第3話 灰塵に舞う影
この距離、この角度——衝突コースだ。
リアは歯を食いしばる。
(間に合え……!)
彼女は操縦桿の根元にある封印済みの赤バルブに手を伸ばした。父が決して触れるなと言い残していた、緊急過給の直結弁。
「リア、それは——」
ミルダの制止は遅い。リアは弁をひねった。
クロックハートが胸元で脈動した。
朱色の光が一瞬、甲板の隅々まで走る。
エンジンの回転音が叫びに変わり、飛行艇が前にも後ろにもない奇妙な浮き上がり方をした。
(……押し上げられてる?)
まるで見えない掌で持ち上げられるように、機体がふわりと敵艦の鼻先を越える。
すれ違いざま、敵の砲口が目の前で空を切った。
「今のは何……?」劇場の娘が震える声を漏らす。
リアは喉がからからで、答えられない。
ミルダだけが、クロックハートの微光を見つめていた。
「共振……。旧世界の浮揚炉と似た反応。でも、この規模で……」
背後で空賊船が体勢を立て直す音。
追撃は終わっていない。
雲の向こう——もう一つ、さらに大きな影が姿を現した。
艦首に牙のような装飾、三連装の蒸気砲。先ほどの船とは比べものにならない、旗艦級。
「第二艦、来る」
ミルダが告げる。
リアは舵輪を強く握り直し、視線を下に落とした。
雲の切れ間、そのさらに下に、緑がかすかに見えた……いや、違う。毒霧の表面に陽光が反射しているだけだ。
ここから下は死の海。逃げ道は、上か、雲の中か、敵艦の影を逆手に取るか。
「選ばなきゃ」
リアは深く息を吸い、決めた。
「雲に入る。ミルダ、前方の風向シフターを二段に。娘は伏せて、ロープを掴んで!」
「了解」
「は、はい!」
飛行艇は灰色の幕へ突っ込む。
水分を含んだ冷たい粒子が頬を打ち、視界が一気に白く潰れた。
後ろで第二艦の砲声。煙と衝撃波が雲を震わせ、機体が大きく弾む。
だが、視界ゼロの中でこそ、整備士の勘が生きる。
リアは風切り音と機体の振動で角度を測り、微妙な舵の当て方で乱流をいなしていく。
「右、上昇気流」
ミルダの即答。
リアは右に切り、上昇気流に乗せる。機体が一段と軽くなり、雲の頂へ向かって押し上げられる。
「今だ——!」
雲頂から飛び出すと同時、リアは機体をロールさせ、敵艦の死角へ滑り込ませた。
二隻の間にできた一瞬の陰。そこは砲も索敵も届きにくい狭い帯だ。
甲板上では、ミルダが瞬時に残った接舷ロープを回収し、切断したフックを逆に投げ返す。
敵のマストに絡みつき、こちらの進路に合わせてピンと張られた。
「引く」
ミルダがウインチを回す。敵艦の帆桁が軋み、わずかに傾ぐ。そのわずかな狂いが、三門の砲口の照準をズラす。
第二艦の砲撃が外れ、白い爆炎だけが遠くに咲いた。
リアは舵を返し、雲の稜線を縫う。
圧力計は悲鳴を上げ続け、ボイラーの止めネジが微かに震えている。限界は近い。
「持って、あと三十秒……!」
自分に言い聞かせるように呟いたとき、風の層が変わった。
都市外縁の上空気流——グレイヘヴンの巨大な歯車群が作る人工の風道だ。
ここに乗れれば、いったん敵の射線から外れる。
リアは最後の力で舵輪を切り、送気ペダルを踏み抜いた。
飛行艇は風道に拾われ、灰色の海を滑るように加速する。
背後で空賊船の影が遠のき、砲声が薄れていく。
甲板に、しばしの静けさが戻った。
リアは両手から力を抜き、深く息を吐いた。指先が汗で震えている。
胸元では、クロックハートがまだ小さく脈打っていた。
「……生きてる」
娘が泣き笑いの声を漏らす。
ミルダは雲間を見張り続けたまま、静かに言った。
