秦と前漢の違い、さらに唐代との比較

新編 長安変奏曲(古代~近世官能シリーズ③)

補足編

秦と前漢の違い、さらに唐代との比較



🔴新編 長安変奏曲(古代~近世官能シリーズ③)

 https://x.gd/qRkFD


このシリーズは、当初、単なる改訂版のエロ話にしようと思っていた。空海と橘逸勢を中心に平安時代と大唐帝国の最盛期の長安城で、橘逸勢が漢族、西域の遊び女と遊ぶエッチなお話ということで書き始めたのだが、


🔴倭国を記述した中国史書(『漢書』から『新唐書』まで十巻)

 https://bit.ly/4ft4XNi


で中国の歴史書を翻訳しているうちに、 中国と日本の歴史の関わりが再認識されて、エロ話の合間に、九世紀の唐の具体的な描写も書きたくなった。


 司馬遼太郎が「空海の風景(https://x.gd/fgD8G)」は「新編 長安変奏曲」と同じ時代、登場人物で長安の様子を少し描写しているが、あの小説を読んでも、まったく当時の唐、長安の様子、文化が想像できなかった。


 むろん、司馬は、真言宗の開祖となった空海の「土俗の呪術として多分に雑多な状態にあった密教を破綻のない体系として新たにまとめ上げ、本場の天竺・唐(インド・中国本土)にもなかった鮮やかな思想体系を築き上げる」プロレスを書いたのであり、唐の長安城の旅行記を書いたのではないので仕方がないのだが、歴史書じゃないのだから、少しは読者の想像力を掻き立てる描写も欲しいと読了したときに思った。


 このシリーズでは、空海・最澄が登場するので、仏教の祖、釈迦の生まれたインドの話も夢魔のエピソードで加味した。


🔴インドの官能(古代~近世官能シリーズ①)

 https://bit.ly/4lmbagf


 ここに登場する夢魔二人だが、この話も夢魔がなぜ天竺を捨て、東征して中国に行ったのか?という理由がわからない。さらに、仏教の本場、インドでなぜ仏教が廃れたのか?を歴史書で明確に書いているものを見たことがなかった。


 現在のインドでは、10個石を投げると、8個はヒンズー教徒に、2個はイスラム教徒にぶち当たる。仏教徒はと言えば、千個石を投げて、1個当たれば良い方だ。そこで、第4話、第5話、第6話はまえおきとしてどうでもいい話なのだが、


🔴第7話 ミヒラクラ王の破仏

 https://x.gd/anxL9


を創作した。これが私の勝手な説なのだが、インドで決定的に仏教が廃れた要因になった出来事なのだ。


 さて、「秦と前漢の違い、さらに唐代との比較」。


 日本史を考えると、日本人は、ある一国の歴史は連綿と連続しているものと考えがちだ。そりゃあ、そうだろう。有史以来、日本史で、嘘くさいが万世一系の天皇以外のトップがでたことほとんどなく(縄文時代から卑弥呼の時代、欠史十代、古墳時代は除く)、さらに嘘くさいが(なぜなら混血を繰り返してもその子孫は日本人という世界史にない奇妙な婚姻を繰り返していたから)日本人以外が日本を統治したことなどないからだ。


 中国はどうか?


 618年から907年まで続いた唐王朝の李氏は、隋王朝の政権中枢にいた建国者である李淵とその子孫である。李淵が隋を滅ぼして建国した。


 唐の李氏の血筋は、一般的に漢族とは異なる出自を持つ。鮮卑族(https://x.gd/dVXo4)の血を引いているという説が有力である。その家系は少なくとも文化面では鮮卑族の影響を受けていたと考えられている。隋や唐の時代には、漢民族と鮮卑族の混血が進み、文化的な同化も進んでいた。


 鮮卑族は、中国北部の遊牧民族で、五胡の一つである。2世紀頃にモンゴル高原で勢力を拡大し、その後、中国の北部に侵入して五胡十六国時代や南北朝時代に大きな影響を与えた。特に、拓跋(たくばつ)部が建てた北魏は、華北を統一し、南北朝時代を終わらせる上で重要な役割を果たした。


 彼らは、北方騎馬民族であって、漢民族ではない。言語や民族系統は、モンゴル系やトルコ系、ツングース系など様々な要素が混ざり合っていると考えられている。


 唐王朝は、マンガ「キングダム」の秦王朝やその後の漢王朝の血筋・系統ではなく、「キングダム」の時代なら、燕の国とか楊端和の一族が中国を統一したようなものなのだ。


 つまり、日本史とは違い、中国は歴史が連綿と連続していない、トップがコロコロ変わる、主要民族の漢民族以外が中国を統治した時代は、有史以来半分弱なのだ。日本史の理解で中国史を想像してはいけないのだ。



