独を感じることが無かったからだ。一人でいた時は自分の弱音を吐くことも無く、誰かの弱音も聞くことなども無かった。そもそも言葉にしようとしなかった。ただ何と言えば良いかも分からないこの気持ちをぐるぐると心の内に秘めるしか無かった。孤立した気持ちだった。皆はどうやってこれを乗り越えているのかを知らなかった。一人になることは自分から選んだはずなのに、それは同時に自分を苦しめていた。正反対に見える私と彼女は凸と凹が合致するように綺麗に収まった。私の心の穴を彼女の溢れ出す心が埋めてくれる。私の空白に彼女が言葉を埋めてくれる。そんな感じ。逆の場合にもなってみたいが、今のところそんな出来事は無い。彼女から貰ってばかりだな。何から何まで彼女とは相性が良い。これが相性というものかは分からない。でも私は嬉しかった。私は自分の弱音を口に出せない。言葉に出来ない。それに比べて彼女は弱音だとしてもそれが鮮明に見えるように言葉にしてくれる。それがとても気持ちが良かった。共感というものが出来る。一緒に辛さを分かち合うことだって出来た。私のこの気持ちはそういうものだったのかと理解、納得もすることだって出来た。私はそれでスッキリ出来ることが多かった。

 私が外に出る時、病院に行く時、彼女が一緒に付いて来てくれることも多くなった。最初の頃は一緒に電車に乗っている間、パニック発作も出そうになった。人の一番少ない端の車両に乗り、私は一番端の席に座る。彼女はその隣に座る。他にも空いている席は多く、座らない選択をする人は少なかった。もし座らなくとも大抵はドア前付近の場所に立っている。私の前に人がいることなど限りなく無に等しかった。だから目の前はいつも窓から見える景色だった。私はその景色を見て心を落ち着かせていた。道路よりも高い電車から見る景色には大部分に空が見えるのだ。彼女と公園で空を見ていたあの頃を思い出す。最近は公園に行っていなかった。彼女の住む家のベランダはそれに代わる格好の場所だった。前の家は1階でベランダなんてものは無かった。庭と言えるスペースもほぼ無い。しかしこの家のベランダは広い。最近はこの家のベランダから空を見ていた。斜め下の方には二人で過ごした公園が見えた。彼女はそのことに気付いていなかったらしい。私が言った時に彼女も驚いていた。普段からベランダは使っていなかったと言う。こう見ると歩いていった時より公園が近く見える。もう真下みたいなものだ。そりゃあ近いことだ。

 私の現在の体調として、心が穏やかな時と跳ねて仕方がない時があって、私の心は切り替えが大変そうだ。自律神経というものがぶっ壊れている。そんな私はつい冷静になって体と心を切り離すことがある。何なら頭もそれによって離される。私の頭は私の体と心を冷静に分析するように、辛さや苦しみをどこか他人事のように考える。それによって外出というものは苦労する。頭も体も、そして心も付いて来てくれないと難しいからだ。もちろん出来ない時もある。二人では予定を合わせやすいのに3人になった途端予定を組み辛くなるあの現象のようだ。そんな時は無理やり引きずって行く。物理的では無い。だからという訳ではないが、無理な時は本当に無理だ。3人の行動を一人だけでやっても意味が無い。二人ならまだ許されるかもしれないが。彼女はそれにずっと付き添ってくれた。しかし皮肉なものでどんなに彼女が私と一緒に付いていてくれてもそれに私の心が付いていくことは無い。ずっと一人歩きをしている。だからどれだけ彼女の支えがあっても体調と気分がそれにありがとうと重ねてくれることは無い。融通なんてものは人の心の体調には利かないのだ。悲しい。虚しい。全部無駄にしている。こんな嫌な人にはなりたくなかった。こんな風にいきなり卑屈になってはいきなり気分が回復したり。自分でも自分が分からない。次の日の体調すらまともに予測出来ない。こんなことになるのは不思議なものだ。自分を痛めつける体内にはどんなからくりが発生しているのだろうか。こんなことを考えるのも考えることが無いからだ。考えることを考えることが私にダメージを与える。巡り巡るこの頭は一体どこで止まってくれるのか。とんだ迷惑な話だ。

 彼女と一緒に住み始めて3か月が経った頃だろうか。もうじき冬も終わりそうな頃、ようやく睡眠薬の調整が安定してきた。朝に目が覚めるようになってきた。二人ともどちらの眠りも邪魔しないように目覚まし時計をかけていない。彼女の起きる時間も彼女の体内時計に任せている。いつも起きるのは私が遅いから彼女の体内時計がどのくらい正確なものかは分からないが、彼女の寝る時間はいつも変わらないと思う。いつも彼女が部屋に入ってしまう時間がほぼ同じ時間なのだ。彼女は日の大部分をリビングで過ごす。睡眠時間のみでしか彼女は寝室を使わないのだ。理由は知らないし知ろうとは思わない。時々楽器を弾いていたりするのを見かける。やっぱり仕事では無くとも弾きたくなるものなのだろうか。そんな彼女の顔はいつも楽しそうだった。心から音を楽しんでいた。極稀にだが、彼女よりも先に目が覚めることも出て来た。それでも昼間の眠気は絶えない。ベッドに潜り込めば一瞬で眠れるだろう。彼女にも味わってもらいたいものだ。いや、味わってほしくはないな。自分が辛いと分かっていることをわざわざ当て付けるのは見当違いだ。申し訳ない。彼女は新しい仕事を始めた。と言っても副業だ。彼女にとっては小遣い稼ぎ程度かもしれない。家にいながらデータ入力をしている。業務委託でやりたいときにやれるようなそんな仕事。彼女にとって本業に比べたら些細な稼ぎではあるが、何もしていない私よりずっと頑張っている。それに仕事をしていない時よりも元気なような気がする。彼女は仕事というものが好きなのだろう。というより何かをすることが好きなのだろうか。そんな考えが出来るとは素晴らしい。仕事を辞めるように言った私が間違っていたのかもしれない。何もしていない私に生きる価値は無い。そんな風に私は思ってしまうのに、それでも彼女もクリニックの先生も誰も私を諫めない。それどころか優しさをずっと与えてくれる。言葉で、行動で。心も頭もほんわかしているのにどうして私の体はこんなにも冷たいのだろう。何故か冷え切っている。そう感じる時がある。3人組になった時の一人余るあの感じと言えば良いのだろうか、残り二人のうちの一人も私なのにそれを後ろから私が見ている。おかしな話だが、例えればこんな感じなのだ。人の意見に納得したり共感したり、話に入る私もいるのにそんな私に対してなぜこういう行動するのかとどこか遠目で見ている私もいる。きっと共感してくれる人はいないのかもしれない。なんと説明をしたら良いのかすら分からない。

 私も仕事を始めようとした。丁度春頃で求人が多くあった。優遇の良い会社を出来るだけ見つけて面接をして、採用されたら会社に行って。出来るだけ在宅で出来るものを選んだ。私が選ぶ側にいないことは分かっている。そんな中で私を選んでくれる会社があれば頑張りたかった。一人で住むには絶対に届かない給料だが、アルバイトから始めた。週に何日か出勤をしなければならない会社しかなかった。彼女もデータ入力の仕事でたまに出かけていた。どんなに優しい会社でも当日欠勤が多いと自然と疎まれる。居心地が悪くなって会社を辞めての繰り返し。辞めずに疎まれながら仕事をするには私の技術は見合わないし気持ちも擦り切れる。まだ仕事をするには早かったかとも思ったが、いつまで経っても自分から行動しなければ変わらないと思った。それで頑張ってみた。無理だった。それが結果だ。彼女からはもう一度全て辞めて休むように言われた。どうせ別に本気でやりたい仕事でも無かった。夢の職を辞めてしまった今はまだ希望の職など無い。彼女の言うことには何だか従ってしまう。ありがとうという気持ちを込めつつまた休む。ここまで読んでいる人はきっと面倒くさい人だと思っているのだろうな、と我ながら思う。本当に面倒くさい。こんな私すら受け止めきれない私を受け止めてくれるのは彼女くらいだと思う。他に受け止めてくれる人がいたら表彰したい。彼女には日頃から感謝している。彼女に出会えたことは人生最大の幸運だったのだ。これまでの人生で今までの選択をしていなければこの運命には辿り着かなかった。それが吉か凶か、これからの人生を歩まないとその答えは分かることは無いだろう。今のところは一度凶になったものの、彼女と出会ってからは吉まっしぐら。とても素敵なこと。

 また仕事を辞めて引きこもり生活に戻ってしまった。しかしこれまでより良いことも起こっている。生活リズムが整ってきた。おかげで体調は良くなってきた。気分はまだ優れない日も出ているが、以前よりはかなり少なくなっている。仕事という重荷が消えたことも理由かもしれない。このまま体調も気分も回復しきると良いのだが、そんな願いは私の人生上、かなり叶わない方だ。それを分かっているから私自身、私に甘くしていた。前まではこんなこと考えもしなかったが、人生一度きり、どうせ私は長く生きることは無いと思っている。それなのにこんな時に限って的は外れる。生きたい分生きたとてそれですぐ死ぬような人間には出来ていなさそう。嫌な方にばっかり勘が働くものだ。以前なら絶対にしなかったと思うが、使えるものは使ってやる精神で彼女に甘えた。彼女は以前と変わらず私に甘い。どんなに役に立たなくても、子供のように出来たことがあればすぐに褒めて感謝を伝えてくれる。私にはそういう人間の存在が必要だったのだろうか。昔から自己肯定感は低い人間だった。承認欲求も無く、空気のように生きてきた。日本人のネガティブな性格を凝縮して表したような人間。それが私。いつの間にか自分のことは先に否を認めるようになっていた。何かが起これば私のせいだと思ってしまい、すぐに謝ったりすることは日常茶飯事だったし、何も無くても私には褒めてくれるような行為から縁遠く、褒められるということには慣れることなど無かった。褒められて伸びるような人間でも無いし、怒られて成長する人間でも無い。何をしても成長するという感覚を掴めない。私の家庭はおそらく放任主義だった。それが関係しているかは定かではないが、私は何かのために頑張れるとか締め切りがあれば頑張れるとかいう考えがどうも出来なかった。新曲のためにテストを頑張ったとか言っている人を見たことはあるし、自分でもこのグッズを買うためにテスト頑張りましたとか言ったりしたこともあったが、全てはでまかせというか、そのアーティストなんかのために言っているようなものだと思っていた。実際にそれが自分の感情で語られるものでは無いとずっと思っていた。でも本当にそういう人に出会ってしまって分からされるようだった。私にはそういう心が無いのだと。その考えは私にとってのQOLを下げていくものになった。親にテストを見せることも無ければ見せろと言われることも無い。成績が上がろうが下がろうがどうでも良い。学校を休みたいと言えば強制はされなかった。きっと警察沙汰になったら口を出してくるのだろうが、今のところ私にそんな意気地がある訳でも無いからひっそり暮らしていると思っていることだろう。あながち間違ってはいない。

この家のベランダに二つの簡易的な椅子が増えた。私が提案したものだ。空を見たいがために。今までは立って見ていた。「あったら便利じゃない?」の一言で追加された。椅子の色は一緒。でもいつも左に私が座って右に彼女が座る。もちろん一人の時もある。彼女が一人で座っているところは今のところ見たこと無い。リビングで食事をしたり、テレビを見たり、そんな時も左は私、右は彼女。公園の時は逆だった。最初に声をかけられたときに空けていた方が左だったから彼女は左に座った。それからというもの、公園のベンチに座る時は左が彼女、右が私というのがお決まりになっていた。それなのにこの家ではこっちのほうが落ち着く。きっと今公園に行けば私は左、彼女は右に座るだろう。こういう風景が当たり前になっていくことに嬉しさを感じる。彼女のテリトリーに私が入り、私のテリトリーに彼女が入っている。家族以外に家族のような存在が現れた。それからも二人は二人のペースで人生の道を歩いていた。たまに人の多い場所まで行って買い物をしたり、家で映画鑑賞なんてやってみたり、どんどん出来るものを増やしていった。出来ることが増えると私自身の自信にも繋がった。集中が出来るようになったとか、お風呂に入る頻度が増えてきたとか、そんな些細なことでも嬉しかった。

彼女はまた仕事を始めた。以前やっていた音楽関係の仕事をまた再開したのだ。右耳は不調のままであるが、それでも出来るものをゆっくり制作しているそうだ。以前私が言っていた感じる音楽のことにも興味を持ってそちらの方面の創造も始めたらしい。私にとっては分からない仕事だ。関わることが無いから。でも完成したら聴かせてあげると言ってくれた。楽しみ。仕事を始めた彼女は私と出会った頃のように元気に仕事をしていた。たまに彼女が仕事をしているのをリビング側から盗み見ていた。彼女の顔は真剣そのものだった。その表情を見ることが出来て嬉しかった。しかし仕事を始めると必然的に家を空けることも多くなる。私も一人でいる時間が増えた。一人暮らしをしていた時の感情が残っていたら良かったのだが、残念ながらもうとっくにそんな感情は失くしていた。おかげで寂しさが倍増してしまうなんてこともあった。たまにリビングを追い出されることなんかもあった。集中したいからということで。もちろんそれは集中してほしいから自分の部屋に閉じこもる。最近ようやく再び小説を読み進めることが出来始めた。集中は長くは続かない。少しずつ読んでいった。ようやっと一冊を読み終える頃には1か月が経っていた。たまにかやのさんの持っている漫画を借りて読んだりもした。いつでも出入りして持って行って良いよと言ってくれた。小説よりも圧倒的に読みやすい。小説では文で表さなければいけないところを漫画は絵で表すことが出来る。場所や人物像、人の表情までをも表すことの出来る漫画というものは凄い。しかし小説はその点とは別の点で評価したいところがある。漫画ではあらかじめ用意されたものを頭に入れていくが、小説はその用意が何もないのだ。あると言えばあらすじくらい。でもそれだけで登場する人の人物像が分かることも無いし、どこでこの物語が起こっているのかなどもほぼ分からない。名前だけで誰かと同じ顔が浮かぶなんてことは出来るはずがないのだ。決められた顔などは無いから読者のそれぞれが別の顔を作っている。どんな場所でどんな人が何をしているのか、人それぞれのニュアンスや興味で何通りもの物語が出来る。最近はこの読書が趣味と言えるほどやっていることの一つだ。まあ、あとしていることと言えば睡眠くらい。

 夏になった。真夏を超えた暑さでエアコン無しでは到底過ごせそうに無い。電気代も馬鹿にならなそうだ。暑さで疲弊しているのは私だけでなく彼女もだった。彼女はどちらかと言うと夏のような人だと思っていたが、違うようだ。性格と好きな季節が一致することも無いか。それに夏が好きでもこの暑さには耐えきれないと思われる。彼女の好きな季節は春らしい。桜の散る姿に慈しみを感じるらしい。なんと豊かな心を持っているのか。桜が咲くことでは無く散ることに情緒を感じるという彼女の考えは素敵だと思った。どうせならお花見でも行けば良かったか。でも今年、私は一度も桜を見ていない。そんな話をしたら、丁度私が仕事で心を折られている頃だったらしく、その頃の私は家を出ても花を見る余裕など無かったし、辞めてからは家から出なくなっていたから見ていないという訳だ。来年は一緒に行こうねと約束を作る。自分が思っているより私の本能は生き生きしているのだろうか。それを前面に出してくれたら鬱も消え去りそうなのに、なんだかなあ、と煮え切らない気持ちで話を終えた。

段々と気温が下がっていき、夏が過ぎるとともに少しずつ乾いた風が吹き始め、秋の訪れとともに顔を出す冬の姿には恐ろしくなる。以前はそれほど急いでいるようには見えていなかったのに年々速足になっている気がする。好きな秋をもっと長く感じていたいのにそれを急かすように冬が背中を押す。秋はその押しに耐えられずその座を渡してしまう。秋よ、もっと頑張ってくれ。秋服というデザインの物が好きなのにそれを着る機会がほとんど訪れないのが何とも残念なこと。下に秋服を着てもどうせ上にアウターを着てしまうから意味が無い。ただ、室内にずっといる時は暖房が効いているとアウターを脱いだりもするから秋服を見れる。しかし暖房が効いている時期はもうすっかり冬になっている。秋服だと寒いから着る服を選ばなければならない。冬に秋物を着るのもなんか違う気がするという心理。ファッションは我慢。私には無理だな。私はいつ着ても良いような黒い服を選びがちになってしまっている。たまに秋服の茶色やベージュ、カーキなどの淡い色も買ってみたりもするが、最後にはやっぱり黒に戻る。鮮やかな色は趣味ではないということもあるが、自分に合う色を知らないというのもある。いつだったか、かやのさんと買い物にいた時、服屋さんに行って着せ替え人形になったことがある。かやのさんは楽しく洋服を選んでいたし、私もこんな経験をしたことは無かったから楽しかった。かやのさんの趣味の服は私が選ばないような服ばかりだった。色は鮮やかというほどではないが女性らしい淡いピンクや水色などの明るい色が多かった。私は基本的にダボッとした服を着る。体型を隠せるというのも理由としてあるが、一番の理由はシルエットが好きだから。彼女は体型に合ったスラッとした服を着ていることが多い。動きやすさと好みだそうだ。その服をサラッと着こなせる彼女の体が欲しいな。ダボッとした服を着るとそれに使える上着は限られる。選ばなければならなくなる。変に塊が出来てしまったり脇付近の布面積をどうにも出来なかったりするから色んな上着を考える。でもそれもそれで面白い。おかげでアウターも沢山買っている。おそらくトップスとアウターの数はほとんど差が無いと思う。