「一時離脱に成功。しかし、追跡は継続される可能性が高い。燃料と水の残量、三割」
リアは頷いた。
「港には戻れない。外縁の整備桟橋に着ける。そこで……アッシュを迎えに行く準備をする」
灰空の向こう、雲を透かして、グレイヘヴンの外縁に並ぶ灯りが点々と見えた。
その灯りのどこかで、彼もまた、まだ戦っている——そう信じた。
アッシュは熱と衝撃に包まれ、視界が白と灰色に塗り潰されるのを感じた。耳を裂く轟音、飛び散る破片、そして身体を揺さぶる爆風。思考は途切れ途切れになり、意識は宙を漂うように飛んでいった。
「く……っ……」
必死に身体を支えようとしたが、重力の感覚さえもおかしくなる。船体の破片が周囲を飛び、灰色の空に吸い込まれるようにアッシュは宙を舞った。目を閉じれば、爆風の熱と匂いが鼻腔に突き刺さり、呼吸すら苦しい。
そして、次の瞬間――
意識がふわりと安定し、足元の感触が変わったことに気付く。硬い甲板ではなく、柔らかく温かい布の感触。開けた瞼の先に見えたのは、見慣れたはずの民家の天井だった。
「……ここは……?」
身体を起こすと、見知らぬ部屋の薄明かりに、心底ホッとする自分がいた。灰に覆われた空路から、ほんの数瞬で、温もりある日常の中に落ちてきた。だが胸の奥には、戦闘中に置いてきた仲間たちへの焦燥が残る。
アッシュはベッドの上で、まだ震える手で顔を覆い、灰色の空と熱い戦場を思い出すのだった。
アッシュはゆっくりと体を起こす。灰まみれの服は破れ、身体のあちこちに痛みが走る。だが、それ以上に頭を占めるのは、仲間たち――リアたち――のことだった。
「……船は……リアたちは……」
胸の奥がざわつき、焦燥感が冷たい汗となって額を伝う。外の爆風と戦場の残響がまだ耳に残り、戦闘の緊迫感が現実感を取り戻させる。だが、周囲を見渡すと、民家の静かな室内は異質に落ち着いていた。
かすかな光が窓から差し込み、埃が漂う空気に揺れる。ベッドの上に倒れたまま、アッシュは周囲を見渡す。家具や小物、そしてかすかに香る煮物の匂い――戦場から突如、日常の中へ放り込まれたことが、身体の緊張を一層引き立てる。
「……誰か……いるのか?」
声を絞り出すが、返事はない。耳を澄ますと、遠くで水の流れる音や小さな物音がするだけだ。戦場での爆風、砲撃、仲間の声……すべては夢のように遠い。
しかし、アッシュの心はすぐに決まった。ここでただ休むわけにはいかない。リアたちが無事かどうか、状況を確かめなければ――
手早く身支度を整え、窓の外の灰色の空路を見やる。破片の舞う空と、遠くに見える船の影。爆風で飛ばされた位置はこの民家からそれほど遠くはないはずだ。
「……まずは情報を集めて、船上に戻る道を……」
アッシュは静かに息を整え、足音を立てないように床を伝って民家の中を進む。今はまだ、外界との接触を避けつつ、仲間たちと再会するための手がかりを探す時――。
小さな恐怖と焦燥を抱えつつも、彼の瞳には決意の光が宿っていた。
アッシュは床を伝い、静かに部屋を出た。廊下の木の板はかすかにきしみ、注意深く歩かなければ音が響きそうだ。
やがて、台所の方から小さな声と鍋の音が聞こえてきた。
「……誰だろう……?」
アッシュは息を整え、そっと声をかける。
「……助けてくれたのはあんた達か」
すると奥から、年老いた女性が現れた。驚きと戸惑いが入り混じった表情で、手には布巾を握っている。
「まあ……! あなた、大丈夫なの?」
女性の声は優しくも、少し厳しさを帯びていた。アッシュは大きく頷き、状況を簡潔に説明する。
