第十二話
「……」
俺達は世界の崩壊をただ無言で見ているしかできなかった。
空が裂けた。群青は墨に溶け、紅は血のように滴り、夜と昼とが見境なく交わっていく。
村も森も、舎も神社も、儚い夢の断片のように虚空へ吸い込まれる。
「…阿礼さん…」
万侶は目を丸くしてそれを見ていた。
「嘘…でしょ…」
イノは涙を流していた。
皆、この世界が好きだったのか?世界が忘却に包まれるなんて、考えたこともない…?
俺は違った。
俺は自分の頭の奥底に、世界を忘れたいという気持ちがあった。
やり直せば、全部…全部良い方向に迎える?俺が他の人間になるのかもしれない。それで構わない。世界が全て変わってしまっても。
そう思ってしまう。忘却衆の考えに同情してしまう…そんな俺は、一体何を望んでいるんだよ…。
世界は、静かに――しかし確実に、終焉へと身を横たえてゆく。
それを待たずして、黄金に包まれた新たな土地が構築される。
――その光景の妖しさに、誰も声を上げることはできなかった。
絶望とは、かくも美しいものなのか。
「阿礼さん!祈理さん!」
俺は世界の崩壊に見惚れていた…が、万侶の声で我に帰った。
「このままではいけません。阿礼さん、今なら間に合います…!」
彼は筆を構えた。
「…阿礼くん、お願いだから…詠唱をして!」
イノは涙目で俺の手を握った。
「…本当に戻るのか、俺の詠唱で」
「それは分かりません、ですが…」万侶は真剣な声で言った。「あなたが詞魂に力を込めれば、きっとその願いに応えてくれます」
彼は本気だった。本気で、この世界を治すために詠唱を頼んでいたのだ。
「しょうがない――」
俺は深呼吸をした。…新たな世界だって悪くはないと思うのは、俺だけか?…まぁいい。詠唱を、始めよう――
「だめ、しずかにして」
「――っ!」
口を開いたその時だった…冷たい感覚がした。まるで死んだ者のような感覚。
――理解した。俺は透花に触れられたのだ…。
「だめです、気を確かにしてください!」
「阿礼くん…!」
二人の声…心配するなよ…。
しかしそれを最後に俺の視界は真っ暗になった。
――目を開けると、空が見えた。黄金色の空…なんだそりゃ、俺は夢でも見ているのか?
…一体ここはどこなんだろうね。
生物も何もいない、ただ静かな場所。
見えるもの全てが見新しい。知らないものばかりだった。
ここは現世?いや、きっと違うな。俺はもう死んでいるのかもしれない…というか、俺って誰だよ。
人間?動物?それとも…。
「
…空の上で声が聞こえる。阿礼…俺の名前か…?
空の上からの声ってなんだよ。俺やっぱり死んでるのか。
「阿礼くん…聞いて…」
今度は他の声。一体誰の声だろう。
なんとなく聞いたことがある、懐かしい…声。
…そうだ、俺――あいつらと旅をして…。
「――万侶!イノ!」
俺がそう声に出した瞬間、世界が変わった…ような気がした。
周りには何もいなかったのに、瞬きをすると人が現れた。
「阿礼さん…!」
「阿礼くん!」
白髪の男と紺色の巫女…
「…単刀直入に言います、あなたの詞魂は…〈世界の始まり〉は〈破られた〉。もう時間がないんです」
…あぁ、そうだ。忘却衆によって俺の詞魂が破られて…世界が新しく創られようとしているんだ。
「万侶――」
「ほんとうに、さいごまでしんじるの?」突然、透き通るような声が聞こえた。…忘却衆・透花だ。
「その男は、あなたの詞魂のすべてをしるために接触してきた――」彼女の声で、万侶の顔がこわばっていくのが見えた。どういうことだよ、万侶はやっぱり趣味できたわけじゃないのか…?
「朝廷の密使だよ」
「――は?」
朝廷?密使?意味が分からない。
万侶は朝廷からの命令で俺のところまで来ていたのか?
「そう、彼は帝の命令でここにきたの。帝が〈世界の始まりと終わり〉をしって、信頼を集めるために」
…は…?どういうことだよ…?俺を利用していたってことか?
