5森に響く遠吠え

水木キョウコは1年前の2学期にこの団地に引っ越してきた。父親はサラリーマンで母親は書道教室の先生をやっている。遅くにできた一人っ子で両親から寵愛を受けて育てられた。書道は母親からの英才教育で段位も持つ腕前だ。キョウコの勉強部屋は壁一面に楷書や草書が書かれた半紙が貼られ、微かに墨汁の匂いがした。


クラスでは成績も良く快活で、皆から愛される生徒だった。4年生の2学期に日直の用事で職員室へ訪れた際、声をかけられた。境先生は四角い大きなメガネをかけた四十代の女性でキョウコは怖い先生という印象を抱いていた。その雰囲気はさながら女豪傑みたいだと。


職員室の隅にあるソファに案内されその怖い先生と対面する形になった。先生はキョウコの分の紅茶も淹れてテーブルに持ってきていた。


「あなたが水木さんね、突然呼び止めてごめんなさい。ちょっとあなたに頼みたいことがあるの、この後用事はない?」


笑顔で話す大きな口からは小臼歯の銀歯が輝いていた。そのおおらかな表情は、豪傑そのものでキョウコは圧倒されかかっていた。


「予定は特にありません。私に頼みたいことってなんでしょうか」


慎重に言葉を選んで間違いがないか反芻してみる。女豪傑を前にして平常心を保とうとするのは、母からの書道の心得を受けてきたからだろう。書には人柄が出ると教えられ、明鏡止水の境地が良い筆致につながるのだと。


「そう固くならないでちょうだい。冷めないうちにどうぞ」


そう勧められソーサーに手をかけた。毒でも入ってるかしらと馬鹿馬鹿しい妄想をして少しおかしくなった。おいしい紅茶だった。


「ちょっとこれを見てもらいたいの」


そう言って見せられたのは、書が書かれた半紙だった。下手な字ではない。癖が強くエッジの鋭い少し右上がりの字。そこには春の海と書かれていた。刃のようなその筆致には人柄が現れていた。四年四組 山田直人。


「これを見てどう思うかしら、書道家の目で率直な意見を聞かせて欲しいの」


書道家と言われて恐縮したが、大会で何度も入賞しているので、恐らく母親のことも先生は知っているのだろう。ふむんと考える仕草を見せて、キョウコは自分の意見を述べた。


「いい字だと思います。筆運びに迷いがなく芯が通った書き手の気持ちが伝わってきます。癖はありますがちょっと教えればもっと上達するでしょう」


優等生の模範解答のような答えに、キョウコ自身つまらないことを言ってしまったと自分を恥じた。境先生はそれを聞いて少し角度を変えた質問をしてきた。


「これを書いた人物はどんなことを考えているのかしら」


なるほど、境先生は添削ではなく書道の心得がある私に、この字を書いた人物像を聞いているのだ。質問の意味を理解したキョウコは、暫くその書かれた三文字を眺め、考えがまとまった。


「止めやハネは最後まで丁寧でスピード感もあり真面目な性格なのがわかります。荒々しいかすれは怒りのような感情も現れているのかもしれません。全体的に力強い筆致ですが、穏やかで繊細さもあわせ持つ人でしょう。あと何か寂しさも伝わってくるような気もします」


「この子は怒ってるのね。ふむふむ、そうか」


境先生はそう独りごちたあとこう続けた。


「未確認動物って知ってる」


「未確認動物ですか、………言葉の意味はわかりますがえっとその」


話の本題から飛躍する問いに困るキョウコを見て、先生は女傑の笑い声を響かせた。


「ごめんなさい。とにかくこの子と友達になってくれないかしら。無理強いをするつもりはないけれど、人柄は保証します。どうかしら」


思いがけない提案に戸惑ったが、この字を書いた人物に興味も湧いてきていた。


「友達にですか。なんだかちょっと怖いけど先生の考えを教えてくだされば」


それから境先生はナオトに弟がいること、クラスでは運動もでき、仲間思いだが目立とうとしない性格であること、仲の悪いクラスメートのこと、時折頬杖をついて窓外をぼんやり眺めていること、先生が未確認動物探索部の顧問であることを話してくれた。


「気楽にやってもらえばいいのよ。書道部との兼任にはなるけれど水木さんの都合のいい時に来て貰えれば。定期的に茶話会も兼ねた部の報告会もあるし」


少し考えたあと、お力になれるかわかりませんがと前置き、キョウコはその提案を承諾した。茶話会で出されるお菓子が気になったのもあるが、字を書いた生徒に会ってみたくなったのが一番の理由だった。


「ところで先生、未確認動物ってなんですか」


「実は先生もよくわからないのよ」


そう言うと先生はまた豪快に笑い、キョウコも一緒に笑っていた。


はたしてキョウコは未確認動物探索部に入部を果たした。部活動は週5日あったが水曜日には必ず未確認動物探索部に顔を出すことにしている。他の曜日でも都合が合えば積極的に参加し、なによりナオトと友達になれたことが嬉しかった。


最初は戸惑いと恐れもあったがナオトの初対面の印象は想像と違っていた。健康的な容姿で口数は少ない方だが、論理的に物事を考えるタイプの人間で、誰に対しても真摯な態度に好感が持てた。


未確認動物はナオトの趣味で4歳の時に買ってもらった本が彼のバイブルだった。

何度も読み返してくたびれたその本の表紙には、未確認動物大百科と書かれ、有名なネス湖の怪獣の写真が使われていた。


「外科医の写真」


そうナオトは私に教えてくれた。それがナオトとの出会いだった。


………………………………………………………………………………………………


境先生の提案を承諾した夜、寝床についたキョウコはまだ見ぬ友人のことを考えていた。どんな子なんだろう、友達になってあげるってどういう意味があるんだろう、そんなことを考えている内に睡魔が襲ってきた。どこからか狼の遠吠えが聞こえたような気がしたが、そのまま眠りについてしまうのだった。

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