 冬が来た。と言っても私の認識の暦の上では秋と冬の狭間だ。11月。かやのさんと出会ってもう1年になるということだ。あっという間の1年だった。秋からチラチラと冬の顔は見ていた。だが、前面に出てくると話が変わってくる。頭は痛いし布団からは出られないし。そんな季節にかやのさんは元気だった。出会った時もこんな風に元気だった気がする。夏は疲弊していたのに冬はどうってことないのは何故なのだ。一つに、彼女の仕事も関わっているのかもしれない。彼女は今、耳の不調を受け入れ、乗り越え、楽しく仕事をしている。今のところ依頼は受けておらず、かやのさん主体の活動を続けているのだとか。それに楽器の演奏も再開していた。なんでもサポートバンドの一人として以前やっていたグループに再度誘われたらしい。耳のことも伝えた上で、お願いされたらしい。それ以上の信頼関係を築いてきたからこそのお願いだったのだろう。演奏の練習をしている姿は何時間でも見ていられるほどのかっこよさだった。それを見て楽器を演奏してみたくなった私は私の部屋に置いてある昔のかやのさんのギターを隠れて弾いていた。ギター初心者向けの動画を見ながらゆっくりと。するといつの間にか彼女にバレ、レッスンを受けるようになった。彼女の教え方は上手い。教室でも開いたらいいのに、なんて言ったが、彼女は謙遜してそれは無理だと言っていた。結構需要あると思うけどなあ、と思った。私も早く少しでも仕事を始めよう。クリニックにはまだずっと通っている。先生から仕事を進めるようなことは無いが、やはり仕事はするべきという考えに陥ってしまう。いつ頃復帰するべきなんだろうか。きっと先生から言い出されることは無いから私自身が考えなければならない。しかし最近の気分の変わり様に合わせて先生の処方もいろいろ変わってきている。その薬でどのような影響が出るかは飲んでみないと分からない。その薬の状況が分からないから仕事をしようにも始める目途が立たない。なんて理由をこじつけているが、ただ仕事をしたく無いという本音も混じっていないとは言い切れない。彼女のように仕事に全力を投じることが出来る人間で無いことは分かり切っている。仕事を始めるなら最終的に何の仕事に就こうか。自分が心から好きで出来るもの。


 かやのさんが交通事故に遭った。12月19日。冬と言ってもまだ真冬という時期でも無いのにこの日に限って気温が急激に下がり、珍しく雪までも降った日だった。何とも不思議な一日だった。積もりはしないが、上着に付いた雪は結晶として綺麗に見えてすぐに溶けて消えた。その日の朝、かやのさんはもうどこかに出発していた。起きた時にかやのさんからメッセージで「面接頑張れ」と送られてきた。それにスタンプを押した。メラメラと目から炎を出しているスタンプ。私はアルバイトの面接に行こうとしていた。アルバイトからまた始めようと奮闘していた。鬱が良くなったと言えるわけではないが、大分改善してきた。少しずつ始めようと条件を飲んでくれる会社を探した。事故の連絡を聞いたときは心臓が飛び出るかと思った。面接のために外に出たが、この連絡を聞いて面接をキャンセルした。もうあの会社は無理かもしれない。しかしそれでも良い。どんなことがあれ彼女が先だ。口から心臓が飛び出るとはよく聞く言葉だが、そんなあり得ない話を比喩であれ本当に経験するとは思っていなかった。車と彼女一人の接触事故。責任は車が100パーセント悪い状況だった。横断歩道を渡る彼女に気付かなかったのか、そのまま左に曲がった車はブレーキをかけるのに一歩遅れ、すぐに止まれず彼女を少し押し飛ばした形で止まった。運転手は認めているからひき逃げではない。ひき逃げをするような運転手で無くて本当に良かった。彼女は右足の骨にひびが入って入院することになった。私は骨折をした経験が無かったから知らなかったが、骨にひびが入るというのも骨折に値するそうだ。思わぬ知識を得た。彼女が運ばれた病院は奇しくも二人が別の科に通っている総合病院だった。しかしどちらも入院したことは無い。入院病棟は勝手を知らないから何も知らない病院と一緒だ。彼女の命と手が無事で良かったが、足と言っても歩けない。心配なものは心配だ。お見舞いに彼女が欲しそうなものを持っていく。骨折なら食事制限はないだろうとお菓子などを。来なくていいと言われたが、私は彼女の病室に行った。この状況で面接に行けるほどの心は持っていなかった。この前の会社の面接は再度調整する前に丁重にお断りした。少しの間一人暮らしを謳歌出来るという発想も考えたが、私の心の中にある彼女の割合は私が思っている以上に大きかったらしい。それにこんなに広い部屋では寂しい。彼女が事故に遭った日のこと。久しぶりに人の死のような夢を見た。彼女に会う前はよく見た夢だったが、最近は学生時代を振り返る夢だったり友達とただ話していたり、かやのさんが出て来たり、穏やかな夢が多かったこともあり、その差が浮き彫りになっていて私の頭は興味を示した。彼女の事故とも関連しているのかもしれない。でもこの事故で死者が出ることは無かった。夢の中でもドラマのような展開が起こることは無く、犯人を追うような立場でも無ければ追われるような立場という訳でも無かった。人は近くに誰もいない。あまり見ない夢だった。いつもは大抵誰かが映る。私はおそらくどこかの屋上にいた。視界が広い。下を見ると一人の寝転がった人。何故私は下を見た?転落したのだろうか、ピクリとも動かない。寝ている体勢にしては不思議な体勢。落ちたとしか考えられない。死んでいるのかはここからだと見えない。血が出ているかもよく見えない。まだ息がある可能性もある。そう思ったのはその体が花壇の上にあったからだ。花壇ならまだ土が柔らかいかもしれない。いろんな色の花が咲いていた。夢の影響で色褪せた花になってしまっていたが。まるでフィルムカメラで撮ったかのような褪せた色はレトロチックな花の色を作った。しかし上に人体が乗っていると話は別だ。あの人は花に敬意は無いのだろうか。花だって立派な生き物だ。私はそう思っている。だからこそあの人があんな場所で寝転んでいるとは思えなかった。転落なら理由も分かる。音のない世界。いつもの夢は全てではないが、音もあることが多い。ここはとても静かだった。環境音すら無い。風も感じない。それは夢だからか。次に私の視線は空を見た。冬の空だった。でも寒くは無い。白んだ青空と薄い雲。私の視界は屋上を良いことに視界いっぱいの空を見ていた。屋上で寝転がったのかもしれない。この中の私はあの倒れた人を助けるという考えをしていなかった。ハッと起きると私の部屋だった。静かすぎる怖い夢だった。もしかしたら私は人を殺した、もしくは殺そうとしたのか。でもあの寝転がった人を一度見ただけで後は空しか見ていない。怖いというのとも違うのか。怖い話は苦手。グロテスク系も幽霊系もびっくり系も全部苦手。それなのに警察もののドラマやサスペンスドラマなんかの死体が出てくるものは見れるという変な思考。ちなみに注射も苦手。注射という行為自体は大丈夫なのだが、針を刺される場所を見ることが出来ない。生身に何かが刺されたりえぐられたりするのが無理だ。でも小説なら読める。私の可能な範囲での想像に留められるから。起きた時、背中がびっしょり濡れていた。冷や汗か、汗をすごくかいていた。無理も無い。あれが本当に殺人現場なら尚のこと。でも私がいた建造物は知らないし、下で倒れていた人もよく見えなかった。あんな花壇も見たことが無い。夢ならしょうがない。でもあの空は鮮明だった気がする。あれが冬の空ならばの話かもしれない。もしあれが色褪せた空ならばいつ頃の空なのだろうか。何にしても綺麗だった。倒れた人より空の方が近くに見えたからだろうか。そういえば私も前に死ぬなら落下死が良いなと思っていたじゃないか。いや、落下死が良いのではなく空を見て死ぬのが良いのだ。空を見て死にたい。あの倒れた人は空を見て落ちることが出来たのだろうか。もうあれも1年以上前か。かやのさんと会うもっと前だった。相変わらずまだ鬱は治らないが、今では死ぬことを考えることすら無くなっていた。かやのさんがいたから。今日もかやのさんの病室に行こうと準備をした。この準備は私の部屋と洗面台、キッチンで事足りるからわざわざリビングに行くことは無い。彼女が入院してからというもの、家に帰って来てからリビングを使うこともあるが、一人でこんなに広い場所を使うと寂しくなるからほぼ使っていない。自分の部屋で十分な広さだ。家を出ると、寒い風が強く吹いていた。マンションのエントランス付近の木に付いている葉の擦れる音が耳に響く。病院に着いた。なんだか今日は騒がしさが目立った。混み合っている様子だった。人混みに入りたくはないが、彼女に会うために先に進む。彼女の病室に行くと、彼女はいなかった。前よくあったようにどこかに行ってしまったということでは無い。まず昨日まであったはずの彼女の名札が無かった。彼女は大部屋のうちの一人だった。どこかに移ったのだろうか。忙しそうだったが、意を決して近くの看護師さんに聞いてみた。すると、その名前の患者はいないと言われた。そんなはずは無い。絶対に無い。あり得ない。だって昨日はいたじゃないか。一緒にお菓子も食べた、はず。「昨日までいたと思うんですけど」と聞いてもその名前の人は知らないとまで言われてしまった。それ以上は呼び止めるのも申し訳なくなってその階のフリースペースや別の階にあるコンビニなんかも見て回った。しかし彼女はいなかった。そもそも彼女は歩けない。再度彼女の病室だったところまで行くが、やはりそのベッドは空だった。一旦帰ることにした。家に帰ると靴があった。私の履かない靴。彼女の靴。彼女はいつも靴を出している。気が向いたら靴箱に入れる。急いでリビングに行った。彼女は入院する前のように平然とご飯を食べながらテレビを見ていた。

「おかえり。寝てたと思ってた。どこか行ってたの?」ソファーに座っているのは彼女。声も彼女。かやのさんで間違いは無い。でも昨日は歩くことすら出来ていなかったのに、足にはギプスも足を固定するものも近くに松葉杖も無かった。

「足大丈夫なの?」

「え?何のこと?」意味が分からなかった。手にしていたスマホを見る。日付は12月22日。確かに今日を指していた。かやのさんが事故に遭った翌日。私の世界は変わらず進んでいる。でも何かがおかしい。私がおかしいのか彼女がおかしいのか。この世界の何かが歪んだりしているとか?なんて非日常的な想像までしてしまった。

「事故に遭って足怪我したよね?」そう聞くものの彼女の頭は一度斜めに傾げたが、その後迷わず横に揺れた。今ここには私の知らない彼女がいた。今ここで私はどんな立場なのだろうか。彼女は食事を終え、仕事するね、と言ってリビングの半分弱を占める彼女の仕事場で仕事を始めた。私はただ呆然と突っ立っていた。

「どうしたの?今日。座りなよ。もし邪魔になったら容赦なく出てってって言うからテレビ見てても良いよ。」平然と仕事をしながら私に話しかける彼女は事故を起こす前の彼女そのものだった。私は訳が分からなくなってリビングでは無く一人自分の部屋に閉じこもった。日付は正確だ。私の記憶も正常のはずだ。そうすると私から見ると異常なのは彼女だ。でも性格がおかしいとかそういったことは無い。至って普通の彼女だ。彼女はいつものように仕事をしながらも家事もしてくれた。部屋に閉じこもった私にご飯を持ってきてくれた。ノックの後に「ご飯食べて無いでしょ?食べれたら食べて。」と声がした。扉を開けるとお盆にご飯を乗せて自力で立っている彼女がいた。怪我を負っている様子など全く無い。受け取ったご飯は炊き込みご飯だった。彼女の一番好きな料理。私にとっても好きなご飯の上位にランクインしている。今日もしっかり美味しかった。食べ終え、キッチンにお皿を持っていく。洗おうとしたら止められた。お皿を洗うのは私の担当だ。しかも今回は私のだけ。最近は私がやる家事を増やして出来るようになってきたが、彼女は休んでて良いよ、とまるで過去に戻ったような扱いに疑問を抱いた。それも随分前だ。互いの家を行き来した頃。何なら一度しか無い。初めてこの家に行った時は私が洗った。彼女が私の家に来た時は彼女が洗ってくれたが、その一度だけ。出来るよと言っても彼女は私に休むよう言ってきた。ありがたいことだが、ちょっと申し訳ない。彼女がお皿を洗っている間、私はまた自分の部屋に戻って今度は眠りについた。一度ゼロに戻るため。前からずっと寝ようと思えば寝れるのだ。案の定すぐに寝た。食後ということもあるのかもしれない。それから数時間が経っただろうか。目が覚めると暗かった。近くから音は聞こえない。彼女はもう眠ってしまったか。リビングに行くと彼女がデスクに突っ伏して眠っていた。リビングの電気は消されており、彼女のデスクの照明だけが点いていた。仕事をしながら寝落ちたのだろう。彼女の部屋から毛布を持ってきて彼女に掛ける。デスクの照明を消すときにマウスに触れてしまい、設置されたパソコンのモニターが光った。照明を消した意味が無くなってしまった。彼女を起こさないように近くの本を立てて光を上手く遮った。この時モニターを消せば良かったのだろうが、不必要に触ってもしものことがあったら謝っても謝り切れない。モニターに映った画面は機械音痴の私にはよく分からないものだった。眠ったとて彼女の事故が私の中で無かったことになることは無かった。私の今の状況は眠りによって記憶が断片的になってしまっている可能性もあり得る。最近薬もよく切り替わっているからその影響も無いとは言えない。そう考えないと意味が分からなくなる。もしかして彼女の事故事態が私の夢だったら?考えると寒気がした。私の脳内はやっと安定してきたと思っていたのにまた不安定になってきているのだろうか。最近は夢がリアルになっていることも理由にあるかもしれない。またクリニックに行った時に言った方が良いかもしれない。次のクリニックの予約日に言おう。その後また私も眠りについた。朝起きるとスマホが無い。あれ、何処に置いてきただろうか。前にも同じような場面があったが、あれはリビングも寝室も兼用だったから理解はできる。しかしここでは自分の部屋がある。私の記憶では昨日の夜、自分の部屋に置いていた。しかしどこを探しても見当たらない。リビングを探しても見当たらない。スマホが無くとも病院までの道のりはもう覚えた。だから行くことは出来るが、彼女との連絡手段がない。生憎以前も言ったように私は番号が覚えられないから彼女の電話番号など覚えられている訳がない。私自身の電話番号さえたまに確認しないと不安な時があるというのに。それに重ねるように今彼女は家にいない。どうしたものか。私はスマホを見て日付を確認している。私の必要な情報が全て入っているものを失った。そうだ、ここの鍵も無くしたことになる。クリニックの診察券に予約日は書かれているが、今日が何日かも分からないからどうしようもない。ただ今日は診察日ではない。スマホを最後に見たのはこの家の中だ。どこか別の場所で紛失している可能性は無いだろう。彼女が帰ってくるのをただ待った。ちなみにこの時の私には考えが浮かばなかったが、テレビでも日付を確認することが出来たという盲点を彼女に突かれた。テレビなんてドラマやバラエティーを見る娯楽道具に過ぎないものだと思っていたため、そんな考えには至らなかった。

「ただいま。」彼女が帰ってきた。買い物もしてきたようだ。声がするとともに私は玄関まで歩いて行った。そして唐突に言う。

「ねえ、私のスマホ鳴らしてくれない?どこにも無くって。」そう言うと彼女はすぐに理解して鳴らしてくれた。彼女のスマホから着信音が鳴り響く。しかしこの家のどこからももう一つの音は聞こえてこなかった。どこに置いてきたのだろうか。記憶が無い。

「ねえ、どこにも無いね?外で無くしたとかは?」

「いや、昨日家で見たのが最後だと思うんだけど、探してもどこにも無くて、他にあるとすれば病院かな?」

「病院?昨日どこの通院日でも無かったよね?」

「だから、かやのさんの入院の様子を見に行ってたの。そしたら何故か家にいるし。」

「それ、いまいちよく分かってないんだけど、なんで私入院してるの?」変な質問だこと。

「事故に遭ったからだよ。スマホに連絡が入って、それで病院に行って。あ、でも今スマホが無いから見せらんないな・・・」

「私事故なんて遭ってないって。」

「そうだ、かやのさんのメッセージアプリに履歴残ってない?かやのさんが連絡くれたんだし。」

「だったらそんなの無いよ。私は事故に遭ってないしこんなに元気だし。ほら。」見せてくれた私とのメッセージの履歴には事故に遭う前のメッセージで止まっていた。私も知っているメッセージだった。12月19日の朝。「面接頑張れ」という彼女からのメッセージと私がそれに返したスタンプ。目がメラメラ。その数時間後に彼女は事故に遭う。しかしその事実が今覆されている。彼女のスマホの履歴から。そうなると異常なのは私の方なのか。

「そういえば昨日の面接行けなかったんだよね、体調崩して病院に行ったってね。結生ちゃんの方が大変な日だったじゃんこの日は。」私がかやのさんのために行った病院が彼女の中では私のための病院になっている。私が病院に行った事実は変わらないが、私には彼女が入院した事実を知っている。だってこの身体で行ったのだから。それに昨日は彼女はこの家にいなかった。このすれ違いは一体何なのだろうか。何にせよ私は私のスマホを見つけなければならない。かやのさんを連れて病院までの道を行く。昨日辿ったあの道をまた辿る。今日は地面を注意深く詮索する。蹴られて隅に追いやられているかもしれない。だが、それは病院に行くまで続くことになった。病院に着いて入院病棟に行く。

「ねえ、これどこまで行くの?こんなとこ入って良いの?」彼女がぶーぶー言い出した。つまらないと思うが付き合ってもらわないと連絡を取れないのだからしょうがないじゃないか。ごめんと言いながら足を進める。看護師スペースに行き、落とし物が無かったかを尋ねるも、やはり無いと言われた。総合受付にも無かった。もう探せる場所は全て探したはずだ。あとは交番に行って聞くくらいか。近くの交番に行く。病院から家まで、そこまで距離がある訳でも無いのにその間には二つの交番がある。どちらの交番にも無かった。もうどうしようか。困り果てていた時、かやのさんのスマホが鳴った。

「え、ねえ、結生ちゃんから鳴ってるんだけど。こわい。」何だと。誰かが拾って持っていたのだろうか。

「出てくれる?」

「うん。」今この瞬間とてつもない緊張感が私と彼女の間に流れた。

「もしもし、私、辻と申しますが、この携帯の持ち主の方を知っておられますか?緊急連絡先だったのでかけてみたのですが。」

「はい、その携帯の持ち主の同居人です。今探していたところで、はい。あ、そうですか。今から行きますので場所を教えてください。そうですか、はい、それでは30分後くらいに、小森総合病院で良いんですね。はい、お願いします。」彼女が相手と話して電話は切られた。

「なんて?」小森総合病院は私の頭痛と彼女の耳を診てもらっている近くで一番大きい病院だ。追加で昨日彼女が運ばれた場所でもある。

「結生ちゃんのスマホ持ってるって。辻さんって言う女性だった。知らないよね?病院で待ち合わせだって。着いたらまた連絡してくれるらしい。」良かった。見つかった。でも、

「辻さんなんて知らないなあ。聞いたことも無い。友達でも無いし。ただ、拾った人?」

「だよねえ、私も知らない。高1の時の同じクラスにはいたけど。」なんて会話をしながら病院まで戻り、会計の待合場所で待った。特にすることも無く時計を見ていた。カチカチと動く病身を見ているといつの間にか時間は過ぎる。もうそろそろ30分くらいが過ぎそうな時、かやのさんのスマホが鳴った。私のスマホを拾ってくれた人は時間に正確なのか、もしくは時間を測ることに長けているのかもしれない。

