灰の聖女
野良ネコ
第1話
牛舎の中は、糞と泥の湿気でむせ返っていた。
鼻を刺す強烈な匂いと、靴裏にまとわりつくぬめりに、男たちは思わず眉をしかめる。
その中で、ひとりの少女が黙々と柄杓を動かし、牛の糞をかき出していた。
男たちに混じって働く姿は小柄ながら逞しく、額に浮いた汗をぬぐいもせずに作業を続けている。
牛の低い鳴き声に交じり、遠くの鐘が響いた。
ゴーン、ゴーン――。
祈りの時間を告げる音に、少女は柄杓を止め、胸の前で手を組んだ。
周りの男たちも次々に手を止め、同じように祈りを捧げた。
鐘は一分ほど続き、やがて静けさを残して消えた。
「よしっ! ご飯の時間だぞ。早く小屋から出ろ!」
大声を張り上げたのはバルトだった。
口元を覆っていた布を外し、ずかずかと歩いてジャンナのそばへ来る。
「ジャンナ、おかみさんの飯を食べる前に着替えろよ?汚れたままじゃ怒られるぞ」
「モルスさんのご飯、楽しみなんだ!」
ふたりのやりとりに、他の男たちも笑みを浮かべて近寄ってくる。
「おいおい、ジャンナちゃんを独り占めするな」
「ジャンナは俺たちみんなの娘だからな!」
湿った牛舎に、冗談まじりの明るさが広がった。
和やかな笑い声に包まれながら、ジャンナは牛舎を後にした。
手袋を外し、作業着を脱いで裾の汚れた修道服に着替えると、
モルスとバルトが住む家へ向かう。
「こら、あんたたち!」
戸口で出迎えたモルスは、すぐに眉を吊り上げる。
「頭を洗ってきな!」
その声に、二人はびくりと肩を震わせ、裏口へ駆けていった。
桶の水で頭を洗うと、冷たさが額を突き、息が詰まる。
二人が戻ると、香りが食欲を刺激する。
パンが浮かぶ湯気があがるスープ、豆の上に乾燥させた肉のすり身が,
テーブルに置かれていた。
気まずそうにバルトがモルスの横に腰を下ろし、二人の前にジャンナは座る。
「では、手を合わせて……祈りの言葉を」
ジャンナは手を組み、静かに唱える。
「主よ、我らを祝福し、あなたの寛大さからいただくこれらの恵みを祝福してください。そして、あなたの御業に仕える力を与えてください」
祈りを終えた三人は談笑しながら食事を楽しんだ。
「皿洗いはいいから、ジャンナは教会に戻りな」
送り出されたジャンナは二人に頭をさげ、村の道を歩く。
その道の途中で、家の中から中年の女性から飛び出した。
「これ、たくさんとれたから、協会の皆さんで食べてね」
「こんなにたくさん、ドーラさんありがとうございます!」
ドーラは籠いっぱいのりんごをジャンナに差し出した。
ジャンナはドーラに感謝の言葉を述べると会釈し、そのまま帰路を進んだ。
教会の前に着くと、建物を回り込み、修道院の正門を覗いた。
門のそばでは、修道女が黙々と雑草を抜いている。
さらに裏口へ行けば、リゼとセラが待っていた。
年の近い二人は、ジャンナを迎える。
リゼはジャンナを少しだけ見下ろしているが、セラは顔を上げてジャンナを見ている。
修道院での暮らしは、セラがいちばん長く、次いでリゼ、そして最後がジャンナだ。
そのためセラとリゼは、末っ子を気にかける姉のように、ジャンナを何かと見守っていた。
「おかえり、ジャンナ」
「今日の贈り物はリンゴね」
ジャンナは問いを返す。
「協会長たちは?」
「教会で聖書の書き写し中だよ」
リゼが答える。
「また力仕事ね。これは口止め料として先にもらっておくわ」
セラがかごからリンゴを1つ取り上げる。
「私は情報量としてもらっておくわ」
といって、リゼもリンゴを取り上げた。
三人はほかの修道女に見つからずに静かに修道院内に入っていった。
それから、午後の祈りと学びが、また始まる。
「今日は司祭様を見かけないけど、どこか行ってるの?」
字の勉強を終えたジャンナがリゼとセラに話しかけた。
「今日は来てないよ」
リゼが答える。
「いつもより遅いけど……まぁ、そんなこともあるでしょ」
セラが肩をすくめた。
「ふーん」
ジャンナが小さく返し、三人はほかの修道女と並んで食卓についた。
三人は食卓についた。
部屋を照らすのは、テーブルに置かれた燭台の弱い火だけ。
炎は頼りなく揺れ、光が届くのは卓上のパンと冷たいスープ、薄く切られたリンゴの皮だけだった。
部屋の隅は闇に沈み、誰がそこにいるのかは見えない。
(修道長が……いない?)
いつも先に席に着いているはずの姿が見えず、ジャンナは眉を寄せた。
「後ろにいますよ」
不意に声が落ち、ジャンナの椅子ががたりと揺れた。
振り返った視線の先――燭台の光が届かぬ闇の中に、修道長の姿が浮かび上がる。
「な、なにをされているんですか……?」
おそるおそる尋ねるジャンナに、影の中から声が返る。
「その靴の汚れ……今日は力仕事を任せましたか?」
「い、いや……」
ため息が、暗がりから漏れた。
「……食後、私の部屋に来なさい」
「はぁい……」
修道長が一歩、光の輪に踏み込むと、食卓の空気がようやく動いた。
彼女の声に従い、修道女たちは手を合わせる。
「では、神に感謝をささげます」
小さな炎に照らされ、両手の影が壁に揺れた。
「主よ、我らを祝福し、あなたの寛大さからいただくこれらの恵みを祝福してください。そして、あなたの御業に仕える力をお与えください」
祈りの声が重なり合い、食堂を静かに満たす。
やがて、パンをスープに満たし皿が揺れる音だけが小さく響いた。
――その瞬間だった。
ゴンッ。
鈍い金属音が、村の方から響いた。
続けざまにゴンッ、ゴンッ、ゴンッ……。
一か所ではない。複数の場所から、荒々しい衝撃が重なる。
修道院の空気が凍りつく。
顔を見合わせる修道女たちに、不安の影が走り、テーブルがガタガタと揺れだす。
「落ち着きなさい! みなさん、避難を――」
修道長の声を、遠くの悲鳴がかき消した。
女の甲高い叫び、幾人かの足音。
それらが重なり、外から押し寄せてくる。
バンッ!
扉が弾ける音に、みなが体を石のように硬直させた。
背に矢を突き立てた男が、よろめきながら飛び込んできた。
「にげろっ! 盗賊がすぐそこまで――」
言葉は続かなかった。
後ろから飛び込んだ矢が、男の頭を貫いたのだ。
倒れ込む音と、誰かの息を呑む声だけが、部屋に残った。
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