 さて、性倫理に関しても、現代のそれをもって、古代史を理解してはいけない。


 古代世界は、一夫一婦制度が強固な性倫理で確立した時代ではないことを理解いただきたい。近代以前では、一夫多妻制度が上流社会から庶民まで普通のことだったし、王朝では一妻多夫の事例をしばしば見られた。性行為は、まず第一に現代ような個人の楽しみのためではなく、子孫を残すことが目的だった。


 合計特殊出生率が2.13以上なら人口減少にならない現代と違う。なぜなら、平均寿命が現代の半分以下の社会では、2.13どころか、女性は生涯で五人から七人の子供を出産しなければ人口が保てない社会だった。新生児の三分の一は出産時に死亡する社会だった。性倫理も社会の存続と健康のレベルに左右されるということだ。

※参照:【改訂版】古代ローマ・エジプトの特殊合計出生率(TFR)

https://x.gd/qOXddv


 中国に代表される古代の歴史は連続性を持った歴史ではなく、変遷の歴史であったということを認識して欲しい。むろん、中国の歴史に限らずあらゆる諸国の歴史が似たようなものである。例外があるとしたら、完全ではないが連続性を持っている日本の歴史がそうだと思う。


 秦と前漢ですらも異なる。


 前者が厳格な社会に対する法治主義の適用という規制強化の時代とすれば、前漢は規制緩和の時代であった。また、後代の儒教の重苦しい社会に対する押しつけもあまりなかった。儒教が国家思想のように中華民族を締め付けるのはさらに将来の時代なのだ。


 秦と前漢の時代と後代の、生活、風俗、社会も異なる。前者では、板の間、椅子、机の後代に普及した家の構造、家具はなかった。土間、板の間であぐらをかいて暮らしていた。それもあぐらと書くと日本人は結跏趺坐、半跏趺坐の仏教の座り方を想像するが、秦と前漢の時代では、立膝で脚を股にかき込むようなだらしない座り方だったのである。男だけではなく女もそうだった。また、下着が普及していないから、立膝で座って、陰部は丸見えだ。


 紀元前3世紀から紀元後1世紀にかけて、中国大陸を支配した秦と前漢は、後世の儒教社会とは異なる様相を呈していた。しかし、秦と前漢を一括りにするのは誤りである。


 こういったことを踏まえて、『古代中華乃官能(古代官能Series④)』を読んでいただけるとありがたい。


 さて、


 秦は極端な法治主義を採用し、社会に閉塞感をもたらし、それが王朝の短命な滅亡を招いた。一方、前漢の劉邦は秦の失敗を教訓に法を緩和し、民を休養させることで、漢王朝が前漢から新を挟んで後漢まで長期に存続する基盤を築いた。さらに、後世の儒教が社会に及ぼした影響も見逃せない。この違いと変遷を、『史記』『漢書』、馬王堆漢墓の出土品などの史料から紐解きつつ、思想、社会、後宮、性風俗、庶民の暮らしを具体的に描いてみよう。


1.

  


 秦(紀元前221年~紀元前206年)は、法家思想に基づく中央集権国家を築いた。『史記』秦始皇本紀に記される焚書坑儒や苛烈な法令は、思想の自由を奪い、庶民に重税と労役を強いた。司馬遷は「民の怨嗟が天に届いた」と書き、極端な法治が社会に閉塞感を生み、陳勝・呉広の乱を招いたと見ている。たとえば、農民は収穫の半分以上を税として納め、道路建設や長城工事に駆り出され、家族が飢えるのを黙って見ているしかなかった。


 前漢(紀元前206年~8年)の劉邦は、この過ちを認識し、「約法三章」(殺人・傷害・窃盗以外は罪としない)を定めた(『漢書』高帝紀)。歴史学者陳舜臣は『中国の歴史』で、「劉邦の緩やかな統治が民心を掴んだ」と述べる。儒教が国家イデオロギーとなるのは武帝の「独尊儒術」以降だが、前漢初期は道家的な無為の思想が影響し、秦の厳しさとは対照的な穏やかさがあった。


 しかし、後世の儒教が浸透すると、新たな弊害が現れた。たとえば、唐や宋では、儒教の「礼」が社会を縛り、個人の自由が抑圧された。『論語』に由来する上下関係の厳格化は、家族内でも父や夫への絶対服従を求め、女性は家に閉じ込められ、外出さえままならなくなった。宋代の『朱子家礼』では、葬儀や結婚に細かな規則が定められ、庶民は儀式のために借金に苦しむこともあった。また、科挙制度は儒教経典の暗記を強要し、実践的な知識よりも形式的な学問が重視された。これらは、秦の法治主義と同様に極端な規則主義となり、庶民生活に息苦しさをもたらした。秦の法による抑圧と儒教の礼による抑圧は形こそ異なるが、社会を硬直化させる点で共通していたのだ。


2.

