第12話 悪夢という病名
……思わず、凛を招いてしまったけれど……。
(その間、俺は寝れないな)
苦笑して、少女の影を見つめる。
静かに、その影が呼吸に合わせて上下する。
(眠い……)
てとてと、畳を歩く軽い足音。
「おや、バカ主人殿。まだ起きていやがるのですか?」
「……寝るわけにいかないだろ。万一、俺の夢が凛に移ったら困る」
「……寝なきゃ、あなた死にますよ?」
「じゃあ外で寝る」
逃げるように月光の下へ逃げていく主人の背中を見送り、莉月は溜め息を吐いた。
目を閉じれば、黒の奔流。
心を抉るような闇。
「だって、なにも忘れられないじゃないか……」
万物を平等に救った、あの人のこと。
俺を助けてくれた、あの人のこと。
僕は、凛のように『あの日』を覚えている。
匂いも、音も、家の外からの音だって、ありありと生々しい感情と共に、何度だって経験できる。
自分の腕に爪を立てる。
もう嫌だ。
信仰も、命も、願いも、どうでも良い。ただただ、もう駄目なんだ。
「俺はもう嫌なんだよ……」
この夢も世界も、俺自身も。
黒い病魔が顎門を開ける。
扉の開く音がした。
僕は嬉しくて走っていった。
「おかえりなさい!」
帰って来た父親は、扉の前で膝を突いた。
「……いだ」
子供は何も知らずに親の帰りを歓喜する。
「おとーさん! おかえり!」
「おまえ、の」
血走った眼をした男は、彼に向かって鎌を振り上げた。
「え、」
声が、喉の奥で漏れた。
「お前さえ産まれなかったら‼︎」
「おとうさ、」
鎌は少年の身体を薙ぐ。
吹き飛ばされた少年を、冷たい目で母が見下ろしていた。
「そうよ。なんで、私たちがこんな思いをしなきゃいけないの」
「おかあ、さん……?」
倒れ伏した少年の背に、出刃包丁が振り下ろされた。
「神に頼んで私たちを爪弾きにした奴らを皆殺しにすればいいのに!」
「できないよ、神様はみんなを幸せに——」
「ふざけるな‼︎」
短く悲鳴。風、血、肉、骨、それらを切る包丁の音。
背中で渦巻く怨嗟。
蝉の声。
うるさいぐらいの、蝉の声。
茹だる暑さの残る夏の夜。
畳の、擦れたいぐさの匂い。
だれかの叫び声。
火がついたように体が熱い。痛い。衝撃、衝撃衝撃衝撃。
僕は目を閉じた。
この嵐がいつか通り過ぎると分かっていたから。
梅雨の嵐が泥の匂いをさせるように、この嵐は、鉄の匂いをさせる。
これが終わったら、お母さんにもお父さんにも見えない、『みんな』とあそぼう。そうしよう、それがいい。
僕が目を開けると、もう深夜だった。蛙の鳴き声もない、何者もいない深夜。
前へ、手を伸ばそうと思った。
指先が震えた。
それだけだった。
「ああ——なんてこと」
月光を背に、口を押さえた神様が
白く長くて綺麗な髪。雅で美しい衣。
「な……んで……?」
酷く喉の奥が粘つく。声が声にならずに漏れる。
遊び仲間達が、わっと駆け寄ってくる。
「おうい、起きろよ。遊ぼうよ」
「あそぼ、あそぼ」
「花冠作ろうよ」
あったかい手が次々に触れる。
その時直感した。もう、遊べない。動けない。なにも、できない。
「ご……め、な……さ」
嵐は、僕を殺してから去った。
「ゆる……て……」
頭に、嫋やかな手が触れた。
「なんてこと……。大丈夫、私が何とかしますからね」
遊び仲間の主人である、この土地の神の声。初めて、彼女に抱きしめられた。
燐光を放つ衣に、べっとりと赤が付く。彼女は、何よりも血を厭うたのに。
「お……かぁ、さ……」
「莉藍、やってくれますか」
僕をきょとんと見ていた九尾の狐の妖獣が、こんと一声鳴いて身を翻した。
「可哀想な人の子。もう大丈夫ですからね」
痛みが、恐怖が、後悔が消えていく。
優しく微笑む顔と、穏やかな声。
酷くだるくて、僕はいつの間にか眠ってしまった。
「う、うーん……」
僕は、眼を覚ました。
あの時のまま、僕は無傷で眠っていたようだ。
「あれ……みんな? 神様?」
お腹のそばで丸くなっていた狐が、顔を上げて僕を見上げる。
「神様……いない」
土地神様が、いない。この土地のどこにも、いない。
「ねえ、莉藍。神様がどこにいるか知らない?」
狐は首を傾げる。
「神様は、君。オレに、名前、ちょうだい」
従僕は、主人が名を与える。
「なん……で?」
その時、自分がもう人でないことに気がついた。
「え……?」
むっと、咽せ返るような、鉄の臭い。
死の、臭気。
僕は家を飛び出した。
全壊した村を出た。田んぼの間を駆け抜けて、遠くへ、遠くへ、遠くへ。
(嘘だ! だって神様は、そんな簡単に死なない……!)
