あの音が命を灯す ~自然が奏でる音の薬~

ピリカソヤ

第1話 違和感

悪夢と寝苦しさで目が覚めた。ベッド脇のデジタル時計は午前3時35分を示している。寝巻き代わりのTシャツは、まるで運動した後のように汗で濡れていた。みぞおちのあたりに、痛みとも違和感ともつかない感覚が残っている。

「やはり病院に行かないとダメかな」

荻野は先週の出来事を思い出しながら、ひとり寝室でつぶやいた。


荻野は40歳。私立薬科大学で中枢神経領域の行動薬理学を専門に研究している教員だ。薬剤師免許を持ち、学生に薬理学を教えてはいるものの、臨床経験はない。疾病に関する知識は一応あるが、自分の体調を客観的に評価することは難しかった。

3か月ほど前から、疲れが取れず食欲もない日が続いていた。当初は酷暑のせいだと思っていたが、涼しくなっても症状は改善しなかった。


それを指摘されたのは、先週の土曜日のこと。

「荻野さん、なんか最近痩せたんじゃないですか?」

教え子の山下が実験データの解析の合間に声をかけてきた。山下は卒業後、薬剤師として市内の総合病院に勤務しながら、学位取得のために週1回大学に通っている。

「健康診断とか受けてます?荻野さんくらいの歳だと、がんになる人も普通に出てきますよ。ついこの前、服薬指導した大腸がんの患者さんは42歳でした。マジで一度受診したほうがいいですよ。」

「そうだな。それにしても俺の1個上か……もうそんな歳なんだな」

山下の言葉には現場を知る説得力があった。まだまだ自分は若くて、病気とは縁遠いと思っていたが同世代の人の話を聞くと自分ももれなく老いてきていることを感じた。


翌朝、有休を取得した荻野は、自宅から車で15分ほどの総合病院を訪れた。薬学部の教員という立場上、同業の医療従事者とのつながりも多く、同期や教え子から「この病院はがん領域のいい医師がいる」「最新の治療をしている」といった話を耳にしていた。この病院の薬局にも教え子が数名勤務しているため受診を少しためらったが、それよりも、確かな診療を受けたいという思いが勝った。結果的に、その評判を信じて選んだのだった。

受付ロビーには平日の午前にもかかわらず多くの患者が行き交い、今まであまり自分が感じたことのない張り詰めたような空気間であった。

「まさか自分が、患者としてこの空間にいるとはな……」

いつも講義で「早期受診の重要性」を学生に説いてきた言葉が、今は皮肉のように胸に刺さる。


初診の問診では、担当医が淡々と症状を聞き取っていった。

「体重の減少はどれくらいですか? 食欲は?」

「ここ3か月で5キロほど。あまり食べられなくて……」

医師は眉をわずかにひそめ、手元のカルテに何かを書き込むと、血液検査と腹部エコー、CTの予約を指示した。

慣れない受診に緊張しながらも、検査は淡々と進んだ。機械の駆動音や検査技師の指示が、まるで別の世界の出来事のように遠く感じられる。

検査を終えて診察室に戻ると、医師の表情がどこか硬いように見えた。

しかし、その表情を悟られまいとするかのように、やわらかい口調で言葉を選びながら話し始めた。

「念のため、精密検査を行いましょう。一週間後に検査入院という形でどうですか?」

荻野は一瞬、耳を疑った。

この病院は予約が常に埋まっており、通常なら検査入院まで数週間は待たされると聞いていた。にもかかわらず、わずか一週間後。

その“早さ”が何よりも雄弁に、医師の言葉の裏にある意味を伝えていた。


帰り道、秋晴れの青空がやけにまぶしく、信号待ちの間にハンドルを握る手の震えを自覚した。

「まさか、とは思うけど……」

そうつぶやきながら、彼は病院を後にした。


穏やかな声色とは裏腹に、その言葉の意味を理解した瞬間、荻野の背中を冷たいものが走った。


帰り道、秋晴れの青空がやけにまぶしく、信号待ちの間にハンドルを握る手の震えを自覚した。

「まさか、とは思うけど……」

そうつぶやきながら、彼は病院を後にした。

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