「はい、もしもし。今中の待合場所にいます。一回外に出ますね。正面ドアの端に集合で。はい。お願いします。」それから外に出て辻さんという方に出会って、スマホを返してらった。

「ありがとうございました。どこで見つけましたか?」私が質問したが、かやのさんはそそくさと帰ろうとした。待ってという私の言葉も聞こうとせず、

「ありがとうございました。もういいでしょ。帰ろうよ。」なんて言う。無理やり引っ張ってきたから嫌になったのだろうか。

「あ、では私はこれで。失礼します。」辻さんもかやのさんと同じようにいそいそとどこかに行ってしまった。どこで拾ったのかすら教えてもらえなかった。かやのさんが早く帰りたがっていたから。そういうことにしておこう。少しのもやもやを残したまま帰ることになった。私のスマホはギリギリ悲惨なことにはなっていなかった。少しだけひびが入っていたものの、このくらいは全然許容範囲だ。フィルムでも貼っておけばよかったな。

「スマホ買い替える?ひび入っちゃってるし。」

「いや、このくらいなら大丈夫でしょ。」

「そう?ならまあいいや。」一体どこに落としたのだろうか。スマホのロック画面を開いてメッセージアプリを開く。私のスマホにも12月19日以降の彼女とのメッセージは無かった。やっぱりおかしくなっているのは私の方になる。認めたくはないが。まあでもスマホが戻ったことで一人でも行動が出来るようになったので良かった。家に帰って残り少ない充電のスマホを充電器に差し込む。しっかり充電も出来る。使える。ほわっと点くロック画面に安心を覚えた。もうスマホが無ければ生きていけないな。この日は彼女の作ってくれたご飯を食べて早々に眠った。早く眠れたのは歩き疲れたことが原因だろう。何度も道を往復してしまった。最近は眠気が自然ときているようだ。でもたまに疲れているのに眠れないなんていう辛いことが起こることもあるからまだ睡眠薬は飲み続けなければならない。抗うつ薬も変わらず。しかしいつもより体が重い。体がいつまでもベッドに沈み込んでいくようだ。意識を失うように、深海にゆらゆらと揺られながら沈むように。その夜中、ベッドが揺れた。地に体が着いている証拠だ。しかし今はそれどころじゃない。ベッドから降りて彼女の部屋に行く。この際ノックもせずに扉を開けた。扉を開けると部屋に彼女はいなかった。この時の私の行動の早さはいつにも無く早く動けた。リビングに行くも誰もいない。テレビを付ける。地震速報を探すも、夜中の番組に変更など無かった。速報も出ていなかった。更に彼女は今どこにいるのだろうか。真っ暗な家のどこにも彼女の姿は無かった。スマホで電話をかけてみる。彼女の部屋から音がした。彼女の部屋の扉を再度開けると彼女は眠っていた。その頭の上に私からの着信がブーブーと鳴っているスマホがあった。それを切って彼女の眠りを確保させた。ギリギリ彼女が起きることは無かった。私も自分の部屋に戻った。私の心臓はバクバクしていた。意味が分からない。最初に彼女の部屋に入った時はいなかった。リビングにもいなかった。次に彼女の部屋に入ったら彼女が普通に眠っていた。スマホもあった。何がどうなっているのだろうか。何ならさっき起こった地震はベッド越しでもかなり感じるほどの大きいものだった。それを夜中とは言えテレビでは速報を流すだろう。そこも疑問だった。まあ、今は何も心配するようなことにはなっていないから大丈夫か、とまた眠りにつくことにした。何故この時私は冷静に眠ってしまったのだろうか。寝る前に再度置いたスマホの画面のひびが辻さんに返してもらった時より増えていた気もした。ただの気のせいかもしれないが。

 次の日、起きた時に見たスマホの画面はやはりひびが増えていた。落とした記憶も無い。使えない程度では無かったので良かったのだが、仕組みが分からない。どうしてひびが増えているのだろうか。起きると彼女はいなかった。仕事に行ったのだろう。最近は私に付いて来てもらって彼女の仕事の邪魔をしてしまっただろうなと申し訳なさを感じた。しかし今は謝る人がいないから謝れない。彼女の帰りをふらふらしながら待つ。なんだか最近夢心地な気分で、生きている心地がしない。生き急いでいる感覚というものはこれなんだろうか。考えることなど無いのに何故か切羽詰まった心が苦しい。もういっそ全部忘れてしまおうかと眠ることにした。眠れば考えることを停止できる。この眠りは浅かったようで、玄関の開く音がしてすぐに目が覚めた。彼女の元気な「ただいま。」の声とともに自分の部屋から出る。丁度私の部屋の前に立っていたようで、ぶつかる寸前にお互い驚いた。

「今日何してたの?」と彼女が聞いてきた。あまり彼女から私に質問することは無い。珍しいことに息を詰まらせたが、今日は特に何もしていないから正直にそのことを言った。

「早く起きるといいな。」遠くからふとそう聞こえた。さっきまでは寝ていたが、現在、私は起きている。

「ん?」一瞬のことで聞き返してしまった。

「まだ何も言ってないよ。」こっちを見て笑いながら彼女は言った。でもさっき確かに聞こえた。まさか霊現象とでもいうのか。この年になって霊現象が視えたり聞こえたり出来るようになったとか?いやいやあり得ない。でもさっきの声はどうやっても証明することが出来ない。声は記録しないと消える。彼女の声に聞こえたが、違うらしいし。怖い怖い。

「体調はどう?これからご飯作るけど、食べれそう?」最近おかしなことばかり言っているから警戒しているのだろうか。私も知りたいよ、これが何なのか。

「食べれるよ。ご飯お願いします。」

「はーい。」彼女はすぐに料理に取りかかった。さて、今日の料理は何でしょう。私はリビングで待った。料理が出来た。今日も炊き込みご飯だった。彼女は今まで次の日に同じものを作ることは無かったからなんだか珍しいことにびっくりした。でも彼女のご飯は何回食べても美味しい。飽きることは無さそうだから全然ありだ。作ってもらっている側の分際で口出しなんぞ出来るわけも無いし。二人並んでご飯を食べた。何だか久しぶりの感じだった。それもそうだ。彼女が事故に遭ったはずの12月19日から一緒に食べていなかったから。そこの場でスマホを見せて彼女に聞いた。

「このスマホ、昨日よりひび増えてると思わない?」

「ん?そうかな?こんなもんだった気もするけど?」そりゃあ、一度見ただけのスマホをしっかり覚えている訳も無いか。また今日も普段通り寝る準備をする。そして寝る。何とも味気の無い日々だ。次に起きてスマホを見ると、またひびが増えていた。怖い。異常な現象であるはずなのにきっと誰に言っても理解をしてはくれない。私にも意味が分からないのだから。

次の日もまたスマホはひびを増やした。もうこの際気にしないことにするか。それとも買い替えるか。もうじき替え時だったはずだ。もう前に買い替えたのがいつかも忘れてしまった。契約開始がいつだったか、スマホで確認した。画面を触るとパラパラと液晶が粉になって床に落ちた。流石にここまで行けば誰でもおかしいと思うはずだ。部屋を飛び出て朝食を食べているかやのさんにスマホを見せた。

「流石にこれはやばいよね?」語彙力をどこかにやってしまった。

「どうしたの?そんな慌てて。この何がやばいの?可愛いじゃん。ひびにピッタリ。よく見つけたね。」は?何言っているんだこの人は。そう思って再度スマホの画面を見るとそこには液晶に入ったひびを活用するかのようなイラストをロック画面にしたまだ使えそうなスマホの画面があった。液晶はひびはあるもののどこかが欠けるほどのものでは無かった。言わば昨日の、更には一昨日のスマホに戻っている。変な話だ。

「え、さっき画面のガラスがパラパラ落ちて、これはまずいと思ったんだけど、」

「まだ使えるって昨日?一昨日?言ってたじゃん。」言った。確かに辻さんからこのスマホが戻ってきた時は思った。でも今は違う。私は今二つの世界線を行き来している?もう訳が分からなくなってこんなことを考え始めていた。もうずっと怖い。現実逃避でもしないと怖い。私一人でいる時の状況と私以外の人がいる状況が違うということは今までの出来事でなんとなく分かったが、なぜそんなことが起こっているのかは分からない。かやのさんから逃げるように私は自分の部屋に入った。「どうしたのー?」と遠くからかやのさんが言っていたが、無視をした。部屋にさっき落ちたガラスの破片は無くなっていた。その場で崩れ落ちてため息を吐く。もうこれ以上頭を使わせないでほしい。しかも私の嫌いな方に。怖いものは嫌いだと言っているじゃないか。頼むよ、神様。寄りかかった扉の奥から音がした。彼女が食事を終えて洗い物をしているのだろう。蛇口から流れる水の音が私の心を急かしてきた。その音はどんどん私の耳に近付き、恐怖を与えてきた。駄目だ、無理だ、過呼吸になる。そう思って最後の力を振り絞って部屋の扉を開けた。瞬間、こちらを見たかやのさんを見て、そこからは呼吸が出来なくなって、というより呼吸の仕方が分からなくなったと言うべきか、息が上手く吸えなくなって出ない声で助けを求めた。それも虚しく、彼女がこちらに来る頃には喉は詰まり、視界も暗くなっていった。最後、どうなったのかは分からないが、私は気を失ったのだろう。

 

 目覚めると知らない天井が視界に入った。なんだかよく聞くセリフだな。蛍光灯と外からの光。彼女の家のリビングでも彼女の部屋でも私の部屋でもない。どんな場所よりも明るく感じた。なんとなく察知できた。よく学生の頃に見ていた保健室のような雰囲気がある。白い壁にピンクのカーテン。それによって明るく感じるのだ。病院か。眩しい。さっき呼吸困難になったから救急車で運ばれたというわけか。それにしては何だか体が拘束されている気分だ。覚束ない目を動かし、人を見つける。看護師さんだろうか。いきなり焦ったようにどこかに行ってしまった。まるで化け物でも見たかのように。そんなに怖かったのかな、悲しくなる。目を開けることすらままならないからまた目を閉じる。目を開けることに疲れるのは久しぶりかもしれない。最近は無くなっていたが、かやのさんに会う前はかなりの頻度でよく目を閉じていた。私を避けるように見えたあの看護師さんの行動は人を呼ぶための行動だったらしい。部屋の外からは慌ただしく聞こえてくる人の足音がした。こういう音はあまり好きではないな。数分も経たないうちに白衣を着た人が現れた。医師か。知らない人。クリニックの先生でも無ければ脳神経内科の先生でも無い。何科の先生だ?

「山名さん、分かりますか。声が聞こえたら手を握ってください。」医師は私の手を緩く握ってそう言った。「分かりますよ。」と言いたかったのに、声が出なかった。呼吸困難になっただけで声帯なんて取られないだろうに。声が出ないから医師の握る手を握り返した。力が全然出ない。しっかり握ったつもりだったのに医師から握られた力より力が出なかった。しかしその力でも医師には伝わったらしく、微かな目の間から安堵するような表情を浮かべているのが見えた。その後すぐに母が来た。実家は遠い。遥々こんなところまでどうしたんだろうか。かやのさんが連絡してくれたのか。一応お互いの緊急連絡先を教え合っていたからおそらくそれだ。呼吸困難くらいで呼ばなくても。時間が経つにつれて半目くらいしか開かなかった目もようやく開くようになり、やっと少しずつ顔も手も動かせるようになってきた。自分の中で出来ることが増えていると感じている時に母が、

「おはよう。」と声をかけてきた。それに私も「おはよう。」と言い返したかったが、声はまだ出ない。息は少し通る。最大限笑って顔を動かし、頷く素振りを見せた。瞬間、母は泣き出した。そんなに重症だったのだろうか。迷惑かけてごめんね。でもこの程度で来なくても、と思ったが、母も私と同じように心配性な面があるからわざわざ来てくれたのかもしれない。これでもう実家に帰らなければならないかもしれない。猶予はもう終わりだな。

「良かった。良かった。」と母は何度も繰り返していた。過呼吸後の記憶は無い。今私はどういった状況なのだろうか。病院にいたとて目覚めた私の頭は考えることを止めない。辛くないのか、と自分に問いたくなる。それよりかやのさんは今いないのだろうか。母は落ち着くと事の経緯を教えてくれた。私が考えていることは実際の100分の1にも満たないほど軽々しかったのだと気が付いた。私は25になる誕生日を迎える直前、12月19日、飛び降り自殺を図ったらしい。運良く死は免れたものの、意識が戻らなかった。ずっとこの病室にいたらしい。その時からもう2年以上も経っているらしい。ということは今の私は27歳か?28歳か?計算が出来ないが、年老いたな。聞くと今年が28の年だそうだ。入院も3年目。いつの間にかアラサーになっていた。それならばかやのさんという私の友人は私が作り出した偶像に過ぎなかったりするものなのか。長い夢を見ていたのか。そう思ったが、違った。外から走る足音が聞こえた。遠くからも聞こえるほど軽快な音。その音は私の近くで止まった。しかし誰も入ってこない。別の患者さんのお見舞いの人かもしれないと思ったが、母がどこかに行った。すぐ近くで母の話し声が聞こえるが、細かくは聞こえない。耳まで衰えているのだろうか。目を開けておくことにも疲れ、また私は目を閉じた。数分経ったくらいだろうか、肩をポンポンと叩かれた。目を開けると母が視界の中にいた。そんな母から手紙を見せられた。グレーのシックな封筒だ。なんとなくこれを選ぶ人が浮かんできた。貰おうと出した手は力が無くなっており、少し上げるだけでも酷く震えていた。それを見た母が、

「後にしよっか、」と言ってきたが、手紙の内容が気になってしまった。誰からかなのかだけでも知りたかった。私の思っている人はいるのだろうか。

「誰から?」今の私の精一杯の声を出したが、ようやく喉を通って出たその声は糸よりも細い髪の毛一本ほどの声だった。

「ん?」と耳を近付ける母にもう一度聞く。

「誰から?」さっきより大きな声が出せた気がする。ほぼ聞こえない声を母は聞き取った。

「かやのさんからよ。」母ははっきりそう言った。「かやのさん」と。かやのさんは実在していた。私の作り出した偶像なんかじゃなかった。

「かやのさん、今仕事が立て込んじゃってるらしくてすぐには来れないからって手紙を置いて行ったの。毎日持ち歩いてるんですって。結生のために。分かる?かやのさん。」うん、と頷く。

「良かった、忘れていないで。かやのさんにはお世話になりっぱなしで本当にありがたいわ。連絡をくれたのもかやのさんだったのよ。3年前、突然知らない番号から電話がかかって来てびっくりしたわ。結生が飛び降りたって聞いた時はもう心臓が千切れそうだった。」

「ごめん。」私は本当に飛び降り自殺を図ったようだ。そんな記憶すら無い。それならば空を見る余裕なんてさらさら無かったんだろうな。いつも見る空は綺麗だったのに。そんなことを考えている場合ではないか。ふと窓の方を見る。丁度3分の1くらいを桜の花が埋め尽くしていた。満開の桜だった。春になっていた。そういえば12月19日、私の中ではかやのさんが事故に遭った時からおかしなことばかり起こっていたし、その時の私の環境はずっと冬だった気がする。その記憶しか無い。かやのさんと出会って約1年後、彼女のあの事故は実際には無く、私が飛び降り自殺を図ったと思われる。これはあくまで私の推憶だが、あの夢に見た転落死体は私だったのかもしれない。それならばあの時屋上から見た視界いっぱいの空は、私が身を投げる前に見た景色だったのかもしれない。なんて考える。それならば良いなと思った。

 私の身体は私が眠っている2年のうちに傷を全て治してくれていた。傷の程度と言えば中等度くらいだろうか。右足の骨にひび、左足の骨にもひび、右腕の骨折、肋骨の骨折、内臓は回復可能な程度の損傷、頭を打った時の失血。そのくらい。酷いのは主に右側だった。どこかを失うようなことは無かった。記憶もちゃんとある。しかし頭を打ったことで意識を失い、昏睡状態に。脳に異常が無かったのが救いだった。そのくらいだったんだと。リハビリなんかの運動が出来ていないからどのくらい動けるかはこれからのリハビリで様子見らしい。動いてほしいな。でも今はまだ何もすることは無い。起きたばっかりだからだろう。医師も看護師もあれっきり来ていないし。横1枚になっていたベッドの上半身を上げてもらって、腰から上を立てる形に半座り状態にしてもらった。さっきよりいろんな場所がよく見える。

 何もすることが無い。というか何も出来ない。動けないんだもんな。動こうとすると全身が痛い。それも無理はないか。自業自得だ。この時間どうしたものか、暇だなー。母は外に行ってしまった。ちょっと買い物に行ってくると。1時間ぐらい経っただろうか。母が帰ってきた。花を携えて。私の好きな色で飾られた花束はきっと母が私のために選んでくれた花たちなのだろうな、と考えた。案外私のことを見てくれていたのかもしれない。私のことなどどうでもいいと思っていると思っていた。

「可愛いでしょ?この花。結生が好きな色でまとめてもらったの。カスミソウが良い役割してるでしょ。白いガーベラもあってね、白いガーベラは希望っていう花言葉があるの。今にふさわしいでしょ。良いお店なのよ。前にも行ったことがあるの。」母の仕事は花屋さん。今回は近くの花屋で買ってきたのだろうか。母は自分のお店以外の花屋さんにもよく行っていた。母は自分のお店が一番とは考えず、色々なお店に行って花を愛でている。花そのもの、というか植物に愛情を注ぐ人だ。実家には植物が沢山あり、借家だった庭にはレモンの木や梅の木なんかも植わっていた。梅の木は借りる前からあるものだったと昔言っていた。私にとっては季節を感じさせる好きな木だったな。リビングに花が飾られていることが日常だった。実家にいたあの頃を思い出した。と同時に、自殺しようとした場所が私の夢に出てきた場所だったら、私は花を潰してしまったということになる。お母さん、お花さん、ごめんなさい。母はスイーツなんかも買ってきてくれた。定番のプリン。それにチョコムース。明らかにコンビニで買ってきたスイーツたち。甘いものをあげとけば良いだろという考えが丸見えだ。こういうところは花のようには考えが行き届かないんだろうな、まあ、そういうところも含めて私の母だ。プリンを食べた。手が震える中だったが少しずつ食べた。これもリハビリの一環だな。一緒に食べながら美味しいね、なんて言いながら。私の体にとっては2年ぶりのプリンだ。そうこうしている間にタッタッタッ、と走る音が近付いてきた。軽快なステップ。その途中、おそらく看護師さんか誰かに注意されたのか、足音は静かになった。その後すぐに、私の部屋の扉がガラガラと開いた。知っている顔。かやのさんが入ってきた。

