《人間をやめたい》~適当に書く短編集~

アサバハヤト

俺には関係ない

俺の名前は隼人、三十九歳。二十年プログラムを書き続け、去年ようやく結婚した。

結婚指輪はまだ新品で、触れば油をさしたばかりのベアリングのように滑らかだった。光学機器の大手メーカーで働く日々は、校正済みの照準線のように平穏だった。会社までは徒歩二十分、コーヒーマシンは人事より先に俺を認識し、同僚は笑いのツボを心得、上司は技術を理解してくれる。評価はいつも「期待以上」。人生はこのまま安定して進んでいくものだと思っていた。


あの世界的に有名な大手がつまずくまでは。半導体投資は失敗し、遠方の子会社ではいじめ問題が発覚。広報は「我々は職場倫理を重視する」と声明を出したが、取締役会の決断はリストラ。俺の所属部署ごと切り捨てられた。派遣は真っ先に解約。まるで防災訓練で最初に外へ出されるビニール人形のように。


派遣会社は迅速で、二週目には俺を老舗の製造業へ送り込んだ。創業百二十年、社員八百人。「伝統精神」と刻まれた大理石の文字は、実際の給与よりもずっと深く彫られている。面接は驚くほど順調だった――通常は三か月契約なのに、彼らは特例で一年契約を提示してきた。ただし代償は、片道二時間半、七十五キロの通勤だった。


妻には「大丈夫、電車は移動式図書館にできる」と言った。朝は『Clean Architecture』、夜は『人間失格』。技術と人間性、一進一退、ちょうど釣り合うはずだった。


初出勤の日、部長が俺を開発フロアへ案内し、未開封のシャープペンを握るような笑顔で言った。

「新しいプラットフォームを作る。部門の壁を壊すんだ。君の経験が必要だ」

俺が「よろしくお願いします」と言いかけた瞬間、直属課長が現れた。


彼は老朽化したNC旋盤横の赤ランプのように無言で不快な存在感を放っていた。

「新入りか。ふん」椅子を窓際へ押しやり、「そこに座れ。明るい方が目にいい」


窓の外には広大な貨物ヤードと、二度と振り返らない世界が広がっていた。周囲は廊下と止まらないシュレッダー。一週間、人間との会話は二分足らず、シュレッダーとの相性ばかりが上がった。


二週目、進捗報告を用意すると課長は書類を一度めくり、元に戻し、弁当に混ざった魚の骨を見つけたような顔で言った。

「報告は不要だ」

「でも部長が――」

「不要だと言った」


三週目、部長に試作状況を尋ねられ、ノートPCを指した瞬間、課長が通りかかり俺の沈黙に句点を打った。

「試作?まだ早い。ライセンスキーが下りていない。彼は今、メモ帳しか使えん」

俺は冗談めかして笑った。「テキスト開発ですよ、原点回帰ですね」

皆が笑った。俺以外は。


キーはさらに二週間遅れた。その間、メモ帳で最初のモジュールを書き上げた。補完なし、シンタックスハイライトなし、lintもなし。まるで石がドアストッパーにしか使われなかった時代のようだ。動かした瞬間、窓の外で貨物車が三度汽笛を鳴らした。まるで伴奏のように。


成果を部長に見せようとしたが、課長はまた通り過ぎ、目もくれずに言い捨てた。「不要だと、言ったはずだ」


俺は堪えた。二十年のプログラミングが教えてくれたことは二つ。失敗はまずローカルで再現すべし。そして一時的なワークアラウンドは永遠のアーキテクチャにしてはならない。俺のワークアラウンドは「沈黙」だった。キーが下りるまでの辛抱だと思っていた。


月末のある朝、課長に会議室へ呼ばれた。机の上には勤怠表と赤ペン。彼はそれを子猫のように叩いた。

「十五日、遅刻しただろう」

「八時九分に到着しました。システムが三十分単位で切り上げて八時半と記録されました。備考に『打刻遅延』と書き、課長も承認しました」

「俺の目で遅刻を見た」

「俺の目」という言葉が長く引き延ばされ、バージョン管理されていない長いファイル名のように響いた。


その夜、眠れなかった。外を走る列車の音はシュレッダーに聞こえた。

妻が背を撫でた。熱を持つサーバーを冷ますように。「辞める?」

「まだだ。再起動してみよう」

俺は笑った。生活の比喩もエンジニア言語しか出てこない自分に。


翌日、管理本部宛てに報告書を提出。件名は「直属課長の不当な言動について」。座席移動、報告阻止、キーの遅延、勤怠の翻案――日時と証拠をすべて添付した。二十分後、電話が鳴る。マニュアルの行間のような声で「確認しました。本日十五時に検討会議を開きます」。


