第30話 泡沫


 そのとき、廊下側の襖が破れる音に、雪華さんは身体を怯ませた。


「ガハッゴホッ……」

「八千さん!!?」

「これは一体どうなっているの!?」


 一気に空気が肺に流れ込んでくる。咳き込む私に若旦那様が駆け寄った。上体を起こすと、首についた鱗が畳に落ちていく。廊下には蕗子様と数名の使用人がいるようだった。


「そ、蒼蜀様・・・違うのよ、八千様が・・・八千様がいけないの」

「雪華の声・・・?」

「そう、そうよ蒼蜀様」


 雪華さんが足を引きずりながら、暗闇を見渡す若旦那様に近づいてくる。若旦那様は持っていた灯りを部屋の奥へと向けた。


「うわああっ!!・・・く、来るな!化け物っっ!!」


 その言葉に雪華さんの足が止まった。


「まさか、雪華なの・・・?」

「えっ!?」


 廊下からの蕗子様の声に若旦那様が振り返ると、もう一度、目の前に立っている雪華さんを見た。雲が通り過ぎ、月の灯りがゆっくりと部屋に戻って来る。

 身体中に付いた白銀の鱗に、片目は蛇のような尖った瞳孔。若旦那様は大きな身体をカタカタと震えさせた。


「そう、しょくさ――」

「ヒィィ……!!」

「どうして?私は・・・私は、貴方のために・・・貴方が生きて欲しいと言うから」


 若旦那様は四つん這いで床の間まで這い、飾られた刀を手に取った。鞘を抜くと、その矛先は雪華さんに向けていた。


「来るなっ!!」

「止めなさい!蒼蜀!!」

「うわぁぁぁあ!!」


 蕗子様の張り詰めた声。それとほぼ同時に私は若旦那様の足にしがみついた。


「いけません!!」」

「・・・はっ離してください!!」

「いけませんっ・・・!いけませんっ!!この方は雪華さんです。殺めれば、若旦那様も傷つくことになるっ!」

「あんなの雪華じゃないっ!僕が愛していたのは、清らかで優しい――こんな醜い化け物じゃない!!」

「醜くなどありませんっ!!雪華さんは、わか……若旦那様を愛したからこそっ・・・このような姿になったんですよっ!!」

「違うっ・・・違う!」

「例え怪異を畏れても、人や妖を傷つけていい理由にはなりません」


 若旦那様の手から刀が落ちた。身体から力だ抜け畳に崩れ込んだ。その身体を支えると、頬が濡れていた。違う、違う・・・とうわ言のように繰り返している。


「蒼蜀っ!」


 蕗子様が駆け寄り、若旦那様を抱きしめた。


 立ち尽くす雪華さんを見上げると、口角を弓のように上げている。左目には涙が溜まっている。瞬きをすると左側の頬だけに流れた。


「なぜ私を見てくれないの・・・。私を、私だけを、見ろぉぉお!!」


 次の瞬間、雪華さんは私へ襲い掛かってきた。「キャァァッ!」と背後で女中の叫び声。足元に転がる刀を拾い上げ、斬りかかって来た――。

 


「うぐっ!」

「わっ若旦那様っ!?」

「キャァァッ!!」

「蒼蜀っ・・・!」


 私の前に飛び込んだ、若旦那様の脇腹をかすめた。膝をつく若旦那様の脇腹からじわじわと血が着物に染み出した。肩を支えると、頬が濡れていた。


「八千さ・・・」

「わ、わかだん、な様?・・・にっ逃げてくださいっ!」

「護らないと、八千さんを・・・妖から、妖から護らないとっ……!!」


 その言葉に肩ごしにいる雪華さんの目の奥が大きく揺れた。

 刀を振り上げ「逃げて」と若旦那様に叫んだ。けれど退いてくれない。矛先が雪華さんの腹部に目掛け振り下ろされた。「うっ」とうめき声を上げると、どろどろと沸き出てくる青い血が、薄い浴衣を染め上げていく。


「キャァッ!」

「雪華っ!?なっなんで・・・なんでこんなことっ」

「雪華さん・・・!!」


 その顔は薄っすらと笑みを浮かべている


「どうして・・・」

「だって、私・・・蒼蜀様のこと……愛してるから……」


 青い血が鱗に染み渡り、光を帯びながら一枚ずつ消えていくようだった。

 部屋にいた者は、最後の一枚が消えるまで、その妖しげな光景を固唾を呑んで見つめていた――。





□□□


 朝日が昇り、靄を掛けた白い明かりが部屋に差し込んできた。眠っている若旦那様の枕元に座りながら、次第に明けていく障子の向こう側を見つめた。昨夜の騒動が幻だったのではと思わせるほどに、いつも通りの朝だった。


『だからね、お前はそのためにも壷玖螺へと嫁ぐんだ・・・』

『でも、恐いよ』

『お前は私たちの、妖の希望なんだよ。大丈夫。きっとあの青年のような人が町にはいるから』

『そうしょく様も助けてくれる?』

『えぇ。きっと、そうよ――』




 こんなときにお母様の言葉を思い出すなんて・・・。

 私が迷い事などするから、若旦那様を傷つけてしまったんじゃ。


「八千・・・さん?」

「若旦那様!?痛みは?大丈夫ですか?」

「はい。八千さんは?怪我などしてませんか?」

「良かった・・・。私は大丈夫です。若旦那様が護って下さったから」


 若旦那様は傷口が痛むのか眉を下げながら微笑んだ。上体を起こそうとし、脇腹を抱え顔を歪めた。まだ寝ていた方が良いと伝えたけれど、痛みを抱えながら身体を起こした。


「すみません・・・八千さん。僕のせいで恐い思いをさせてしまって。いや、恐いだけじゃない・・・僕に幻滅しましたよね」

「若旦那様」

「八千さんがいるのに、雪華と・・・自業自得だ」

「傷に障ります。今は傷を癒すことを優先してください」


 若旦那様を布団に戻そうとすると、片手を背中に添え抱き寄せられた。


「・・・若旦那様?」

「少しだけ、このままでいさせてください」


 誰も起きていない屋敷は、わずかな物音ですら響いてしまいそうだった。「はい」と告げると、若旦那様の預けられた身体が重みを増していく――。

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