ラムセス大王展に行ってきました

みかみ

1話読み切り

 私には、どうしても会いたい人がいた。

 その想いを叶えるべくラムセス大王展を訪れたのは、恵みの雨で暑さがほんの少し和らいだ八月中旬のこと。

 考古学者の先駆けとして偉業を成した、カエムワセト王子。彼の石像が、展示されているのだ。

 カエムワセトは、ラムセス二世の第四王子。享年90歳越えという超絶長生きの父王よりも早世したために、玉座を逃した息子の一人だ。彼は紛れもなく、父王ラムセスの華々しい時代を支えた才人の一人で、九百年後のプトレマイオス朝時代でも『賢者』や『魔術師』として語り継がれた。

 知恵者で、考古趣味の王子様。そんな彼は、古代エジプトとファンタジーが好きな私の創作意欲をこれでもかというほど刺激した。

 かくしてカエムワセトは、私の『推しメン、ナンバーワン』に君臨したのだ。

 古代の大賢者に会うべく、私は夫と二人の子供達と共に夜行バスに揺られ、池袋に到着した。時刻は朝の七時前。電車を乗り継いで、開館の三十分前に列に並ぶ。

 湿度は高かったが日差しは穏やかで、さほど苦にはならなかった。

 何より、待ちわびていた空間が扉の向こうに広がっているのだと思うと、息子が繰り返す「あと何分?」でさえ、打ち上げ花火会場を盛り上げるカウントダウンに聞こえた。

 その日のラムセス展は、朝一番ということもあってか、ゆっくり見て回れるくらいの混み具合。

「じゃあ先生、蘊蓄よろしく」

 からかってくる夫に、「恥ずかしいので勘弁してください」と大真面目に答え、溜めこんだ知識を元に展示物を堪能する。

 憧れの古代エジプト文明。しかも、私が大好きな新王国時代の遺産ばかりが並んでいる。

 写真では味わえないリアリティが溢れていた。

 獅子の石造は、浮かび上がる肋骨が実に美しかった。引き延ばされた皮膚と筋肉を表現している緩やかな曲線に、職人の技巧と美学を感じた。

 人物の彫刻は、肩を作る三角筋の力強いライン、上腕二頭筋のなだらなか膨らみがリアルだ。鬘の細く小さな編み目模様は、鑿を立て、槌で打ち、彫り上げたのであろうか。

 展示一つ一つに、職人のド根性が宿っていた。

 美しい。素晴らしい。古代エジプトを好きになってよかった。

 目の前にあるのに絶対に触れてはならないという禁制が、胸の奥と指先をムズムズさせ、得も言われぬ快感で満たされる。自称変態の血が大いに騒いだ。

 一方で、より細やかな技術を要する装飾品には、当時の匠の限界がみてとれた。最高の宝飾職人の腕をもってしても、現代のような完璧な円を作ることはできなかったのだろう。少なからずの歪が目立つ。しかしそこがまた愛おしかった。

 すべてが正真正銘の一点ものだ。大量生産大量消費の現代とは真逆の産物だ。古代エジプトは、まさに職人の檜舞台だったのかもしれない。

 一緒に観賞する娘にほんの少しの講釈を垂れながら、一つ一つ、展示物との別れを惜しんでゆく。そしてとうとう、その瞬間がやってきた。

 ラムセス二世の息子、第四王子カエムワセトの石像を、フロアの隅に見つける。

 胸が高鳴った。

 大王ラムセスではなく、その息子の石造一つを最大の目的にこの会場に足を運んだ人間は、今日、もしかしたら私くらいかもしれない。

 すぐにでも殿下の御前に向かいたい思いを抑えつつ、殿下と私達の間に並ぶ展示物を眺める。順番に、順番に……。

 灰色の像の前にそっと立った時、興奮は幾分落ち着いていた。

「これがお母さんが書いてる小説の人?」

 娘が訊いてくる。

 さよう。砂漠の賢者カエムワセトだ。娘よ。

 クリアケースの中のカエムワセト像は、おそらく縦六十センチほど。想像よりも小さかった。鼻が砕け、左肩も少し欠けている。しかし、腓骨がくっきりと浮かんだ下腿、頑丈そうな鎖骨、大地をしっかりととらえている長い足指の彫刻が生き生きとしていた。

 右から、左から、そして後ろからも、じっくりと観賞する。

『古代エジプト』という文明の深淵は、病で多くのものを失った私に楽しみをもたらしてくれた。偉大な功績を残しながらも知名度が低い王子様は、私に古代エジプト小説を書くきっかけをくれた。

 殿下。あなたは紀元前を生きた人である。古代エジプトの天国、イアル野の住人だ。

 あなたの姿も、声も、人生も、全ての有り様は遺物と想像に頼るのみ。

 石像にそっと合掌する。

――ああ、私がイタコだったらよかったのになぁ……。

 普段の脳内会話だけでは飽き足らず、ご本人(の魂)を呼び寄せる気満々の、危ない日本人のオバハンを前に、カエムワセト像は微かに笑っていた。


~おしまい~

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