第二話
憂鬱な月曜日がやって来た。
今日も今日とて長い通学路を歩く。特に面白味のない通学路だ。駅の近くは大手チェーン店や学生に人気の麺屋があるが、少し離れると閑静な住宅街に入り、ラストに待ち構えるはほぼ山道の坂。入学したての時は景色もいいし楽しかったが、もう飽きた。友達と一緒に登校すればいいんだろうけど、ほとんどは朝練してるし、何より男には待ち合わせという習慣がない。基本現地集合。
俺の教室はA棟二階にある一年六組。教室の前の廊下から外を見ると中庭がある。その向こうに三年生のいるC棟があり、右側には二年生のB棟がある。なおA棟B棟と言っているが、実際にはくっついている。特別棟はA棟の廊下を突き当り左に進み渡り廊下を通ったところにある。そしてこの六組はA棟B棟特別棟を繋ぐ丁字路の角にあり、授業中以外は人が多いし、基本うるさい。
群衆をかき分けながらトイレから戻ってくると、杉田がケツを叩いて来た。
「お前、土曜日何してたんだよ」
別に何もしてねぇよ。宿題してゲームしただけだ。
「嘘言うなよ。お前が御前さんと一緒にいたって複数人から目撃情報が出てるんだ」
まいったな。別に何をしたわけでもないが、変な噂を立てられても困る。
すると今度は田中もやって来た。
「お前、御前さんにフラれたんだろ?」
変な噂はもう流布されていたようだ。
「フラれてねえよ。てか告ってもねえし」
「えー? 夕方校門前で御前さんを呼び止めようとするも、スルーされてたって吹部の原井が言ってたぞ」
そっから告白に繋げたんだとしたらとんでもない妄想だなおい。ああ面倒くさい。どうにかして誤解を解かなければならない。
「土曜は、あれだ。体験入部してたんだ」
二人とも怪訝な顔をする。
「ちょっと絵でも描いてみようかな~って、なんて」
田中が歩き出した。俺の横を通り過ぎ、読書する御前さんの前に立った。
「御前さん。土曜カッツーと何してたの?」
あいつ直接聞きに行きやがった。頼む御前さん。余計なことを言わず、何とか誤魔化してくれ。
御前さんはちらりとこちらを見た後、こう言った。
「体験入部。油絵やってみたかったんだって」
田中と杉田が目を合わせる。うんと頷いた。
「どんな絵描いたんだ?」
御前さんはスマホを取り出すと、二人に写真を見せた、そこに映っていたのは昨日御前さんが描いていた花瓶の絵だった。
「これ、カッツーが描いたの?」
「うん」
「ヘタクソだな、お前」
一瞬御前さんが固まったように見えたのは、気のせいではないだろう。ほんとデリカシーなくてごめんなさい。てかそれ俺にも失礼だからね。
「まあ、頑張れよ」
肩をポンと叩かれた。
その後、昼休みまでに俺がフラれたという話は訂正されたが、今度は俺が芸術センスを磨くために美術部に入ろうとしているという話に変わっていた。本当は全く違うのだが、御前さんが心配になってストーカーしていたという真実が公開されるよりかはマシだ。
六限目の授業が終わるや否や、スマホに通知が入った。チャットに『Suzu』という人からメッセージが来ている。登録した覚えはないが、開くだけ開いてみた。
『今日も帰っていいよ。部活動するだけだから』
ああ、御前さんか。クラスチャットで全然発言しないからすっかり忘れていたが、そういえばパソコンのアイコンだったな。
ちらりと御前さんの方を見る。スマホを持ったまま、こちらを見て座っていた。返信待ちか。でもなんて返せばいいんだこれ。はいわかりましたって言うのも違うし、かといって詮索するのも面倒だ。うーん。
『部活するだけ。これは約束』
悩んでいると、次のメッセージが来た。わかったよ。
『じゃあお気をつけて』
俺のメッセージを見た御前さんは立ち上がり、スタスタと教室から出て行った。
それからというものの、御前さんは毎日メッセージを送ってくるようになった。その日の最後の授業が終わった後、部活だけして帰るという旨の内容だけを送ってくる。そして必ず『約束』の二文字を入れる。律儀なことだ。でも約束とさえ言っておけばいいと思っている節があるんじゃないか。まあ俺は信じちゃうんだけどね。
それ以外に変わった点はない。俺も御前さんもそれぞれの日常を過ごしていた。ありふれた日常だ。
金曜日。
六限が終わると、またメッセージが来ていた。
『今日も部活だけ。約束する』
特に変わらない文言だ。
『お気をつけて』
俺の方も変わらない。というか、それ以外言うことがない。あっちが勝手に始めたことだし。とりあえず変なことをしなければなんでもいい。
だが、自宅で夕飯を食べた後あることに気づく。明日はどうするつもりなんだ。チャットを開き訪ねてみる。
『明日は学校に行くのか?』
返事が来たのは五分後だった。
『行く』
それだけ?
