放課後の屋上

君山洋太朗

放課後の屋上

夕日が校舎の向こうに傾きかけた頃、佐藤は屋上のドアを静かに押し開いた。金属製のフェンスが屋上の縁を囲み、その向こうには四階分の高さが口を開けている。彼は制服の胸ポケットから折り畳んだ紙を取り出し、そこに記された数式を眺めた。物理の公式だった。落下速度、重力加速度、着地時間。冷徹な数字が並んでいる。


佐藤はその紙をポケットに戻すと、フェンスに近づいた。金網の向こうに見える中庭は、放課後の部活動に励む生徒たちで賑わっている。野球部の声が風に乗って聞こえてくる。彼らの声は遠く、まるで別世界のもののように響いた。


両親は彼を進学校に入れ、医学部への道筋を敷いていた。成績は常に上位にあったが、それは彼が望んだことではなかった。ただ期待に応えるために勉強し、期待に応えるために生きてきた。だが今、その重圧は彼の肩を押し潰そうとしている。


「今日だ」


佐藤は呟いた。夕日がフェンスの影を長く伸ばし、彼の足元に幾何学的な模様を描いている。彼はフェンスに手をかけ、足を金網にかけた。



金属の冷たさが手のひらに伝わってきた瞬間、背後でドアが開く音がした。佐藤は振り返る。同じクラスの女子生徒、田中が立っていた。彼女は普段、教室の最後列の窓際に座り、休み時間も一人で本を読んでいる。佐藤とは言葉を交わしたことがなかった。


田中は佐藤の存在に気づいていないようだった。彼女もまた、ゆっくりとフェンスに近づいてくる。その足取りには迷いがない。佐藤は息を呑んだ。


田中は佐藤から三メートルほど離れた場所で立ち止まり、フェンスに両手をかけた。そして躊躇することなく、足を金網にかけ始める。


「待て」


佐藤の声が屋上に響いた。田中は動きを止め、ゆっくりと振り返る。二人の視線が交わった瞬間、言葉を失った。佐藤の手もフェンスにかかっている。田中の目が見開かれる。


「あなたも」


田中が小さく呟いた。


「君も」


佐藤が答えた。


風が吹き抜け、田中の長い髪が舞った。二人はしばらく無言で立ち尽くしていたが、やがて佐藤がフェンスから手を離した。田中もそれに続く。



二人は屋上の中央に並んで座り込んだ。コンクリートの冷たさが制服越しに伝わってくる。夕日は更に傾き、空が茜色に染まっていく。


「なぜ死にたいの」


佐藤が問うた。直接的すぎる質問だったが、今の状況では遠回しな言葉は意味をなさない。


田中は膝を抱えて答えた。


「生きる理由が見つからないから。毎日同じことの繰り返し。学校に行って、家に帰って、宿題をして、寝る。明日も明後日も同じ。何のために生きているのかわからない」


佐藤は頷いた。


「僕も同じだ。死ななければならない理由はない。でも、生き続ける意味も見つからない。両親の期待、学校の競争、全てが重荷でしかない」


田中が顔を上げた。


「でも、なぜ人は自殺してはいけないのかしら。誰もがそう言うけれど、その理由を論理的に説明できる人はいない」


「親が悲しむから、とか」


「それは親のためであって、自分のためじゃない」


「社会の損失になるから、とか」


「私が死んでも社会は何も変わらない。代わりはいくらでもいる」


二人の議論は続いた。宗教的な観点、道徳的な観点、様々な角度から生と死について語り合ったが、答えは見つからない。ただ、言葉を交わすうちに、互いが同じ孤独を抱えていたことを知った。


「クラスではいつも一人だったね」


佐藤が言った。


「あなたもよ。成績は良いけれど、誰とも話さない」


「話す理由がなかった」


「私もそう思っていた」



空が深い紫色に変わり始めた頃、田中がふと呟いた。


「もし私たちが死んでしまったら、この会話もなかったことになるのね」


佐藤はその言葉に動揺した。確かにそうだ。今こうして二人で死について語り合っていること、この瞬間そのものが、生きている証拠ではないか。


「奇妙だな」


佐藤が言った。


「死について語り合っているのに、これほど生を実感したことはない」


強い風が吹き、田中の髪が激しく舞った。彼女は髪を押さえようとして手を上げたが、風の勢いに負けて髪は顔を覆い隠してしまう。佐藤はその様子を見て、思わず笑った。田中も髪をかき上げながら笑う。


死について語り合う場面で笑いが生まれることの不条理さに、二人とも気づいていた。だが、その笑いは確実に存在している。


「死にたい気持ちは消えない」


佐藤が言った。


「でも、今日はもう遅い。一緒に帰ろう」


田中は立ち上がりながら答えた。


「そうね。死ぬのはいつでもできるけれど、この会話は今日しかできなかった」



二人は屋上を後にし、階段を下りて校庭に出た。夕焼けに染まった中庭を並んで歩く。部活動の生徒たちの声がまだ聞こえているが、もう遠い世界のものには聞こえない。


佐藤の内心には、まだ死への衝動が残っている。明日もその衝動は続くだろう。だが今は、別の感覚がその衝動と並存している。田中との会話、二人の笑い、風に舞う髪。それらは論理的に生の意味を証明するものではないが、生の実感として胸に刻まれている。


校門に向かう道で、二人は無言になった。言葉はもう必要なかった。その沈黙は、死を否定する答えにはならなかったが、生を肯定する小さな余白のように思えた。


夕日が完全に沈み、街灯が灯り始める。明日、彼らがどのような選択をするかはわからない。ただ一つ確かなことは、今日という日が、二人の記憶に刻まれたということだった。


「じゃあ…また明日」


「うん…またね」


つい数十分前まで死のうと思っていた二人はそんな挨拶にわずかに笑いをこぼす。


校門を出て行く二人の後ろ姿は、夕闇に溶けていった。


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