第50話 航海の準備

 船の製造が始まって二ヶ月が経つ頃、ルーナたちはすっかり港町ポルタの一員になっていた。


 寒気が少しずつ海風に混ざり始めたある日。

 アルスは今日も漁船と並走しながら、海中から魚群を追い立てていた。


「アルス、今日もありがとな~!」

「キュイ!」


 鰯の群れを大きく旋回して漁網へと追い込むと、漁師たちから歓声が上がる。

 アルスの大きな白黒の体が波を割って進むたび、水面が冬の陽光を反射して銀色にきらめいた。


 同じ漁船にはティノの姿もあり、網の引き上げや仕分けを手際よくこなしていた。


「カワウソの小僧もすっかり板についたな!」

「これからも頼むぜ、小僧!」

「は、はい!」


 屈強な腕で肩を抱かれ、ティノは照れたような笑顔を浮かべる。

 そこへアルスが海面から顔を伸ばし、頬にそっと口づけした。


「あ、アルスさん……!」

「キュウッ」


 くすぐったそうに肩をすくめながらも、ティノは嬉しそうに目を細める。

 言葉は交わせなくとも――アルスが自分を仲間だと認めてくれている。

 その確かな温もりが胸に広がっていた。


 大漁の漁船が港に戻る頃には、空気はさらに冷たくなっていた。

 アルスの背から降り注ぐ海水が、冬の光を受けて白く蒸気を上げる。

 岸には羊毛のコートを羽織ったルーナが両手をこすり合わせながら待っていた。


『ルーナ、ただいま~!』

「お帰り、アルス。今日も立派にお仕事したみたいね!」

『うん! ぼくの力で大漁だよ!』


 大きな顔を胸元に擦り寄せてくるアルスを、ルーナは笑みとともに受け止めた。


「ルーナの嬢ちゃんには頭が上がらねえな」

「何せ名誉騎士の嬢ちゃんと守護獣のアルスが来てから、毎日大漁なんだ」

「今日も大漁祝いだ! 感謝してるぜ、嬢ちゃん!」


 漁師たちの厚意に、ルーナは思わず頬を赤らめた。


「そんな……わたしは何もしてないわ。頑張っているのはアルスだもの」

「いやいや! 嬢ちゃんの心意気があってこそだ!」


 気恥ずかしさに胸へ手を添えるルーナ。

 だが、どこか誇らしい気持ちが、そっと胸の奥で温かく灯っていた。


 ふと空を見上げれば、いつのまにか粉雪が舞い始めていた。

 潮風に乗って船着き場の石畳の上をさらさらと流れ落ちる雪。

 港の喧騒は変わらないのに、そこにしんとした冬の気配が混ざり始めている。


 ルーナは手袋をした指先で、降りてきた雪をそっと受け止めた。

 白い息が淡く空へとほどけてゆく。


「……わたしたちの旅も、もう数ヶ月が経とうとしてるのね」

「左様にございます、お嬢様」

「後悔なんてしてないわ。だって――こんなにも素敵な出会いがあったんだもの」


 自分でも驚くほど穏やかな声音だった。

 旅を始めた頃の不安は、もうここにはない。

 代わりに、仲間と呼べる存在が増え、見知らぬ町に自分たちの居場所ができた。


 ナミは落ち着いた微笑みを浮かべ、静かに言葉を添える。


「ルーナお嬢様の笑顔がある限り、わたくしはどこへでもお供いたします」

「もう、ナミは大げさなんだから」


 軽く笑い合う二人。

 けれどその笑顔の奥には――

 「ここで暮らすのも悪くない」と思うほどの安らぎと、「でも海の向こうへ進まなければ」という旅人の決意が、同時に宿っていた。


 雪はまたひとひら、静かに落ちてくる。

 港の冬はすぐそこまで来ていた。


 それから数日後。

 久しぶりに造船所へ足を運んだルーナたちは、入口から響く木槌の音に胸を高鳴らせた。


「お邪魔するのさ! 船はどうだ〜!?」


 威勢よく飛び込むエルザに続いて中へ入ると、そこには――ついに、船の骨格が姿を見せ始めていた。

 巨大な肋骨のように湾曲したフレームが何本も並び、組木の匂いと樹脂の香りが満ちている。


「おお、エルザか! あいよ、言われなくても順調だぜ! 日に日に船が形になってきてる」

「うんうん、それはよかったのさ!」


 満足げに腕を組むエルザの横で、ルーナはしばらく言葉もなく見入った。


「これが……わたしたちを乗せて、海を渡る船なのね……」


 胸の前でそっと指を組む。

 まだ骨組みだけなのに、ルーナにはすでに潮風や波音の気配が聞こえる気がしていた。


『ぼくより大っきい~!』


 アルスが興奮気味に船のフレームへ近づくと、ルーナは慌てて引き止める。


「ダメよアルス、壊れちゃうでしょ? まだ繊細な時期なんだから」

『むぅ……ぼくそんなことしないのに』

「分かってるわ。アルスはいい子よ」

『うん! ぼくいい子!』


 胸を広げるルーナへ、アルスは喜んで大きな顔をうずめて甘える。

 微笑むルーナの足元へ、細かな木屑がふわりと舞った。


 一方ティノは、そっと骨組みに手を触れたまま動かなかった。


「これで……セレーネブルーに行けるんだ……。父さん……母さん……ミナ……」


 首元の光貝のペンダントを握る小さな手が、かすかに震えている。


 背後からナミがそっとティノの肩を包み込んだ。


「ご家族もきっと天国で見守っています。ティノ様……この二ヶ月で、本当に立派になられました」

「ナミさん……えへへ……オレ、ちょっとは役に立ててるかな……?」

「もちろんでございます」


 ナミの母のような微笑みに、ルーナの胸もじんわりと温かくなる。

 彼女は自然とティノの髪へ優しく手を添えた。


「ナミの言う通りよ。ティノくんは胸を張っていいくらい頑張ってるわ」

「……ありがとう、ルーナさん」


 頬を赤く染めたティノの笑顔は、船の骨組みに差し込む光のように明るかった。


 その温かな空気を破ったのは、造船所のリーダーの渋い声だ。


「団らんのところ悪りぃが――そっちでも準備してもらうものがある」


 手渡された羊皮紙には、小道具や備品の長いリストがびっしりと書き込まれていた。


「思ったより多いわね……」


「どれどれ、見せてみろっ」


 背後から覗き込んだエルザは、すぐさま得意げに鼻を鳴らす。


「へっ、こんなの朝飯前なのさ! 探検少女エルザの腕の見せ所!」

「本当!?」

「ああ、任せときなっ!」


 リーダーは腕を組み、しみじみと目を細めた。


「エルザ、お前……いい仲間にめぐり合ったな」


 そのひとことに、エルザの肩がぴくりと揺れる。

 ふだん威勢のいい顔が、ほんの一瞬、照れと誇りに満たされた。


「それじゃあ準備に取りかかりましょう! 必要なものは全部揃えるわ!」

「「おー!」」

「キュイ~(おー!)」


 拳を掲げたルーナを中心に、エルザ、ティノ、アルスが円を描くように立つ。


 その姿を見つめながら、ナミはそっと目元にハンカチを添えた。


「お嬢様……人を導くご立派な女性になられて……」


 誇りと寂しさ、そして温かな愛情が混ざった涙だった。

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