第4話「エミルの異変」

「ここが……エミル様のご自宅ですか」


ナナが少し緊張した面持ちで、屋敷を見上げながら呟いた。玄関先に立つその背中は、どこかこわばっている。


「さあ、行っきましょーう!」


ナナの緊張などどこ吹く風とばかりに、ライラがスキップ気味に玄関へ向かい、ドアをコンコンっと軽やかにノックする。


「すみませーん! どなたかいらっしゃいますかー?」


「え、ちょ、ちょっと待ってください! まだ心の準備が……!」


ナナは慌てて駆け寄りながら、手をバタバタと振って制止しようとする。しかし言い終えるよりも早く——


 ガチャッ。


突然、扉が内側から開かれる。思わずナナは「ひゃっ」と短く声を漏らし、反射的にティアリの背後に隠れた。


ティアリは少し困ったような表現を一瞬し、そのまま前に一歩出て静かに応対の姿勢をとる。


「……どなたでしょうか?」


現れたのは、やせ細った茶髪の青年だった。顔色は悪く、目の下にはくっきりとしたクマが浮かんでいる。虚ろな視線のまま、彼はドア越しに三人を見つめていた。


―― 


「いやあ、すみません、体調が良くない時に押しかけてしまって」


ライラはえへへと笑いながら、まったく悪びれた様子もなく言った。


「……いえ、大丈夫です」


エミルは、「どうぞ」と手で座るよう促し、手慣れた動きでティーポットとカップを用意し始めた。


ティアリとライラは椅子に腰掛けて、一息つくように背もたれに体を預ける。

ナナは背筋をピンと伸ばしたまま、周囲に気を張っている様子だった。


「顔色、かなり悪いですが大丈夫ですか?」


ティアリが優しく問いかけると、エミルは曖昧に笑って肩をすくめた。


「そうですかね。ただ……少し疲れが溜まってるだけです」


「騎士団のお仕事って色々ハードそうですもんね」


ライラがエミルから出された紅茶のカップの縁に指をかけたまま、無邪気な口調で言う。


「……まあ、魔の森の近くの調査とかばっかですよ」


「えっ、魔の森って、あの!? 魔物が出るとか、入ったら出てこられないとかいう——!」


ナナが思わず身を乗り出して声を上げる。

その瞬間、ティアリの表情が一瞬だけ曇った。けれど何も言わず、静かに紅茶に目を落とした。


「……ああ、噂ではそう言われていますね」


エミルは薄く笑って応じながらも、どこか焦点の合わない目をしていた。

そして紅茶を1口のみ、少し間をおいて口を開く。

 

