第15話 心、囚われ

 桜が散っている。

 まるで、木が泣いているみたい。


 まだ咲いていたい。

 もっと綺麗なままでいたい。

 いつまでも穏やかな時の中にいたい——。


 でもそれは、叶わない。

 凛は枝を天へ広げる桜を見上げる。

 植樹から二十年経って、ようやく面倒を見なくても成長するようになった。初めて花をつけた時、その命の輝きにどれほど感動しただろう。

(香久耶さんにも……見てもらいたい。死より、生を見てほしいから……)


 荒野と呼ばれた妖は、あの場で自害した。彼は黒い粒子となって消えた。後には何も残らない。

(香久耶さんはそんな目に遭わせない。私が、絶対に守る——)


 今日も、鈴の音が私を呼ぶ。

 助けて。助けて。神様、ここに来て——。


「はい」

 今行きますよ、と微笑む神様の願いは、一体誰が叶えるの?





(ふう……今日のお願い、やけに多かったな……)

 凛は、賽銭箱の横に座って、一息吐く。

「……何か甘いもの食べたいです」

 ひらひらと散りゆく桜を目で追う。

 和やかな日だ。

 凛は微笑んで、賽銭箱に頭を預ける。

 緩やかに空気中を桜の花びらが流れていく。


 その花弁が吹き飛んだ。


「っ⁉︎」

 あまりの強風に、両腕で顔を庇う。

 ごおう、と大きな風が鳴る。

「な……に?」

 莉月の悲鳴のような声が凛の心に届く。

『凛さま‼︎ 龍が‼︎』

 舞い上がった龍に、狐が追い縋る。

「莉月さん!」

 狐の爪が龍に深い傷を負わせる。

 龍が身を捩って狐を振り払う。


 落ちる莉月さん目掛け、龍の顎門あぎとが——!


 体の中の何かが瞬時に沸騰した。

 ——それだけは、どうあっても赦さない……。


「龍‼︎」

 ぎょろりと鬼と同じ目が、凛を睥睨する。


 しかし、凛は人以上の責任を有する。

(目なんて逸らしません……! それは許せないんです……!)

 喉の奥から、血の味がする。

(莉月さんは……香久耶さんは、そんな目に遭わせない……!)

 眼に力を入れる。

(動くことは許さない……)

 手を、龍へ伸ばす。

「ここは祈る人のための……神の神域ですッ!」

 力一杯、天から龍へ電流を下した。



 意識が、朦朧とする。体を起こしているのが辛い。

(羽織、汚したくない……石畳、に……どうにか……)

 石畳の上、横向きに倒れてみる。人が体をすり抜けていくこと以外、案外悪くない。

(……隣の山まで、よく見える……。あちらにも、桜が咲いて……)

 故郷の春は、やはり美しい。あまりに美しいから、目を閉じる。


「凛さま!」

 たたっ、と軽い足音が駆け寄ってくる。

「莉月さん……お怪我は?」

「大丈夫ですが……! 先程のあれは無茶です!」

「だって……莉月さんが死んじゃってたら……」

 凛は汗を拭う。


「香久耶さんに顔向けできません」


 莉月さんは押し黙る。

 香久耶さんの名前を出せば、私たちは互いに黙ってしまう。

 自分でしこりに触れた私は、体を更に丸める。そんな私に、温かいものが触れた。

「……ご無理をなさらぬよう。貴女が亡くなっていては、私もあやつに顔向けできませぬ」

「……はい」





 龍は、いかづちの垣間に、大切な人の顔を見た。


 そうだ。

 みんな忘れてしまった。

 私も含め、みんな忘れてしまった。

 あの神様が、四百年前の土地神が血を嫌った理由。


『……もう、殺したくない』

 血が滴る刀。

 血溜まりの中に座り込んだ、黒髪の鬼。


 月光の中に振り上げた刀。


 周りの鬼が止める暇もなかった。

 彼女は自死した。

 そして、彼女は生を受けた。


 白髪の神の子。

『もう、誰も死なせない』


 私は、あの子を守るために生まれて、あの子が死んだのちに後を追った。

 私は蛇になった。

 生まれ変わったあの子が何も覚えてないとか、そんなことは関係なかった。

『そこに……誰かいるんですか』

 その透明な声だけを、永遠聴いていたかったから。

 青みがかった奇妙な蛇に、彼女は驚いたようだった。

 それから、含羞はにかんだ。

『綺麗なひとですね』

 私は蛇で十分だった。あの子のそばにいれたら、それでよかった。

 でも、畜生道に堕ちたわたしは、ことばもきおくも、うしなった。


 だから、いんしょうばかりをおぼえている。


 えがお。

 しろ。

 こども。

 あか。

 なみだ。

 ちから。


 こどく。


 龍にならなきゃ。


 その使命にしがみついていれば、それで良かった。人の子を庇って死んだあの子の、側に行けなくても。

 再び孤独の中に堕ちても。

 強くならなきゃ。

 次こそ、次こそ、あの子が笑える世界を——!


 龍、龍、龍、龍。

 力、力、力。凶悪なまでの力。

 世界を捻じ曲げるような、あの子を守れるような——。


 だから、私は龍になった。

 全て、もうこの世にいない人のため。

「ありが、とう。それ、と、ごめんな、さ、い」

 あの子を忘れないでいてくれてありがとう。

 あの子を愛してくれてありがとう。

 私の面倒を見てくれてありがとう。

 私を赦してくれて、ありがとう。

 たくさん迷惑かけてごめんなさい。

 寂しい思いをさせてごめんなさい。

 苦しい思いをさせてごめんなさい。

 怖い思いをさせてごめんなさい。

「いいんです」

 あの子に似た神様が、手に触れる。

「あなたこそ、たくさん辛くて寂しい思いをしたはずです。それなのに、謝ってくれて、感謝してくれてありがとう」

 優しい笑顔は、まるであの子みたい。

「……やっと正気に戻りましたか」

 あの子と同じような、優しい色の瞳。

「ご迷惑を、おかけ、しま……した」

「いいんです。香久耶さんにお礼を言って下さいね」


 そうげつ。


 神様はそう言って、淡く微笑う。

「滄月、とお呼びしてもいいでしょうか?」

 ……答えなど、とうに決まっている。




「……滄は滄海。即ち青。では、月は何処から?」

 暗闇に沈もうとする回廊の奥、闇の中から黄金が這い出してくる。

「……問答のようですね、莉月さん」

「はぐらかしますか」

 凛は首を振る。

「いいえ。……貴方は覚えていないんでしょうけれど、香久耶さんにとって、月とは大事なもののような、そんな気がするんです」

 狐は首を傾げる。

「私の方が貴女よりあれとの付き合いは長いと心得ておりましたが……?」

「なんでもないです。貴方から一文字取った。そう言ったら怒りますか?」

「いえ。今宵も冷えます。お早めに床にお入り下さい、人の子」

「ええ……」

 狐は廊下の端へ歩いていく。その足元から透けていく。

「では、良い夢を」

「おやすみなさい……莉藍」

 誰もいない廊下に呟きが落ちる。

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