第25話 残り香
ゆっくりと夜道を並んで歩いた。紫哭様が屋敷まで送り届けてくれた。
名残惜しさに邪魔をされながらも『また来る』と告げる紫哭様の言葉に、私はようやく背を向けることができた。
「ふぅ」
屋敷の廊下から夜空を見上げると、先ほどまでは見えなかった月が姿を現した。賑やかだった夜は、ようやく静かになり始めていた。
自部屋に向かう途中、台所の方から物音が聞こえた。
こんな遅掛けに誰かしら・・・?そういえば、一昨日も台所が荒らされていたと女中さんたちが恐がっていた。躊躇いはしたものの軒下に金魚の入ったお椀を置いて、台所へと足を向けた。
台所の廊下にぼんやりと明かりが漏れている。わずかに開いていた扉の隙間から、奇怪な音が聞こえてきた。けれど、その奇怪な音に聞き覚えがあった。
これは、獣が肉を貪る音だ・・・。
町に下りてきてからは一度も聞いてはいない。野犬かなにか紛れ込んだのだろうか。私は、息を止めて片目で中の様子を覗いた――。
「・・・っ!?」
そこには、肉にかぶりつく人影があった。細い手に流れる血は、生肉と魚から滴り落ちた物。鋭い牙と爪で肉の骨や筋を断ち切っていた。ズルズルと血を吸い上げると、ごくりと喉を鳴らしながら飲み込んだ。その白い腕に、わずかに鱗のような物がついている。ピタリと動作が止まった。
私は息を殺したまま、無我夢中で廊下を走った。
あれは間違いなく妖だ・・・。動物だけではなく、人や妖も喰らう類だ。あんな妖がいたのに、どうして今まで気づかなかったの・・・!?
「キャッ!」
「なんですか、そんなに慌てて・・・」
「はぁ…はぁ…ふっ蕗子・・・様」
暗くなった廊下で、蕗子様とぶつかった。人の姿にやっと正気を取り戻した。
「いっ・・・今、今」
震える声に上手く言葉が出てこない。「落ち着きなさい」といつものように語尾を強くするそのまま隣に屈むと私の背中をさすった。私は出来る限り大きく息を吸い込んだ。また一度吸い込み、台所に危険な妖が居ることを伝えた。
蕗子様は訝しそうな顔を見せ、一人で台所へ向かった。
「おっお待ちください!とても危険だと思います。すぐに他の人を――」
「こんな夜更けに騒ぎたてるようなことではありません」
「で、ですが」
「壷玖螺の者が妖を惧れてどうするのっ」
蕗子様の言葉に息を呑んだ。離れてく足音を、私も慌てて追いかけた。
「あれ・・・いない」
勢いよく台所の扉を開ける蕗子様。そこには既に妖の姿はなかった。変わりに食い散らかした残骸が飛び散っている。
「ほら見なさい。騒ぎ立てることもなかった」
「たっ確かにいたんです!」
「またこんなに散らかって。女中を起こさないと」
残骸の上に、銀色の鱗が付いていた。魚から落ちた物ではない。蕗子様は「このことは他言しないように」とだけ言い残し女中部屋へと向かった。
この異様な光景を見て恐怖を抱かないのだろうか・・・。
そのとき、床に落ちている銀色の髪に目が留まった。そっとすくいあげると、見覚えのある銀髪だった。
「・・・」
肉を貪る後ろ姿が、頭の中を通り過ぎていく。似ている、と微かに過りはした。でも、まさか・・・。
――『一年ほど前に医者にも匙を投げられたってくらい酷い病でね』
――『でも~半年前だっけ?急に元気になったとかで戻って来たんです』
じんわりと、首に溜まった汗が流れて行った。脈打つ鼓動が熱い血を身体に巡らせいく。
部屋に戻っても、眠ることができなかった。目を閉じると、夢の中まで追いかけてきそうで恐かった。
翌朝、いつものように一日が始まった。朝食のときに、金魚鉢を見ながら夏祭りの話を若旦那様がしきりにしていた。来年は一緒に見に行こうと誘ってくださった。うわ言を聞くかのように、うんうんと頷いた。
昨日の妖のことが気がかりだった。夢だった?そんなわけない。例え人の姿になったとしても、妖の気配に気づかないわけないのに・・・。
朝食を終えると、若旦那様が着物を運んできた。
「これを宴で八千さんに着ていただこうと思った着物なんですが・・・どうでしょうか?」
赤蘇芳の色に七宝柄の着物。その上に松竹梅や鶴の縁起物の柄が施されている。昼間の太陽の光に当たると、赤蘇芳の色により深みがましていた。絢爛な着物は素人が見ても上物だった。
「とても素敵です。若旦那様が選んでくださったのですか?」
「はい。帯はこの着物に合わせて母さんが用意すると言っていました」
「ありがとうございます。艶やかで綺麗な色です」
「本当は白色の着物がいいのではと思ったのですが、それは祝言のときまでとっておいた方がいいと紫哭に言われまして」
「紫哭様が・・・?」
「はい。あぁ見えても紫哭は気の利く男ですからね。宴も楽しみにしていると言っていました」
若旦那様は着物を畳み直すと、皺がつかないように平行に持ち上げた。仕事に向かう若旦那様を玄関まで見送った。
空になった玄関に風鈴の音が寂しく聞こえる。
「八千さん。少しいいかしら」
「ふっ蕗子様!はい。もちろんです」
蕗子様の姿に背筋を伸ばした。温かみを持った風もピリッ、と冷たさに変わった。
「こちらへ来なさい」
「はい」
そう言って、連れて来られたのは蕗子様のお部屋だった。甘い香りがしている。とても安らぐいい香りだった。
お香?なんという香りなのかしら・・・。
桐箪笥から着物に使う小物を何種類か出すと、私の前に並べて見せた。お梅さんと数人の女中さんが色々と運んで来た。その中には、先ほど若旦那様が見せて下さった着物もある。
お梅さんは持ってきた小さな箱を開けた。中には高価な帯飾りが入っている。
「この飾りは派手すぎるわ・・・ん、こっちの飾りの方がいいわね。これにしましょう。帯締めは、襟に合わせてこれね」
「かしこまりました」
お梅さんたちは残りを箱に戻すと、部屋から出て行ってしまった。
二人きりになった部屋。蕗子様は奥の部屋に入って行った。しばらくして、高そうな桐箱を手に戻って来た。
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