俺はすぐに万侶の方を見た。
彼は気まずそうな顔をしていた。…彼の隣で、イノも目を合わせようとはしてくれなかった。
…やっぱり知ってたのかよ…?
「…今まで本当のことを言わずにすみませんでした」
「万侶…」
全部帝のためだった?俺と旅をしていたのも…?
「でも、今はあなたの力が必要なんです。世界が始まりを思い出すには」
……。
「俺には」
俺は無意識のうちに呟いていた。
「俺には関係ないだろ、〈世界の始まり〉なんて」
「阿礼さ――」
「その詞魂を全て忘ればまた一からやり直せるんだよ!」
俺は叫んでいた。心の弱さか、それまでの不満か。そんなことはどうでも良かった。万侶が俺を利用していたことに腹が立った。どんな人間でも、俺を〈救世主〉だと言って期待をかける。そんな人生が嫌だった。
「そんなこと言わないでください」
彼は寂しいような、怒ったような表情をしていた。
「嫌だよ!お前だってそうなんだろ?俺を利用して!俺は!好きで詞魂全書を覚えたわけじゃ、ないんだよ!」
…俺は力の限り怒鳴っていた。それまでの気持ちをすべて吐き出した。万侶は一歩後ずさった。
「…あなたはその詞魂が世界を創っていると思っているのかもしれませんが――」
彼は一度深呼吸をした。そして口を開く――
「何を…」
「阿礼さん、あなたの詞魂は、あなたの記憶なんです」
「――っ」
「あなたが伝えている詞魂全書は、あなた自身の喜怒哀楽、思い出、心の傷…全てを創っているのです」
「――!」
…俺の詞魂全書があるから今の俺はいる…。俺が稗田阿礼として産まれたことは、〈救世主〉として産まれたこと…だが、そんな俺だったからできた、この旅、この詞魂…。俺の詞魂全書が、出会いをくれた…。
「…ごめん」
俺は泣いていた。泣いたのなんて、いつぶりだろうか。お父さんには泣くなんてかっこ悪いと言われ育ってきたのだ。
――でも、詞魂は俺を泣かしてくれた。
「泣いていいんですよ。心配しないでください、あなたの仲間はいつだってここにいます」
万侶が俺の隣に立った。彼の眼差しは勇気に満ち溢れていた。
「…大丈夫、たとえ忘れても、私は何度だって思い出させる。――だから、最後まで詠って」
イノが俺の手を握る。彼女の意志を感じ、前を向いた。
彼女が口を開く。忘れてはいけない物語。彼女が俺の記憶を繋ぎ止めてくれる。だから――安心しろ、稗田阿礼。
『 詞魂よ 我が声を聴け
人の身を蝕む穢れを退け 苦しむ者を解き放て
古き医典の頁に宿りし叡智よ
血を正し 気を巡らせ
痛みを鎮め 命を繋げ――
彼女の詠唱が終わった。
全て思い出した。『
「忘却は…救いじゃないの…」
透花が崩れ落ちるように地面に膝をついていた。その目は涙で濡れていた。
空刃は何も言わずに俺達を見ていた。
それを見た忘爺は全てを悟ったように言った。「記憶が儂を形作ったのだ――」と。
――響け、俺の声。語れ、世界の柱を。
俺は世界を…自分自身を救うんだ。
詠唱を、始めよう――!
『 かつて 天地未だ分かれず
夜も昼もなき虚無うつろの中に ただ彷徨うは霧の如し
いつしか ひとつの声産まれたり
言なり 物語なり
ひとたび紡げば 天は裂け 光と陰とが相寄りて
天は高く 地固まる
これぞ世界のはじまり
久遠の魂よ 今ここに甦れ――! 』
俺の声に、イノの祈りが重なった。そして万侶がそれを〈書く〉。
俺はその書物を祠に置いた。
詞魂を世界に刻みつけ――世界は再び元に戻る。
空は色鮮やかな群青色、地は生き生きとした深緑色。
人々は舎から顔を出し、空を見上げる。
そして何もなかったかのように田の周回をするのだ――
そうしてこの世界は、光を取り戻したのだった。
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