「爆風に巻き込まれてここに……仲間たちが心配で……情報を……」
女性は一瞬考え込み、やがて決意したように頷く。
「まずは休みなさい。外の様子を知りたいなら、あの窓からよく見える。灰空にある船影も見えるかもしれないわ」
アッシュは感謝を告げ、窓際へ向かう。灰色の霧が立ち込める空路、遠くにうっすらと戦闘の影が見えた。船の影――それは仲間たちの乗る船かもしれない。胸が高鳴る。
「……行くしかない……リアたちの元へ」
アッシュは民家の中で、周囲の物音や住人の動きを確認しながら、慎重に外への出口を探した。庭に続く裏口を見つけ、体を低くして歩く。外は灰に包まれ、足元も滑りやすい。だが恐怖よりも、仲間への焦燥が彼を前へと押し出す。
一歩、また一歩と進み、ついに裏口の扉を開ける。冷たい灰の風が顔を打つ。遠くには空賊船の影と、破片が舞う戦場が見えた。
「……行く……!」
決意を胸に、アッシュは灰色の世界へと踏み出した。民家の温もりを背に、戦場へ戻るための足音が静かに、しかし確かに灰空に響いた。
灰色の霧が立ち込める空路に、アッシュは身を低くして飛び出した。破片の舞う風が顔を打ち、目に入る灰をかき分けるように視線を凝らす。遠くに、リアたちの船影がかすかに揺れて見えた。
「……間に合うか……」
彼の胸は高鳴り、腕に力を込める。周囲の空気は重く、戦場の残響が耳を刺す。煙と灰の中で、船の帆や錆びた歯車の輪郭が断片的に見え、彼はそれを頼りに進む。
飛行装置のエンジン音が遠くで響き、空賊の砲撃が灰を巻き上げる。アッシュは破片を避けつつ、全身の感覚を研ぎ澄ませる。左手でバランスを取り、右手は武器を握る。
「……あそこだ!」
船影が近づくにつれ、仲間たちの姿が視界に入る。リアの鋭い指示、銃口から放たれる閃光、そして空賊船の砲撃が交錯する。アッシュは息を整え、仲間たちの戦闘ラインに合流するタイミングを探る。
空気を切る音、爆風の衝撃、そして灰の匂い――すべてが戦場の鼓動となる。アッシュは勇気を振り絞り、速度を上げる。
「リア! アッシュだ!」
声は届かないが、視線で意思を伝える。仲間たちも彼の姿に気づき、戦線の空間が一瞬だけ歪む。互いの位置を確認しながら、アッシュは次の動きを決めた――船の舷側を経由し、空賊船に向けて一気に突入する。
灰に沈む空路を、彼の身体は飛翔する。胸の奥の焦燥と決意が、今や彼を戦場の中心へと押し上げていた。
だが、視界の先でリアたちの飛行船は灰色の霧を切り裂くように、外縁の整備桟橋へと向かっていた。爆風の余韻でまだ耳鳴りが残るアッシュは、瞬間的に判断を迫られる。
「……行くしかない……!」
彼は飛行装置のレバーを握り、全身の感覚を集中させた。灰に沈む空路を切り裂くように、身体を前傾させ、速度を上げる。遠くの桟橋に向かうリアたちの船影は、霞む灰の中でも確かに見えた。
飛び交う破片、砲撃の残り火、煙の匂い――すべてが戦場の緊迫感を帯びてアッシュを包む。彼は意識を研ぎ澄ませ、船の軌道と風の流れを計算しながら、仲間たちとの距離を詰める。
「……あの桟橋まで……絶対に……」
灰色の空を切る風に身を任せ、アッシュは桟橋を目指してひたすら進む。遠くの戦闘音や砲撃はまだ耳に残るが、彼の目の前にはただ、仲間たちと再会するための道だけがあった。
破片をかわし、灰を蹴散らしながら、アッシュは飛行船の後を追う。決意を胸に、灰空の戦場を疾走する彼の影が、霧の中に一筋の線となって伸びていった。
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