6.

四月。

新しい部署への異動が決まった日の朝、わたしは、久しぶりに、胸の奥が微かに熱くなるのを感じた。それは、まるで冬の終わりに、土の中から顔を出した小さな双葉のような、か細い希望の兆しにおもえた。


窓の外では、まだ風が冷たかったが、空は澄み渡り、太陽の光が、アスファルトの道を、春の色で照らしている。

新しい名刺をポケットに忍ばせ、わたしは、会社の扉を開けた。


新しい部署のフロアは、以前とは違う、どこか開放的な空気が流れていた。人々は、活発に話し合い、パソコンのキーボードを叩く音が、軽快なリズムを刻んでいる。

わたしは、この場所に、自分の居場所を見つけられるだろうか。

わたしの心は、震えながらも、僅かな期待を抱いていた。

部長に挨拶をすると、彼は、にこやかにわたしを迎えてくれた。


「よく来てくれたね、椿さん。君のような若くて優秀な人材に、うちの部署に来てほしかったんだ。」


その言葉は、まるで、わたしを包み込む温かい光のように感じられた。

席に着くと、隣に座っていた先輩が、優しく話しかけてくれた。


「何か困ったことがあったら、いつでも聞いてね。」

その言葉に、わたしは、心底安堵した。


──ああ、ここなら、大丈夫かもしれない。


そう、わたしは、心の底からそう思った。

午前中は、引継ぎと、新しい業務の説明で、時間はあっという間に過ぎていった。

わたしは、真剣に話を聞き、メモを取り続けた。

仕事の内容は、以前の部署よりも専門的で、やりがいがありそうだった。わたしは、久しぶりに、自分の存在が、誰かの役に立てるかもしれないという、ささやかな喜びを感じた。

しかし午後、小さな違和感が、わたしの心に、音もなく影を落とし始めた。

ランチを終え、席に戻ると、部長が、わたしを呼び出した。

「椿さん、この資料、君が作ったのか?」

部長は、わたしの作成した企画書を、手に持っていた。

「はい。まだたたき台ですが…」

わたしがそう言うと、部長は、鼻で笑った。

「なんだ、これは。こんなもの、小学生の作文じゃないか。」

部長の声は、低く、冷たかった。

「君は、本当にこんなものが、企画書だと思ってるのか?」

部長の声は、わたしの耳を、直接、叩いた。

わたしは、何も言い返すことができ無くなっていた。

その後、部長は、わたしの企画書を、皆の前で、嘲笑した。


「見てみろよ、この内容。こんなものに、うちの部署の時間が割かれるなんて、冗談じゃない。」


同僚たちの笑い声が、わたしの耳に、鋭い針のように突き刺さる。優しそうだった先輩も、顔を歪めて嗤っていた。

わたしの心に、開いたばかりの希望の芽が、音もなく、枯れてゆくのを感じた。

それからも、部長からの言葉は、容赦なかった。

「君は、本当に頭が悪いな。」

「こんなこともできないのか?うちの部署には、こんな人間は必要ない。」

言葉の刃物が、わたしの心を、何度も、何度も切り刻んだ。

わたしは、ただ、下を向いて、耐えるしかなかった。

夜、終業時間になっても、わたしは、家に帰ることができなかった。周りの人々が帰ってゆく中、わたしだけは仕事に追われる。


部長がわたしに、大量の仕事を押し付けたのだ。

「明日までに、完璧にしておけ。もし、少しでも不備があったら、どうなるか、わかっているな。」

部長の言葉は、まるで、わたしを縛る鎖のように重かった。

わたしは、ただ、言われた通りに、パソコンに向かい続けた。

誰も、わたしに声をかけてくれる人はいない。

皆、まるで、わたしという存在が見えていないかのように、自分の仕事を続けているか、帰っていった。

夜が深まり、気づけばフロアには、わたし一人になっていた。

静まり返ったオフィスに、パソコンのキーボードを叩く音だけが響く。

その音は、まるで、わたしの心の叫びのようで、自分で聞いて悲しくなる。

わたしは、何のために、ここにいるのだろう。

わたしは、何のために、生きているのだろう。

わたしは、ただ、この暗闇の中で、静かに泣いた。

窓の外では、街の灯りが、ぼんやりと輝いている。その光は、わたしには、届かない。

わたしは、希望という名の、か細い光を、自らの手で、消してしまった。

いや、違う。

わたしは、最初から、希望など、持っていなかったのかもしれない。

あの小さな希望の芽は、最初から、幻だったのだ。

わたしは、この場所で、一人で、静かに、死んでゆくのだ。

わたしが泣き止んで、パソコンの画面をぼんやりと見つめていると、後ろから、部長が立っている気配がした。

帰っていなかったのだ。


「まだ終わらないのか?使えない奴だな」

部長の声は、わたしが母からかけられた罵声と、同じ音だった。

わたしは、動けなかった。

幻聴だ。母の声は。だが、部長は確かにそう言った。

そう思い、下を向いたまま、作業を続けた。

しかし、部長の足音は、さらにわたしに近づいた。

「おい、無視するなよ。俺は、お前のお母さんじゃないんだぞ。こっちを向けよ」

部長は、わたしの頭に手を伸ばした。

わたしは、ぞっとして、体を固くした。

頭を撫でられる。

爪を立てられながら。

その温かさに、わたしは、ひどい吐き気に襲われた。

この温かさは、わたしを支配するための温かさだ。

そして、わたしの頭は今、どうなっているのだろう。

部長の手が、わたしの頬に伸びる。そして、爪がたった。

思わず痛いと言いそうになり、その声を飲み込む。痛みと悔しさに涙が溢れ出ていた。


「泣くなよ。俺は、いつでもお前の味方だ。だから、俺の言うことを聞いていれば、この会社で、お前はやっていけるからな。」


母の幻聴が、部長の言葉と重なる。


「あんたは、一人で生きていけない。私がずっとそばにいてあげるから。」

「お前は、この会社で生きていけない。俺がずっとそばにいてやるから。」

わたしは、もう、何が現実で、何が幻聴なのか、わからなくなっていた。

部長は、わたしから離れると、静かに言った。

「明日も、頑張れよ。椿。」

その言葉も、わたしを縛り付ける鎖のように、重かった。

わたしは、ただ、椅子に座り込み、天井を見つめていた。

天井には、小さな染みが、ぼんやりと浮かんでいる。

その染みが、まるで、わたしという存在の、無意味さを、示しているかのようだ。

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