第2話 触れ合う唇

触れ合う唇


ただ時間だけが静かに流れていた。俺と結衣は、モニターに映る残り時間を呆然と見つめていた。


先に口を開いたのは、震える声の結衣だった。

「ねぇ、これって……オーディション、じゃないよね?」


その声は、まるで迷子の子どものようにか細かった。俺は、この状況の残酷さを突きつけられたような気がした。俺が金のために応募した怪しい広告と、結衣が信じていた夢への道。その認識のズレが、今、彼女を奈落の底に突き落としていた。


「ごめん、桜坂さん……」

俺は絞り出すように言った。


結衣は顔を上げ、不安と戸惑いが入り混じった瞳で俺を見つめる。

「オーディションなんかじゃない。俺は、ネットで見つけた怪しい広告に釣られてここに来たんだ。報酬の百万円が欲しくて……」


正直に告白すると、結衣は意外にも驚いた様子を見せなかった。

「やっぱり……そうだよね。私も、何か変だなって思ってた。でも……なんで?」


純粋な問いかけに、俺は一瞬言葉を失った。母親の借金を抱え、苦しい生活を送っていることなど、彼女が知るはずもない。俺は「どうしてもお金が必要だったんだ」とだけ答え、それ以上は語ろうとしなかった。


結衣はその言葉から深刻さを感じ取ったのか、黙って頷き、再びタイマーに視線を戻した。


その時、アニメのキャラクターのような、明るく甲高い声がモニターから響いた。

『残り時間、9分です!』


結衣は、選択肢をじっと見つめていた。

キスは5分、愛撫は10分。たった5分の差が、二人の運命を大きく左右する。彼女は羞恥心と恐怖に縛られ、言葉を失っていた。


『残り時間、8分です!』


キスか、愛撫か。数字だけを見れば、後者を選ぶべきだ。母の借金も、自分の進学も――報酬さえ手にできれば救えるはずだ。だから信じたい。このゲームは茶番でも、金だけは本物だと。

だが、その思考は結衣の肩の震えに遮られた。彼女は本来ここにいるはずじゃなかった。夢を信じて踏み込んだだけなのに、俺のせいで巻き込まれた。


俺は拳を握り、迷いを断ち切るように顔を上げた。

「……キスにしよう」


結衣は大きく瞬きをし、視線を俺に移す。

「……うん」

その返事は小さく震えていたが、確かに俺を信じて託す響きを帯びていた。


『残り時間、7分です!』


俺たちはゆっくりと顔を近づけた。心臓が激しく高鳴る。これはただのクリア条件――そう自分に言い聞かせる。


唇が触れ合った瞬間、俺は思わず息をのんだ。結衣の唇は、予想していたよりもずっと柔らかく、温かかった。しかし、その甘い感触とは裏腹に、タイマーは無情にもカウントダウンを続けていた。


『残り時間、6分30秒です!』


「なんで……っ」


焦りを隠せず、俺は結衣の唇に触れたままモニターを凝視した。やはり、ただ触れるだけではダメなのか。進学資金という目的のためには、確実に課題をクリアする必要がある。俺は決意を固め、僅かに唇を開いた。


俺は舌を、ゆっくりと、しかし躊躇なく結衣の口内へと差し入れた。

「んっ……」


結衣は、予想を裏切る感触に小さな悲鳴を上げ、全身を硬直させた。彼女が想像していた「キス」とはあまりにもかけ離れていた。俺の舌が彼女の舌に触れる。それは、彼女の純粋な心を残酷な現実に引きずり込むような行為だった。


結衣の瞳が小刻みに揺れる。それは恐怖と羞辱、そして初めての官能に戸惑う複雑な感情が入り混じったものだった。俺は彼女の震えを感じながらも、タイマーが止まるまで、その行為を続けた。


そして、タイマーが青から黄色に変わると同時に、カチリと音がしてカウントダウンが止まった。


タイマーは5分ちょうどで止まった。


モニターの数字が高速で目まぐるしく変化し、新たな時間が加算されていく。まるで動画を高速再生しているかのようなその動きに、俺は息をのんだ。やがて数字は「10:00」で止まり、静寂が戻る。


『――判定、成功といたしましょう』


不意にマスターの声が響いた。抑揚はないが、確かに裁定を下す口調だった。

『充分に要件を満たしました。お見事です』


俺は結衣から唇を離す。二人の間に、濡れた糸が引かれていた。


カチリと電子音が響いた。


音のした方向を見ると、壁際に置かれた箱の蓋がゆっくりと開いた。

俺は警戒しながらも、ゆっくりと箱に近づく。結衣もその後に続き、二人は並んで箱の中を覗き込んだ。


箱の中には、黒々と「し」と記された一枚のカードが入っていた。

俺と結衣は顔を見合わせる。このカードが何を意味するのか、二人はまだ知る由もなかった。


――


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