  


 秦の社会は、厳格な身分制度と監視体制に支配されていた。貴族や官僚は法を執行する側に立ち、庶民は服従を強いられた。『史記』陳渉世家では、農民が徴発に耐えかねて反乱を起こす姿が描かれ、階級間の緊張が顕著だった。たとえば、地方の役人は農民の家を訪れ、納税の遅れを理由に財産を没収し、抵抗すれば鞭打ちや投獄が待っていた。


 前漢では、劉邦の農民出身という背景が影響し、貴族と庶民の関係に変化が生まれた。『漢書』食貨志によると、減税や土地分配が試みられ、地方豪族が朝廷と庶民の緩衝役を担った。作家池澤夏樹が『中国史小説』で想像するように、「漢の初期は、貴族と庶民が互いに干渉せず、それぞれの領域で生きていた」。具体的には、貴族は長安や洛陽の都で政治と文化に没頭し、詩を詠み、宴を開いた。一方、庶民は農村で自給自足の生活を送り、市場で穀物や手工品を交換し、村の祭りで歌い踊った。たとえば、貴族が黄河の氾濫対策を議論する頃、農民は堤防を自分たちで補修し、朝廷の介入を待たずに解決した。こうした棲み分けが、秦の抑圧的な統治とは異なる共存の形を作り出した。


3.

  


 秦始皇は、統一後、各地から美女を集めて阿房宮を飾った(『史記』)。後宮は皇帝の権力を誇示する場であり、組織性よりも個人的な欲望が優先された。一方、前漢では後宮が政治的役割を帯び、制度化が進んだ。『漢書』外戚伝に登場する衛子夫は、武帝の寵愛を受けつつ外戚として影響力を発揮した。


 前漢の宮女は、地方豪族や官僚の娘から選ばれ、貢物として宮廷に送られた。たとえば、地方の郡守が美貌の娘を献上し、それが皇帝の目に留まれば家族の地位が上がった。皇女は後宮の管理に携わり、母后として妃たちの序列を定めた。皇帝の性行為の相手は、占いや縁起に基づいて選ばれることもあった。『漢書』には、武帝が夢で衛子夫を見た後、彼女を召した逸話が残る。


 宦官は後宮の運営に不可欠で、皇帝と妃たちの私生活を管理した。彼らは去勢され、性的能力を奪われた存在であり、『漢書』宦者列伝によると、多くは貧困層の少年が親に売られ、宮廷で断種された。去勢の方法は様々で、「竿あり玉なし」(睾丸のみ摘出)や「竿なし玉なし」(陰茎と睾丸の両方を切除)が一般的だった。手術は麻酔なしで行われ、熱した刃で切り取った後、傷口に灰を塗って止血する過酷なものだった。歴史家黄仁宇は『中国大歴史』で、「宦官は皇帝の信頼を得る代償として人間性を失った」と述べる。彼らは後宮での監視役や連絡役を務め、妃たちの不満や陰謀を皇帝に報告した。


4.

  


 秦と前漢の性風俗は史料が乏しく、『詩経』の恋愛詩や『楚辞』の情緒的な表現が手がかりとなる。だが、その隙間を想像で補うことは可能だ。秦の厳しい統制下では、庶民の性生活は抑圧された。たとえば、農村では労役で疲れ果てた夫婦が、夜に土間で短い時間を共にし、子供を増やすことが生存の手段だった。一方、前漢の緩和された社会では、少し余裕が生まれた。市場で働く娘が旅商と恋に落ち、川辺で密かに会う姿があったかもしれない。


 宮廷では、秦始皇が后妃を次々と寵愛し、子孫を増やすことに執着した。前漢では、武帝が衛子夫を愛しつつ、他の妃とも関係を持ったことが『漢書』に記される。庶民レベルでは、村の祭りで若い男女が踊り、酒を酌み交わし、夜の藁の上で情を交わすこともあっただろう。こうした行為は、後世の儒教的な「貞節」観とは無縁で、実用的な子孫繁栄や共同体の一体感を高める意味を持っていた。


5.