「結生ちゃん、おはよう。」必死の笑顔で近付いてきた。目が合った瞬間笑顔を見せると、かやのさんは泣き出した。私のベッドに来る前に泣き崩れた。母は気を遣ってか、静かに外に出て行った。1分くらいして泣いた顔を拭いながら私に近付いてきた。さっきまで母が使っていたベッドの傍にある椅子に座って私の手を取った。感覚のある温かさに私まで泣き出しそうになった。ここにいるのだ。かやのさんが。ちゃんと生きている。私も生きている。かやのさんはまた涙を流し始めた。下を向いて私のというか病院の布団に涙を吸ってもらうように布団に顔をうずめて。そんなかやのさんの頭を愛おしく撫でる。

 かやのさんが泣いている間、私は何も話さなかった。話せなかった。言葉にするものが無かった。私から話すことなんて謝ることくらいだ。ただ、泣いている彼女の頭を撫でた。すると途端に彼女から大きなため息が出た。ビクッと体が動いた。いったー・・・。全身に電撃が走ったようだ。全身痛い。筋肉痛にでもなったような痛みだ。さっきまで無かったのに。治っているのはもしかして外見だけ?動くだけで痛いとなると大変だ。私の足に頭を置いていたかやのさんはじわじわと笑い出した。こちとら痛い体に鞭をくらったのだが。前もこんなことがあったな。

「ごめんごめん、前にもこんなことあったよね、初めて会った時だ!連絡先交換した時。もうあれから3,4年経ってるんだよ、あり得ないよねー。」彼女も同じことを考えていた。でもいつ同じことがあったかなんて覚えて無かった。そっか、初めて会った時だったか。確かにそうだったな。私はもう会うことなんて無いと思っていたのにいきなり友達になっちゃうんだから素っ頓狂な話だ。今でも思い出すと笑ってしまう。でもあの時の私は嬉しさしか無かったな。知り合いなんて誰もいないこの場所で初めて出来た気の許せる友達。鬱をやり過ごせる力をくれた友達。

「ごめんね、こんなことに巻き込んじゃって。辛かったよね、今もまだいてくれてありがとう。」

「何言ってるの、もうずっと離れないつもりなんだから。それを最初に言ったのは結生ちゃんでしょ?それよりこんなになるまで一人にしてたのに気づけなかったのは私だし。こっちこそごめんね、知ってるつもりで知らないことしかなかったのかな。私には言えなかった?」心配そうな彼女の顔はどうも好きになれない。彼女を困らせているという事実を突きつけられる感じだから。そんな顔しないで、って言いたくなる。

「ううん、一緒に住むようになって私は自分本位の生き方しかして無かったよ。かやのさんに何か気を遣ってたことも無かったし、私が言えることは言ってた。嫌なことも言ってた。私の方がかやのさんのこと考えてなかったしずっと迷惑かけてたでしょ。私、自分のことを上手く喋れないの。昔からだからもうどうにも。だから言えてないこともあると思うけど、今回のことは私も分かんないの。何でこうなったかも覚えて無い。私の中ではずっと生きてた。昨日の記憶もある。でもそれが昨日じゃないんだよね。多分夢かな。」まだ2年分の声の力を完全に取り戻せていない慣れない発声でゆっくり話す私の話を、彼女はじっくり聞いてくれた。やっぱりこの人といると時間がゆったり流れるな。そういえばお花見をしようという話を2年も置き去りにしていたということじゃないか。今すぐにしたい。桜を見たい。

「桜見に行けないかな?」

「どうして?ここからでも少し見えるけど、それじゃダメなんだ。」

「かやのさんとの約束、果たす前にいなくなっちゃったからやるなら今しか無いなって。」

「そうだね、私も怒ったわー、お花見行くんじゃ無かったの!?って眠ってる結生ちゃんに言ってたんだよね。それは聞こえてない?」

「聞こえてない。残念。」二人でまた笑えて嬉しい。

「でも今はダメだよ。多分外に出るのもダメって言われるんじゃないかな。また明日もその後も来るから、元気になるのが早かったら病院の桜を下から見よう。もし難しかったらここから何かご飯かお菓子か食べながら見よう。結生ちゃんがいないと意味が無いんだから、早く元気になってよね。」彼女の否定しない言い方は前とずっと変わっていないようだ。

「お仕事順調?」

「そう!聞いて!耳治ったの!」なんと!

「え!嘘!?良かったー・・・。」こっちで泣けてきた。それが叶ったのは私がこうなってからすぐのことだったそうだ。ようやく効き目のある治療法が見つかって、治癒したそうだ。たまに声が聞き取れないことはあれど、右耳だけでも生活できるほどには戻ったのだと。

「最初に結生ちゃんに報告したんだけどね、結生ちゃん寝てたから。聞こえて無いもんね。」

「それは、うん、ごめんなさい。」

「ううん、良いの。結生ちゃんが寝てる時も結生ちゃんの顔見るだけで元気になれたから。生きてくれて戻ってきてくれて良かった。」

「私も生きててよかったって思ってる。じゃあ、今はまた依頼とか受けてるんだ。」

「うん。あとね、聾者のための音楽を今作成中。そのグループには聾者の方も健常者の方もいるんだけど、その中に五十嵐蒼くんっていう同い年の人がいるんだけど、知ってる?」

「え、うん!前にかやのさんに話した中学の同級生!まさか、」

「いるの。一緒に音楽を考えてる。いつか結生ちゃんも一緒に行けたら良いなって。五十嵐くんにも再会出来るだろうし。五十嵐くん結生ちゃんのこと覚えてたよ。唯一中学の同級生で耳のことを真剣に話せた人だって。真剣に聞いてくれたって。話せて嬉しかったって。あとね、私少しだけ手話も覚えてね、簡単なものは出来るようになったんだ。」そうなんだ。五十嵐くんが。嬉しいような、照れくさいような。私も手話を使えるようになろうかな。

「じゃあ早く元気にならなきゃね。」

「本当だよ。早くしてね?それとね、結生ちゃんのお母さんから退院するまでに言えないと思うから私に言ってほしいって言われたことがあるの。結生ちゃんのお母さんこっちに移り住んできてるよ。」何だと。何で。私が帰る側じゃ。

「それに結生ちゃんが眠ってる間に弟くん大学合格したんだよ。弟くん一人暮らし始めたけど結生ちゃんの元々の実家よりずっと近い場所にいるよ。全然会える距離だから、これから弟くんも来てくれると思う。結生ちゃんが起きないから弟くんといろんな話してて仲良くなっちゃったよ。お母さんはこっちでお花屋さんを始めるって言ってこっちに移って来たよ。元々の実家の方に帰ってもそれが大して結生ちゃんのためにはならないって考えたんだって。花屋はどこでも出来るからって。あと何故か私が持ち上げられちゃって、一緒にいてくれる人がいて良かったって。だから私がいるならここの方が良いでしょって。だから結生ちゃんの実家も近くになるね。」そんな、人様になんて迷惑を。前から思ってはいたがやっぱり母は一つのことをすると周りが見えなくなってしまう。シングルタスク人間。そういう変なところは何故か似てくるんだよなあ。

「ごめんね、無理に縛っちゃってたよね。嫌なら嫌って言わないとあの人どんどん縛ってくるから早く逃げなね。かやのさんが固執する理由なんて無いんだから。」

「分かってる。嫌になったら言われなくても逃げるよ。でも結生ちゃんは置いて行けないからなあ。」

「だからそういうとこだよ。私のことばっかり考えてたらかやのさんはどうなるの?それこそ私みたいにならないとは限らないんだよ?根本的な土台が違うことは分かってるけど誰でもなり得るからね。本当に。今なら説得力あるでしょ?」笑顔で言ったつもりが引きつった。やっぱり嘘は無理か。まあ、彼女が死ななければ、彼女が生きる姿を傍で見ることが出来れば私はそれだけで幸せだ。

その後、母も部屋に入って私の自殺の状況なんかも知ってる限り教えてもらった。私が転落した建物は取り壊し予定だった空き物件だったらしい。丁度アルバイトの面接に行く途中にある建物だったと。面接に行く途中で自殺をしようと思ったかは分からないが、面接に行っていないということはそういうことだろう。1階につき1部屋の小さな4階建てビルの屋上。どうやってそこを見つけたのか、私も分からない。どうやって入ったのかも分からない。その場所に行ってみたいと言ったが、母にもかやのさんにも止められた。自分が飛び降りた場所に行くなんておかしな話なのだろうか。確かに自分が打った地面を見るのはグロテスクなものなのかもしれない。でも興味があった。私が飛び降りた後にそれを通報してくれた方はなんと辻さんという方だそう。あの辻さんなのかな。これを聞いたらスマホが気になった。

「私のスマホ知らない?」声がやっと本調子を取り戻し始めた。

「ちょっと待ってね、確か、ここに置いてたはずなんだけど、あった。はい。なんか警察の証拠品みたいになっちゃってるけど見つけた時にこんな風にボロボロで。ジッパーに入れてたの。もしかしたら中身消えてるかもしれない。新しいの買わなきゃね。」そう言って彼女が渡してきたジッパーに入ったスマホは私が一人でいた時に見たというか触ってパラパラ液晶が落ちた時のあの状態だった。私でも驚きだ。こんなことがあるもんなのか。何という伏線回収。私の夢が伏線を張り巡らせてくれたらしい。面白いこともあるもんだ。かやのさんは2年以上何もしない起きない私に尽くしてくれていた。毎日のバイタルチェックで来た看護師さんから聞いたことだが、ほぼ毎日のように面会に来てくれて、毎日声をかけてくれていたそうだ。家族でも無い人をここまで思ってくれる人は滅多に見ないからすぐに看護師の話題になっていたらしい。彼女はコミュニティを作るのが上手だから、それもあって看護師さんともよく話していたそう。そしてかやのさんはいつも言っていたんだと。

「早く起きるといいな。」と。あの声はその声だったのだ。あの時に起きれていれば、ここまで長い間彼女の時間を奪うことも無かったかもしれない。この後にかやのさんに会った時、「ごめんね」を繰り返したのは必然的なことだった。

 リハビリが始まった。少しずつ出来ることを増やしていきましょう、と担当してくれた理学療法士の北条さんという方は、かやのさんのように明るい方でよく励ましてくれる人だった。まずはベッドの上で腕と足、胴を動かす練習。腕と胴は難なくクリアしたが、足が動かない。最初の内は北条さんの支えが無いと動かせなかった。何せ以前から無い力を使わなければならない。2日経過したほどでようやく力がついてきたのか自力で動かせるようになってきた。難なく出来るようになったところでベッドから椅子に座る練習が始まった。起き上がる。ベッドの上半身を上げられたことはあったが、それは力を使わずに出来ることだった。自分の力で起き上がるということは力が要ることなのだと、力が無い今だからこそはっきり分かった。車いすに自分で乗ることが出来たら一つ目クリア。その後は背もたれの無い椅子。これがまた大変。こうなる前から猫背気味だったからか維持することが難しい。後ろに何もないと思っていても難しい。これって大変なことだったんだな。それがやっと終わったと思ったら、次は手すりを持って立ち上がる練習。足を使うことが私は苦手なようだ。足の筋肉が極端に落ちている。足は両足あってやっと歩ける。立つことも片足では難しい。何とか立っていられるようになったら、次はそのまま歩く。無理しないを基本にしてくれていたから北条さんは私が辛そうにすれば休憩をよく取ってくれた。足って大事なものだったんだな。人間要らないものは無いのだろうが、無くすと感じる大切さ。歩けるようになるまでは車いす生活。一人の時は自分で椅子を押して行くしかない。基本的には誰かがいてくれるからあまり使わないが、自分で椅子を押すときに腕の筋肉を使うから足より腕の方が筋肉をつけやすそうだ。おかげでもうすっかり腕から手は元に戻った。あとは足だ。足を元に戻さなければ退院は出来ない。

 車いすに乗ることが出来るようになったところで許可が下り、かやのさんとお花見をした。かやのさんが車いすを押してくれた。桜はもうすぐ散り終わる頃だった。

「散り際でごめんね、でも一緒に見れてよかった。」

「ううん、散り際こそ良い風情があるものでしょ。葉桜もいいよね。元気な葉と可愛い花が交わる姿は綺麗じゃない?それに、散る木の下だと桜のシャワー浴びてるみたいに見えて好きなんだよね。だから下から見れて良かった。来年は一緒に歩いて行こうね。」

「うん。約束。」

「ねえ、リハビリって私も一緒には出来ないの?」

「何で?」

「その間つまらないから。」鼻から笑いの息が出てしまった。決して鼻で笑ったわけじゃない。確かにいつもリハビリから病室に帰るとかやのさんが退屈そうに待っている。リハビリに行く時にはいないからその間に来ているのだろう。北条さんが病室まで車いすを押してくれて、そこからはかやのさんにバトンタッチのように代わりに押してくれる。かやのさんはこの部分しか北条さんのことを知らないはずなのに楽しそうにお喋りをしている。コミュ力高い人同士の会話を見ている。私はいつも通り話に入らず。というか入れず。そんな感じで今まで過ごしてきたからそんな事考えもしていなかったな。かやのさんのことだから一人で何かしながら暇を潰していると思っていた。

「来てもいいけどかやのさんがやることないよ、だからどっちにいても一緒だと思うよ。多分見てるだけじゃないかな。」

「そっか、じゃあ1回だけ行ってみてその後を決めようかな。」

「良いですよー私は。」

「ちょっと待ってて、お菓子買ってくる。というか一緒に行くか。」かやのさんは車いすを再び押して病院の中のコンビニまで向かった。私の承諾は?と思いつつも一人でも暇だしまあいっか、と彼女に任せた。コンビニに着いて彼女はカゴを私の足に置いた。え?というかコンビニでカゴを使うことは無かったな私は。車いすを押されながらお菓子売り場に向かう。彼女はポンポンお菓子をカゴに入れていく。

「欲しいものあったら言って、取るから。」彼女に言われて私も好きなお菓子を選ぶ。お菓子を選び終えた後、ジュースを買おうと言われてジュースも選んだ。案外こういう時に甘いものを選ぶと胃がもたれてしまうと思ったから緑茶を選んだ。緑茶の中でも私には一番好きな商品がある。せっかくだからとそれを選んだ。彼女は見るだけでもたれそうなジュースを選んでいた。同い年じゃないの?凄いな、胃の強さが違うのだろうか。まあ彼女が飲むものは何でも良い。ここでもかやのさんが買ってくれた。

「ゴチでーす。」買ったものを私の足の上に置き、車いすを押す彼女の前から手を合わせてそう言った。

「軽いなー、敬意を示しなさい。」

「ありがたき幸せ。」なんじゃそらな会話を繋げながら二人はまた桜の木の下で止まった。車いすの横に彼女が座る。

「ねえ、私も下に座っていい?」

「いいよ、あとで車いす乗れなかったら一緒に手伝うし。好きにしていいよ。」平然と彼女のあの微笑みで言ってくれた。それに甘えて下に座る。その横に彼女が座ってくれた。彼女が左に座った。すると彼女はなんか違うと言いながら私の右に座り直した。やっぱり彼女もそう思ってくれてたんだろうな。二人の間にはお菓子たちの入った袋。飲み物を出してお菓子をガサガサと漁り、適当に取り出す。大袋のチョコを取り出した彼女はそれを開いて二人の間に置いた。それは私が選んだものだった。彼女はこういうことをすんなりするんだから敵わないなあ。

「これで良い?まあ、食べたいのあったら好きに取って。」そう言って彼女はチョコを食べつつ桜の写真を撮っていた。そういえば私スマホ使えないじゃん。早く新しいの買わないとなあ。

「見せて見せて。」彼女の写真を見せてもらおうと思って言った。見せてもらった。感想、すごっ。彼女の撮った写真はスマホでありながらとても綺麗に撮れていた。画質という問題でも無い気がする。何をどうしたらこんな綺麗な写真が撮れるのだろうか。

「ねえ、私も撮ってみて良い?」

「良いよ、撮って。」貸してくれたスマホは私が持っていたものよりも重く大きかった。時代変化の表れか。随分時代を飛んできたな。2年しか経っていないのになあ。浦島太郎になったようだ。スマホのカメラに映る桜も綺麗だった。画質はかなり鮮明だ。桜の花と葉の間から光る太陽がキラキラとしていた。瞬間、私は撮影ボタンを押した。カシャッ。出来上がった写真は花と葉の間から放つ光によって眩しそうなものになってしまった。桜と葉が見えないではないか。大失敗。

「どんなの撮れた?」見せたくない。もじもじしている私の手からすっとスマホを取られ、写真を見られた。

「うわ眩しっ。」右に同じ。

「ですよねー、私も思った。難しい。」しゅんとしている私に彼女は大丈夫、と言ってくれた。何が大丈夫なのだろうか。頭を捻りつつ私はチョコを食べた。彼女は何やらスマホをいじっている。ちょっとして、肩をトントンと叩かれた。そっちを向くと「はい」とスマホを私に差し出してきた。見ると私の撮った写真がモノクロになって何だか良い感じになっていた。

「え!」勢いで声が出てしまった。

「かっこよくなってる!良いじゃん!編集?」

「そう、編集。さっき私が撮ったのも編集したらもっと良いものになると思うよ。」

「スマホの扱いが上手いねー。」私もスマホが欲しくなってきた。そのためにも早く退院しなくては。お花見でお菓子は食べ終わらなかった。食べ終わらなかったお菓子を彼女は全部置いていこうとした。そんな量を置いていかれても邪魔になるだけだと言って引き取ってもらおうとしたら、また来るからと。そりゃあ来てくれたら嬉しい。でもお菓子食べに来るのか?まあそれでもいっか。彼女と会えるのは嬉しいものだ。

 次の日、彼女はいつもより早く来た。私がリハビリに行く前に。そして北条さんが来た。

「山名さーん、今日も行きますか。」いつものように訪れた北条さんはかやのさんに驚いた。

「代崎さん、いらっしゃったんですか。」

「今日、一緒に行っても良いですか?」

「あら、良いですよ。何なら私のお手伝いしますか?」

「出来るんですか?」

「はい、ご家族の方とかにやっていただくこともありますし。」

「やります!」今日も元気な二人の声が病室に響く。本人を交えることなくどんどん事が進んでいる。この入院生活の後半、リハビリが始まってからというもの、面白いことしかないな。

「よし、じゃあ行きましょうか!」リハビリ開始。また手すりを使っての歩行訓練。腕が発達したから足が動かなくてもこける危険は少なくなった。しかしそれは私の腕を痛めつけることになった。北条さんはそれに気付いて支えてくれた。それをかやのさんに教えた。かやのさんが支えてくれた。こんな肉体労働のようなことはさせるつもりなど無かったが、嫌になったら止めてくれるだろう。途中休憩をしながら、出来る限り頑張った。今日一日でかなりの成長が出来た気がする。もう立つ時には手すりを使わなくても良いくらいには出来るようになった。あとは歩くだけ。それが難しいんだよな。それからかやのさんは時々リハビリに来るようになった。無理しないでとは言ったものの、彼女はその言葉を飲み込んで終わった。何も聞いちゃいない。それでも楽しくリハビリが出来たのはかやのさんと北条さんのおかげだ。二人の甲斐もあり、やっと歩けるようになった。その頃には桜は完全に散り、緑の木となってしまっていた。次に楽しみな木はイチョウかな。それよりも真夏を迎えるのが先だ。要注意だな。

 退院の日が決まった。初夏の、まだ爽やかな風が吹いていた日だった。かやのさんもお母さんも来てくれて、先生にも看護師さんにも感謝を伝えて、最後には北条さんのところに行って感謝を伝えた。

「退院おめでとう。また来てねなんて言えないのが悲しいけど、元気でね。もう来るんじゃないよ。」

「はい、ありがとうございました。」そして、家に帰った。まだ本調子じゃない私には一本、松葉杖が与えられた。二人が荷物を持ってくれて、ゆっくり歩いてくれて。何故かお母さんまで着いてきた。どこまで行くのかと思っていたら、私たちの家までずっと着いてきた。もしかしてこれは、私が寝てる時もお邪魔していたのでは?この勘は当たっていた。お母さんは入ってくるなり私の荷物を私の部屋の前に置き、手を洗いに行った。初めて訪れた家の洗面台を知っているはずが無い。

「ねえ、お母さん絶対ここ来てるよね。」こそこそとかやのさんに聞く。

「うん、2年もあればそうなるって。」当たり前のように言われた。そんな考えで大丈夫か?