「……さて、本題をうかがっても?」


エミルが話を切り替えると、ライラが「そうだった!」とぱっと顔を明るくして立ち上がる。


「はいっ! このナナちゃんがですね〜!」


そして隣のナナの背中をぽんっと軽く叩く。


「ひゃっ!? も、もうちょっと丁寧に紹介してくださいよぉ〜!」


ナナが小さく抗議しながら前に出ると、エミルは少しだけ口元を緩めた。


 「──あの、えっと……」


ぽん、と背中を押され、ナナが前につんのめる。困ったように目を瞬かせながら、ポケットから白いハンカチを差し出した。


「お返ししたくて……!」


エミルはそれを見て小首を傾げる。


「……僕、落としたっけ?」


その一言に、ナナの顔が曇る。


「街の見回りのとき……酔っ払いに絡まれてた私を助けてくれて……」


視線を伏せるナナ。だがエミルは記憶を探るように宙を見つめ──


「……ごめん。最近、記憶が少し曖昧で」


「い、いえっ!」


ナナが慌てて首を振る横で、ライラは静かに様子をうかがっていた。


「……ハンカチ、ありがとう」


エミルは受け取り、微笑んだ。


「それじゃ、玄関までお送りしますね」


立ち上がった、そのとき。


「……あれ、なんですか?」


ライラが棚の上を指さす。灰色の石。掌ほどの大きさに、微かな光が宿る。


「誰かが森で拾ってきた……ような?」


エミルは曖昧に呟くが、その表情はどこか不安げだった。


──その瞬間。


石が、ふっと淡く光を放つ。内側から灯るような奇妙な輝き。


「……光りましたよね?」


ナナが声をひそめ、ライラが一歩踏み出す。だが──光はすぐに消えた。


「夕陽の反射かも……」


エミルの声は、自分に言い聞かせるように響いた。


三人が玄関へ向かおうとした、まさにその時だった。


「……ぐっ……!」


エミルが胸を押さえ、崩れ落ちる。見る見る血の気が引き、目が見開かれる。


「エミルさんっ!」


ナナが駆け寄ろうとする──


「下がって!」


ティアリの鋭い声。しかし、それより早く、エミルが手を振り上げた。


次の瞬間、ナナへ振り下ろされたその手を──


「わっ!」


ライラが飛び込んで抱きかかえ、大きく跳躍。


「セーフッ! ギリギリセーフ!」


息を弾ませつつも笑みを浮かべるライラ。


「ティアリ、お願い!」


ティアリが前に出て、太ももからナイフを抜く。反射する光が鋭く閃く。


「……ずいぶん体調が悪そうですね?」


冷静な声に、エミルが咆哮する。


「アアアアアッ!!」


壁の剣を引き抜き、ティアリへ斬りかかる!


ギンッ!


ティアリが滑るように回避、即座に足元へナイフを突き込む。


キンッ、キンッ!


火花が飛ぶ。剣とナイフが激しくぶつかり合うが──エミルの動きは不自然だった。明らかに正気を欠いている。


ズガァンッ!


剣が壁を砕き、石が転がり落ちる。風が吹き抜け、夕陽が差し込んだ。


「……騎士団って、やっぱりすごいのね」


ライラがぽつり。


「感心してる場合じゃありませんってば!」


ティアリが叫び、ライラ「はーい」と軽く返事をしてナナを抱き上げ飛び出す。


「ティアリさんは!?」


「だいじょーぶだいじょーぶ、うちのティアリは強いから!」


しかし安心する暇もなかった。


「来たっ!」


壁の穴からエミルが飛び出し、ライラたちへ一直線。


「ナナちゃん、降りて!」


「ら、ライラさん!?」


地面に降ろされるナナ。ライラは一歩、前に出た。


「逃げなくていいの……?」


「大丈夫。護るよ」


エミルの剣が振り下ろされる、その寸前。


ライラはふっと目を閉じた。

瞬間、空気が張り詰め、音が全て遠いていくかのような感覚をナナは覚えた。


呼吸すら凍りつくような沈黙。


ライラが目を開いたその時ーーその瞳は血のような深紅に染まっていた。


「……」


赤い光に射抜かれたように、ナナの心臓が強く跳ねる。

そこに浮かぶのは、いつもの無邪気さなど一片もない。


「……ここからは“私”が、相手をしてやろう」


風が渦巻き、カーテンが大きくはためく。

ナナは立ちすくみ唖然としていた。

ただ立っているだけで、その場の空気を完全に支配していた。


エミルが咆哮し剣を振り下ろす。

ライラは視線を向けるだけで、その剣を空中で弾き飛ばした。


「膝を折れ」


冷ややかな命令。

その瞬間、重圧に押し潰されたかのようにエミルが地に伏す。


ライラは優雅に一歩進む。

まるで、この場が自分の王座であるかのように。


砂塵が舞い、ナナの頬に冷たい風が突き刺さった。

息ができない。視線すら外せない。


「……っ」


ナナは喉を震わせた。

そこに立っているのは、あの笑顔のライラではない。

紅に染まったその瞳に見下ろされ、ただ一言、脳裏に浮かんだ。


――“人じゃない”。

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