「サンリオの狂気」とは何だったのか:新自由主義とケアの倫理から読むマイメロディ
𝐿𝑢𝑐𝑦
時代の写し鏡としてのマイメロディ
2025年、サンリオの人気キャラクター・マイメロディとクロミが、Netflixオリジナル作品『My Melody & Kuromi』として再びアニメ化された。
マイメロディがアニメで初登場したのは20年前、2005年の日曜朝枠で放送された『おねがいマイメロディ』である。「100個集めれば願いが叶う」というダークパワーの結晶・黒音符を狙うクロミ一味と、それを阻止し仲間とともに夢を守ろうとするマイメロディたちとのコミカルで奇妙な攻防を描いた同作は、2009年までに4シリーズが制作され、2012年には劇場版映画も公開されるほどの人気を博した。また、このアニメから誕生したクロミは、2022年から3年連続でサンリオキャラクター大賞第3位に輝くなど、いまやマイメロディを凌ぐほどの人気を誇っている。
当時、高校3年生のロック少女だった私は、アニメや可愛いキャラクターものとはすっかり縁遠くなっていた。そんなある日、姉とリビングでだらだら過ごしていると、テレビに見覚えのあるピンクのずきんが映ったのである。「マイメロやん」。特に観たい番組もなく、そのまま視聴していた私たちは、すぐに衝撃を受けることになる──このマイメロ、とにかくヤバいヤツなのだ。
マイメロは魔法を発動する際、「まいめろめろめろ みめろめろ あわせてめろめろ むめろめろ」という早口の呪文を唱えるのだが、どんくさい彼女は高確率で噛むか、こともあろうにまったく別の早口言葉を言い始め、とにかく失敗ばかり。「噛んじゃったぁ」と落ち込み練習を重ねるもののほとんど改善されず、基本的には周囲の助けに頼って事態を収めるのが常である。
しかもマイメロは、セーラームーンでいうムーンスティックのような形の重要アイテム「メロディ・タクト」を持ちながらも、「おねがい♪」と唱えて召喚を終えるとそこで役目終了(そもそも、メロディ・タクトの充電が足りなかったりどこかに落としてきたりして、まともに使えないときすらある)。体力もなく、難しいことを考えるのも苦手なため、周囲が必死に問題解決に奔走している最中に、平然と紅茶を飲んで一息ついていることすらある。その騒動の原因が彼女にあったとしてもだ(そもそも、すべての元凶「ダークパワー」が解き放たれたのも、封印の石を「漬物石にちょうどいい」と家に持ち帰ったマイメロのせいである)。
正統派女児向けアニメから大きく逸脱し、マイペースを通り越して完全に「ヤバいヤツ」と化したマイメロを中心に展開するカオスな物語は、やがて「サンリオの狂気」と呼ばれ、多くのファンを獲得した。私たち姉妹も例外ではない。気づけば20年近く経った今でも、姉妹そろってマイメロに特別な愛着を抱いており、カレンダーやポーチ、メイク用のヘアピン、洗濯ネットに至るまで、生活のあちこちにマイメロが潜んでいる。
だからこそ、その質の高さで知られるNetflix作品としてマイメロが復活すると聞いたときは、胸が高鳴った。監督は『PUI PUI モルカー』で可愛さと社会風刺を融合させ、密度の高いストーリーテリングで大ヒットを生んだ見里朝希。脚本は、自らを「大のマイメロファン」と公言し、キャッチーな会話劇で観客を惹きつけてきた劇作家・根本宗子。20年前のアニメと座組こそ異なるものの、マイメロの狂気は健在だった。
マリーランドで、お友達のフラットくんとピアノちゃんとケーキ屋を営むマイメロ。店は行列ができるほどの盛況ぶりだが、マイメロは午後3時になるときっちり店を閉めて仲良くティータイムに入り、その後「ちっちゃく寝るね」と仮眠をとるルーティンを崩さない(なお、低気圧の日は店を開けない)。フラットくんたちに畑仕事をまかせ、森へいちご狩りに出かけても、「まかせて!」と張り切った直後には当然のごとく迷子になり、「わからないときはひとやすみが一番ね♪」と呑気にストロベリーティーを決め込む始末。ケーキ屋なのにセロリ入りスムージーを出してみたり(なお人気商品になる)、ピアノちゃんがDJにハマればBGMをクラブミュージックにしてみたり(当然クロミに突っ込まれる)と、とにかく自由奔放だ。そして、物語終盤の重要な場面では、主役でありながら3分の2ほど眠りこけ(戦闘シーンで蚊帳の外だった『おねがいマイメロディ』シリーズを彷彿とさせる)、見逃した和解シーンについて「もう1回やってぇ〜!マイメロも堪能した〜い!」とクロミに泣きつく破天荒ぶりである。
これまでのマイメロ像を踏まえつつ、愛情をもって再解釈された物語は、往年のファンである私にとっても十分に楽しめるものだった。
しかし、その満足感の中でふと疑問が浮かんだ。「サンリオの狂気」と呼ばれてきたマイメロディは、本当に狂気だったのだろうか。そもそも、私たちが狂気と感じていたものの正体とは一体何だったのか──本稿は、マイメロのファンである私がその作品を通じて、この20年の社会の様相、そして人間らしさをめぐる問いについて考えるものである。