「なんか面倒くさいこと言われてない?」

「全然。楽しいよ。結生ちゃんのアルバム持ってきてくれてね、赤ちゃんから見せてくれたよ。」うわー、最悪なやつじゃんか。こういうところありますよね、親というものはみんなそういうものなんでしょうか。私も親になれば分かるのでしょうか。

「もう忘れてね、恥ずかしすぎる。他には?何か気に障ることされてない?」

「いやあ、むしろ良くしてもらってたよ。よくお菓子くれたり、あ、お花くれたり。お花屋さんだもんね。綺麗な小さい花束作って持ってきてくれたり。ご飯食べてる?って料理持って来てくれたり。嬉しいことだらけだったよ。」

「うーん、それなら良いんだけど。でもお母さん料理下手くそだよ?」

「何話してるのー?私の話じゃないでしょうね。」変なとこに勘が効くのは何の能力だ。

「いや、違いますよー。」適当に返事をして私は荷物を片付けた。今日の夕食は母が作ってくれた。私の母は料理が不得意。作れるものはおにぎり、カレー、味噌汁、その他簡単な家庭料理くらい。そもそも料理という家事に意欲が沸かないそうだ。レシピがあれば作れると本人は豪語している。そんな中で私が一番好きな料理はおにぎり。どシンプルだと思われるが、母の塩おにぎりに勝るおにぎりに出会ったことは今のところ無い。近年増えたおにぎり屋さん。入院の時に見ていたテレビで紹介されているその作り方はほろほろの柔らかいおにぎり。美味しいんだろうが、私はしっかり握ったおにぎりの方が好き。母が作るおにぎりがそういうタイプだったからかもしれない。初めての印象に囚われているということもあるかもしれない。しかしぎゅっと握られたお米と加減の良い塩が絶妙で大好きなのだ。中に具なんて要らない。私も実家にいる時に何度もおにぎりを作った。でも母のおにぎりにはならなかった。母の教え方も悪い。「ぎゅっとするだけよ。」それだけで分かるわけないでしょうが。今もなお母のおにぎりに勝るおにぎりに出会ったことは無い。今日もおにぎりを作ってくれた。おにぎり、味噌汁、卵焼き。夕食にしては質素と思われるかもしれないが、我が家では結構当たり前の光景だった。かやのさんはごく自然に受け入れていた。他人の作ったおにぎりは食べられないという人もいる中でかやのさんは何なら私より先に手を付けた。

「やっぱりおいしいです、ユウキさんのおにぎり。」おや?ちなみにユウキというのは母の名前。有希。かやのさんの今の発言はかやのさんが母の作ったおにぎりを前に食べたことがあるようだった。

「お母さんのおにぎり食べたことあるの?」

「うん、あるよ。料理持ってきてくれたって言ったじゃん、あれ。」なるほど、とはならないが、かやのさんが好きで食べているならいっか。

「やっぱり私の話してたんじゃないの。ほら、結生も早く食べなさい。」

「はーい。」3人で囲むテーブルはお皿で少し窮屈だった。でも今までに無い数のお皿の並びに何だか心がウキウキした。食べ終わると母はもうすぐ帰ると言い出した。私の荷物を片付けたら帰ると。もう実家も近くなったのか。ご飯を食べに来たのか?いや、私のためか。全然帰らない私が母を困らせたんだから心配でも何でも何かの感情は持つか。だからかな、母が今日おにぎりを作ってくれたのは。一番好きだって知ってるから。ずっと前から言ってたから。それに人様と同居している中でこんなことを起こしてしまったんだから、かやのさんへのすみませんの意味もあるのかな。母は何も言わない。いつもそうだ。言葉が足らずに余計な誤解を生む。どこまでも変なところだけ似た親子だなあ。ありがとう、お母さん。かやのさんがお皿を洗っている間に母は片づけを。私は何も出来なかった。その時に言った。言葉足らずを止めようと。

「お母さん、ありがとう。」そしたら母は一度手を止めて、その後また手を動かして言った。

「何?柄でも無いこと言っちゃって。ありがとうなんて言ってもらったこと数えるくらいしか無いのに。昔からそういうとこシャイだったんだから、言ってくれるなんてね、お母さん嬉しいな。」そうだな、私が実家にいた時は反抗期もあって感謝なんて全然伝えなかったな。申し訳ない。今までごめんなさい。鬱になったことで人への感謝が強くなったんだ。助けてくれる人のありがたみを思い知った。母はそれを無償でずっとやってくれていたのだ。本当、母には頭が上がらないよ。

「今までごめんね。」ふと出た。母は驚いた。私も驚いた。もう良いんだ。見栄を張る意味なんて無いんだ。そもそも私は何で見栄なんて張ってたんだろう。泣き顔だって見せても良いんだ。そう思うと涙が出た。これには母も片付けている手を止めて私に近付いて、抱きしめてくれた。

「頑張った。よく頑張った。偉い。生きたんだから、生きてるんだから、大丈夫。」そんな言葉をかけられて更に涙が出た。私はずっと取り繕っていたんだ。本当の私を知る前に、自ら皮をかぶったんだ。だから私の素なんて友達家族はおろか、自分ですら分からなかったんだ。最初から私がしたことだったのだ。気付かなかった。ずっと私は私では無い誰かになっていたんだ。そう気付くと心は更に軽くなった。気付くのが遅すぎた。28年も心を守るための鎧が母の前では脱げなかった窮屈な鎧がこの時初めて脱げた。母にだけ脱げなかったものも友達の前で脱げなかったものも。家族だから隠したい一面もあった。泣き顔なんて見られることも嫌だった。他人に対しても嫌だったが、母に対してはものすごく嫌だったのだ。この時生まれて初めて母に心から寄り掛かれた。ずっと使っていなかった背もたれはすごく丈夫な背もたれだった。

少しずつ自分で過ごせる生活に戻ってきたが、そんな生活はどんなことも当たり前という概念をぶち壊した。次の日が来ることも、起きるという行為も、何もかも。当たり前の日常を過ごすことが出来なくなったあの日から、私の周りは一変した。どんなものもそれまでのものと変わって見えて、不安や苦痛の材料になった。今こそ怖いものはすごく怖い。そう思える感情を大切にしながら私の生きる力に変える。怖さは生きるために人間に付けられた本能からの防御だから。感情が無いというのは怖いという感情を超えるほどに恐ろしいものだと今では思う。怖さが無ければ何だって出来てしまうほどに。死にたいとは思っていなかったはずの私が死のうと行動したのだから。あの時の私はどれだけ思い返しても記憶が曖昧だ。どうやってあの場所に行ったのか、どうして死を選ぼうとしたのか。不満も何もない生活を送っていたと自分でも思っている。かやのさんもそう思ってくれていたはずだ。だってそれが私の頭で考えていることだったのだから。それなのに何のための行動だったのか。この謎は次から次へと謎しか呼ばない。鬱は軽快な方向に向かっている。あの夢の正体は謎のままだが、2年という頭を使わない時間が私の頭の負担を軽くさせてくれていたようだ。それからというもの、私は社会に復帰した。まずはアルバイトから少しずつ。事務の仕事を始めた。比較的ゆったりした会社で焦らされることも無く、新人にも優しくしてくれる人ばかりで、体調が悪くなってもすぐに休んでいいよと言ってくれたり。会社全体の雰囲気が私に合っていた。個人に寄り添ってくれる会社だった。超ホワイト企業。「アットホームな職場です」が本当のことだった。小さな会社だったこともあって、近所のおじさんのように話しかけてくれる社長や親せきのおばさんのような優しさの同僚さん、中には私と同じくらいの年代の人もいて、楽しく仕事が出来ている。以前の夢は諦めてしまった。そもそも仕事だけを夢に見ること自体私には合わなかったのだ。プライベートのことを何も考えずに仕事ばかりを夢見ていた。それが私を駄目にしていたのだ。今の夢はこのままかやのさんと穏やかに楽しく暮らし続けること。普通に暮らすということ。当たり前のことだが、それは全然当たり前では無いということを私は十分に知った。いつまで続くかは正直分からない。その期限が来るまで、私は思う存分楽しむつもりだ。私の人生はこのまま何の起伏も起こらず平坦な道を進んで終了するだけの薄っぺらい人生だと思っていたが、鬱になり上り坂が出現した。そんなきつい上り坂を登ろうとしない私に彼女が飛び込んできて横道を教えてくれた。急がば回れでは無いが、ゆっくり人生を歩んでも良いのだと教えてくれた。そんな彼女のおかげで私の人生の予想地図が豊かなものに変わった。ただ歩くだけの何も無い急な上り坂は横にある低い斜面の道を教えてもらって、彼女がその道を花で彩り、一度止まる交差点は道の数を増やした。先の見えないゴールまでの視界はより広くなって辺りが見渡せるようになった。周りには何もないように見えていたあの世界はただの私の主観的視界で、本来見えるはずの沢山のものを消し去っていたのだ。彼女の存在があったからこそ私は今を生きている。その恩をこれからは私も返していきたい。別れが来るまでずっと一緒にかやのさんと暮らしたい。

 

 随分仕事にも慣れて体調も良くなってきていたそんなある日、社長に呼ばれた。社長に呼ばれることなどそう無い。何かミスをしただろうか、それとも業務中の態度?頑張っているつもりだったが。そう考えていたが、全く違った。

「山名さん、正社員にならない?正社員と言っても今の業務とはほとんど変わらない。もしかしたら、新しく入ってきた人の指導をお願いするかもしれないけど増える業務はそのくらいかな?どうかな?」正社員登用の話だった。何でも近頃従業員を増やそうとしているそうだ。現時点で私はここに採用されてもうすぐ1年。正社員になれるならその方が何かとお得だ。業務時間は変更しないで良いそうで、かなり良い条件。でもなんとなく私一人では決め兼ねていた。私が黙っていると、社長は「返事は今すぐじゃなくていいから。」と言ってくれた。私は仕事に戻り、退社後そのまま家に帰った。帰ると先にかやのさんがいた。料理を作っていた。

「ただいま。」そう言うと、

「おかえり。どうした?なんかあった?」確かになんかあったが、よくもただいまの4文字で察したな。凄い。私はきっと勘付けない。

「今日正社員にならないかって言われた。」

「おお、すごいじゃん。どうするの?受けるの?それを考えてるんでしょ。」もう彼女には何も隠せないなあ、何でもお見通しだ。

「受けた方が良いんだろうけど、なんかねえ。すぐ返事できなかったんだよね。」

「前の夢はもういいの?」

「うん、それはもう完全に諦めちゃった。・・・でもどっかにまだあるのかな、あの夢。」

「もう一回追いかけてみたら?前の夢。それもありかもよ。人生1度きり。やりたいことを目いっぱいやりなさい。結生ちゃんが眠ってる間、有希さんもそう言ってたよ。結生ちゃんの夢を応援したいって。でもすぐ口出しちゃうから嫌われてるだろうなあって言ってた。結生ちゃんお母さんのこと嫌いじゃないのにね。」彼女は私のことを分かり切っている。私に嘘を吐く余地など無い。彼女は私より私を知っている。こんな存在失くしたくないな。

「でも、それはかやのさんに迷惑かかるでしょ。」

「もう迷惑はかけられまくってるからなあ、そんな迷惑なんてちっぽけだよ。結生ちゃんがしたいことをしな。私は応援する。ずっと応援してるから。」本当にいつも申し訳ないな。

「前の夢だけどあの時とは違う職種に行こうかな。行ってみても良い?」

「良いも何も受からなきゃ始まんないからね。無理しない程度に頑張って。」

「うん。頑張る。」そうして私は以前の夢に近い仕事をまた追い始めた。前に勤めていた会社は気まずさと恐怖で行けないと思った。だから別の会社に行くことにした。それにおそらく前の会社の仕事は出来ない。体力仕事だったから。そのためにはまず、正社員を断らなければならない。おそらくこれで社長は察するだろう。いつか辞めることを。そして新しい会社を探し始めた。3年以上の時を経て同業会社はかなりの数になっていた。こちらとしても受けやすいということだ。ネットがさらに普及したとかの要因もあるのだろうか。いくつかの会社に目を付けて面接に行った。やっぱり休職の期間が長いことが人事担当の人にも引っかかっているのだろう。なんとなく履歴書を見た後の反応で顔が変わるから駄目なことも分かってしまう。何敗もして、落ち込む中でかやのさんはいつも「リラックス、リラックス。」と声をかけてくれた。もう履歴書を何枚書いたかも分からない。そんな時に一社、今までにいないほど人柄の良い人事担当さんがいた。その人には話がしやすく、自然とリラックスして話していた。後日、その会社からの採用の電話が届いた。アルバイトの期間を経てから正社員になる。受かったのがこの会社で良かったと思った。その後は今の会社を辞める準備を始めた。退職の願いを出してその月末まで、あとは残った有休を使い終わって退社した。1年勤めた会社を辞めることにみんなからは惜しまれて少し心が痛んだが、辞める時はしっかり応援してもらって、この会社で社会復帰をすることにして良かったと思った。それから月が変わって新しい会社の初日。この会社は前の会社より小さい会社。体力というよりは事務的作業がほとんど。体力は私には無理だった。この職種を再度選び直してよかったと思う。自己紹介が行われた。仕事は楽しみだが、人間関係は全然楽しみでは無い。これが一番不安だった。しかし事務の仕事先のような人たちで、全く不快さが見えなかった。それが嬉しかった。特にここは私と同じ年代の人が多くいた。若い人が多い。話も合うと思って良いだろう。ここでなら長くやっていけそうだ。そう思った。それからは前に続けられなかった3か月を超えて、そのまま順調に正社員になった。まだたまに体調を崩すこともあるが、それでも私のペースで進めさせてくれた。というよりはおそらく私のスピードを上げるために私にさせているのだと思う。それほど頼られているということだと思うと嬉しい。前の私ならこんなポジティブなことを考えることも無かっただろう。きっと以前の私ならば何でこんなにきつくさせるのかなんて卑屈な考えをしていただろう。別にきつくさせられているわけでも無いというのに。だからこんな自分を持てたことも新たな良い自分だ。今のところしっかり定時でみんな帰る。ホワイト企業のはず。私はまだ持ち帰りの仕事なんて無いが、もしかしたらこれからあるかもしれない。先輩社員が仕事を持って帰っているのを見たことがある。でも今の感じでは持ち帰ることには嫌悪は抱かないだろう。すごく楽しい。職種を変えただけで、会社を変えただけでこんなにも差が出るのかと驚いた。もちろん今の気分が大きく作用しているはずであることに変わりは無い。私に合う会社も職種もあるのだと感じることが出来た。この楽しさからネガティブな気持ちを作ることも少なくなった。すべてが良い方向に向かっている。

「ただいまー。」かやのさんが帰ってきた。今日は私が早かった。ちょっと前からだが、料理もするようになった。最近は先に帰った人が作る制度。今日私が作ったのは親子丼。あとに帰ってきた人は文句を言わない。もし希望があるか要らない時は昼までにメッセージ。今のところ案外いい感じに五分五分で作っている。たまに帰り道の途中で会うことがある。そういう時はかやのさんが作ってくれている。かやのさんのご飯の方が美味しい。本当はぜひ毎日お願いしたいが、それは彼女の負担にもなるからそこまでは強要しない。皿洗いは私の仕事。案外嫌いじゃない。代わりにお風呂掃除をしてくれる。トイレ掃除は毎日交代。どんどん家事分担が決まっていく。私も彼女の役に立てていると感じられる。

「ねえ、今度の土曜日空いてるよね?この映画観に行かない?前に気になるって言ってたやつ。私も行きたいんだよねー。」かやのさんが見せてきたスマホの画面は私が前に観たいと言っていた映画だった。彼女は映画などほぼ観ない。何かあるのだろうか。明日行って聞いてみよう。

「うん、行こ。洋服準備しないとだ。何着て行こっかなー。」こういう時の準備が意外と一番の楽しみだったりする。それだから準備が済んだらもう行く気すら無くなったりする時もある。だから予定は直近で立てたい派。鬱の時はどうでも良かったが、楽しむ希望が出来てからはそういうことも以前のように考えれるようになってきた。よく彼女とこうして同じ休日に外に出かけることも増えた。というより増やしてくれた。大抵彼女が提案してくれる。いつもどこかに行く予定。私から予定を言うことは無かった。これから言ってみようかな。きっと彼女は何処だって行ってくれるだろう。いつか二人で旅行に行きたいな。温泉旅行とか良いな。

