踏み台

@F-Drifter

第1話 踏み台の哲学

私はよく夢を見る。

それは大抵、誰かに足を引っ張られる夢だ。

廊下で、階段で、あるいは宇宙エレベーターの中で。見知らぬ顔が、得体の知れない腕が、私の足首をつかんでくる。


普通なら恐怖に凍りつくだろうが、私は違う。

私はその手を「ありがたい」と思うのだ。


なぜなら、それは完璧な踏み台だから。


足を引っ張られる瞬間、世界は一瞬スローモーションになる。

私は空中でバランスを崩し、頭の中で小さなオーケストラが「今だ!」とファンファーレを鳴らす。

そして、私はその顔を容赦なく踏みつける。


鼻の骨が軋む音、頬が沈む感触。

普通なら罪悪感に苛まれるはずだが、不思議なことに、それが私を上へと押し上げる推進力になるのだ。

重力が裏返り、私は天井へ、さらにその上の「まだ名前のない場所」へと登っていく。


やがて私は気づく。

この世界では、引っ張る者と踏みつける者の区別などないのだ。

どちらも「上に行くための舞台装置」にすぎない。


人は皆、誰かの足をつかみ、誰かの顔を踏みつける。

それは悪意でも正義でもなく、ただの重力の戯れ。

その繰り返しが螺旋となり、街は高層ビルよりも高く、空は積み重なった「踏み台の記憶」で埋め尽くされていく。


私は今日も夢の中で足をつかまれる。

そして笑う。


「ありがとう。あなたのおかげで、もう少しだけ上に行ける」


その瞬間、足元の顔が私自身のものに変わる。

私は自分を踏みつけ、またひとつ高く跳ね上がる。


気がつけば、宇宙の外縁に浮かんでいた。

そこには天井も床もなく、ただ無数の足跡だけが星座のように並んでいた。


世界はきっと、誰かを踏みつけて生まれたものだ。

だから私は、堂々と踏みしめる。

それが美しいかどうかは分からない。

だが、確実に前に進める。


そして進んだ先で、また誰かに足をつかまれるだろう。

そのとき私は、迷わず踏み台にするのだ。


それが、この奇妙で滑稽で、どうしようもなく人間的な世界の、唯一のルールなのだから。





踏み台都市



足を引っ張られるのが、日常になったのはいつからだろう。

朝、通勤電車のホームに立てば、見知らぬ誰かの手がスラックスの裾をつかむ。

スーパーで野菜を選んでいれば、青果棚の下から誰かの手が伸びてきて足首をひねる。

会社の会議中にすら、床から腕が生えて私のかかとを引っ張る。


最初は怖かった。だが、ある日ふと思いついたのだ。


――踏み台にすればいい。


それから私は変わった。

引っ張られた瞬間、ためらわずに足を振り上げ、その顔を踏みしめて飛び上がる。

鼻が潰れる音、眼窩が沈む感覚、それらすべてがジャンプ台のように私を押し上げる。


気がつけば、私は会社のビルの屋上にいた。

そこからさらに引っ張られ、踏みつけ、飛び上がり、今度は雲の上にいた。

見下ろせば、街全体が「踏み台」によって積み上げられた奇怪な塔のように見える。


空の上にも、当然のように人々はいた。

彼らもまた、互いの足をつかみ、互いの顔を踏みつけ、さらに高みを目指していた。

その光景は美しくも滑稽だった。まるで「引っ張り合い」と「踏みつけ合い」だけでできた、永遠のダンス。


だが、ある瞬間、私は気づいた。

私が踏み台にしてきた顔のひとつが、私自身の顔だったのだ。

笑っている私、泣いている私、絶望している私。

幾千もの「私」を踏みつけて、私はここまで来たのだ。


やがて、空のてっぺんにたどり着いた。

そこには一枚のドアが浮かんでいた。

取っ手をつかみ、押し開けると、まばゆい光が溢れ出す。


その奥には、足を引っ張る者も踏みつける者もいなかった。

ただ真っ白な部屋と、静けさだけがあった。


「ここから先は、もう踏み台はない」

そう告げる声が、どこからともなく響いた。


私は戸惑った。

踏みつけなければ上がれない。

足をつかまれなければ前に進めない。

では、ここからどうすればいいのか。


やがて私は理解した。

最後に踏みつけるべきは――自分自身の「上がろうとする欲望」なのだと。


私は静かに床に座り込む。

誰の顔も踏まず、誰の足にもつかまれず、ただそこで呼吸をした。


次の瞬間、すべての引っ張る手も、踏み台の記憶も、音も消え去った。

残ったのは、奇妙な静寂と、重力のない自由だった。


それ以来、私は夢を見なくなった。

足を引っ張られることも、踏みつけて飛び上がることもない。


だが、ときどき街を歩いていると、ふと視線を感じる。

アスファルトの隙間から、誰かの手が伸びてきそうな気がする。


私はその瞬間を待っている。

また誰かに足をつかまれたら、きっと迷わず踏み台にするだろう。


そして、もう一度だけ空の上に行ってみたい。







足音の下で


夜になると、必ず誰かに足を引っ張られる。

眠りに落ちた途端、冷たい指が足首をつかみ、ベッドの下へと引きずり込もうとする。


最初は夢だと思った。

だが、朝になると必ず足首に青黒い痣が残っている。

医者に見せても「寝相が悪いんでしょう」で片づけられた。

だが、私は知っている。あれは私を狙っているのだ。


三日目の夜、私は決心した。

「引きずられる前に、踏みつけてやろう」


布団の中で目を閉じたふりをし、指が伸びてきた瞬間、思い切りその手を踏み潰した。

湿ったような悲鳴が響き、手は消えた。

私は勝ったのだと胸を張った。


だが翌朝、床には血の跡が残っていた。

それは確かに、人間の手の跡だった。


それから毎晩、引っ張る手が現れる。

私は必死に踏みつける。

最初はただの手だったが、次第に腕、肩、顔までもが現れ始めた。

私は容赦なく踏みつける。骨が砕け、眼球が潰れ、歯が飛び散る感触が足裏にこびりつく。


不思議なことに、それを繰り返すほど、私は軽くなっていった。

まるで踏みつけたものの重さを削ぎ落とし、自分が浮かび上がるような感覚だった。


やがて私は夢の中で天井を突き破り、空を超え、雲を抜けた。

見下ろすと、地上には「踏みつけられた顔」が無数に並び、私の足跡のように街を埋め尽くしていた。


だが、そこで気づいた。

私が踏みつけてきた顔のすべて――それは私自身だった。


泣き叫ぶ私、怒り狂う私、絶望する私。

何百、何千という「私」が、私の足の下で潰されていた。


朝、目を覚ますと、部屋の床は鏡のように光っていた。

そこに映っていたのは、無数の自分の顔。

そのすべてが私を見上げ、口を動かしていた。


「次は、お前の番だ」


その声と同時に、足元が抜け落ちた。

私は再び、無数の「私」に足をつかまれた。


そして今度は、もう踏み台にする力が残っていなかった。


(終)

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