■ 新自由主義の影と2人のヒロイン
マイメロディのアニメが放送されていた2000年代後半は、日本だけでなく世界規模で新自由主義が台頭していた時期だった。
新自由主義は、1970年代の経済危機を契機に広まった思想で、市場の自由こそが個人の自由を保障するという立場をとる。現実には、福祉国家や開発主義国家の体制が揺らぐなかで規制緩和や公共サービスの民営化が進み、公的保障や組織的セーフティーネットが縮小。結果として、社会的リスクが個人に転嫁され、自由の名のもとに、自己責任の言説が強まっていくこととなった。
この流れは教育や労働市場にも及んだ。とくに1990年代以降に子ども時代を過ごした世代は、教育制度や就職活動の中で、社会にコストをかけず成果を出すことを前提に、未来から逆算して自己管理することを求められたのである。
教育社会学者・本田由紀らの著書『「生きづらさ」の臨界:“溜め”のある社会へ』によれば、その管理対象は学力やスキルにとどまらず、意欲・人間力・創造性・協調性といった全人格的な要素にまで拡大。社会が理想とする「器用に立ち回れる人間像」になるための最適化を迫られ、わずかな不器用ささえ許されず、常に自己責任のプレッシャーに晒されることになったのである。
そのような社会のムードは、当然メディアにも反映された。そのわかりやすい先駆例が、1990年代に社会現象となった『美少女戦士セーラームーン』だろう。
主人公・月野うさぎは、天真爛漫な普通の中学生でありながら、突然「セーラー戦士」という天職を与えられる。それは偶然ではなく、30世紀の未来に「ネオ・クイーン・セレニティ」となる運命が決まっているがゆえに課される使命だ。つまり彼女は、未来の確定した自己像を前提に、そこから逆算して現在を管理し成長していくことを求められ、その中で戦いに身を投じていくキャラクターだったのである。
さらに、セーラームーンで評価されるのは戦闘力だけではない。仲間を信じる心、母性的な包容力、自己犠牲をいとわない献身など、人格そのものが価値の対象として扱われた。キャッチコピーの「愛と正義のセーラー服美少女戦士」はまさにそれを象徴しているといえるだろう。
表面的には「ドジで泣き虫」という未熟さを抱えてはいるが、それすらも成長という人格の物語に回収され、理想の未来に向けて自己をチューニングし続ける──セーラームーンは、新自由主義的価値観を先取りした作品だったといえるのではないだろうか。
そして2000年代後半、こうした新自由主義的価値観がすっかりスタンダードとなった社会に現れたマイメロディは、あまりにも異質で、だからこそ狂気だった。
魔法の呪文は高確率で噛んで失敗し、しかも一向に上達しない。その天然ぶりから生じる騒動も、結局は仲間がカバーする。この姿は、自己責任や成果主義を求める新自由主義の規範とは真逆のものだ。
本来なら戦いの中心に立つはずのアイテムの使い手でありながら、実際にはお助けキャラを呼ぶだけで役割を終え、自らリーダーシップや成長を示すこともない。これも、未来の理想像に合わせて自己を調整し続けるセーラームーン的な規範と比べると、その落差はあまりにも鮮やかである。
Netflix版でもその姿勢は変わらない。ケーキ屋は大盛況なのにきっちり午後3時で閉店し、低気圧ならそもそも休業するという選択は、成果の最大化とは程遠い。ケーキ屋とは思えないメニューやBGMも、戦略的合理性からは大きくかけ離れている。
マイメロはただ一貫して、不器用さを抱えつつも「自分らしくありたい」「今をみんなと楽しみたい」という姿勢を貫いていることが描かれているのだ。
改めて考えると、なぜこの姿勢が「狂気」と呼ばれたのだろう。もちろん、アニメとしてコミカルさやシュールさが誇張された部分はあるにせよ、本質的には、むしろ彼女は新自由主義的価値観から最も遠い場所で、当たり前の人間らしさを体現していたのではないか。失敗してもひとりで背負い込まず、苦手なことは素直に明かして仲間に頼る。成果や効率よりも、日々の幸せや健やかさ、他者と過ごす時間を大事にする──その姿は、「社会にコストをかけてはいけない」「不器用さは排除されるべき」という自己責任の圧力とは対極にあるものだ。
マイメロディは、狂気的なのはむしろ新自由主義の側だと私たちに気づかせ、そこに魔法のように風穴を開けたキャラクターだったのではないかとすら思えるのだ。
■ 狂気からケアの存在へ
思えば『おねがいマイメロディ』の監督・森脇真琴は、第6回 新千歳空港国際アニメーション映画祭でのトークで、自身のルーツとして大島弓子を挙げていた。愛読書は代表作『綿の国星』だという。