『部活をしに行くんですよね』
既読が付いた。しかし一時間、二時間経っても返信は来ない。
そして翌日になった。
俺は朝食をさっさと済ませると、制服に着替え家を出発した。自分でも何をしてるんだと思ったが、こうなったらもう止まらない。
学校に着くなり美術室に向かう。鍵がかかっており、電気も付いていない。ここには来ていないか。校舎を隅から隅まで歩く。まだ登校していないようだ。自分のクラスに戻り、一休みする。とりあえずはOKだ。脚立もあったし、何も変なことは起きていない。じゃあ御前さんが来るまで勉強しとこうか。
宿題は思いの外早く終わった。やっぱり家だとだらけてしまうからな。程よい緊張感があった方がいい。暇になったんで予習もしちゃおう。とこんな感じで勉強していると、いつの間にか十三時を過ぎていた。コンビニで買ってきたサンドイッチを少し遅めの昼食にしたところで、教室に誰かが入って来た。
「待たせちゃった?」
御前さんだった。わかりきっていたことではあるが。
「最初から呼び出すつもりだったんですね」
「さあね」
あれだけ約束という言葉を強調していたのに、今日に関しては既読無視。わかりやすい人だ。
「じゃ、行こっか」
美術室に入ると、先週と同じ窓際の席に座る。御前さんもイーゼルのそばに座る。キャンバスは空。新しく絵を描くつもりだ。
こうやって御前さんと美術室に入るのは二回目。前回と同じように過ごすわけにはいかない。何か話そうと思うのだが、最初の一言が出てこない。聞きたいことは山ほどあるが、直球で聞いていいものか。いや御前さんならその方がいいのかも。なんて考えていると御前さんが口を開いた。
「大嶽くんの小学校には、七不思議ってあった?」
導入なんてない、なかなかぶっ飛んだ質問だった。御前さんらしいといえばそうなのだが。
「なかったな。トイレの花子さんはあったけど」
「どういう噂?」
「あー。確か三階の一番の北の女子トイレだったかな。日が暮れると現れるっていわれてた」
よくある噂だ。オリジナリティもクソもない。
「私の学校にはあったんだ、七不思議。図書室のどこかには読んだら死ぬ本がある。とかね」
「それなら、七不思議ではなかったけど目が合ったら死ぬ絵は聞いたことあったな」
「それも面白いね」
普段とは違う少し楽しそうな声色。顔はデフォルトのままだが。
「もしかして、オカルトが好きなのか?」
少し首を傾げ、キャンパスから目を離す。
「ちょっと違うかな」
御前さんは筆を置いた。そして立ち上がると隣の倉庫に入り、しばらくするとまたオレンジジュースを持って来た。ありがとう。
「七不思議そのものにはそんなに興味はないの。興味があるのはなぜ七不思議が生まれたか。だって昔から言い伝えられてきているものだけど、でもどこかに必ず作った人がいて、それが綺麗に七つにまとめられている。面白くない?」
と言われても、あまり興味はそそられないかな。
「新しい世代が勝手に作っているパターンもないとは言えないだろ」
「じゃあ七不思議がある学校とない学校があるのはどうして? 勝手に作っているんだったら全部の小学校にあるんじゃない」
「そういうのに興味のない子どもばっかりだったんでしょ」
「大嶽くんの学校にはいなかったの? オカルト好きな子」
いたわ。普通にいた。そういう雑誌ばっか読んでるやつが。
「まあでも、あんまり自分から発言するタイプの女の子じゃなかったし、広められなかったんじゃないか。その、あんまり友達もいなさそうだったし」
そう。小学生の時にも御前さんのような人はいた。ちょっと変わった子というか。頭は良かったらしいんだけど。
「よく覚えてるね。その子のこと」