  


 秦と前漢の庶民は、後世の椅子や机とは無縁で、土間を中心に暮らした。馬王堆漢墓の出土品から、低い床に座る様式が確認される。歴史家田中芳樹は『中国史エッセイ』で、「胡坐が自然な姿勢だった」と述べるが、これは日本人が想像する結跏趺坐(蓮華座)ではなく、もっとリラックスした形だった。たとえば、片膝を立て、もう一方の足を崩して座る、あるいは両膝を軽く曲げて地面に踵をつける姿勢である。


 秦では、農民の土間は生存の場だった。疲れ果てた男が片膝を立てて座り、粗末な粥をすすり、女が子供をあやしながら麻糸を紡ぐ。家族は土間に藁を敷き、肩を寄せ合って眠った。前漢では、暮らしに余裕が生まれ、土間に竹の敷物を置き、家族が円になって座った。男は立膝で農具を磨き、女は膝を崩して穀物を挽き、子供は土間で転がって遊んだ。こうした姿勢は、厳格な礼儀よりも実用性と快適さを求めた結果であり、後世の正座とは対極的だった。


6.

  


 秦と前漢の庶民の衣服は、袍(長い上着)と袴(ズボン状の下衣)が基本だった。袍は筒状で裾が広く、袴は膝下まで覆う簡素なものだ。後代の漢服は袖が長く、帯で締める洗練された形だが、この時代は動きやすさが優先された。『礼記』の深衣は貴族用で、庶民は麻布を纏った。同時期のローマでは、胸当て(ストロフィウム)や腰巻き(スブリガリウム)が普及したが、中国への影響は見られない。シルクロードが開かれるのは前漢末であり、それ以前はローマの下着文化が届く経路がなかった。


 秦では、農民は粗い麻布を腰に巻き、袍を重ねた。田畑で裾がめくれ、太ももや下腹部が露わになっても気にしなかった。前漢では、経済の回復で麻に加え、粗い絹が一部の農民に広まった。『漢書』食貨志によると、絹は貴族の交易品だったが、地方市場で少量が庶民に流れた。綿はまだ導入されておらず(インドから唐代に伝来)、麻から絹への移行は自然な進展だった。たとえば、市場で絹の袍を着た女が穀物を売り、子供が麻の短衣で走る姿が見られた。だが、下着はなく、身体の露出への無頓着さは両時代に共通していた。


 秦と前漢は、法治の厳しさと緩和、そして儒教の弊害という異なる顔を持つ。秦の閉塞感、前漢の共存、後宮の複雑さ、性風俗の断片、庶民の土間と衣服に、その違いが映し出される。『史記』や『漢書』の行間から浮かぶのは、後世とは異なる現実だ。


7.


 秦(紀元前221年~紀元前206年)と前漢(紀元前206年~8年)の社会は、後世の唐代(618年~907年、特に9世紀の安史の乱後)と比べ、思想の厳格さ、社会の階層関係、後宮の役割、性風俗、庶民の日常、衣服の機能性において顕著な違いを示す。


 唐はシルクロードを通じた多文化の流入と経済繁栄により、秦の抑圧的な法治主義や前漢の緩やかな調整を超えた、国際的で柔軟な社会を築いたが、逆に新しい弊害も生んだ。『旧唐書』や『新唐書』、杜甫や白居易の詩集から見える唐の生活は、秦・前漢の原始的な厳しさと対照的だ。以下、6つの観点から比較し、唐の独自性を探る。



 秦は法家思想の極端な適用で、社会を厳格に統制し、民の怨嗟を招いたが、9世紀の唐は儒教を基盤としつつ、仏教と道教が共存する多様な空気を持っていた。『旧唐書』によれば、安史の乱後、唐は玄宗や憲宗の時代に仏教寺院が急増し、僧侶の影響力が強まった。これは秦の焚書坑儒のような思想弾圧や、前漢の道家的な無為とは異なり、唐の社会は多神教的で自由奔放だった。


 例えば、平康坊の娼婦文化は仏教の禁欲と対立しつつ、道教の自然主義が許容した。しかし、後期唐では儒教の復興(韓愈の排仏論)が弊害を生み、寺院破壊や思想の硬直化が進んだ。秦の法治の厳しさ、前漢の緩和に対し、唐は多文化の融合で豊かだが、儒教の再強化が社会の閉塞を呼び、宋代の理学の息苦しさを予感させた。



 秦の貴族は法で庶民を抑圧し、反乱を招いたが、前漢では劉邦の農民出身が階級の融和を生んだ。一方、9世紀の唐は科挙制度の成熟で、庶民が官僚に上昇可能となり、上流社会と庶民の関係がさらに流動的になった。