大島作品の愛らしさに潜む不穏さ、純粋な悪の不在といった特徴もさることながら、家事や食事といった日常の営みの尊さを描く点は、まさにマイメロディに通じるところだ。彼女は壮大な戦いに身を投じるのではなく、お気に入りの紅茶を淹れる・お昼寝をする・時間になればきちんと休むといった日常のリズムを守る。その行動はマイメロを、未来のために自己管理や自己犠牲に努める、さながら「人的資本としてのヒロイン」から逸脱させていくものだ。
さらに『綿の国星』のチビ猫と同じく、マイメロが無力で愛らしい存在として描かれる点も重要な共通項だろう。マイメロは、強大な力で敵を打ち倒すのではなく、家事やお菓子作りといった小さな営みで周囲を癒やし、騒動の中でもその気弱さや勘違いが笑いを呼んで関係性を和らげていく。魔法さえも相手を破壊するためではなく「元の状態へ戻す」調整の力にすぎず、その非力さこそが周囲を笑顔にし、場を組み替える契機となっている。
そんな非力さの肯定は、大島作品に通じながら同時に、2025年現在に注目されている「ケアの倫理」とも深く響き合うものがあるように感じる。
ケアの倫理とは、1980年代にアメリカの思想家キャロル・ギリガンらが提唱した概念で、「正しさ」や「合理性」を基準とする倫理学に対し、日常的なケアや他者への配慮を中心に据える考え方だ。少子高齢化によるケア労働の重要性の増大や、フェミニズムによる「見えない労働」の再評価といった背景もあるが、何より新自由主義社会の限界が露わになったことが、その注目を後押ししているといえるだろう。
新自由主義のもとでのケアは、しばしば「成果のための投資」へとすり替えられてきた。健康管理は労働生産性を落とさないための義務とされ、協調性や優しさでさえ就職活動などにおける「人間力」として数値化される。つまり、ケアは本来の「ただ相手に寄り添う営み」ではなく、「将来のリターンを生むための自己責任的な管理」へと変質してきたのである。
だが、マイメロは違う。将来から逆算して自己を最適化することも、成果や評価のために自分や周囲との関係性を投資対象のように扱うこともしない。時間になれば仕事を切り上げて仲間と楽しい時間を過ごし、そのあとはゆっくり自分の体を労り、不器用さや弱さは、自分の分も他人の分も受け入れ合って、相互扶助の関係を築く。その姿は、新自由主義の観点から見れば不真面目で、狂気として映るだろう。だがそこには、目の前の相手とその瞬間を大切にし、完璧ではなくとも自分なりの仕方で関わろうとする姿勢──すなわち「ケアの倫理」が息づいているはずだ。
そのようなマイメロディの価値観は、物語中盤の台詞によく表れている。
思いがけないトラブルによってマリーランドが荒れ果て、ふたりきりになったマイメロとクロミ。緊迫した状況にもかかわらずマイメロはいつも通り紅茶をねだり、クロミに突っ込まれるのだが、そこでマイメロはこのように返す。
「わかってるよ。
わかってるから、いつも通りのマイメロでいるの。
でも、合ってるかわかんないの。
マイメロが優しいって思ってることって、本当は優しくないのかもしれないの。
でも、好きな人にはいっぱい優しくしたいの。
マイメロのさじ加減でしかできないの……。
だから今、目の前にいるクロミちゃんには、マイメロのできるいつも通りをやってるの」
正解がわからなくても、目の前の大切な人に優しくしたいという姿勢。ここでは、正しさや成果などの新自由主義的な物差しは二の次であり、むしろ不器用で頼りない在り方こそが、関係性をやわらかく編み直す力となる。
今回脚本を務めた根本宗子は、深刻さと滑稽さを両立させた中毒性のある会話劇で知られるが、その中で強調するテーマに「人と人とはどうしようもなく“わかり合えない”。それでも諦めたくない」ことがあると、雑誌「宣伝会議」2022年7月号のインタビューで語っている。これは小説『今、出来る、精一杯。』の取材時の言葉であるが、不器用ながらも他者と向き合い続けようとする視点は、マイメロディというキャラクターとも重ね合わせることができる。
こうして、2000年代後半の『おねがいマイメロディ』で新自由主義的な成果主義・自己責任の枠組みから逸脱したマイメロディは、20年後、「ケアの倫理」が注目されるこの時代に、根本宗子という「わかり合えなさの中で対話を諦めない」作家の手で再解釈されることで、ついに「ケアを実践する存在」として明確に浮かび上がったように思う。
マイメロディの歩みは、ひとつのキャラクター史であると同時に、私たちの社会が「人間はいかにあるべきか」を問い続けてきた歴史の写し鏡でもあるのかもしれない。そして、新自由主義がいまだに強く根を張る現在において、その物語がこうして再び語られたことは、決して偶然ではないように思うのだ。
「サンリオの狂気」とは何だったのか:新自由主義とケアの倫理から読むマイメロディ 𝐿𝑢𝑐𝑦 @rax_lycia_0343
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