「うん、行こうよ!温泉行きたい!」え?どうした?いきなり彼女が声を出した。

「え、温泉旅行行きたいんでしょ?行こうよ。有休とか使って何泊かするくらいの規模の。でも国内にしようよ。海外はあんま行きたいとは思ってないから。」お、おう。

「私声に出してた?あらら、ただ今ふと思いついただけだからね。」

「え、良いじゃん、行こうよ。私は賛成だよ。」

「そう?それならまあいっか。でも行くなら来年とかかも。私の仕事が落ち着いてからじゃないと旅行は私無理だと思うから。それでもいい?」

「全然オールオッケー。」手で丸を作って目に近付けてメガネのようなポーズをとる彼女。その仕草が何とも可愛い。それに笑顔で答える。

「行こう!」

 土曜日になった。何と寝坊をした。ランチを食べに行って映画を観る予定だった。家を11時に出る予定。なんと今、11時20分。ヤバッと飛び起きた。急いでリビングに行くとくつろいでいる彼女を発見した。

「うわー、ごめんなさい!」土下座はしていないが、そのくらいの勢いで体を90度以上曲げて謝り倒した。

「んー?良いよお。ゆっくり準備しな。12時に出れる?」

「うん、すぐ準備する。」それからは毎日の仕事前より早いスピードで支度をした。メイクには時間がかかる。可愛い彼女の横に立てるようにいい顔を作ってみせるぞと早く頑張った。11時55分。やっと支度を終えてリビングに行く。彼女に終わったと言ってこれから行こうという時、私のお腹が鳴った。一緒に住んでいるとはいえ初めて鳴らした。恥ずかしい。

「よし、ご飯食べに行こう!」元気の良い彼女と共に家を出発し、映画館もご飯屋さんも入っている大きいショッピングモールに行く。最近はよく行くようになった。行けるようになった。先にご飯。彼女が選んでくれたお店はなんとしゃぶしゃぶ。しゃぶしゃぶなんて久しぶりだ。何年ぶりだろうか。鍋はやったことがあったけど、しゃぶしゃぶはしていなかったな。私は焼肉よりしゃぶしゃぶ派。あっさり食べれてとても良い。しかし映画の前にしゃぶしゃぶとは結構勝負に出ているな。何の勝負でもないが映画の前にそれを勝る大きさの驚きを与えられた。昼だというのにシックな内装はディナーを思わせる。照明が暗いのか。今日はこのまま家に帰りそうになるぞこれは。2種類の出汁を選び、お肉を待つ。やってきたお肉、野菜を勝手に鍋に潜らせどんどん渡してくる。彼女は絶対してくれると思った。

「良いよ、私も出来るからかやのさんも食べて。はい。」ずいっと火の通ったお肉を乗せたお皿を彼女の前に出す。彼女は驚きながらも受け取った。

「二人で食べようよ。二人いるんだから。ね?一緒に食べないと楽しくないでしょ。」

「そうだね、なんか結生ちゃんには世話焼いちゃうんだよなあ。何とかしないと。」

「別に何とかしなくても良いよ。」彼女から世話を焼かれることについて特に嫌なことは無い。何なら甘えることが出来て嬉しいくらいだ。

「甘えさせてくれるのはありがたいからこれからも好きな時に世話焼いて。」自分で言っといて意味の分からないお願いだな。でも彼女はそれにニコニコした笑顔で頷いた。そんなことされたらもう、愛でたい種族に入りそうだ。その彼女にも癒しをもらえて最高だった。しゃぶしゃぶをたらふく食べて映画に行く。絶対逆が良かった。どうしよう、寝る気がする。これから観る映画は歪な家族の物語。予告を見て気になったのだ。サスペンス系の予告と泣ける系の予告があった。全く違う映画に見えるのにその二つは同じ映画から出来ている。不思議で面白そうだった。彼女もまた同じだろう。飲み物を買ってスクリーンへ行く。もう上映期間もギリギリな時期で人は閑散としていた。人が少ない分には良い。映画館すら久しぶりだったから少し緊張していた。鬱が発症してからというもの映画館のような暗く封鎖された空間はどうも近づけなかった。人が多いと尚更そうだ。でも今回は大丈夫だと思う。もうすっかりパニック発作も出なくなっていたし。でも万が一を考えて、彼女に気分が悪くなったら外に出ることを言って映画の開始を待った。久々のワクワク感。学生の時もそうだったが、映画館って何だかそわそわしてしまう。他の作品の予告が流れ、遂に照明も暗くなった。この映画のざっくりとした感想はネタバレありで、変な家族だと思っていたら悲しい家族だった。そんなものか。私は泣くまではいかなかったが、観る人によっては泣く人もいそうだ。私的には泣く要素より事件の方に頭がいき、悲しいことは分かっても泣かなかった。私の頭は警察ものが好きらしい。謎を解く感覚で事件を見ている。本来はあってはならないことだが、フィクション作品だから出来ること。ちなみに眠ることも無かったし、気分が悪くなることも無かった。何ならジュースすらほぼ飲んでいなかった。途中から飲み物の存在なんて忘れていた。私はシングルタスク過ぎる。もう少し脳みそを割いて多くの物事を考えられるようになってほしいな。残ったジュースをがぶ飲みしながら映画館を出る。その後私たちはモールの中を散策した。本屋、服屋、雑貨屋。巡り過ぎて時間は20時になりそうだった。帰ることにして電車に乗る。もうずっと癖で端の車両に乗っている。やはり人混みが一番少ない。容易に椅子に座れるのだから嬉しい。電車に揺られながら、私は映画の話をした。主題歌について。あれは彼女が作ったものなんだろうと思った。聞けばやっぱりそうだった。よく気付いたね、なんて言われたけどこっちだってあなたのことをあなたより知ってるつもりだぞ。彼女の曲は何故か分かった。沢山聴いているからかもしれない。入院生活の中で教えてくれたのだ。私が眠っている間にも出来るたびに聴かせてくれたそうだ。しかし残念ながらそれは聴こえなかった。でも起きてからはかやのさんのファンになるほどには聴きまくっていた。まず曲調が好きなものだった。ハマるにはそう時間はかからなかった。学生の時、友達に勧められたものを試しても全然ハマらなかったのに、かやのさんの歌は自然と好きになった。綺麗な歌声だ。これを一人で作ったということがあり得ないほど凄いと思った。最寄り駅に着いて家まで歩く。いつもは一番近い道を使うのに、今日はかやのさんから「こっちに行っても良い?」と言われた。どこを歩いても私は家に帰れたらそれでいい。「良いよ。」と言った。その道は公園を通る道だった。

「ちょっと前みたいに座っていかない?」懐かしいな。

「良いよ。」二人でベンチに座った。やはり今日は私が左、彼女が右に座った。家でのことが慣れで出てきている。初めてここに来たのも5年前になるだろうか。変わらない風景に夜の空。今日は空が晴れているからなのか、星が沢山見えた。そういえば入院生活から復帰して今に至るまでほとんど空を見ていなかったな。要らなくなったら捨てるかのようだ。なんてことをしているんだ私は。今まで見上げずすみません。なんて思いながら空を見た。静かな空気。冬なのに二人の間には暖かい空気が流れる。

「久しぶりだよね。こうやってここで空見るのも。」彼女が言葉を放つ。

「そうだね、私の入院からあの椅子も使ってないしね。一人の時使った?」

「使ったよ。結生ちゃんの方も使ったよ。両方使ってあげた。結生ちゃんの目線も見て見たかったし。でも一人は寂しかったよ。」

「そうだよねえ、ごめんね、一人にさせるなんて。今日は星が綺麗だね。」

「今日は新月なんだって。だから星が見えやすいらしいよ。月の光が無いから。」

「そうなんだ。こんな感じで夜の空のためにここに来たことって無かったよね?なんか初めてな気がする。ここで月を見ることも星を見ることも無かったな。歩きながらしか記憶に無いな。」

「確かにそうかもね。言われてみれば。夕方から夜までの方が多かったね。」

「どうしたの、今日ここに寄るなんて。何かあったの?」

「いや、久々に二人で行きたいなあなんて思って。良いでしょ、それだけの理由でも。」

「もちろん。良いよ、どんな理由でも。なんか聞き覚えがある言葉だな。何かあったのかい?」

「ううん、本当になんも無い。結生ちゃんが帰ってきてくれて、なんとなくここ思い出して、って感じな。何かあると言えばまあ眠いくらい。」

「眠いの?じゃあ帰ろうよ。体が疲れたんだね。今日めちゃくちゃ歩いたしね。私も疲れたー。」そう言ったが、彼女の目線はずっと空を見ていた。と思った途端、彼女は走り出した。

「ごめん、先に帰る!」その言葉の後彼女は走って帰っていった。一体何だったのか。取り残された私はゆっくり家に帰ることにした。短い距離でもマンションまでの道には一軒家が複数建っている。その横を通っている時、風が吹いた。涼しく吹く風が寒さと感じる風。少し先の家の塀から飛び出ている木から何かが落ちた。葉では無い。見に行くと花びらでもなく花そのもの。赤い花。これは何の花だろうか。落ちると言って思いつくのは椿か。日本語というものは綺麗なもので、花の最後の瞬間にも色々な表現方法がある。桜は散る。梅は零れる。椿は落ちる。牡丹は崩れる。朝顔はしぼむ。菊は舞う。落ちた一つの花を持ち帰った。落ちたばかりの花は綺麗だった。案外枯れている花びらもほぼ無い。風で落とされてしまったのだろうか。それは悲しいね。家について小さなガラスのカップに水を入れ、そこに花を浮かべた。テーブルに置く。白い無垢材のローテーブルからしたら紅一点。こういうものもいいかもしれないな。スマホの検索アプリで花の種類を調べる。やっぱりこの花は椿だった。椿の生存方法を知らないが、このカップで枯れるまで見届けることにした。母のように家に花を飾る。花の色は機械で作り上げられた既製品とは違う鮮やかな色をしている。彼女は後ろで仕事をしていた。さっき急いで帰っていったのは何か良いアイデアでも出たのだろうか。楽器を弾きながら何かをメモしている。軽やかなメロディーが生まれている。彼女の横顔は心から楽しんでいる顔だった。次に生まれる曲はどんな曲だろうか、楽しみだな。

さてと、私はもう眠る準備をしよう。


―かやのサイド―

 あの日は仕事で理不尽なことを言われて凹んでいた日だった。私の仕事は努力より結果が重要な職だ。もちろん努力も必要。それは当たり前。分かってはいる。でもこのやりきれない気持ちをどこにぶつけたら良いかも分からずに最寄り駅から一つ前の駅で降りて、早めの夕食をファミレスで取った。そしてそのまま頭を冷やそうと一駅分歩いて帰った。ファミレスに入った時はまだ夕方というには早い時間だったが、食事を終えて外に出るともうすぐ日が暮れそうだった。きっと家に着くころには日も落ち切っている頃だろう。一駅分の距離とはいえ都会に近い住宅街といった感じで、交通はかなり充実している。次の駅までの徒歩時間は20分無いくらい。そのまま歩いていると、マップアプリではいつもは使わない道が最短ルートに表示されていた。試しにその道を行くことにした。もうこの時すっかり仕事で言われた理不尽なことは忘れていた。さっきまで歩いていた大通りからかなり外れて歩いていくとすっかり住宅街だった。まあ、ここら辺は住宅街ばかりだからそうなることは想定していた。中には保育園なんかもあって丁度数人の親御さんがお迎えに来ていた。そのそばでは門の近くによくいるボランティアか分からないおじさんが立っていた。おじさんから元気良く挨拶をされ、こちらも挨拶をした。それから進んでいくと、公園に出た。もうすぐで家に着く。家の近くにこんな公園があったとは。初めて見た公園だった。少し広い公園。でも別に緑の生い茂るような公園ではない。住宅街にちらほらあるようなあんな公園。まあそもそも公園などいつも通っても見向きもしない。それなのに今日、なんとなく公園を視界に入れた。さっき通った保育園の子供だろうか、ちらほら親子だろう人や、おじいさん、おばあさんなどがいた。ほのぼのとしたこの様子は私の視界に平和を見せた。しかしその中で異質というか、何か不思議な空気が漂っているところがあった。ベンチに座っている同世代くらいの女の子。彼女のところだけ時が止まっているかのような不思議さがあった。面白い。その一言だった。その日はそのまま家に帰った。そして帰って来てまた仕事のことを思い出した。クソッと思う気持ちを落ち着かせ、次の仕事に備えるための準備をした。また後日、朝ではあるがなんとなくあの公園に行ってみた。散歩がてら。と言っても徒歩2、3分のところだ。今までこんな距離に公園があることすら知らなかったことに自分でも驚きだ。あの時見た女の子。もしかしたら本当に時が止まっていてあの子がずっとあの公園に居たりして、なんて訳も分からない想像をしながら。公園に行くと彼女はいなかった。それどころか人一人いなかった。何だ、つまんないもんだ。彼女はいなくとも子供とかいても良い時間だろうに、そう思いながら家に帰った。家に帰って仕事の準備をして練習に行く。私の仕事は練習が必要だ。楽器演奏家、とでも言えば良いのだろうか。ギタリストとかピアニストとかではなく、専門を作っていない演奏家。ギターも弾くしピアノも弾く。何なら曲も作る。この前の仕事の理不尽な話というのはこの作曲だ。注文が入ってなんとなくのイメージのデモを作り、依頼者に送り、調整を重ねて作り上げた。それなのにいきなり趣旨を変えたいと言い出した。そんな理不尽な発言はあり得ない。断ろうとしたが、依頼者から依頼料を倍にするからとお願いされた。別に金のためにやっている訳ではない。好きでやり始めたことだ。依頼する方から理不尽な対応をされ、挙句には金で釣れると思われているなんて、私にとっては不愉快極まりないことだった。あれだけやったことが全て無くなるあの屈辱を、辛さを分かっているのだろうか。そんな中それに追い打ちをかけるように新たな問題も発生した。今まで確認していた人と依頼者が違うことまで発覚したのだ。もう意味が分からくなっていた。依頼者本人の確認をしていなかったのは私だからそこは私も悪かったのかもしれないが、今回の事態を招いたのはあちらの方だと思っている。最終的に一度初めからやり直すという形でまた制作が始まった。今度は依頼者本人の確認をして、その人と直接連絡しながら制作した。出来上がるのに最初のものも含めて3か月もかかった。しかも最初の方が時間がかかっているという何とも皮肉なものだ。その間にも息抜きがてらあの公園に何度か行ってみた。いつの間にか私の中で習慣になってしまっていたほどだった。ただ、その彼女を見るだけの。彼女は不定期に訪れる。いつも夕暮れ付近の時間。朝は仕事だろうか。でもいつも彼女の纏う空気は不思議だった。何の仕事をしているかも気になった。辺りの街灯が点くと、ベンチの近くの街灯が灯り、ベンチが浮き彫りになる。彼女の存在も浮き彫りになる。彼女はずっと上を見ていた。初めて見た時から、ずっと。たまに目を閉じたり、また目を開けたり。顔は上を向いたまま。何をしているのだろうか。彼女がいない日にやってみた。上を見た。空があった。まあそうだよな。夕方の少し淡い藍色の中にうっすら見える雲。時間が経てば藍色は濃くなっていく。面白い。彼女はこの景色を見ていた。その時、周りの音が聞こえなくなった。これだ。彼女から溢れていたあの不思議な空気。時が止まったかのようなあの不思議。これは彼女に会いたくなってきた。彼女と話がしたくなった。名前も知らない初めましての人と会話をしたいと思ったことなんて初めてだ。ワクワクしながら彼女と遭遇するのを待った。1日、2日、3日・・・来る日も来る日も待ってみたが彼女と遭遇することは無かった。会いたいと思うと何故か会えない。もう無理かとベンチに座って落ち込んでいた時、公園の横を通る彼女を見つけた。歩いていた。一度見ただけの人を覚えていれる自信など無かったが、彼女は何故かすぐ分かった。やっぱり雰囲気だろうか。どこか他の人と違う異質感を感じる。彼女は公園に立ち寄らなかった。近くには住んでいるのだろうか。また別の日にも公園に行った。なんと今日、やっと彼女がベンチに座っているところに立ち会えた。こんなことを言っていると希少生物の観察でもしているかのように聞こえて良くない。意気を込めて彼女に話しかけようとしたが、もし彼女がすごく怖い人だったら、とかいう不安が募って一歩踏み出すのを躊躇った。話しかけようとしたのは私だ。よし、いざ。

彼女に話しかけると、穏やかな人だった。いや、もはや空気とでも言うべきか。存在自体がふわふわ浮遊している気がしてならなかった。彼女は浮いている。物理的には浮いていないけれど物理的にも感じてしまいそうなほど何を考えているか分からなかった。空気に任せて生きているような。そんなことを思っている私もおそらくここの場では浮いているし、彼女からは敵意を向けられているかもしれない。そう思ったが、彼女から声をかけてくれた。

「何で私なんですか?」いきなりまだ聞き慣れていない声が聞こえて驚いてしまったが、気を取り直して事の経緯を説明する。自分の紹介までして彼女は少し声色を明るくした。同級生という繋がりを知ったからだろう。変な人だとは思われていなさそうで良かった。私は彼女を気にすることなく私の仕事の話をしてみた。音楽は大抵の人が耳にするものだ。興味を持てばこちらをまた向いてくれるかもしれない。しかしそんなことは無かった。彼女はずっと空を見ていた。私の話は耳に入っているのだろうか。まあ私の言葉などいくら出しても増えも減りもしない。だからどっちでも良い。そんな時に不意に思って言ってしまった。

「結生ちゃんは何の仕事してるの?」言った瞬間の沈黙にハッとする。

「あ、言いたくないよね、ごめん、言わなくていいよ。」次に出す言葉が見つからず沈黙が流れる。すると彼女は話してくれた。私には分からない苦しみを抱えている彼女がいた。彼女は今にも泣き出しそうだった。無理もない。夢だったであろう職を失ったのだ。彼女の持ち物は無い。おそらく近くに住んでいて散歩で来たのだろう。私は俯いた彼女にハンカチを渡した。そんな時に彼女の先の向こう側に今まで気付かなかった花壇を見つけた。

「あ、あれ何の花だろう。」何でも言葉にしてしまうこの口を封じたい。でも沈黙よりは良いか。それからすぐに日が暮れた。この季節は日が暮れるのがいつの間にかという感じでいつ日が暮れるのか読めない。日が暮れたらこれからまた気温も下がってくる。

