星を飲む夜
zskc3
星を飲む夜
その店には、初めて入った。
会社帰りに、ちょっとしゃれていて、料理のおいしそうな居酒屋を見つけたのだ。天井が高く、雰囲気作りのためであろう暗めの店内に、灯りが星のように散らされていた。
カウンターは苦手なので、テーブル席に腰を下ろす。客は多くもなく、少なくもなく。長居はしないつもりだったが、居心地は悪くなかった。
生の木から切り出したようなテーブルに手を置くと、年輪のざらりとした感触が指先に伝わる。──いい感じだ。テーブルの上には箸置きと箸、逆さにされた薄いガラスのコップ、そしてメニュー。横には調味料の小瓶が並んでいる。
今日は取引先との打ち合わせがうまくいった。もしこのまま進めば、自分にとって最大の契約になるだろう。その前祝いの一杯。自然と気分も軽くなる。
「ご注文は?」
担当らしい若い女性の声に顔を上げる。おすすめの料理を二、三頼み、酒は地酒を選んだ。とりあえずビールでもよかったが、ふと目についた銘柄に惹かれたのだ。
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酒が届くまで、意識は昼間の打ち合わせに戻っていた。展示会の企画──テーマは「宇宙と私たち」。壮大だ。相手が出してきた資料の中に「人類と酒の歴史」という展示案があったのを思い出す。
「おまたせしました」
声に現実へと引き戻される。コップになみなみと注がれた透明な液体。顔を近づけ、ほのかな香りを確かめ、一口。喉をすべり落ちた瞬間、熱が広がる。解き放たれるような感覚に、思わず口をついて出た。
「うまい」
日本酒が今のように透明になったのは江戸時代だと聞く。だが遡れば、稲作とともに二千年以上も前から作られていた。さらに古く──口噛み酒。縄文の人々が米を噛み砕き、唾液の力で発酵させていた。縄文土器の縁に残る痕跡が、それを物語っている。
料理が届く。刺身の光沢、焼き物の香ばしさ。これもまた美味い。胃が温まり、気持ちもさらに解けていく。
「大将、今日のおすすめでも、特におすすめは?」
「らっしゃい、いい魚が入ってますよ」
いつの間にか店は賑わってきていた。声と匂いが入り混じり、空気が濃くなる。
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杯を重ねるうちに、思考はするりと別の時代へと滑り込む。毛皮をまとった人々が槍を持ち、森を進む。木のうろから漂う甘い香りに気づき、近づく。発酵した果実の液体──神の贈り物。仲間たちは歓声を上げ、今夜の宴が始まる。夜通し笑い、歌い、酔いに身を任せる。
次に浮かぶのは古代の地中海。石造りの広間に杯を掲げるギリシャ人たち。哲学者が議論し、詩人が歌う。葡萄酒の甘美な香りが場を支配している。ローマの饗宴では、金の器に満たされたワインが絶えず注がれ、絹の衣をまとった人々が舞い踊る。修道院では修道士が静かに麦を醸し、泡立つ液体を神への供物とした。中世の都市の広場では、大樽のビールを人々が分かち合い、祝祭の夜が続いていく。
さらに海を越える。新大陸に渡った人々はサトウキビを発見し、そこからラム酒を生み出した。嵐の海を進む帆船、舵を握る船乗りたちが黒い液体をあおり、歌う。海賊たちは樽を抱えて笑い転げ、銃声の合間に杯をぶつけ合った。ウイスキーは北方の荒野で育ち、寒風をしのぐ火のように人々を温めた。酒は大陸をつなぎ、旅を進め、人を支えてきたのだ。
気づけば自分もその果てに座っているにすぎない。酒を前に、歴史の続きを生きているだけだ。
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そのときふいに、私的な記憶がよみがえる。祖父の晩酌の姿。ちゃぶ台の上に置かれた徳利、ちびちびと飲みながらテレビを眺めていた背中。少年だった自分は、その匂いを苦く感じていた。大学時代、友人たちと安酒をあおった夜。安っぽい焼酎の刺激に顔をしかめながら、大声で笑い、歌い、気づけば始発に揺られて帰ったこともあった。今こうして上等な酒を味わうと、あのときの安さと無鉄砲さが、妙に懐かしく思える。
隣の席では老夫婦が小さな徳利を分け合っていた。短い会話、互いの顔を見つめる時間の長さ。それだけで、積み重ねた年月と酒の温もりが伝わってくる。若いサラリーマンたちの笑い声は、どこか古代の酒宴の雄叫びと重なって響いた。酒は人の数だけ顔を持ち、どの顔にも同じような笑いや涙を映しているのだ。
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はっと気づくと、目の前には空のグラス。いつのまにか飲み干していたらしい。再び酒を注文する。
「お酒には酵母が必要です」
そんなフレーズが、どこかの会話から耳に飛び込んできた。酵母──微生物。人を酔わせ、幸福に導く小さな存在。彼らはなぜこんな物質を生み出すのか。進化の過程の偶然なのか、それとも人間のために仕組まれた奇跡なのか。
次の杯が運ばれてくる。口に含めば、甘みと苦みが混ざり合い、さらに深く思考が沈んでいく。
大将が隣の客にワインの話をしている。ブドウを踏む人々、壺に仕込まれた果汁、地下の暗がりで眠る液体の映像が頭に浮かぶ。古代ギリシャの饗宴、中世修道院の修道士、ビールを醸す大樽の泡立ち──酒とともに歩んできた人類史が、頭の中で一本の流れに繋がる。
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ふと天井を見上げる。小さなランプが暗がりに瞬き、まるで星座のように見える。視界が揺らぎ、いつしか自分は宙を舞っていた。右手にベガ、左手にアルタイル。両の手で天の川をかきわけ、光の流れに身を任せる。遠くに霞むアンドロメダ星雲が、行く先の灯台のように瞬いている。酒の熱がそのまま推進力になり、意識はさらに加速する。
宇宙に中心はあるのか。虚無に生じた最初の震え。沈黙を破る火花。宇宙が一つの卵から孵るように、無から有が生まれ、光が溢れ出す。その瞬間、あらゆる星と酒と歌の起源が同じであったように思える。
開闢の輝きが逆流し、すべてが一点に収束する。何十億年分の宇宙のすべてが凝縮された種。その輝きを、手の中に摘まむ。掌で転がしながら、ただ眺める。
それを飲み込めば、宇宙そのものになれる気がした。
「ラストオーダーです」
声に我に返る。目の前には伝票を持った店員の笑顔。現実は静かに戻ってきていた。
「あ、ああ、お会計で」
立ち上がると足元が少しふらついた。暖簾をくぐると、夏の夜の濃い空気が体を包む。街の灯りは滲み、空には星がいくつか浮かんでいる。いや、ランプの残像かもしれない。
舗装された道を踏みしめながら、ぽつりと呟く。
「飲み過ぎたな」
けれど頭の片隅には、さっき手にした宇宙の種の感触が、まだ残っていた。
星を飲む夜 zskc3 @knym-08-25
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