サン・セット・ゲイム 檻を超える少女と逆転の一手
椎名悟
第1話 始まりの予兆
始まりの予兆
俺は父を知らない。物心ついたときから、母と二人で暮らしてきた。
大学に進むには金が足りない。だから、ネットの怪しげな広告に、俺は迷わず応募した。報酬は100万円。
電車を降りて歩いていると、駅前の大型サイネージに「若者の進学支援を掲げる文科大臣・安藤」のニュースが流れていた。新人時代の苦労話と、若き日の写真。
(耳たぶの大きな人だな。俺もよく触られる)
進学資金があれば、母をこれ以上苦労させずに済むと思った。だが、政策が形になるまでに何年もかかる。自分には間に合わない。俺はそんな感想を抱きつつ、視線をそらした。
その前を、駅に急ぐサラリーマンが流れのように歩き抜けていく。
反対側からは、街に繰り出す若いカップルが笑いながら肩を寄せ合って通り過ぎた。
立ち止まり、サイネージを見上げているのは俺だけだった。
――そして今、俺は薄暗い雑居ビルの前に立っている。
(もう、後戻りはできない)
薄暗いビルの前で、俺はスマートフォンの画面を何度も見直した。ネットの広告で見つけた、非現実的なほど高額な当選金に釣られてやってきたものの、指定された場所はどこからどう見てもただの雑居ビルだった。
最寄り駅から続く大通を途中で曲がり、何本かビル街の方に入った一角。ここが目的の場所じゃなければ、全く印象に残るような外観ではなかった。
終業直後の時間帯なのに、人通りはまばらで、誰しも家路を急いでおり、俺の存在を気にも留めていないようだった。
本当にここで合っているのだろうか――ビルの上方を見上げてみたりする。場違いな不安が胸の中でくすぶり始めたその時、背後から聞き慣れた声が聞こえた。
「綾野くん?」
澄んだ声が響き、俺はびくりと肩を震わせた。振り返った瞬間、そこに立つ彼女の姿に息を呑む。
桜坂結衣。
黒髪を高く束ねたポニーテールが揺れ、大きな瞳がまっすぐこちらを射抜いていた。白いブラウスの上から桃色のカーディガンを羽織り、胸元では小さなペンダントがきらりと光る。
その装いは清楚そのものだったが、彼女のまとう空気は、この古びた雑居ビルにはあまりに場違いで、眩しいほどに映った。
黒と白のギンガムチェックのスカート。黒いニーハイソックスとのあいだに覗く肌は、歩みに合わせてちらちらと姿を現す。そのわずかな隙間に、健康的でありながら年頃の娘らしい艶めかしさが宿っていた。
桜坂さんは軽く手を振りながら、すぐ目の前で立ち止まる。
俺は思わず視線を逸らした。学校でもアイドルのように憧れられる彼女が、こんな距離で、自分だけに笑いかけてくれるなど、想像すらしていなかったからだ。どくどくと脈打つ鼓動とは裏腹に、彼女をまっすぐとらえることができない。
(彼女に笑いかけられるたびに、俺はますます小さくなる気がする)
「桜坂さん、どうしてここに……?」
俺の問いかけに、彼女は少し首を傾げながら答える。
「えっと、私、オーディションの二次審査でここに来るようにって言われたんだけど、綾野くんは? もしかして、綾野くんもオーディションを受けるの?」
「いや、俺は……」
俺の喉がひりついた。
まさか「ネットの怪しい広告に応募した」などと言えるはずもない。
桜坂さんは夢のためにここにいる。
俺は金のために来ただけだ。
同じ場所に立ちながら、二人の理由は正反対――そのことが、余計に居心地の悪さを募らせた。
「ああ、うん……まあ、似たようなもんだよ」
曖昧な返事をすると、彼女は「そっか」と笑った。
その笑顔は、俺にとって救いであると同時に、胸を締め付ける残酷さでもあった。
二人はエレベーターで最上階へ向かった。ドアが開くと、正面には真新しい白いドアが一つだけあった。そこには何の表記もなく、ただ無機質なドアノブがあるだけだ。
俺は不信感を抱きながらも、彼女の少し後ろに立ち、彼女を先に行かせようとした。話の食い違いは、気にはなる。もともと何をさせられるのかは、分からなかったのだ。多分、彼女に問いただすことはマイナスにしかならないだろう。
だが、彼女は戸惑ったようにその場で立ち止まってしまった。