「帰ろっか。」という言葉に彼女も頷いた。歩みを進めて少し、後ろから足音が聞こえない。思って後ろを振り返ると彼女は反対方向に進んでいた。当たり前だ。彼女の家など知らないのだから逆だってあり得た。彼女とはこれからも会いたかった。というか友達になりたかった。連絡先を交換したい。走って後を追う。ポンポンと肩を叩くと彼女は少し跳ねた。瞬間、笑ってしまった。ツボにはまってしまった。「何ですか。」と少し不貞腐れたような彼女の言動は可愛かった。その後連絡先を交換して二人別々の家路に着いた。それからというもの、私は彼女のメッセージに毎日のように何かを送った。これは私なりの生存確認だった。既読が付けば彼女は生きていると確認できる。彼女はこのままだと死ぬと思った。まるで感情の無い顔をすることがあったからだ。私は年の離れた兄がいた。兄は実家にいたから学生の時はその姿を見ていた。頭の良い兄だった。そんな兄が仕事の疲弊で自死を選んだ。あの顔は兄の生前の顔と似ていた。どうにかして守りたかった。関わった人が死ぬのを見たくないとかいうエゴでも偽善でも何でも無い。ただ彼女と一緒に居たいと思ったからだ。それに、彼女の周りに流されないで生きるような姿もかっこいいと思った。私は流れる毎日に乗るしかない日々で最近何も上手くいかない感覚で仕事の楽しさを無くしそうだった。

 ある日のこと、いつもはあまり返されない返事が返ってきた。「今あの時の公園にいるよ。」と。すぐに準備をして家を出た。「久しぶり!」彼女は答えなかったが、ベンチのスペースを開けてくれた。相変わらず空を見ていた。私も空を見た。すると後ろから声がした。近くに住んでいるおばあちゃんだろうか。「仲良いのねー、二人して上見てて。何かあるの?」と言われた。嬉しかった。上には空がある。彼女は一言も話さなかったが、私はおばあちゃんと少し話をして会話を切り上げた。その後、「私と会うのが嫌じゃないのか」と彼女から深刻そうに言われた。そんな訳が無い。私は彼女といたいからいるだけだ。無理をしたりなんて今の私にはそんな余裕は無い。彼女と会うと仕事を忘れられるのだ。仕事というよりも時間。やっぱり彼女の隣は時が止まるかのようだ。今日はかなり話をしてくれた。しかし、彼女は今回も泣いた。心が支えられなくなっているのだろう。またハンカチを出そうとしたら彼女はいきなり走っていった。あの方向は彼女の家。帰ったのか。でも私はすぐには帰らなかった。すると数分して彼女が現れた。息を荒げた跡がある。走って戻ってきたのか。ベンチに座ると彼女は前に渡したハンカチを感謝と共に返してくれた。ふわっと香る匂いが洗濯後を教えてくれた。私はフローラルという香りが甘くて苦手だ。しかしこの香りは受け入れられた。何の香りなんだろう。それとずっと気になってたことが。「結生ちゃん、ずっと敬語だよね。タメ口でいいのに。」でも彼女はそれが苦手なんだと。苦手なことは強要したくない。仕事じゃないんだから。会話も弾み、遂には彼女の笑顔を見た。可愛い。この笑顔を守りたい。ずっと笑顔であってほしい。こうして彼女と出会ったことを光栄に思う。会話が終わって私は目を閉じた。得られるものは音のみ。細やかな風とそれで揺れる葉の音、人の歩く音と共に車の音まで聞こえてくる。彼女も試しているみたい。彼女が目をずっと閉じていることはあっただろうか。一人では怖いだろうし、難しいだろうな。そんな彼女に声をかけた。彼女も音の良さを知ってくれて嬉しかった。その日、一緒にご飯を食べる約束もした。友達と約束なんて何だか久しぶりな気がする。友達に会うことなんてそんな時間を作ろうとも思っていなかった。

 随分と日が経ち、私は仕事に追われてメッセージを送るのが疎かになっていた時期があった。彼女のことはもちろん心配だが、仕事も私にとっては大切なことだ。そしてその忙しい仕事が成功に終わってそのまま彼女にメッセージを送った。すると今日ご飯を食べに行こうということになった。仕事場から急いで公園に向かった。予定に入れていたお店は夜遅くまでやっているカフェレストラン。行った時の店内は人でごった返していた。これは今の結生ちゃんには苦痛だろう。「人多いね、やっぱり止めとく?」もうこの質問に頷いてくれるだけで良かったのに、彼女は無理をした。私はそれを引き止めた。絶対に入っても楽しくなど無い。何のために来たのか分からなくなるじゃないか。私の提案の一つに彼女が賛同した。私の家。それなら他に人もいないし自由に出来る。でも意外だった。他人の家には入らなさそうだと勝手に決めつけていたから。でもその考えもあながち間違ってはいなかった。適当に好きなとこに座って待っててと言って彼女を一人リビングに残して飲み物とお菓子を持っていった。彼女はソファーとテーブルの間に収まりよく座っていた。それに笑ってしまった。そこに座るならソファーに座ればいいのに。そして見はしないテレビをBGM代わりに流し、二人お茶で乾杯をした。そこからは私の仕事の話。彼女がどこかに情報を漏らすなど考えずにぺらぺらと喋っていた。どのくらい経っただろうか、話の合間合間に相槌を打つ彼女の声が聞こえなくなった。横を見ると眠っている彼女。まだ22時前だというのに、早い睡魔だこと。でもそのくらい安心してくれたということか。今日は私も疲れている。早めにこのまま寝るかと一度彼女を起こした。寝ぼけながらも彼女は起きた。何度も「ありがとう」と呟きながら私の肩にもたれながら歩いていた。なんとも可愛い、良い子。そのまま私の寝室へと運び彼女をベッドに寝かせると、彼女は私を離さず一緒にベッドに寝かされた。まあ、今日はこのままで良いか、と二人では少し狭いベッドに二人で寝た。次の日、どこかからガタッと大きい音がして目が覚めた。横には彼女がいなくなっていた。もしかして落ちた?と思ったが、この部屋に彼女はいなかった。リビングに行くとお菓子を片手に寝ている彼女。一度起きてここに来てお菓子を食べながらまた寝たということか。彼女の手からお菓子を取り上げ、私が食べる。そして朝食を作り始めた。彼女が食べる量を分からないから同じ量を作る。作っている最中に彼女が起きてきた。色々注意していたらお母さんみたいになってしまった。誰かに料理を振舞う機会なんて無い。ご飯を並べて一緒にいただきます。黙々と食べる彼女に言ってしまった。「ねえ、感想無し?」その後の私のぐちぐち言う言葉も聞き、彼女は焦ったように「美味しい」と言ってくれた。それから昨日のことなんかも喋って楽しい朝食だった。彼女はお皿を洗ってくれた。そんなことしなくてもいいのに、でもなんもしないと気まずいという思考は私もよく分かる。そして二人で公園まで行った。その間、沈黙が続いた。こんなに居心地の良い沈黙は無かった。そんな話をしていると、初めて会った時の話になっていった。私は彼女を見た時、変な言い方で宇宙人のような、異空間に迷い込んだ時のような感じたことの無い心を抱いた。彼女は自分を持っている人だと思った。真実はただ何も考えられない状態だったのかもしれない。しかし彼女も私を変な人だと思っていたらしい。別にそんなことはしていないが、私の好奇心がそうさせたのかもしれない。彼女が私と出会えてよかったという言葉をすらすらと述べてくれた。嬉しいこと極まりない。そして彼女と別れ、私は少し散歩を続けた。今日は休み。行ったことが無い場所に行こう。行き当たりばったりでどんなところに着くかは神のみぞ知る。私の神様は何処へ連れて行ってくれるだろうか。出来ればご飯屋さんが良いな。そんな感じで進んでいく。大分歩いたな。と思った時に、お店を見つけた。いつの間にか知らない大通りに出ていた。今日のお昼ご飯はここで決まりだな。喫茶店。お店に入ると少ない数の人が訪れていた。これから人が押し寄せるかもしれないなと思ってカウンター席に座る。メニューを見ながら今食べたいものを選ぶ。パンかご飯か、パスタも良いな。よし、ナポリタンにしよ。店員さんを呼び、ナポリタンとプリン、アイスコーヒーを頼んで料理が来るのを待った。そんな中でいきなり耳がキーンと鳴った。頭が痛くなった。頭を押さえて数分、耳鳴りも頭痛も収まり、料理も来たので気にすることなく忘れてしまっていた。喫茶店のナポリタンというものはどこか甘さがあって食べやすさが喉を通った。プリンは固いタイプのプリンだった。一個でもずっしりしていて美味しかった。コーヒーは言わずもがな。全て食べ終えて会計を済ませ、家に帰る。流石に帰り道は分からないからマップで調べよう。スマホを取り出すためにカバンを漁っていると、また頭が痛くなった。何だろうか、私は頭痛持ちでは無いから頭痛は私にとっては一種の病気の前兆だ。風邪だろうか。冬は風を引きやすいからそれかもしれない。家に帰って熱を測ろう。マップを出して家に帰った。家に入った途端、また耳鳴りがした。次は低い音。でもずっと右側。中に水が入った時のような違和感に身震いした。何なんだこれは。熱を測るも平熱。だったら何だろう。頭痛以外には風邪症状はない。そして残念ながら今日は祝日。病院に行こうとしてもどこも開いていない。だからと言って救急に行くほどでは無いし、明日を待つことにした。次の日起きると耳鳴りの頻度が増加していた。もう耐えられるものじゃない。ほとんど通ったことの無い近所の耳鼻科を受診した。検査の結果、突発性難聴。噓でしょ。難聴?どうして?なんで私が?

「何か原因はあるんですか?治りますか?」先生の言う話によれば生活習慣が考えられるが、それが要因とは断定できないらしい。治るか、それは発症後1週間以内の治療が望ましいそうだ。それでも3分の1の確率で元に戻らない可能性があるらしい。これから治療をして、1週間以内に治らなければ大きい病院で見てもらうことも考えると言われた。ただ私の不安が募るばかりだった。しかし案外普通には暮らせる。両耳を切り離さなければ大丈夫。だからイヤホンやヘッドホンはせず何とか1週間を過ごした。仕事もままならない。一週間が経った。治らなかった。大きな病院に移り、様々な検査をまたやった。別の治療もやった。でも治らない。音が聞こえなくなることは無かったが、右耳だけでは言葉が聞き取れない。もう仕事にも支障が出てきた。焦りと不安でいっぱいになった。夜も眠れなくなった。どうしよう、どうしたらいいの・・・

 いつの間にか朝になっていた。結生ちゃんにメッセージを送った。「公園にいるよ」まだ行ってもいないのに送ってしまった。そしたら自分でも行ける。行くしかなくなる。着替えて公園に行く。ベンチに座って結生ちゃんを待った。起きているかも分からないから1時間もして来なかったら帰ろう。そう思っていたらかなり早く結生ちゃんは来た。彼女に相談したかった。私の望む答えが何かすら分からないからどんな言葉でも良かった。しかし彼女はきっと私の不安を見越してくれると勝手に思っていた。彼女は飲み物を買ってきてくれた。どうしたの?と聞かれた私はすぐに言葉に出来なかった。何でだろうか。会いたかっただけなんて嘘までついて。彼女は私の小さい変化に気付いたのか、「眠れてる?」と聞かれた。「不安で眠れない」とだけ言った。病院に行きなさいと言ってくれた。実はもう行っているなんてことも口からは出なかった。私の口からはこれ以上出せないと思った。彼女も喋らなくなって呼び出した申し訳なさで苦しくなったが、彼女の視線がおかしいことに気付いた。きっと私に何かしらの言葉をかけようとして自分の世界に入ったのだろうか、焦点が分からない。視線は私?いや私の先を見ているようだった。ハッと我に返る彼女に笑ってしまった。それも大爆笑。それまで何をしても目を動かさなかったのだ。面白かった。こんな経験は初めてだった。不安でいっぱいだったのに。私の思っていた通り彼女は色々考えていたようだ。それで混乱して我に返った。申し訳ない。謝ったら謝らないでと強く言われた。初めて会った時よりずいぶん元気になっていると思った。良かった。それから何故か脳内整理の儀式に入り目を閉じた。すぐ近くにスーパーがある。この時間の間に何かご飯を買ってこよう。さっと買ってきて戻るも、彼女の目はまだ開いていなかった。眉間にしわが寄っている。苦戦しているようだ。公園の入り口で散歩中の犬に近付かれた。犬は嫌いじゃない。というか動物全般が好きな部類だ。犬の頭を撫でながら癒しをもらっていた。その後散歩に戻った犬がいなくなって彼女の元に行くと目が開いていた。

「忘れようとしたという事実を忘れるって難しくないですか?」いきなりの難解な質問に首を捻った。分からないなあ。そう思っていたら、

「ねえ、今更だけど聞いても良い?何が不安なの?」そう聞かれた。そこは忘れてくれていなかった。沈黙を作ると彼女は察してくれた。昼ご飯を食べようと。それならもう買ってきた。しかし風が強くなってきたので場所を変えることにした。私の家か結生ちゃんの家。私の家にはもう一回行ったことがあるから結生ちゃんの家に行きたいと申し出た。結生ちゃんはかなり保険をかけながら案内してくれた。着いた家は広くは無いが決して狭いというほどの面積では無かった。大学から使っているという家は、大学生にしては広い方だと思った。ただ、セキュリティーがしっかりしていないところだけはどうしても不安になった。ご飯を食べて、私はソファーに横になった。そしてそこで耳の話をした。彼女は悩んでいた。使ってほしくない頭を使わせてしまった。これで良いのだろうか。結生ちゃんからの質問に答えるだけで泣きそうになった。彼女は泣くことを勧めた。しかも私は仕事を辞めた結生ちゃんに相談しているのだ。絶対に彼女を苦しめている。私のことなのに巻き込んでしまった。しかし彼女は親身になって話してくれた。過去の話もしてくれた。面白い話だった。聞きながら私は目を閉じた。彼女の声だけを聴いていた。すると話を終えた彼女が私に毛布を掛けた。「おやすみなさい。」の声と共に。私が眠っていると思っているな。その後数分してチラッと彼女を見ると彼女の方が寝ていた。なんと可愛いこと。寝たと勘違いして自分が寝るなんて。でも彼女のさっきの話は本当に面白いことだと思った。耳の聞こえないアーティストも面白い。目が見えないアーティストもいるのだから十分あり得る。少ししてトイレを借りた。その間に彼女は起きたらしい。ドアを開けた彼女を鏡越しに見る。タオルも借りて水を拭き、部屋に戻る。少しの会話の後、私は不安を全て彼女に話した。彼女は経験したことも無い私のことをよく考えて話してくれた。そして今日は結生ちゃんの家に泊まることになった。私の家の時と同じだな。夕食を食べてまたのんびり話をして、その中で家の話をした。私の家が良いなという話。私の家は仕事を始めてから引っ越してきた。なんとか仕事が上手くいっているから今の家に住めているが、売れていなかったら今の家は家賃的に難しかっただろう。でも防音の部屋を借りることが出来て良かった。それと同時に実は部屋を余らせている。結生ちゃんの「一緒に住みたい」を本気にして「一緒に住まない?」と提案してみた。やっぱり彼女は驚いていた。無理もない。会ってまだ数か月の仲なのだから。そして彼女は先ほどの居眠りでは飽き足らず、今度は深い眠りに就こうとしていた。時間的には健康的な時間だ。明日またその話をすると約束をして二人狭いベッドで眠った。

 次の日起きたのは私の方が早かった。二人とも寝相が良い。シングルベッドで朝まで二人とも落ちなかったのだ。落ちてもけがはすることは無い。低いベッド台にマットレスだから。それと私はずっと彼女を抱き枕にしていた。きっと彼女は朝ごはんなど食べていないのだろう。そう思って勝手に料理を作ることにした。彼女の冷蔵庫の中にはお菓子以外ほぼ無かった。大丈夫かなこの子。心配になる域だ。それで痩せているのだからきっとほとんど食事をしていない。常温保存のものの方が量が多かった。やっぱり長期保存できるものを多く買っているのだな。冷凍庫にも結構入っていた。鮭とほうれん草で炒め物を作り、味噌汁、ごはんで出来上がり。今作れるのはこれくらいだった。料理をしている時に彼女は起きた。寝ぼけ眼な彼女の言動も可愛い。ご飯を食べて、話は昨日に巻き戻る。一緒に住む話。私はとても良い考えだと思ったが、彼女は何度も私のメリットを考えていた。正直メリットなんて無くたって良い。結生ちゃんと一緒に過ごしたいと思っただけなのだ。でも彼女はその話は聞き入れずに悩んでいた。何がダメなのだろうか。彼女は本気じゃなかったということだ。でも私はやってみたかった。そこでお試し期間を設けてみるという提案をしてみた。それならはやってみて嫌だったらすぐ元に戻れるし。彼女もこれにはやっと賛成してくれて、今日から1週間、同居お試しが開始した。私のマンションは鍵が一つも無く、数字が鍵として役割を担っている。もうすっかり慣れたが、初めての人からすれば戸惑うことだ。しかも結生ちゃんは番号を覚えるのが苦手だと。これは難しいかと思ったが、数字を教えたら難なく入ることができ、無事一つ目の問題はクリアした。そして次は結生ちゃんの部屋だ。今この家には一つ物置状態の部屋がある。そこを結生ちゃんの部屋にするということを考えていた。これには彼女も安堵していた。きっとずっと一緒に寝るのではとか思っていたのではないだろうか。私は大丈夫だが、一人になりたいときもある。部屋はあるなら有効的に使った方が良い。今日は来て早々で何かと落ち着かないと思って何もせず安心して過ごせるようにゆったりした時間を作った。夕食は彼女の家から持ってきた消費期限の近い食材。そして少し早い眠りに就いた。

 次の日、朝早く目覚めてしまって結生ちゃんの部屋になる予定の部屋を片付ける作業に入った。その時に物を落としてしまい、大きな音を出してしまった。これはまずいと思ったが遅かった。結生ちゃんが起きてきて顔を出した。眠っていいという私の声にもちろん彼女は手伝いを言ってきたが、きっと眠り足りていないはず。昨日今日で環境が変わり過ぎているから。彼女は寝て良いという言葉に甘えて眠ってくれた。自分の好きに過ごせる環境じゃないと同居しても意味がない。ちゃんと甘えてくれて嬉しかった。この後彼女が目を覚ますのは私が遅めの夕食を食べている時だった。ドラマを見ながらご飯を食べている時に扉が開き、「おはよう。」と声がした。「もうおやすみだよ。」なんて声をかけながら、まるですっかり同居に馴染んでいるようだった。この時見ていたドラマは主題歌の作曲を私が行った。協作で声をかけられた。それ目当てで見始めたドラマだが、案外面白い。そう思っている時に彼女が喋った。

