第26話 BODのささやき


午前9時、放流管理棟の監視モニターに表示されたBOD値が、わずかに上昇していた。

昨日まで1.5mg/L前後で安定していた数値が、今朝は1.9mg/Lを示している。

基準値(3.0mg/L)には達していないが、放流管理棟ではこの“ささやき”を見逃さない。


「BODが上がってます。0.4の変化ですが、傾向としては気になります」

リオ=フェルナードが報告すると、主任のミカミ=サトルはすぐに端末を操作した。


「流量、水温、pHは安定している。

有機物の流入が増えたかもしれない。現場で採水しよう」


二人は放流口へ向かい、流れ出す直前の水を採取した。

見た目は透明で、濁度も安定している。だが、BODは目に見えない“水の呼吸量”を示す。

瓶に採った水を持ち帰り、分析室で簡易測定を開始した。


分析室では、TOC(全有機炭素)測定を用いて、有機物量の傾向を確認する。

TOC値も通常より高く、有機物の流入が裏付けられた。


「TOCも上がってます。これは、何かしらの有機物が流れ込んでますね」

リオがモニターを見ながら言う。


「最終沈殿池の汚泥引き抜きが遅れたか、雨水が処理系統に流入したか……

前工程の変化が放流側に出ている可能性がある」


ミカミは天気データを確認した。

昨夜は小雨があり、場内の雨水排水が一部処理系統に混入していた。


リオとミカミは、最終沈殿池と放流路の中間地点を巡回した。

沈殿池の表面には、わずかに細かい浮遊物が確認できた。

手網で採取すると、微細な有機片が混ざっていた。


「沈殿池の引き抜きタイミングが少し遅れていたようです。

雨水の流入と重なって、有機物が放流側に出た可能性が高いですね」


ミカミは頷きながら、沈殿池の引き抜き調整を指示した。


午後、監視室に戻ると、BODの速報値は1.8mg/Lに下がり始めていた。

現場の調整が効いたのだろう。数値はゆるやかに安定へ向かっていた。


リオは気づき帳に記録を残した。


> BOD上昇(1.5→1.9mg/L)

> TOC値上昇 → 有機物量の増加を示唆

> 推定原因:沈殿池の汚泥引き抜き遅延+雨水流入

> 対応:沈殿池引き抜き調整、経過観察

> 放流管理棟の役割:目に見えない変化を数値で捉え、現場と結びつけて判断する


夕方、放流口の水面は穏やかで、川面に映る夕日が揺れていた。

リオはその光景を見ながら、主任の言葉を思い出す。


「BODは、水の呼吸量だ。

その呼吸が浅くなれば、川の命も浅くなる。

だから、私たちはその変化を聞き逃さない」


リオは静かに頷き、技術録の新しいページを開いた。

今日の数値の揺らぎは、小さな声だったが、確かに“水のささやき”だった。


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