第34話 真偽
昼間の暑さを残したまま、夜になっても蝉が鳴き続けていた。
「この煮物とても美味しいですね」
「はい。私も同じことを思っておりました」
「あっそうだ、昼間の話なんですが」
「採寸のお話ですよね?」
「はい。さっそく明日からお願いできますか?納期まで時間がなくて」
「もちろんです。お店の方へ伺えばよろしいですか?」
「店は他の客もいて落ち着かないので、紫哭の家でやることにしました」
「えっ・・・。そうなですか」
思わず箸が止まってしまった。てっきりこの屋敷か店で行うのかと思っていた。口に含んでいた甘い煮物が舌の上で、ざらざらした感触だけを残していく。ごくりと呑み込むと胸に支えそうになった。
「店からも近いですし。その方が道具も揃っていて、なにかと便利なんです」
できることなら、紫哭様に会うのを避けたかった。宴の日以来、会っていない。お見合いの話はどうなったんだろう・・・。
若旦那様に名前を呼ばれているのに気づき慌てて顔を上げた。
「どうかされましたか?」
「あっ、明日から少し早く起きなければと思って。考えておりました」
「ハハハ。そんなことを?いつも通りでいいですよ」
若旦那様の後ろにある金魚鉢。こないだ、水草を入れて一層元気そうにしている。その中で金魚が二匹悠々と泳いでいる。交差しながら、くるりと身体の向きを変えて、誰にも邪魔されることなく泳いでいる。
「そういえば昼間・・・いや、やっぱりいいか」
「なにか?」
「あぁ・・・・えっと、昼間、妖のような少年と一緒にいたのを見た気がして・・・違っていたらすみません」
スッと首筋に冷たい汗が伝った。
「・・・あ、あの子は町の子らしいです。たまたま話しかけられて」
「そうだったんですか。なら良かった。変なことを聞いてすみません。・・・先日、あんなことがあったばかりだから。その・・・心配で」
『全て妖のせい・・・』朝もそう言っていた。以前の嫌悪感から、憎悪に変化しているようだった。
あの件で傷ついているのはわかる・・・。でも、妖のせいだけじゃないはず。
「あっすみません。暗い話になってしまいましたね。今のは忘れて下さい」
若旦那様は眉を下げながら笑った。手を合わせ食事を終わらせた。
内側に隠している重みが、更に増していく・・・。震える身体で庇ってくれた若旦那様。その思いに報いたいと思うのに。一つの秘め事が、私の胸に深く喰い込んでいく。
「もうこんな時間か。さて、そろそろ風呂にでも入るか」
蕗子様が、私に頭を下げた姿が脳裏をかすめた。
とっさに湯殿に向かおうとしている若旦那様を呼び止めた。
「あの、若旦那様・・・。よ、よろしければお背中をお流ししてもよろしいでしょうか?傷の処置もまだありますので」
腰を上げた若旦那様に私はそう申し出ていた。
心に沸き上がるのは、どれも愚問ばかりだった。私は若旦那様に好いてもらわなければ。そういった存在にならなければ・・・。
□□□
「失礼します」
湯けむりが立ち込める湯殿には檜の香りが満ちている。
私は肌襦袢を着たまま膝をついた。目の前には、背中を向けて浴椅子に座る若旦那様。桶には熱いお湯が入っている。そこにてぬぐいを染み込ませた。
ごつごつとした背骨が視界に入った。初めて見る素肌の背中。首筋から腕にかけて、お湯が滴っている。ぽたりと雫が落ちた。
すみません、と若旦那様の声が反響していく。申し出ておきながら身体が委縮していた。その脇腹には生々しい刀傷がまだ残っていた。
「八千さん・・・無理しないでくださいね」
「私は若旦那様の妻になるんです。これくらい・・・」
これくらい、やらないと・・・。てぬぐいを強く絞り若旦那様の背中に当てた。広くて大きな背中を上から下へと拭いていく。
「雪華のこと・・・。本当のこと、なにも言えずに申し訳ないと思っています」
「若旦那様が話せるときまで八千は待ちます」
「ありがとう」
「それに人は、なにかしらの秘密を持っています」
「・・・ええ、そうですね。だから、僕も目を瞑ってきた」
若旦那様がカタン、と浴椅子を後ろにずらした。若旦那様の身体はじんわりと汗が滲んでいた。水滴が鎖骨から流れていく。真直ぐに視線が落ちてくる。
「僕に、なにか隠していませんか?」
桶が足に当たり、横に倒れてしまった。籠った息が口から零れていく。
「なにを・・・なにも隠してなんかいませんよ」
まさか、気づかれた・・・?そんなわけない。絶対に気づかれてはいけない。私が妖だということは――。
若旦那様の顔を見ないまま、私はてぬぐいをお湯で何度も洗った。その手首を掴まれた。
「――本当は紫哭のことが、好きなんじゃないですか?」
「・・・えっ?」
間の抜けた声が出た。
「夏祭りの日・・・八千さんの帰りを庭で待ってたんです。そのとき門の前で、二人を見かけました」
「ちっ……違います。私は若旦那様だけです・・・!」
「別に攻めるつもりはないんですよ。僕が言えた口じゃない・・・。最初にここへ来たときも言いましたよね。貴方はまだお若い・・・。だから、違う方と歩む道だって――」
「だめっ!そんなこと許されません。私は、若旦那様と一緒になりたい。いいえ、ならなければいけないんです」
人が嘘をつくから、妖は騙のか。
妖が騙すから、人は嘘をつくのか・・・。
「ありがとうございます。もう、この話は二度としません」
「わか・・・」
若旦那様は優しく私の頭を撫でた。抱きしめられたり、口づけをされるよりも、こうするとが、私が一番落ち着くと知っているから・・・。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます