「恋人は鮭であり、蟹である」

「恋人は鮭であり、蟹である」

 惚れた男は、鮭だ。──何故、惚れたかは分からない。言葉では語れないものがあった。轟々と燃え盛る炎のような流れを見せる河川を懸命に泳ぐ男の、見える世界、紡ぐ言葉、研磨された艶やかな鱗。水面がちかちかと星のように瞬く。抜き身の刃のように眩く、克明に映し出される全てに、興味を抱いた。「あの……」幼い心の知的好奇心は湯水のように留まるところを知らない。心の発露はいつだって人を掻き乱すのだと自覚した。好にしろ、悪にしろ、感情が動く。互いが裡の存在。──紐解けば、表裏一体の存在である。……俺は、単純に貴方を知りたかった。だから問いかける。「どうか、どうか、貴方の夢を教えてください」男は、考えあぐねている様子だ。数泊が経過した後、ようやく口を開いた。途端、あぶくが弾ける。「叶うことならば、陸を知りたい」──陸地。野蛮が住まう場所、自由とは大きく掛け離れた場所。誰もが蛇蝎のごとく嫌うような世界。何故、そんな所に憧れを抱くのか疑問だったけれど、男は終ぞ答えることはなかった。二本足に憧れでもあるのだろうか。確かに俺は二本足で生きているものの、陸に行きたいなど思ったことはない。国があり、城があり、人間が生きる世界。戦争や飢饉、差別が闊歩するような痛々しい世界を知って欲しくはなかった。──同時に、叶えてやりたいとも思った。悄然とする心、そして反骨する心。相反する感情は名状し難いもので。折衷案を提案することにした。すると男は目を大きく見開いた。強く強く、願う。陸に憧れるのなら、人間でなくてもいいだろうと。二本足を手に入れようとしても、上手くは歩けないだろうと。恣意的な思いだと分かりながら、魔法……否、愛という名の呪詛を掛けた。──翌朝、男は甘えるように擦り寄る。脚が生えていて、歩いている。少しぎこちないが、さほど気にはならない。美しい鱗も、靡く尾ひれも、呼吸のあぶくも、消え失せた。能面のような、抜け殻のような、表情だけが、俺を見ていた。

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「恋人は鮭であり、蟹である」 @laviyua

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