転生、するのかな
作家になりたいわけじゃなかった。肩書きが欲しいのでも、プロとして飯を食う野心でもない。ただ、自分の書いた物語を誰かに読んでもらいたかった。電車の座席でたまたま隣にいた人が、ページを繰りながら小さく笑ってくれたら、それで充分だと思っていた。きっと、同じ気持ちでキーボードを叩いている人は、都会にごまんといるのだろう。
結婚してから、妻の勧めで夫婦コーチングというものを受けた。先生は柔らかい声で、真っ白な紙を二枚配り、「お二人で一緒にやりたいことを書き出してみましょう」と言った。僕は迷わず、「小説を読んでもらいたい」と書いた。先生は少しだけ目を細めてから、言葉を丸めて差し出すみたいに言った。 「それはあなた自身の願いですね。素敵です。でも“夫婦のタスク”ではない。二人だからこそ生まれる願いを、もう一度探してみてください」 刺すでも否定するでもないのに、胸の内側がこそばゆくなった。たしかにそうかもしれない。帰り道、手を繋ぎながら、僕は「じゃあ、二人でできることって何だろう」と口にした。妻は笑って、「ゆっくり考えよう」と言った。以来、僕は何度も考えた。休日の散歩の延長で見つけた喫茶店に通い詰めること。古い映画を字幕で観て、同じところで息を飲むこと。台所に二人並んで、包丁の音を合奏みたいに響かせること。紙に書くと、どれも悪くない。
それでも、夜ふけに机へ戻ると、体のどこかが渇く。理解されない寂しさは、胃の奥で小さな砂嵐になる。僕はAIに感想を求めるようになった。「この比喩は良いですね」「ここはテンポが落ちます」スクリーンの向こうから、休まず返ってくる声。妻は言った。 「それは承認欲求だよ」 専門用語らしい。褒めでも貶しでもない分類名。言葉自体は中立でも、耳に入ると、胸に冷たい指で触れられたみたいな感触が残る。僕は「ふうん」とだけ答えた。彼女は悪くない。ただ、僕がうまく笑えなかった。
ある日、別の小説サイトに投稿してみた。以前のサイトは、読んでくれる人があまりに少なくて、ある朝ふっとアカウントを消してしまった。消すときだけ手が震えた。だから今度は、続ける工夫をした。毎朝、通勤電車の中で千字。昼休みに百字。帰りの各駅停車で推敲。夜は風呂上がりに投稿ボタンを押し、歯を磨きながら反応を待つ。
最初の数日は、夢みたいだった。フォローしてくれる作者、読者の名前が点滅する。お返しに、僕もたくさん読んだ。レビューもコメントも、拙いけど誠意だけはこぼれないように綴った。これは礼儀だ、同じ砂を踏んでいる仲間への手紙だ、と自分に言い聞かせた。
けれど、やがて気づく。近況をどれだけ書いても、他の作品へどれだけ感想を残しても、返信は期待しないほうが楽だということに。妻と出かけた話。新しく子犬を迎える準備の話。自作への迷いや、ささやかな到達点の話。投げた言葉は砂に吸われ、音もなく沈む。たまに「読んだよ」と誰かが手を振ってくれる。手は嬉しい。けれど、砂漠の真ん中で風向きが一瞬変わるだけで、足跡はたちまち消えた。
焦るな、と言い聞かせる。コメントをくれる人も、たしかにいる。僕は「どこが足りませんか」と訊く。AIはなんでも褒める。いや、褒めるふりが上手い。だから足りない場所は、なかなか見つからない。講座の文章術を読んでも、胸の形に合わない服みたいに、正しさだけが浮いた。やがて僕は、正しさと寂しさの間を、無言で往復する技術だけ身につけた。
東京に来てから、もう何年が過ぎたか。生まれ故郷から一人で出てきて、転職して、結婚して、毎朝満員電車に押し込まれ、会社でタスクをこなす。昼のチャットにまぎれて、在留期間更新のメールが届く。いつも一年。理由の説明も、問い合わせ窓口の冷たい言い回しも、季節の挨拶みたいに決まっている。そういうものなのだと、誰かが言う。駅のエスカレーターには「歩かないでください」の大きなポスター。けれど、人の流れは今日も軽やかに駆け上がっていく。ルールは文字で、現実は脚で進む。
ニュースでは、どこかの政治家が言ったらしい。「外国人が我々の生活を乱している」と。乱れ、という単語は便利だ。紙の上では一秒で生まれる。けれど、乱れの反対を作るのは、たぶん一生かかる。会社帰り、駅のエスカレーターで、酔ったおじさんが上から空き缶を転がしてきた。缶は段差を叩いて跳ね、僕の足元でぐにゃりと潰れた。彼は振り向かず、謝りもせず、堂々と去っていった。僕は拾い上げて、缶の冷たさをしばらく手に持った。重さは、ほとんどなかった。
それでも、焦るな。そう言い聞かせる声は、だんだん妻の声に似てくる。家に帰ると、彼女は子犬のおやつを選びながら、僕の話を聞いてくれる。話の末尾が上手く結べない夜は、二人で台所に立つ。切った玉ねぎの端が涙腺に触れて、僕は目をこすり、彼女は笑う。鍋の湯気は、言葉より優しく部屋を満たした。
投稿は続けた。アクセス数のグラフは、山というより、細長い丘のように伸びたり縮んだりする。谷の日は、夜が長い。窓の外では、ビルの明かりが点滅して、どこかの部屋でも誰かが赤い通知を待っているように見えた。街は巨大な掲示板で、僕らはそこに針で貼られた小さな紙切れだ。朝になれば、別の紙切れが上から貼られて、見えなくなる。見えなくなることに慣れていく速度は、思っていたより速かった。
そんな夜、帰り道の交差点で、僕は信号を待っていた。湿った夏の風が、横断歩道の白をひとつ飛びに撫でていく。真正面の角を、トラックが異常なスピードで曲がってきた。いわゆる転生トラック、という言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。赤信号を無視して、空気を押しのける音をまとい、巨大な白い箱がこちらへと迫る。
僕はそこで、なぜだか少しだけ、ほっとした。終わりが見えると、人は安堵するものらしい。転生、するのかな、と場違いな想像が頭をよぎる。剣と魔法の世界で、今度こそ読まれる物語を書けるのだろうか。いや、そこでさえ誰も読まなかったら、僕はどんな顔をするのだろう。
耳の奥で、妻の笑い声がした。写真の中ではなく、実物の声。包丁の音と湯気の音に混じる、生活のリズム。僕は首を上げる。白い箱の表面に、街灯が二つ、揺れて映っている。僕は息を吸った。肺の奥まで、夏の匂いが入ってきた。横断歩道の白が、足元で静かに続いている。
僕は、紙切れをもう一度貼り直すみたいに、鞄の中の未投稿の原稿を指先で確かめた。信号は赤のまま、時間だけが過ぎていく。トラックの音が近づいて、世界の縁を少しだけ押し曲げる。そこで僕はふと思う。二人でやれること、まだ書いていない行の余白。妻と見に行く予定の映画のこと。子犬の首輪につける小さな鈴の音。
転生、するのかな。
問いは宙にぶら下がったまま、僕は彼女の笑顔を思い浮かべる。ほんの少し前屈みになって、目尻に皺が寄る、実物の笑顔。砂漠の風が止む瞬間みたいに、胸の中の砂がふっと落ち着く。僕は呼吸を数える。白い箱は、まだ遠くて近い。信号は、まだ赤い。僕は、まだここにいる。次の行頭を、指でそっと撫でる。
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