「この主題歌のバンド昔好きだったんだよね。」何という奇跡。最近ドラマすら見ていないしそもそもドラマを見るような人間では無かったから主題歌なんかの目当てが無いと見ていなかったと思う。作曲したのが私と分かり彼女は凄く驚いていた。そしてめちゃくちゃ褒めてくれた。とても嬉しい。アイスを一緒に食べた後、彼女はまだ眠くないからとリビングに残った。きっとそのまま寝落ちるんだろうなと思って一枚毛布を渡した。

 次の日起きてリビングに行くと彼女は寝ていなかった。電気も点けずにソファーで毛布に包まってスマホをいじっていた。その後一緒に部屋の片付けをした。

「かやのさんって一人で寝たい人ですか?それとも何人でもオッケー?」なんて質問をされた。実際どっちでも良い。結生ちゃんが嫌なのだろうか。しかし返答で嫌では無いことが分かって安心した。嫌と言われたら私の心は少し傷付きそう。結生ちゃんの心配は結生ちゃんじゃ無くて私だった。それなら無問題。片付けをしていると昔の楽器も出てきた。今は全然使わなくなってこの部屋に追いやられていたものたち。ギターを結生ちゃんに渡して持って行ってもらおうとした時に弦が鳴った。あまりにも酷いチューニングで耳が気持ち悪くなった。今日は二人一緒に眠った。そういえばもしこの同居が無しになればこの片付けた部屋は無駄になってしまうのか。それは、寂しいな。

 同居お試し4日目。この日は決めていたことがあった。同居を考えた時に決めたこと。それのためにメモを残して彼女を置いて家を出る。向かった先は会社。と言っても業務委託制で会社に出勤する必要は無い。ただ今日は耳のことで仕事を全て辞めることを伝えに来た。もともと耳の不調は言っていたが、それでもやり続けると言っていた。それを勝手ながら今行っている仕事も含めて全てを誰かに行ってもらう体制を整えてもらうようにしてもらう。幸い今やっている仕事は少なかったから担当を変えてもらうことで解決できた。難なく引継ぎが終わり、買い物をして家に帰った。案外時間はかからなかった。ドアを開けると同時にリビングの扉が開いた。彼女が起きていた。「ただいま。」「おかえり。」その後さっき買ったものを片付ける。するとドタバタと音を立てて彼女が来た。どうしたどうした。

「仕事辞めてくるって。」うん、そう書いた。

「うん、辞めてきた。」とは言え契約は切られていない。仕事を全て無くしただけだ。彼女は何か勘違いをしているようで、仕事自体を辞めたと思っていたのだろう。きちんと説明をして理解はしてくれた。私の説明不足だ。しかしきっと彼女にこのことを言えば止めただろう。仕事を辞める辛さを彼女は知っているから。だが彼女の思うようなことでは無いので安心してほしかった。その話をしている時に彼女が「この同居ってかやのさんに何の意味があるの?」と言ってきた。前にも話したことではある。そんなの結生ちゃんと一緒に過ごせることだ。それだけで私の理由は終わって良いほどに最高の友達を見つけたと思っている。彼女は私の顔を見るなり泣いてしまった。そんな彼女を抱きしめた。きっと彼女は今自分を責めている。心のどこかで彼女も知らないところで自身を責めている。断言できるものでは無いが、彼女は決断が出来ていないだけで同居に反対では無いと思う。だから聞いた。「ね、一緒に住も?」彼女は頷いた。答えを出してくれたと判断して「ありがとう。」と口にした。私まで泣き出してどうする。でも自然に涙が出てしまった。それからは彼女の不安要素を取り除くために色々なことを話し合った。これで以前より一層距離が近くなったと感じた。猫が甘えてくれるようになったかのような感覚なんだろうか。よく聞くツンデレみたいな感覚。彼女が素を見せてくれるようになった。ここからはもう楽しみなことが盛り沢山。結生ちゃんの部屋に置く家具を選んだり、結生ちゃんの家からものを持ってきたり。ワクワクしていた。

 それからの生活はゆったりした時間を過ごした。誰も何かをしなければいけないという縛りなど無く、二人が決まってやることと言えば病院に行くことくらいだった。お互いの通院に付き添うようなことはあまりなかったが、私は積極的に結生ちゃんに付き添った。私は結生ちゃんが付き添ってこない代わりに逐一病状を彼女に話した。弱音も彼女に話すと安心できた。私はきっと弱音を曝け出せる人が必要だったのだろう。彼女は何を話しても私を責めない。何なら共感してくれたりもした。同じ話を出来ることは学生時代の友達でも無かった気がする。感情の共有なんてそもそも誰もしないよな。仕事をしている時は弱音なんて吐ける環境に無かった。そんな時間があれば仕事に充てるだろう。しかし仕事も無くなって余裕のある時間が増えたことで自分に優しく出来る時間が増えた。これは私にとってとても良い時間になった。彼女との会話も増えるし、私のストレスは減る一方で良いことしかなかった。しかしこれが彼女にとっても良いことなのかは分からない。私が好きでやっていることだから。

 彼女の体調はずっとあまり優れていないようだ。部屋にこもりきりの時もあったりリビングに来てもぼーっとしている時があったりして私も不安になる。薬を飲む時間は同じなのに起きる時間はバラバラ。しんどそうで何か力になりたいのに何も出来ない自分がもどかしい。そんな中で私は持て余している時間でデータ入力の仕事を始めた。と言っても1日に2,3時間を週2,3日くらいの量だからそこまで稼げるほどでは無い。そしてそれは彼女の心を焦らせてしまったようだ。しなくていいよというのを聞かずに彼女は仕事を見つけて動き出した。私の予感は的中し、段々酷くなる彼女の容体に耐えられなくなり、辞めるよう助言した。それからというもの、更に一度体調も気も落としてしまったが、次第に元気を取り戻していった。良かった。

 彼女の提案でうちのベランダに置く簡易の椅子を二つ購入した。5階の家から見る空は絶好の場所だった。二人で一緒に空を見たり、彼女は一人でそこに座っていることもあった。日光浴もしつつ、彼女の体調も優れてき出して、出来ることも増え始めた。私の耳はいくつもの治療をしても完全に治ることは無かった。先生からは受け入れることも一つですよとまで言われたが、まだ治療方法があるなら試してみたかった。辛さは受け止めてくれる人がいる。

 季節は巡り巡って冬になった。結生ちゃんと初めて話したのも昨年の冬だ。私は治療を受けながらも今の耳の状況を受け入れ、元の仕事に戻ることにした。他からの依頼はほぼ受け入れずに今までお世話になった人のみ受けることにした。以前から良く協力していたバンドのサポートにだけ付くことにした。他には自分一人の音楽制作。やっぱり音楽は楽しい。彼女は随分と体調も良くなって仕事をしたいと考え出した。今までよりも元気になっているから大丈夫だと思った。

 そんな結生ちゃんがバイトの面接に行った日。まだ冬も序盤なのにとても寒い日で、彼女がきちんと着込んでいるか心配になった。私は朝早くから仕事で外に出ていた。仕事先に行くまでの道のりで雪まで降り始めた。メッセージで「面接頑張れ」とだけ送った。おそらく家を出る時だろう。スタンプが送られてきた。目から炎が出ているスタンプ。こちらも頑張れそうだ。そう思っていた矢先に私のスマホが鳴った。知らない番号なんていつもは出ないが、この時は出てしまった。出ると病院からだった。結生ちゃんが飛び降りた。聞いた途端、私はその場を飛び出した。病院の名前はいつも二人が使っている病院。急いで行くと、彼女はまだ手術中だった。不安でいっぱいだった。生きてくれ。お願いだから生きて。泣いた。目いっぱい泣いた。涙が止まらなかった。そんな時に声をかけられた。知らない人だった。辻さんという方。今回転落した結生ちゃんを見つけて通報してくれたそうだ。深く感謝を伝えた。辻さんがいなければ結生ちゃんは死んでいたかもしれない。辻さんは手術が終わるまでずっとそばにいてくれた。隣で背中を擦ってくれた。結生ちゃんの転落した場所は彼女が面接で行く会社の途中にある建物だった。空きビルだったそうだ。たまたま辻さんはその裏にある建物にいて、仕事の休憩で外に出た時に見つけたそうだ。結生ちゃんはどうしてそんなところを見つけたのだろうか。真相は彼女しか知らない。だから生きて本当のことを話してほしい。いつ死にたいと思ったのだろう。私に話せないことがあったのかもしれない。私では無理だったのかな。ダメだったのかな。落ちたのは花壇の上で、コンクリートでは無いことが幸いだったのかもしれない。忘れていたが、結生ちゃんのお母さんにすぐに連絡をしないと。辻さん一人にして私は少し離れたところで電話をする。初めましての私の電話に出るかは分からなかったが、難なく出てくれた。転落のことを知らせると酷く驚いていた。当たり前だ。自分の子が緊急事態なのだから。病院の名前も言って来てくれるか尋ねた。もちろん行くしか選択肢は無いはずだ。私もそうだったから。しかし結生ちゃんの実家は遠い。時間がかかってしまう。おそらく来れても手術後になるだろう。「ずっと待ってます。」そう言って電話を切った。手術は終わった。無事命は繋がった。あとは意識が戻るまで待つしかない。しかしいつまで経っても意識が戻ることは無かった。麻酔が切れても戻ってこなかった。結生ちゃんと話す前に結生ちゃんのお母さんと話をすることになった。

「いつもお世話になっています。どこまで結生ちゃんが言っているか分からないですけど、一緒に住んでいます。代崎かやのと言います。こんなことになってしまって申し訳ありません。」

「こちらこそ、結生がお世話になってます。シェアハウスの話は聞いていました。だから緊急連絡をかやのさんにするとも聞いていました。全くかやのさんのせいでは無いので気を病まないでくださいね。ましてやこんなことに巻き込んでしまって申し訳ありません。大変感謝してます。私、山名有希と申します。結生のお母さんって長いでしょ?おばさんか有希って呼んでくれていいよ。早く起きてくれないかなあ。全然帰って来てくれないのよね、この子。久しぶりだと思ったらこれなんだもの。本当に、」涙声で話す結生ちゃんのお母さん、有希さんの顔は酷く悲しい顔だった。見える横顔には涙が光で反射して光っていた。

「今日はお二人でおられますか。私席を外しますね。聞こえていないかもしれないですが、話したいことはたくさんあるでしょうから。」

「本当に優しい方なのね。結生の言っていた通りだわ。そんな気遣いしなくていいのに。でも、まあそのお言葉に甘えようかな。良い?」

「はい。もちろんです。今日、泊るところありますか?もしなければうちにいらっしゃいますか?結生ちゃんの部屋なら多分使っても怒らないでしょうし、有希さんも遠慮なく使えるかと思いますが。」

「良いの?じゃあそのお言葉にも甘えようかしら。メッセージアプリに登録しても良い?」

「はい、帰る時に連絡いただけたら、すぐ向かいます。それと、もし意識が戻ったら連絡いただけると嬉しいです。近いので歩きですが、大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫です。ありがとう。」連絡先を交換した後、私は家に帰った。仕事なんて出来る環境じゃ無い。時間が経つのをずっと待った。スマホを手から離さずずっと。次に連絡が来たのは帰る連絡だった。ということは彼女はまだ起きていないということだ。いつ起きてくれるのだろうか。病院に行くと眠った結生ちゃんと有希さん。ふう、と肩を撫で降ろす。安堵ではない。落胆でもない。何だろうか、言うならば、辛い、か。苦しい。悲しみも乗せた感情は私の体を埋め尽くした。嫌な感情だ。有希さんと一緒に家に帰る。有希さんは結生ちゃんと違って私タイプだった。よく喋る人。気遣ってくれているのかもしれない。色んなことを話した。主には結生ちゃんのこと。有希さんの知らない結生ちゃんは私が知っている。互いの結生ちゃんを共有し合った。楽しかった。ここに結生ちゃん本人がいないのが一番残念なことだ。料理を振舞った。いつも通りのご飯ではあるが、有希さんは凄く美味しそうに食べてくれた。実は料理が苦手だと。喜んでくれて嬉しかった。寝るのは結生ちゃんの部屋。私はほぼ結生ちゃんの部屋に入っていなかったので最近の結生ちゃんの部屋がどうなっているかは知らない。もし片付けていなかったら、見せる形になってしまう。結生ちゃんごめんなさい。しかし開けた彼女の部屋は綺麗だった。物が少ない。前と変わらないシンプルな部屋だった。有希さんにはこのままこの部屋で寝てもらった。

 次の日、有希さんは病院に行ってまだ眠っている彼女を見て一度実家に帰ることにした。「また来ます。もし起きたら連絡をください。」と。約束をして帰られた。私はずっとこの場にいた。仕事も迷惑をかけ続けている状態だったが、もう一度休むことにした。ずっとここにいた。彼女は一度も目を開けず、無表情で、体を動かすことも無く死んだように眠っていた。面会終了までずっといた。家に帰って仕事をした。次の日も病院に行った。その次の日もまた次の日も。ずっと行った。ずっと眠り続ける彼女を見ていつもの様子に安堵して。なんで眠ることに安堵するのか。本当は目が覚めて安堵したいのにな。ずーっと待ち続けた。たまに仕事で行けない時もあったが、行ける日はほぼ毎日行った。

 1か月くらい経っただろうか。私の耳が完治した。ようやく効果のある治療法に辿り着いた。もう諦め半分でいたからまさか完治するとは思わなかった。でもこの喜びを共有する人がいない。目の前にいるのに。起きてよねえ。この時期から、彼女の言っていた聾者の音楽を考え出した。一度耳を失ったことがあるからこそ理解できることもあると思った。健常者に戻ったが、それでも関わりたかった。面白さを見出したから。とある団体を見つけた。聾者のための音楽を作ろうという非営利組織。健常者も聾者も所属している。こんなことに手を出すとは思っていなかった。予想にも無いこともあるものだ。何度か顔を合わせていると、よく会う人もいる。初めましてで自己紹介をする時、私は手話を使えないから筆談で行う。とある男性と出会う。手話が全然出来ないから聾者の方とはあまり会話を出来ないことが多い。やはり健常者の方が会話しやすい。そんな中で中心核にいる聾者の方はよく話しかけてくれた。その男性。よく人を見ていて人を覚えるのも早い。誰が手話が出来て、誰が出来ないとかまで覚えてくれていることは凄いと思う。五十嵐蒼くん。同級生だった。なんだか結生ちゃんの言っていた彼を思い出し、結生ちゃんのことを知っているか聞いた。もちろん人違いだと思うが。しかしそれが違った。本当にあの彼だった。どんな確率だよ。話が弾み、その先もよく話すようになった。

 そんなこんなで1年が経った。彼女は起きない。髪は伸びている。綺麗な顔は眠り姫を思わせる。2年目も。私は仕事を増やしていった。彼女への感情を仕事にぶつけた。一人で作るものは自然と彼女に聴かせたいものになっていた。そして何故かそれで売れた。皮肉か?こんなことにはしたく無かったのに。そして遂には有希さんがこちらに移り住んできた。元の場所ではお花屋さんをしていたらしい。こっちに来てもまた新しくお花屋さんを始めるそうだ。結生ちゃんの弟くんも近くの大学に入学した。弟くんはお姉ちゃんが大好きらしい。そりゃあこんな子を姉に持ったら好きになるわ。優しいこの子を。3年目の春、もう日常になってきたこの習慣が変わる日が訪れた。

「結生の目が覚めたの。」

 有希さんからの電話が来た。心が高鳴った。行かなきゃ。仕事が立て込んでいるという状況でも行かなきゃと思った。休憩をくださいと言って練習中の場から飛び出した。もう長く続けているから利いた融通だろう。毎日持っていた手紙を渡しに病院に行った。時間は無いから手紙で。いつもは絶対に使わないタクシーを使った。急いで行った。病室に行くと有希さんと目が合った。時間が無いので有希さんに手紙を渡し、一先ずはこの場を離れた。そして練習が終わったらすぐに病院に行った。

「結生ちゃん、おはよう。」必死に笑顔を作って結生ちゃんに近付いた。目が合った。笑顔を作ってくれた。もうその瞬間、涙が溢れ出した。これはもう止まらない。もう来ないと思っていたこの瞬間。心のどこかでずっと待っていた。長くもあっという間の2年だった。私は更に仕事の技術を上げてより高度な仕事も出来るようになってきた。自分でも成長できていると実感している。彼女は眠りながら戦っている。そう信じて頑張った。その期待に彼女は答えてくれた。

彼女が突然質問をしてきた。「桜見に行けないかな?」病室から見える少しの桜の木が彼女の思考をそうさせたのだろう。でも無理なものは無理だろう。行けるとしてもリハビリが上手くいってそれからかな。

 彼女のリハビリが始まった。最初は順調にいっていたが、足にとっての負担がかなりかかっているようで、歩くことが難しそうだった。子供の成長と一緒か。しかし車いすに乗ること、立つことは出来たということで桜を見に行けることになった。桜は散る姿が一番綺麗だと思う。葉桜なんかも大好きだ。今はもう満開を終えて散り始めている。葉が付いているところもある。お花見と言ってもお菓子を食べながら見る休憩みたいなものだ。彼女は車いすを下りようとした。私が居るから大丈夫だろう。一緒に地べたに座ってお菓子を食べて。桜の写真を撮ったり。彼女の撮った写真は彼女みたいだった。桜が太陽の光によって見えそうで見えない。私は彼女の何も見ていない。見えていなかった。桜は彼女の心、太陽が彼女の上辺の気持ち。でもそれは彼女もそうだろう。無意識下で行われた自死行為は彼女の精神状態をどうしてしまったのだろか。色を消すと写真は眩しさを失い、幻想的なものを作り出した。彼女に見せるとすごく驚いていた。彼女が眠っていた2年という時間は様々なものを変えるには十分な時間だった。スマホも進化し、文化も様変わりし、流行は今でも速い速度で流れていく。

 結生ちゃんの退院の日が決まった。完全という訳ではないが、松葉杖があれば大丈夫になり、これからは通院になる。心の方は入院する前よりずっと健康そうだ。それには私も安心。しっかり普段通りの生活が出来るようになってから彼女は仕事を始めた。動きの少ない事務の仕事。彼女に生きる希望が出来ていたら良いなと思いながらこれからも、当たり前では無い日々を続けていく。

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落下生 @_kyu_

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