第一章 鉛筆の音と、胸の奥の揺らぎ
小さな塾の個別指導ブースに、鉛筆の音だけが響いていた。
隣の席には美幸。真剣な眼差しでノートに数式を書き込み、時折眉をひそめて考え込む。
その姿は、まるで時間の流れから切り離されたように、静かで、凛としていた。
紘一はその横顔を見守りながら、静かに声をかける。
「ここ、途中の計算を確認してみようか」
美幸は一瞬手を止め、ノートを見返す。
「あっ……ほんとだ。先生、どうして気づくんですか?」
「慣れだよ。間違えるところは、だいたい似ているんだ」
美幸は照れくさそうに笑い、また鉛筆を走らせた。
その健気な姿が、紘一の胸を静かに締め付ける。
彼女の集中する横顔は、どこか儚くて、そして力強かった。
美幸と一緒にいるときは、勉強や大学の話のほかに、お互いのプライベートな話もよくした。
家族のこと、友達との出来事、将来への不安——
彼女は少しずつ心を開き、言葉の端々に素顔を滲ませていった。
「先生って、休みの日は何しているの?」
「一日中ドラマを見ているよ」
「いいなあ。私も見たい」
そんな何気ない会話が、紘一には心地よかった。
美幸にとって塾に来ることは、毎日の日課になっていた。
それは、勉強のためだけではない。
この場所に来れば、安心できる。
誰かが自分を見守ってくれている——そんな感覚。
そして紘一にとっても、美幸が来る時間は特別だった。
彼女が教室に入ってくるだけで、空気が変わる。
その変化を、誰よりも敏感に感じ取っていた。
だが、今回の模試の結果は思わしくなかった。
成績表を見つめる美幸の目に、悔しさと涙がにじむ。
「……こんなに頑張っているのに、なんで上がんないんだろう」
その声は、絞り出すように小さく、けれど確かに届いた。
紘一は成績表をそっと机に伏せ、椅子を少し美幸の方へ近づけた。
「美幸。模試の結果が良かったら、どうだった?」
「え?」
「勉強やめるの? そんなことないよね。良くても悪くても、やることは同じだ。だから模試の結果に、一喜一憂する必要はないよ」
美幸は唇を噛みしめ、紘一の言葉を静かに受け止めていた。
その横顔を見つめながら、紘一は自分の心と向き合っていた。
十年前、妻をがんで失って以来、心は凍りついたままだった。
もう誰かを好きになることはない——そう信じ、ただ日々の仕事に打ち込んできた。
けれど、隣に座る少女の真っ直ぐな瞳は、静かに、しかし確実に、その固い殻を溶かしていく。
——いけない。これは胸にしまっておくしかない。
そう自覚していても、心はどうしようもなく彼女に惹かれてしまうのだった。
鉛筆の音が、再び静かに響く。
それは美幸の努力の証であると同時に、紘一の心を震わせる音でもあった。
そして今日もまた、彼女は塾にやって来る。
日課のように、静かに、確かに——
その背中を見つめるだけで、紘一の胸の奥に、そっと灯がともるのを感じた。
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