「何度かクラスが一緒になっただけだよ」
それだけのことさ。
「ふーん」
御前さんは怪しげな視線を向けている。そして微笑んだ。
「え、もしかして」
「その子が私だとしたら?」
そんなまさか。いや確かあの子は四年生の夏に転校したはず。だとしたら御前さんでもおかしくない。こんな偶然あるのか。
「ふふ。冗談だよ」
「へっ?」
「その子とは赤の他人。私はずっと北小だったよ。それにさっき話したじゃん。私の小学校には七不思議があったって」
何も言い返せない。多分今俺はマヌケな顔をしているだろう。ていうかあなた、そんな冗談言える人だったんですね。
「別にいいでしょ」
表情はいつも通りだが、どこか柔らかく感じるのは気のせいではないだろう。リラックスしている。こんな姿はおそらく誰も見たことないだろう。貴重なものを見せてもらった。
まあそれはそれとして、本題に入らせてくれ。
「で、なんで俺を呼び出したんだ」
「呼び出したも何も、大嶽くんが勝手にやって来ただけでしょ」
「だったら今日、わざわざ六組に顔を出す必要はないはずだ」
「ふふ」
何が面白いんだよ。
「ごめんね。うん確かに状況的には呼び出したと言ってもいい。でも今日来てほしいとは一言も書いてない」
「それは――」
「うん。わかってる。これは一瞬のテスト」
テストだぁ。まさかお互いの相性を試すためのテストだなんて言わないだろうな。
「今回でお互いのことを信頼していることが分かった」
ほぼ正解だな。
「信頼って、そんな大したものじゃないだろ」
「そうかな。初めて話して一週間ちょっととは思えないぐらい息ピッタリだったけど」
「いやいや。授業で何度か話しただろ」
「大嶽くん。あれは会話した内に入らないよ。ただの情報交換」
「う、うーん」
「先週の木曜日が実質的にお互いが出会った日。私はそう思う」
一旦はそういうことにしておこう。
「私は大嶽くんに一種の暗号を送った。もちろん大嶽くんにわかるような暗号をね。そしてそれに気づいてくれた」
「バレバレでしたからね」
「うん。でも最終的な決定権は大嶽くんに委ねたよね。私は来ることを強制してはいないし」
それは……。
「ここからが本題。なんで今日大嶽くんはここに来たの?」
オレンジジュースをぐびりと一口飲み、こちらをじっと見てくる。先ほどの柔らかい表情は消え、いつもの顔に戻る。ただわかるのは問いただそうというわけでもなく、怒っているわけでもないこと。ただ純粋に興味を持っているような、そんな目だった。
「心配だったの?」
その純粋さ故に、俺は正直に答えてしまった。
「ああ」
しかし、御前さんの質問は止まらない。
「先生に怒られてほしくなかった?」
「それとも私が怪我するのが嫌だった?」
「もしかして私のこと好きだったり?」
「今日告白しに来たの?」
こちらが無視しているのをいいことに好き勝手言っている。そろそろ言い返してやろうと思った時、御前さんはこういった。
「怪我、してほしくなかったんだ」
図星を突かれてしまった。動揺しないようにジュースに口をつけるが、逆にそれが変な間を生み出してしまった。
「そうとは言ってないだろ」
「なんで赤の他人の怪我を心配するの?」
「いやだから――」
「自分みたいになってほしくないから?」
なんだ。知ってるのかよ。
「お噂はかねがね」
「そうだよ。わざわざ自分から危ないことしに行って怪我する必要ないってことだよ」
それだけのことさ。
「優しいんだね」
「どうだか」