会議室は冷蔵倉庫のように冷たかった。部長は俺の左で手汗を滲ませ、課長は正面で検品済みのハンコのような顔、管理本部の二人は右でノートを開けたり閉じたり、迷う扉のようだった。


陳述が終わると、静寂が四秒――数えた。プログラマは時間をミリ秒で数える癖がある。

管理本部が咳払いし、課長に尋ねた。「勤怠表はあなたが承認?」

課長は頷き、首を振った。オフィスで進化した鳥のように。

「承認はした。だが、俺は彼の遅刻を見た」

「ならなぜ承認を?」

課長は俺を見つめ、読めない正規表現を見るように。「……備考を信じた」

部長の吐息が聞こえた。メモ帳に打った一つ一つのセミコロンのようなため息だった。


「以上。本部で再度調査する」ノートが閉じられた。


会議後、給湯室で紙コップに湯を注ぐ。壁の薄さはこの制度の責任の層のようだった。

隣で弁当を温めていた二人の社員は、俺を見て一瞬止まり、不自然なブレークのように。

聞こえないふりをしたが、聞こえてしまった。


「こんな忙しいときに……他人のいじめなんて、俺たちに関係ない」


その言葉はブーメランのように、廊下を抜け、シュレッダーを越え、俺の後頭部を直撃した。

思い出したのは、かつて光学大手がリストラを断行した日、社内掲示板が荒れたことだ。ある子会社のいじめニュースが貼られ、コメントが並んだ。俺は画面の前でコーヒーをすすり、こう書き込んだ。

「他人のいじめなんて、俺に関係ない」

送信後、二杯目のコーヒーを注ぎ、ビルドが通ったような軽さを覚えた。

今、別の給湯室で同じ薄い紙コップを持ち、熱湯に指を焼かれ、置く場所のない現実を知る。


帰りの電車、窓に顔を押し付け、名もない駅が後ろへ流れる。ガラスに映る自分は、メモ帳でコードを覚えたばかりの不器用で滑稽な人間。

スマホにメモを打つ。

— 勤怠表のバックアップを持参

— 添付をもう一度送る

— 妻に夕飯が美味しかったと言う

— 嫌いな人間にはならない


車内放送が「足元の隙間にご注意ください」と告げる。思う。職場は隙間で動いている――規則と心の隙間、承認と否認の隙間、被害者と傍観者の隙間。俺はその隙間に隠れて安全だと思っていた。だが今、自分が挟まれて初めて知る。ある例外は決して処理されず、ただ静かに飲み込まれるだけだ。


帰宅し、妻が顔を上げる。

「どうだった?」

「調査するそうだ」

「じゃあ結果を待とう」

頷くと急に空腹を覚えた。ビルドが通ったように。

夕食の席で週末の映画の話をし、皿を洗いながら会議室に漂っていたエアコンの風と、給湯室の囁きを思い返す。


時間が答えをくれると言う。だがエンジニアは知っている。時間は新しいバグしか生まない。

食器を揃え、乱れたコードを再フォーマットするように呟く。「明日も続けよう」


翌朝、七時十二分の電車に乗る。まだ暗い窓に、眠気顔の群れ。スマホが震え、会議招集の通知。「課長の言動に関する検討会議」。

息を吸い込み、ポケットに仕舞う。電車がトンネルに入り、ガラスは黒い鏡となり、俺の顔と車内の光を映す。誰かが電話し、誰かが眠り、誰かが昨日のニュースを読む。


そして背後の座席から、聞き覚えのある声が流れる。職場で量産されるUI部品のように、どこでも使い回せる声で――


「こんな忙しいときにさ……他人のいじめなんて、俺たちに関係ない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る