不意に彼女が振り向き、その大きな瞳でじっと見つめてくる。彼女の瞳をまともに受け止められず、逸らした視線は自然に胸元へと落ちてしまった。不安で上下する豊かな胸の間で光るペンダント、照明に透けた細い脚のシルエットが飛び込む。
「綾野くん、先に入ってくれないかな……なんか、ちょっと怖い」
いつも明るく、人前では決して弱さを見せない彼女の、ほんのわずかな震えを俺は感じ取った。この状況が、純粋な彼女の警戒心すら呼び起こしていることに気づき、俺は自分が先に動くべきだと決心する。ぐずぐずしていて、金が手に入らなかったら元も子もない。
一歩前に出て、静かにドアノブに手をかけた。
ひんやりとした質感の金属製の手触りに、特段の違和感はなかった。俺は深呼吸をして、ゆっくりと扉を押し開ける。
やや天井高のある正方形の部屋の中は、予想だにしなかった光景が広がっていた。コンクリートの打ちっぱなしの壁に天井、そして床。無機質なコンクリートの中央に、場違いなほど豪奢な二人掛けソファが鎮座していた。赤い革張りに金色の縁取り。隣り合って腰掛ければ、必然的に身体が触れ合う距離しか残されない造りだった。
ソファの正面には壁面を半分覆うほどのモニターと、その下には本格的なカメラがしつらえてある。モニターに向かって右側の壁面には、等間隔に並べられた白い無機質な箱が置かれていた。
他には病院で使うようなベッドが一つだけ。白いフレームに、シーツすらかかっていないマットレス。豪奢なソファとは不釣り合いで、まるで別の用途を想定しているかのように思えた。俺は思わず視線を逸らした。
照明からは「ブーン」という低い機械的なハム音が微かに響き、部屋全体を明るく照らし出す。
天井の四隅と床の四隅に設置されたカメラが、二人の存在を無言で捉えていた。
「すごい……なんだか、美術室みたいだね」
彼女は緊張した声でそう呟いた。美術室というなら無骨すぎるし、ホテルにしては寒々しすぎる。部屋の異様さに、俺の頭の中では警戒を呼びかけるサイレンが鳴り響いていた。
広さに対して多すぎるように感じるカメラの台数、殺風景ななかにおいて色彩を主張するソファとベッド――いったいこの空間はなんだ?
彼女が「美術室」に見えるほど、この場所の恐ろしさに気づいていないことが、かえって俺の恐怖を増幅させた。
「部屋、間違えたのかな? ちょっと確認してみないか?」
そう言いながらドアに向かおうとした刹那、目の前のドアから「ガチャン」と重い音が響いた。さらに驚くべきことに、重たいモーターの駆動とともに床に開けられた複数の穴から鉄柱がゆっくりとせり上がる。
ドアまでの心理的な距離を果てなく広げていく。それは、物理的な脱出が不可能であることを、二人にはっきりと突きつけるものだった。
俺は目を見開いて、その光景をただ見つめることしかできなかった。彼女は恐怖に顔を歪ませ、俺の腕にしがみついた。驚いたが、納得した。俺だって怖いからだ。
慌てて胸のポケットからスマホを取り出す。
「ダメだ、圏外だ。」キャリアの違う彼女も同様なので、誰かの悪意の仕業だ。
ソファの正面、壁面の上半分ほどになる大きなモニターの画面が切り替わり、精巧なCGで描かれたスーツ姿の男が映し出された。男はにこやかに、しかし一切の感情を伴わずに話し始める。
『さあ、舞台の幕開けです』
モニターの男が、柔らかな口調で告げた。
しかしその声音は、あらかじめ決められた台詞を読み上げるだけの機械のようだった。
『まずはご本人様確認をいたします。――綾野裕介様。あなたは選ばれてここに参加されました。間違いございませんね?』
喉がひりつき、言葉が出ない。かろうじて小さく頷いた。
『続いて、桜坂結衣様。あなたも選ばれてここに参加されました。間違いございませんね?』
彼女は目を見開き、固まったまま返事ができなかった。
だが、モニターの男は頓着せず、にこやかに続ける。
『確認は以上です。では、これよりルールを説明いたしましょう』
『私はこのゲームのマスターです。お二人は今、密室に閉じ込められました。このドアが再び開く条件はただ一つ、与えられた4つの課題を達成することです。男性参加者様にとってはたいした課題ではごさいません』
俺はその言葉に背筋を凍らせた。ゲーム、密室、課題……。何をいっているんだ?