こういうことは初めてじゃない。あれは確か文化祭の時、教室の飾りつけをしている途中で男二人がふざけ始めた。二人は机の上に立っており、その机は不安定に揺れていた。女子たちが苦笑いで注意している中、ちょうど扉を開けた俺はガチなトーンで叫んでしまったのだ。親切心ではない、本能的な何かだった。一瞬教室が、いや隣の教室や廊下までも静まり返ってしまった。俺は反射的に叫んで悪かったと謝り、なんとかその場を切り抜けた。実際危険な状態だったのは本人も認めていたしな。これほどではないがその他にもそういったことはあった。そして大抵一回言えば聞いてくれるし、注意してくれるようになる。でもこの人は違った。二回目どころか、三回目もやりそうな気配だ。
だが、今の話を聞いて納得したのか、
「わかった。これからは危険なことはやめるよ」
とあっさり言った。本当なんだろうな。
「うん。約束する。これ以上大嶽くんに迷惑かけるのも嫌だし」
小指を差し出す御前さん。小学生か。いやこんなの最近の小学生でもやらんわ。
「どうしたの? 約束してほしくない?」
「いやそういうわけじゃないけど、なんか一方的すぎませんか」
この約束という行為さえ主導権は御前さんが持っている。それはズルい。もう少し対等に出たいというか。
「どういうこと? 大嶽くんも何か約束したいの?」
そっか。そりゃそうなるか。自分の考えのおかしさに今更気づく。だが、
「それも悪くないね」
「じゃあ私の秘密でも言えばいい?」
御前さんの秘密か。面白そうじゃん。
「いいけど、空き教室に勝手に入ろうとしてました、とかはやめろよ」
「うん。おそらく大嶽くんも知らないこと」
御前さんはキャンパスの方を見ながらこう言った。
「私、油絵を始めたの、一週間前なんだ」
「へ?」
思わずマヌケな声が出てしまう。今、一週間前といったか。それはつまり先週の土曜日を意味する。俺が初めて美術部に来た日である。
「どういうことですか」
混乱状態により自分でも意図のわからない質問が飛び出す。
「そのままの意味。キャンバスに向き合ったのも、筆を執ったのも初めてってこと」
なんということだ。つまりあの日、「私美術部なので」みたいな優雅な雰囲気を出していたものの、実際は『みさきすずかのはじめてのおえかき』状態だったということである。であれば、ヘタクソな絵にも説明がつく。よくもまあ騙しとおせると思ったな。いや実際俺は騙されていたが、普通無理よ。御前さんだから特徴的な絵だなで終わったけど。
「厳密には初めてちゃんと絵を描いたのが先週。それまでは描いてるフリをしてた」
「バレなかったんですか?」
「私、雰囲気だけは出せるから」
そう言うと立ち上がり、再びイーゼルの前でパレットと筆を持つ。表情はやる気なさそうにしているものの、視線はキャンバスに一点集中。そして筆を動かす。ゆっくりと撫でるように。しかしこのままでは空中で筆を動かしているだけの意味の分からない人だ。俺も立ち上がり、イーゼルの背面に立った。
「おお」
これはすごい。まさに物憂げな少女が自分の世界に没頭している様である。誰がどう見ても絵を描いている。
「これで倉庫にある先輩の作りかけの絵を置いておけば完璧」
確かにこれはわからん。皆が頭に思い描く、絵を描いている御前さんを完全に再現していた。見事だ。そう感心する一方で、とある疑問が浮かぶ。
「あの、サボってたんですか」
じゃあ今まで何していたんだよ。当然そうなる。
「油絵は初めてだったけど、ちゃんと芸術活動してるから」
「じゃあそっちをやればいいんじゃ」
「でも、こっちの方が雰囲気出てるでしょ」
まさかこの人、かっこつけるためだけに美術部に入ったのか。となると、そのキャラ作ってるってこと? 大ニュースだよこれ。めっちゃ言いふらしたい。でもこれは……。
「というわけで、約束しようか」
