第10話 枯渇
夜、若旦那様のお帰りを待っていたけれど、一向に帰って来る気配がなく布団に入った。梟の声に耳を傾けながら、もう一度目を閉じてみた。
小さい頃、眠れない夜は星を眺めながら、お母様がお話を聞かせてくれた。今はお話を聴かせてくれるお母様はいない。
中々寝つけず、厠に行こうと部屋から出た。そとは明かりがなく、暗闇が広がっていた。雨雲が掛かる夜空には月も星も見えない。若旦那様の部屋の前を通ったけれど、やはりまだお帰りではないらしい。
「・・・?」
玄関の方で物音が聞こえた。もしかしたらと思い厠から引き返した。
若旦那様らしき人影を見つけ、声を掛けようと近づいた。けれど、その人影が自部屋とは反対方向へ行ってしまった。出かかった言葉を呑み込んだ。
見間違い?けれどあの後姿は若旦那様だった・・・。そのまま後を付けると、北側の部屋の前で若旦那様は足を止めている。
あそこは確か、お梅さんが近づくなって言っていた部屋。どうしてあの部屋に?
昼間の雨で土の匂いが立ち込めていた。カサカサと揺れる葉の音が屋敷を包み込んでいる。胸の中に一抹の不安がよぎった。
すっ、と音を立てずに障子が開いた。白く細い手が出て来ると、若旦那様の頬に触れる。若旦那様は目を細めながら愛おしそうに、その手に自らの手を重ねた。細い四肢で若旦那様を抱き寄せた。その姿に、一瞬息が止まった。
――雪華さん。
招かれるように若旦那様が部屋に入っていくと、また静かに障子は閉じた。取り残された廊下で鼓動が胸を激しく叩いている。
こんな時間になぜ・・・?その疑問しか過らない。過らないが私は答えを知っている気がした。それなのに一歩、二歩と足音を消して雪華さんの部屋に近づいていく。私の答えが間違っていることを願いながら。
「雪華・・・」
「蒼蜀様。やっと雪華の元へ来てくれた」
愛おしそうに名前を呼ぶ若旦那様。それに答えるように、雪華さんの濡れた声が障子から漏れてくる。思わず口を両手で抑えた。途切れない二人の声に、身体が冷たくなった。
障子の向こう側に重なる二つの影。女性の細い指先が、着物の合わせ目を探るように彷徨っている。
気づけば、逃げるように自部屋へ走っていた。内側から這い上がって来る、叫び出したくなるような衝動を堪えた。力任せに障子を閉め、布団へと倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ…はぁ」
流れてくる汗が布団に滲んでいく。浅くなった呼吸の音だけが部屋に響く。若旦那様が雪華さんを呼ぶ声が、雪華さんが若旦那様を呼ぶ声が・・・耳に絡みついて離れない。
若旦那様はあの日以来、私に触れもしてくれないのに・・・。
噛み締めた唇から、ぽたぽたと血が落ちていく。それでも、胸の痛みには追いつかない。上下に大きく動く肩を掴み爪を立てた。
私は、母と吉右衛門様の契りのためにここへ来た。若旦那様と夫婦になるために。鶴人の力を壷玖螺に分けて欲しいという願いを叶えるために。
契りを果たさなければならない・・・けれど、若旦那様の心は、あの人のところにあるの?
――お母様、教えてください。私は、私はどうすればいいの。
□□□
その夜、若旦那様が部屋に戻って来ることはなかった。明け方になり、ようやく戻って来た気配がしたけれど、私は寝たふりをした。
「今日はあまり元気がありませんね。体調でも優れませんか?」
「いいえ。そういうわけでは・・・」
いつものように朝食を二人で取っていると、若旦那様は昨日となんら変わらない笑顔を私に向けている。私の食事の進み具合を見て、心配そうに眉を下げた。
・・・正直、食事が喉を通らない。
「あの・・・昨日もお帰りが遅かったんですね」
「はい。今は繁忙期なので」
どこかに行っていたのか、そう尋ねたら答えてくれるだろうか。
「この時期は店の方で寝泊まりになってしまうんですよね。あっそうだ、落ち着いたら町に行きましょうか。美味しい甘味処ができたと聞いたので。甘い物はお好きですか?」
「はい・・・」
「若旦那様ー!お迎えが参りましたよ」
中庭の方で使用人の声がした。
「あれ今日は早いな。それでは行って来ますね、八千さん」
「・・・あっあの」
「どうかしましたか?」
「今日は、その・・・お帰りは」
「今日は早いですよ。夕食は一緒に取りましょう」
「良かった・・・。お待ちしております」
若旦那様は優しく微笑むと部屋を後にした。いつもと同じ、それが余計に胸を締め付ける。一人になった部屋で箸を置いた。朝食を半分以上残してしまった。
雪華さんのてぬぐいはお梅さんに頼んで返してもらおう・・・。
てぬぐいを鏡台の下段にしまった。その上の引き出しには、牡丹の髪飾りがしまってある。ここへ来たとき以来付けてはいないけれど、今でも大切な物に変わりはない・・・。
「あっ・・・」
奥に和紙に包まれた砂糖菓子を見つけた。紫哭様に貰ったものだ。包を開けると、まだ数粒残っていた。一粒だけ口に含むと甘みが広がり、身体全体へと染みわたっていく。優しい味がした・・・。
「美味しい」
障子を開けると太陽の陽が差し込んできた。気分転換に庭でも散歩しようかしら。
「そうだ、あの池を見に行かなきゃ・・・若旦那様と初めて会った、あの池」
以前、金色の鯉を確かめようところを、雪華さんに声を掛けられて忘れてしまっていた。雪華さんの存在に、ふと昨日の光景が蘇ってくる。
若旦那様の頬に触れる白い手。熱を帯びた二人の吐息――。
慌てて頭を左右に振った。襲い掛かる光景を振り払うように部屋から飛び出した。
その足は、あの池を目指していた。幼い頃の、若旦那様の優しさが嘘ではないと信じたくて。
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