何から逃げているのかも分からず、遮二無二駆ける。
(どこかに居る、どこかで生きてて……! 酷いかくれんぼだって……!)
そして、川に転落した。
水の中で踠く。
(なんで、なんで、なんで)
僕が神として生きる代わりに、彼女とその多くの従僕がこの世界から消えた。
(いやだ、嫌だそんなの! ねえ、なんで、なんで、なんで、どうして?)
狐が溺れる僕を咥えて、伽藍堂の町に戻った。
やっぱり神はいなかった。
「僕のせい」
信仰心が失われていく神社。その空っぽの賽銭箱の片隅。
「お母さんもお父さんも、神様もみんなも、僕がいなかったらきっとまだ幸せに生きてたのに」
やり直したい。やり直した瞬間に死ぬから。
神はただ、悲しみと苦痛の狭間に囚われている。
僕はただ、笑っていたかったのに。笑っていて欲しかっただけなのに。
みんな居なくなっちゃった。莉月は、名前を与えた途端、記憶を無くしちゃったし。僕もだんだん忘れていってるし。
怖くて仕方ない。
縁が切れていく。独りになっていく。
「怖いよ神様……寂しいよ……」
ここには誰もいない。手を握って、全て分かって受け止めてくれる人は、誰も。
「私がいます!」
凛は叫んだ。
莉月さんは、きっと私を香久耶さんの悪夢から守ろうとしてくれていたんですね。
でも……!
「香久耶さん! 私の声を!」
黒い波が、私のことを飲み込む。
「うっ……」
水に沈む。深い、深い海だ。藍色の、黒色の、闇色の海。
「かぐや、さ……」
手を伸ばした遠くで、小さな光が灯った。
ぱちぱちと、その火は次々と生まれて……。
「……まるで星空」
ゆっくりと、足が海底につく。
凛は辺りを見回して、頷く。
綺麗な世界だ。黒で満たされ、でも子供の心のように透き通った、寂しい世界だ。
「香久耶さん、どこにいらっしゃいますか」
俺が罹患する病は、悪夢だ。
香久耶は静かに胸元を抑える。
「ごめんね、凛」
巻き込んで。こんなものを見せて。
悪夢に源泉は、心の中にある。
黒い奔流。
俺は、それから逃げられない。
「……だから、捨て置いてくれ……」
凛は、海の底で声を上げる。
「香久耶さん! 私は、あなたに助けて貰ったんです! 返事をして下さい!」
自分の周りの空白が、どれだけ苦しいか、私は知っている。
幾星霜、貴方がどれだけ戦って来たか。想像に容易い。
「いつまでも、側に居させてください」
小さな、鈴の音がした。
「……そこに、いらっしゃるのですね」
闇の中から、小さな子供が出てくる。
「凛……」
凛は膝をついて少年の肩を抱き寄せる。
「私を救ってくれて、ありがとう。貴方と会えてよかった」
「僕……」
抱きしめた子供の体温は凍えている。
私がここに来れて、良かった。
「貴方は絶対、悪くないから」
泣いて良いんです。生きてて良いんです。何もできなくても、無力でも。
「私は、貴方が生きていて本当に、嬉しい」
凛は少し腕を緩めて、子供の顔を覗く。
歯を食いしばって我慢していた子供の内側から、何かが迫り上がってくる。凛はその髪を撫でた。
「香久耶さん、泣いて良いんですよ」
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