再び小指を差し出す御前さん。
「私はもう危ない方法で教室に入ったりしないし、大嶽くんは今の秘密を誰にも言わない。これでいいでしょ」
「まあ、はい」
キャラ作っていることは田中あたりに教えてあげたいが、これは約束。秘密にしておくとしよう。俺も小指を差し出し、御前さんの指に絡める。
「はい。約束ね」
少し強めに握り返された。その後一振りだけすると、互いの手は離れた。ここだけ切り取ると甘い青春の一幕だが、実際は結構深刻だ。
「あの、さっきの秘密。念を押すようだけど、ガチで今後の学生生活に関わるから絶対言わないでね」
御前さんも相当のカードを切ったようで、普段よりやや険しい顔でそう言った。こんなの嘘でも言っておけばいいのに。俺だったらそうしちゃうかも。
「まさか御前さんがこういう人だったなんて」
「大嶽くんは私のことどう思ってたの?」
「物静かで他人の目とか気にしない人なんだろうなって思ってました」
御前さんは深く、それはもう深くため息をついた。
「大嶽くん。この世の中に自分の体裁を気にしない人なんていないよ。いたとしたら相当な自己中だよ」
何を言ってるんだこいつは、と言いたげな目線を送ってくる。
「私だってそういうことは気にするよ。むしろ敏感な方。その結果がこれだよ」
なんか、どんどんネガティブになっていないか。
「世間体を気にするが故に、御前涼花は大嶽くんの知る御前涼花になったんだよ」
すっかりとしょぼくれてしまった御前さん。彼女の本来の顔が少し垣間見えた。
少し気まずい時間が流れた。御前さんは黙ってキャンバスを眺めているし、俺も何を話せばいいのかわからない。約束をしたんだから帰っても良かったのだが、だからといってすぐに帰るのもおかしいというか。こうなったらしょうがない。
「御前さん。俺も絵、描いてもいいかな」
どうせ学校に来たのなら家では出来ないことがしたい。それにいきなり御前さんよりも上手く描いてしまうのも面白いかもしれない。できるかどうかはわからないが。
御前さんは少し口を開けたままこちらを見ている。しばらくして隣のイーゼルを指さした。
「どうぞ使って」
「ありがとう」
早速木のパレットに絵具をつける。色はとりあえず七色ぐらい出しておけばいいだろう。写すものは、そうだな、棚の上にあるフルーツバスケットの模型にしよう。やっぱり油絵といえば果物だ。まずはリンゴからいこう。赤に黄色をちょっと混ぜて……、いやこんな色じゃないな。もう少し赤を足せば、うんいいだろう。
そうしていると御前さんもキャンバスを入れ替え、俺の横に立った。
「何を描こうとしてるの?」
「あの果物」
「私も描く」
いいだろう。どちらが上手く描けるのか勝負だ。
まずリンゴの輪郭を塗る。やべ、大きさ間違えたかも。そういえば下書きとしなくて良かったのだろうか。御前さんもしてないみたいだし、いいか。
その後黙々と筆を走らせた。目の前の模型とキャンパスに集中する。バナナの色はどんな色なのだろうか。シャインマスカットの艶はどうなっているのか。日常で当たり前だと思っていること、考えもしないことを意識する。こんな機会はそうそうない。これが芸術の第一歩なのかもしれない。
気づけばもう十七時半。絵はほとんど完成したが、これは酷い。小学生でももう少し上手く描ける。大きさも全然違うし、全体的なバランスも悪い。御前さんはまだ半分しか出来ていないが、少なくとも俺よりも上手いことがもうわかる。構図が良いのだろうか。絵画として見れるレベルだ。センスはあるかもしれない。
「そろそろ帰るよ」
御前さんも筆をおろし、自分のカバンの方へ向かった。パレットはこのままでいいのか?