『新唐書・食貨志』によると、唐の長安は東市・西市の市場で商人と官僚が混在し、平康坊の歓楽街ではソグド人や漢族の娼婦が貴族を接待した。これは秦の厳格な身分制や前漢の地方豪族中心の共存を超え、国際交易の影響で階層が多様化した。だが、唐後期の宦官権力や節度使の割拠は、庶民の負担を増大させ、秦の抑圧に似た格差を生んだ。杜甫の詩『兵車行』は、戦争で疲弊する庶民を描き、上流の無関心を批判している。



 秦始皇の後宮は権力の誇示で美女を集め、政治的役割が薄かったが、前漢では外戚の影響力が強まり、制度化が進んだ。9世紀の唐では、後宮はさらに複雑で、武則天のような女性帝が出るほど政治的だった。『旧唐書・后妃伝』によると、玄宗の楊貴妃は後宮を支配し、宦官や外戚の陰謀が絶えなかった。これは秦の個人的欲望中心や前漢の妃の序列制度を超え、唐の後宮は国家権力の争奪場となった。


 例として、安史の乱後、憲宗の時代に後宮の争いが宮廷の腐敗を招き、宦官の去勢制度(睾丸摘出、熱刃で切除)が後宮の監視を強化した。唐の後宮は秦の威示、前漢の制度を基に、多文化(胡服の影響)と政治的陰謀が交錯した独自の形を成した。



 秦・前漢の性風俗は『詩経』の恋愛詩から断片的に見えるが、唐は平康坊の娼婦文化が『北里志』に詳述され、多様な性風俗が発展した。秦の厳格さでは民の性生活が抑圧され、想像で農村の土間で夫婦が子作りに励む姿が浮かぶが、前漢の緩和で市場での恋愛が芽生えた。


 唐では、ソグドやペルシアの娼婦が胡旋舞で客を誘い、胡床で酒を交わす姿が日常だった。『唐詩紀事』に杜甫や白居易の詩が娼婦の美を詠み、秦・前漢の断片(『楚辞』の情緒)に対し、唐は国際色豊かで奔放。想像で、平康坊の路地で街娼が1回10~50文(2千千~1万円)で客を呼び、秦の抑圧や前漢の自然さを超えた商業的な性風俗が広がった。



 秦・前漢の庶民は土間中心の生活で、胡座や立膝の座り方がリラックスした日常を表すが、唐は椅子や炕(暖房付きベッド)の普及で座り方が変化した。『唐会要』によると、長安の庶民は土間から木床に移行し、胡床で胡座をかき、家族で粥や麺を食べた。


 秦の労役で疲れた農民が土間で粥をすすり、前漢で少し余裕が生まれたのに対し、唐の庶民は東市の市場で胡饼(1文=200円)を買い、平康坊の路地で歌い踊った。想像で、唐の土間では女性が襦裙で立膝し、子供が転がり、秦・前漢の原始的なリラックスから、国際交易の豊かさで少し洗練された日常へ移行した。



 秦・前漢の庶民は下着なく袍と袴で動きやすさを優先したが、唐は胡服の影響で抹胸(胸当て)や褌が普及し、衣服が多様化した。『新唐書・輿服志』によると、唐の女性は襦裙に抹胸を重ね、胡服のペルシア模様が流行した。


 秦の麻布の簡素さ、前漢の絹の増加に対し、唐はシルクロードの文化交錯で絹袍(1匹400文=8万円)が庶民にも広がり、下着の導入で身体の露出が減った。想像で、平康坊の娼婦は旗袍のスリットから太腿を覗かせ、秦・前漢の下着なしの無頓着さから、唐の洗練された誘惑へ進化した。



 秦・前漢は法家や道家の影響で厳格から緩和へ移行したが、9世紀の唐は儒教・仏教・道教の融合で多文化的な開放性を示した。『旧唐書』によれば、安史の乱後の唐は長安の国際都市として、平康坊の娼婦文化が花開き、秦の抑圧や前漢の共存を超えた。後宮は唐で政治的陰謀が激しく、性風俗は多国籍の娼婦が胡旋舞で客を誘う姿が『北里志』に描かれ、秦・前漢の断片から商業化が進んだ。


 庶民の暮らしは唐で椅子や炕の普及で土間から離れ、衣服は抹胸の導入で下着文化が芽生え、文化交錯が身体表現を豊かにした。秦の厳しさ、前漢の緩和に対し、唐の多様性は経済繁栄の産物だが、宦官の弊害を生んだ。こうした違いは、中国社会の進化を象徴する。

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