最終話


嫌な日々だった。

背中をじわじわ炙られている感覚がずっとあるようだった。


母が亡くなってから父は壊れてしまった。

最初は名前を呼び間違えるくらいだったのが、私が成長するにつれてそれはどんどん強迫めいてきた。

初めは髪型、次に服や香水、次に話し方と笑い方…。

私が何か間違えるたびに、父は悲しそうな顔で私の部屋の壁に赤いペンで書き連ねていった。

…壁は真っ赤になった。

それを見るたび、父が悲しんでるのは私のせいだ、と思った。


父は自分を神様にしていた。母は父にとっての唯一神で、それを私という鏡を通して崇めていた。

そんな父が憐れで仕方なくって、私は笑顔を厚化粧してそれに応えてやった。

父が泣きそうな顔をして縋るたびに母の笑顔と母の声で「大丈夫よ」と言ってやった。


そうやって母の笑顔を作るたびに、千代子という存在がゴリゴリと嫌な音を立てて削られていくのが分かった。

ゆっくり削れていく自分の戻し方は、分からなかった。



神様ってそんなに良いモノなのかな。

ある時から、ぼんやり自分なりの神様を思い描くようになった。

自分と真反対の明るい色彩で、美しくて、性別が無いみたいな見た目で。

ええと、それから…と神様の笑顔を考えてみた。

パッと眩しくて、太陽のように明るい。

けれどちょっぴり下手な笑顔。


そうやって頭の中に神様を作ってみれば、なるほど確かに苦しさは幾分か紛れるのだった。

神様がいれば、まともにものを考える必要が無くなった。

私の心臓からは2人分の鼓動が聞こえた。

私の脳は2人分の言葉を話した。

神様は孤独を消してくれた。


けれど何度も作り直すうちに、神様の輪郭は歪み、どんどん曖昧になった。

崩れた輪郭を治そうとするたびに、ヒビが入ってボロボロ剥がれてしまった。

それが嫌で嫌で仕方がなかったのに、戻す方法はやっぱり分からなかった。


そんなある日。神様を見つけた。

稲妻のような衝撃だった。恋のような煌めきだった。

最初に思い浮かべた、あの美しい神様にそっくりの少女が、現実に居た。


心臓の鼓動は1人分に戻った。

その代わり、目の前の神様に鼓動が吸い取られる音がした。

綾、千代田綾…と口の中で名前を転がす。

神様の名前は幸せの形をしていて、それだけで息が止まるくらい満たされた。


『しゃぼん玉やりましょ』

『え〜、また?』

図々しく何度も話しかけるうちに、神様の「友達」として隣に居座ることができた。

神様は想像よりもずっと俗っぽくて、無邪気で、泣いてしまいたいくらい優しい目をしていた。

神様は削れた自分の欠片をかき集めてくれた。

あの人の前でだけ、私は千代子で居られた。


だから、赦せなかった。

父が神様からもらったイヤリングを取り上げて、壊そうとした瞬間。

ブツン、と心を縫い付けていた糸が切れる音が聞こえた。

目の前があの壁みたいに真っ赤になった。


気づけば、ガラスの灰皿を片手に、息を切らしていた。

目の前には事切れた父が倒れていた。

思わず「あ」と乾いた声を出して、片目に皺を寄せた。

自分の死に場所はここだと分かったから。


だって「家族は一緒に死ぬ」ものだし、「私は1人では生きていけない」から。

何回も聞かされた言葉だ。


どうしよう、と思う前に、体は勝手に神様に電話をかけていた。

別に切られても拒絶されてもどうでも良かった。もう死ぬことは決まっていたので。


しかし神様はどこまでも慈悲深かった。


『私がどうにか…どうにかなる方法を、考えるから、だから!』


涙が目の端から零れた。

嗚呼。貴女は人殺しに堕ちた私を、まだ見捨てないでくれるの。嬉しい。


…本当は、貴女と一緒にどこまでも逃げてしまいたかった。その日暮らしで世界を巡って、いつまでも一緒に笑っていたかった。

けれど、その夢はもう叶いそうにないから。

私はにっこりと一等上手に笑顔を作った。


『またね、綾。次はもっと違う出会い方で、友達になりましょうね』



納戸から縄を持ち出した。

縄は父が買った物で、前に「使われそう」になったことがある。

縄をめぼしい場所に吊り下げて、椅子を置いて……ふと顔を上げて、驚いた。


輪っかの中、つまり縄を吊るした先には部屋が見えるはずだった。


「あっ」


しかし、そこにあったのは天国だった。

青い空があった。美しい海があった。

浜辺で、母が手を振っていた。

だから「すぐ行くわ」と微笑んで、手を伸ばした。


最期に想ったのは、神様にそっくりなあの子の笑顔だ。

貴女が幸せであれますように。

また何処かで出逢えたら…今度こそ普通の友達になって、笑い合えますように。


そう願って、静かに目を閉じた。

ギィ、と縄が軋む音がした。





「……」

警察からの事情聴取が終わったのは夜だった。

電話のことを根掘り葉掘り聞かれたが、別に疑われたわけではない。

むしろ質問のほとんどが、同情的なカウンセリングめいたものだった。


帰り際、警察の人から小さな封筒をもらった。

「本当はあんまり良くないんだけど」と苦笑しながらこっそり渡された。

封筒には「千代田綾ちゃんへ」と書いてあった。紛れもなく千代子の文字だった。


……部屋で封筒を開けてみた。

中には千代子に渡した孔雀の羽のイヤリングと、折りたたまれた紙が1枚。


『返してあげない』


書かれていたのは、それだけだった。

けれど全てが詰まっていた。



「ふふ…あはは!はははは!!」

綾は崩れるようにしゃがみ、大声でアハアハ笑った。


「はは、あははは!本当に一生返されなかったよ!ずっるいなぁ…ふふ…。……」


笑い声はゆっくり減り、やがて嗚咽だけが残った。熱い涙が頬を伝う。

顔をぐしゃっと歪めた。


「……ばか」



8月24日、千代子の命日。

綾は何年経っても、その日だけは両耳にあのイヤリングを付けている。

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神様そっくり 未満 @maroso

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