「私はそのままにしてる」
こうは言っているものの、この人も素人だ。でも画家ってパレットが汚いイメージがあるし、このままにしておこう。今から洗うのも面倒だ。
「結構楽しかったよ、油絵」
「そう」
そっけなく答える。
「鍵、返してくるから。先に帰ってもいいよ」
「ああ、でも……」
どうせなら一緒に行くよ。そう言いそうになったが、あまり御前さんといるところを見られたくもないな。みんな帰る時間だし人も多いだろう。先週みたいに変な噂を立てられるのはごめんだ。
「分かった。じゃあさようなら」
「また月曜日に」
美術室からそろりと出る。吹部はちょうどミーティングか。いいタイミングだ。さっさと学校から出てしまおう。
そうして俺は急いで帰ってしまった。だがそれは大きな間違いだった。
月曜日。登校してすぐのトイレをすましクラスに戻ってきたところ、また杉田にケツを叩かれた。
「なんだよ」
てかお前いつもケツだな。
「しょうがないだろ。人間の腰の高さにお前の尻があるんだから」
まるで俺が人間じゃないような言い草だ。
「で、そうじゃなくて、おめえまた体験入部行ってたのか」
「よく知ってるな」
「運動部の情報網を舐めるなよ。今回は女子マネージャーのグループからのタレコミだ」
俺の入っているチャットのグループはクラスのものぐらいだ。それ以外とところでどういう話が話題になっているのか知るすべはない。田中と杉田が頼りだ。
「どうなんだ。絵は上手くなったか」
「いや全然ダメだ」
「まあ回数だわな」
すると急に陽気な歌声が聞こえてきた。誰の声だろうか。そんなことクラス全員分かっている。
「飛んで~行きた~い~よ~♪」
「久しぶりの壊れた田中だな」
「ああ六月ぶりだ」
田中はそのまま踊るように椅子に座ると、電池の切れた人形のように突然机に突っ伏した。
「土日みっちり練習して、朝から基礎トレだったみたい」
「かわいそうに」
これは午後まで爆睡コースだな。この前サッカー部のテストの成績が悪かったと二時間ほど荒木に怒鳴られたらしいが、そりゃそうでしょうね。学生の勉強時間奪ってるんだから。え、エースの神河先輩は勉強も出来るって? あんなイレギュラーと俺たちを一緒にしないでくれ。
眠る田中の頭を撫でながら今日の時間割を確認する。二限に数学の原井か。終わったな。田中、今まで楽しかったぞ。
「大嶽くん大嶽くん」
五時の方向やや下から高いんだか低いんだかよくわからない声色の声がした。振り向いて確認するまでもない。御前さんだ。
「これ、どうぞ」
「え、なに」
「入部届。書いといてね」
おいおい。
「なんだお前。入る気満々じゃないか」
「これは、違くて」
「え、でも大嶽くん絵描くの楽しいって」
そんなこと言ってねえよ。いや言ったか。
「ほんとはバスケ部に来てほしかったけど、しゃあねえな。折角の青春なんだから自分の好きなことで楽しんでくれ」
「うんうん。私もそう思う」
「でも入部する気はねえよ」
渡された紙を突っぱねる。冗談でもやめろ、こういうのは。
「そこまで怒ることじゃないだろ」
そんな目で見ないでくれ。強制入部は校則違反だろう。
「仕方ないか。また気が変わったら言ってね」
「や、だから」
御前さんは入部届を握りしめて席に戻っていった。気づけば周囲の何人かはこちらを見ていた。なんだその顔は。俺が悪いみたいになっているじゃないか。事情を説明しようとしたが、チャイムが鳴ってしまう。
おのれ御前涼花。なんか変な空気になったじゃねえか。どうしてくれんのよこれ!
墓暴きの御前さん ごーでん @kjdy
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