それでも、生きている

くちびる

それでも、生きている

早朝、東京へ向かう電車。

極めて正確な時刻に運行される鉄の箱に詰め込まれ、揺られ、ぶつかられ、掴まる。

有象無象の気配に押し潰されそうになりながら、ただ時間をやり過ごす。


前に座っていたサラリーマンが立ち上がる。

すかさずその席を確保したが、視線を感じて顔を上げる。

ここは優先席。

目の前では、疲れ切った顔の老人が、震える手でつり革を握り立っていた。


(ここは専用席ではない。座りたいなら頼めばいい。そもそもグリーン車を使うという選択肢だってある。なぜ、向こうの落ち度をこちらが背負わねばならないのか――)


心の中で反論を並べ立て、目を閉じる。

すると、隣に座っていた女性が席を譲り、老人は安堵とともに腰を下ろした。

「ありがとうございます」

その声が耳に届いたが、私は動じることなく眠りに落ちた。


やがて目的の駅に着く。

反射的に立ち上がり、人影のまばらな車内を抜けると、優先席はもう空っぽだった。


駅構内に出ると、大衆の波に飲み込まれる。

流れるプールのように逆らえぬ流れに身を委ね、外へ出れば、容赦ない陽光に目を細める。


目の端に映るのは、いつものティッシュ配りの若い女性。

笑顔で手を差し出すが、誰も受け取らない。

それでも配り続ける姿に、なぜか心を打たれる。


差し出された手に、私はいつも通り応える。

カラオケ店の広告入りのポケットティッシュを受け取ると、

「ありがとうございます!」

その覇気ある声が背中を押すように響いた。


その日の夜、マンションの一室に転がり込む。

ドアを閉めた途端、外界のざわめきは途絶え、ひとりきりの静寂に包まれる。


ポケットからぱさりと何かが落ちた。

今朝受け取ったポケットティッシュだ。


拾い上げ、部屋の隅に置かれた段ボールを覗き込む。

中には色とりどりの包装が詰め込まれ、ひと月分の「善意」がぎっしりと積み重なっていた。


スマホの画面には、フリマサイトの「SOLD」の表示。

思わず口の端が緩む。


あの笑顔を思い出しながら、段ボールにガムテープを巻きつける。

感謝の言葉も、元気な声も、すべては私の楽しみの糧。


人の頑張りを踏み潰す、その感覚が、心地よい。


その感覚を胸に抱え、明日もまた、鉄の箱に詰め込まれるのだ。


――それでも社会は、こんな私を生かしてくれる。

それが人間というものだ。

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