嫌な予感が確信へと変わっていく。隣で彼女が小さく震えるのが分かった。彼女がオーディションだと信じていたことが、残酷な嘘だったのだと悟ったのだろう。
「待ってください! もし、課題を達成できなかったら……どうなるんですか?」
俺の叫び声に、マスターは感情のない笑みを浮かべた。
『ご質問ありがとうございます。もし、課題に失敗した場合……』
マスターの言葉が途切れると同時に、モニターの画面が切り替わった。マスターの表示が消え、映し出されたのは、天井のカメラが捉えた二人の姿だった。次の瞬間、壁のカメラの映像に切り替わり、俺と彼女の顔がアップで映し出される。さらに、二人の背後、足元、部屋の隅々まで、あらゆる角度から捉えた映像が次々と映し出されては消えた。
『お二人がゲーム中に見せた姿は、世界中の人々に公開されることになります。ご安心ください。映像は特殊な技術で加工されており、ネットに一度流出すれば削除は不可能。お二人の人生は、私たちが永遠に保管し、共有します』
その言葉が耳に届いた瞬間、俺は全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。母親の生活を楽にしたいという純粋な願い。それが、もし失敗すれば、母親まで巻き込むことになるかもしれない。しかも、金の話はしなかった。今、聞くべきかそれともゲームとやらの報酬なのか。
『さあ、無駄話はここまでとしましょう。最初の課題を提示します。選択肢は二つ。一つは、キスをすること。もう一つは、女性が下着だけになり、全身を愛撫することです。どちらか一方を達成すれば、タイマーに時間が追加されます。そうですね、キスなら5分、もう一つは10分ですかね。課題を達成すると、壁際にある箱が開きます。ご検討ください』
隣に目をやると、桜坂さんは大きく見開いた目でモニターに表示された文字を見つめていた。瞳が細かく左右に動き、書かれている内容が理解できないのか、あるいは理解を拒んでいるのか、口元に当てられた手は震えていた。
マスターの言葉が終わり、画面いっぱいに青い数字で「10:00」と表示された。
「待ってくれ、まだ聞きたいことがある!」
『困りましたね。本来なら課題が提示されたらカウントダウンが始まるのですが……。まあ、最初ですしサービスしましょう。どうぞ』
「今なら、今なら俺たちはただ部屋の中に立っているだけだ。こんな映像が公開されたところでさほど困らない。今、拒否することはできるのか?」
桜坂さんがこちらを見つめているのを横顔に感じながら、俺はただ巻き込まれただけの彼女を、できることなら無事帰らせてあげたいと強く思った。
『最近の技術の進歩は本当に目覚ましくてですね、お二人の映像はあらゆる角度から撮影させていただきましたので、ええ、素材としては本当に素晴らしい! これならどんな映像でもお作りして差し上げますよ。ほら、流出動画っていうのあるじゃないですか。彼女たちって今なにしてるんでしょうね』
「そんなの、捏造じゃないか」
『見た人が判断できますかね?』
悔しいがこの男の言っていることは正しい。世に溢れる様々な映像の真贋など分かりようもないし、下卑た映像を好んで観るような連中にとって大事なのは、本物かどうかよりリアルか、好みに合うか、そんなところだろう。
『さて、もう十分にサービスさせて頂きました。改めてご検討ください』
再びタイマーが表示され、今度こそ時間が減り始めた。
俺の心臓が早鐘を打ち、隣の桜坂さんは目を大きく見開いていた。
――
豪華な観戦ルームには、分厚い革張りの椅子が円を描くように並んでいた。中央の大きなモニターには、裕介と結衣の姿が映し出されている。
「綾野裕介だったか、安藤の仕込みらしいが大丈夫なんだろうな」
手元の書類に目を落としながら、元老はゆったりと腰掛け、手にした葉巻を弄んでいた。その横には現職の大臣が控え、すかさず銀色のダンヒルを取り出して火をつける。
「お、すまんな」
元老は軽く顎を引き、当然の礼を口にしただけで、火の先を確かめながら紫煙をくゆらせた。
大臣は乾いた笑みを浮かべ、安藤の方へ視線を流した。
「そういえば――」
吐き出した煙の向こうで、元老の目が細められる。
「この前の女はどうした? 案外、根性がなかったな」
無表情のまま画面を見つめる安藤。その横顔には、肯定も否定もない冷ややかな影が落ちていた。
――
次回も結衣と裕介の物語をお楽しみに
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