「完結」第28話 放流管理棟(最終話)水の出口、技師のまなざし
朝の放流管理棟は、静かに目覚めていた。
監視モニターに並ぶ数値は、すべて基準内。
流量、水温、pH、濁度、残留塩素、BOD――どれも安定していた。
だが、リオ=フェルナードはその“静けさ”の中に、確かな緊張感を感じていた。
「今日が最終日か」
主任のミカミ=サトルが、コーヒー片手に声をかけてきた。
「はい。放流管理棟の研修も、今日で終わりです」
リオは技術録の最終ページを開きながら答えた。
「沈殿池で“沈む”ことを学び、汚泥処理棟で“形にする”ことを学び、
ここで“送り出す”ことを学びました。
水の旅の終点に立つのは、思っていた以上に重い仕事でした」
ミカミは頷きながら、放流口の方向を指差した。
「ここは、処理場の“出口”じゃない。
自然への“入口”なんだ。
だから、技師は数値だけじゃなく、その先にある命を見なきゃいけない」
リオはその言葉を胸に刻みながら、放流判断の準備に入った。
午前10時、定時の放流判断の時間が近づいていた。
放流ゲートを開けるかどうか――それは、技師が数値と現場を見て、最終的に決める。
モニターの数値は安定している。
だが、昨夜の雨で流域の水位が少し高くなっていた。
放流による影響を考慮する必要がある。
「流域の水位、通常より15cm高いですね。
放流量とのバランスを見て判断する必要があります」
リオは流域の水位データと放流量の推移を照らし合わせながら、慎重に判断を進めた。
「放流は、ただ“流す”だけじゃない。
流した先で何が起きるかを考える。
それが、技師のまなざしだ」
ミカミの言葉が、リオの中で響いていた。
リオは放流口の側に立ち、川へと流れ出す水を見つめた。
その水は、都市の生活を支え、沈殿し、濃縮され、分解され、脱水され――
そして今、自然へと帰ろうとしている。
「この水は、都市を巡って、浄化されて、今ここにいる。
そして、また自然へ帰っていく。
その“帰り方”を整えるのが、私たちの仕事なんですね」
ミカミは静かに頷いた。
「そうだ。水は、技師の手を通って、命の場所へ戻る。
だから、放流判断は“技術”であり、“哲学”でもある」
リオは放流ゲートの操作盤に手をかけた。
数値、流域状況、天候、そして水の表情――すべてを確認し、ゲートを開いた。
静かな音とともに、水が放流路を進み、川へと流れ込んでいく。
その流れは、都市の鼓動のように、ゆるやかで確かなものだった。
午後、リオは技術録の最終ページに記録を残した。
> 放流判断:数値だけでなく、流域の状況と自然環境への影響を考慮
> 放流管理棟の役割:処理場の出口ではなく、自然への入口
> 技師のまなざし:水の向こうにある命を想像し、送り出す責任を負う
> 所感:水は循環する。技師はその“出口”を整える者である
その記録は、沈殿池編・汚泥処理棟編・放流管理棟編を通して、リオが積み重ねてきた技術と哲学の集大成だった。
夕方、リオは放流管理棟の玄関で荷物をまとめていた。
研修期間の終了を迎え、次の配属先へ向かう準備が整っていた。
ミカミ主任が見送りに現れた。
「次はどこへ?」
「水質分析センターです。
今度は、処理場全体のデータを統合して、広域の水環境を見ていきます」
「いいな。ここで学んだ“現場の声”を、データの中でも聞けるようになるといい」
リオは深く一礼し、放流管理棟を後にした。
背後で、放流ゲートの静かな開閉音が響いた。
それは、水が自然へ帰る音――技師が整えた“出口”の音だった。
処理場の一角にある技術録保管室。
そこには、リオ=フェルナードが記した三冊の技術録が並んでいた。
- 沈殿池編:「沈むことは、始まりだった」
- 汚泥処理棟編:「形にすることで、価値が生まれる」
- 放流管理棟編:「送り出すことは、責任であり、祈りでもある」
水は沈み、分解され、形になり、そして自然へ帰る。
そのすべての工程に、技師のまなざしがあった。
そして今、リオはそのまなざしを胸に、新たな現場へと歩き出す。
水の物語は終わった。
だが、技師の物語は、まだ続いていく。
『魔導排水処理場リオ=フェルナードの技術録』 @soppelia
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