第12話 疑心
縁側へと戻って来ると、廊下から咳き込む声が聞こえた。壁に手を添えて現れた姿に、胸の奥に喰い込んだままの刃が疼き始めた。
雪華さんだ・・・。
「先ほどの方は紫哭様ですか?」
「ええ・・・」
「なにかお話をされていたようでしたけれど?」
「いいえ。特には」
「・・・私、あの方が苦手なの。分家のくせに昔からよくお屋敷に来る」
雪華さんは紫哭様の残像を睨みつけている。部屋に戻ろうとすると、それを止めるように声を掛けてきた。
「ねぇ八千様、聞きました?紫哭様ったらね、蒼蜀様のお店を乗っ取ろうとしていたのよ」
「紫哭様が乗っ取りを?そ、そんな話一度も・・・」
「ほら、あの方ご自身で店を構えているでしょう?」
「・・・はい」
「企みが失敗に終わったもんだから自分の店を出したのよ」
「二人は仲が良いと聞いています」
「ふん、見かけだけですよ。蒼蜀様は紫哭様のことを本当はお嫌いなの・・・だから、八千様もお気をつけになって」
「気をつける、とは・・・?」
「今もまだ、乗っ取りを企んでいるかもしれませんもの」
雪華さんから白粉の香りがした。前に若旦那様からしたものと同じ香り。
「ゴホンッ…ゴホッ・・・ごめんなさい。最近体調が優れなくて。部屋に戻りますね」
細い身体に鉛を抱えているかのように重そうだった。引きずりながら角を曲がって行った。
紫哭様が乗っ取りなんて、嘘に決まってる。そういうことに執着するような方じゃない。二人とも本当の兄弟のように仲睦まじいわ。
『――蒼蜀様は紫哭様のことを本当はお嫌いなの・・・』
でも、朝の若旦那様のご様子を見ても、そう言い切れるのかしら。・・・な、なにを考えているの私ったら。私だって妖であることを隠している。若旦那様に秘め事があって当然じゃない。さっき紫哭様が言っていた通り。夫婦になるからって全てを理解し合えるとは限らない。
また、ため息が零れた。それでも胸中が晴れることはなかった。
□□□
日が暮れる前に若旦那様は屋敷に戻られた。いつもは玄関へすぐに迎えに行っていたけれど足が重かった。
「八千さんはいますか?」
若旦那様の明るい声とともに障子が開いた。綺麗な青色が目に飛び込んで来た。
「見て下さい八千様、若旦那様からですよ」
「うわぁ、とっても綺麗」
「町の河辺に咲いていて、八千さんにも見せたくて持ってたんです」
「素敵ですね。菖蒲ですか?良い香り」
「あっお梅さん、この菖蒲の花をお部屋に飾りたいんですけど」
「それなら丁度いい花瓶がありますので、少々お待ちください」
濃い青の花を咲かせた菖蒲が、殺風景だった部屋を明るくした。淡くて甘い香りが辺りに漂っている。凛と咲き誇る花の姿は、沈んだ気持ちを前向きにさせてくれるようだった。
「良かった。朝、元気がなかったから心配で」
若旦那様の口から息が漏れた。その視線が和らぎ、瞳にはろうそくと同じ柔らかな明りが滲んでいた。
「ご心配をおかけしてすみません」
「不便なことがあれば遠慮なく言って下さいね。僕も話くらいは聞けますから」
私が深く頷くと、若旦那様は私の手をそっと取った。両手で優しく包み込まれる手に、じんわりと熱が帯びていく。
この手が雪華さんにも触れるのだろうか――。払いのけたくなる衝動を必死で抑え込んだ。
「その前に話していた・・・祝言の時期ですが」
真直ぐに向けられた視線に、私も若旦那様を見返した。静かな夜を向かえようとしている中、若旦那様は落ち着いた声色で話し始めた。
「改めて父とも話したのですが、やはり約束した通り八千さんが二十歳になってからにしようと」
「そうですか・・・」
期待していた物とは違う言葉に、思わず目を伏せてしまった。すると、若旦那様は私を宥めるように頭を撫でた。
若旦那様はよくこうやって撫でられる・・・。それが愛情表現の一つであることは伝わる。けれど、これは女としてではなく、まるで妹のように接している。森にいた頃、私も年下の子狐と遊んでいたときによくこうしていたからわかる。
「焦ることもないですよ。祝言なんてあくまで儀式的なものですから。既にこうやって一緒に暮らしていますし」
「・・・でも」
続く言葉が見つからない。若旦那様を見つめると、少しだけ首を右に傾けた。形のいい唇が、私の名前を呼んでいる。二十歳になるまで後一年・・・。短いようで、酷く遠く感じた。
包まれていた手を、今度は私が両手で包み込んだ。その手を自らの頬に当てた。
「や、八千・・・さん?」
若旦那様は目を丸くさせている。その時、障子の向こうに人の影が映り、慌てて手を下ろした。
「若旦那様。奥様がお呼びですよ」
「母さんが?なんだろう。少し外すよ」
一人になった部屋に、また闇が蔓延ってくる。活けたばかりの菖蒲の香りが強く鼻腔についた。ぼんやりと見つめていると、既に一輪だけ頭を垂れたようにしている。
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