5.

季節は何度か巡り、窓の外には、冬枯れの木々が、静かに枝を広げている。

冷たい風が吹きつけるたび、わたしは、この家の外にある世界の存在を、遠い夢のように感じた。

わたしは、会社の他、自分の部屋から出られなくなっていた。

まるで、見えない壁に囲まれたかのように、一歩も部屋の外に出ることができなかった。


会社も休みがちで、上司の目が怖い。


母は、そんなわたしを、心配そうに見つめていた。その顔は、以前のように不機嫌ではなく、まるで、壊れやすいガラス細工を扱うように、わたしに優しく接するようになった。


「椿、今日も一日、頑張ったわね。」


母は、温かいスープをわたしに差し出した。その湯気は、わたしの心に、細い光を灯すようなきがしたが、それが偽りに見える。



わたしは、それに、感謝をかすれた声で答えた。


「大丈夫よ。あなたが部屋の外に出られなくても、わたしがずっとそばにいるから。」



母の声は、まるで子守唄のように、わたしの心を静かに撫でる。その言葉は、わたしを安心させるための言葉だと、わたしは信じようとした。しかし、その言葉の奥に、わたしをこの家に縛り付けるための、もっともらしい理由が隠されていることを、わたしは、微かに感じている。

母は、毎日、わたしのために食事を作ってくれる。わたしが食べたいものを尋ね、わたしが好きなものを食卓に並べる。しかし、その食事は、わたしをこの家に留めるための餌のように思えた。わたしが外の世界と繋がることができないように、わたしをこの家の中に閉じ込めておくための、優しい罠のように。

夜が来るたび、母はわたしの部屋にやってきた。わたしを抱きしめ、頭を撫で、眠りにつくまでそばにいてくれた。

「椿が、ぐっすり眠れるように、わたしが守ってあげるから。」

母の声は、まるで、わたしを包み込む繭のようだった。温かくて、心地よくて、しかし、そこから、わたしは決して抜け出すことができない。

ある日の午後、一本の電話が鳴った。それは、わたしを心配した、昔からの友人からの電話だった。

「もしもし、椿?元気?最近、全然連絡取れないから、心配してたんだ。」

友人の声は、わたしの心を優しく叩いた。わたしは、久しぶりに聞く、温かい声に、胸が熱くなった。

「…うん…わたし、元気だよ。」


わたしは、そう答えるのが精一杯だった。


「もうすぐクリスマスだけど、よかったら、一緒に遊ばない?久しぶりに、会いたいな。」

友人の声は、まるで、凍った湖に、小さな石を投げ入れたように、わたしの心に波紋を広げた。

「……わたし、ちょっと、体調が悪くて…。」

先程の「元気だよ」に矛盾してわたしがそう言うと、友人は、少しだけ黙った。

「そっか…でも、いつでもいいから、連絡してね。」

電話が切れた後、わたしは、ただ、受話器を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。

わたしは、友人と会うのが怖かった。話すのが怖かった。友人との会話の裏で、幻聴が聞こえてしまうのではないか。友人の優しい声が、母の罵声に聞こえてしまうのではないか。

その夜、母は、わたしに、温かいココアを淹れてくれた。

「お友達からの電話、わたし、聞いたわよ。」

母の声は、いつもと同じように優しかった。

「…うん…。」

「心配しなくていいのよ。わたしが、あなたのことを、一番よく知ってるから。今は、無理して、会社以外の人と会わなくてもいいの。わたしが、ずっとそばにいるから。」

母は、わたしの頭を優しく撫でた。その手がまるで、わたしが弱い存在であることを、確認しているようだ。

「椿は、特別なんだから。この家から出なくても、幸せになれるわ。」

その言葉は、わたしをこの家の中に閉じ込めるための、最も強力な鎖だ。


わたしは、母の言葉を、まるで、呪文のように感じた。その呪文は、わたしの心の奥底に染み込んで、わたしを雁字搦めにしてゆく。

やがて、わたしは、自分から、友人との連絡を断つようになった。電話が鳴っても、出なくなった。メールも、返信しなくなった。

母は、そんなわたしを見て、満足そうに微笑んでいた。

「良かったわね、椿。これで、あなたは、もう、一人じゃない。」

わたしは、母の矛盾するような言葉に、何も言い返すことができなかった。ただ、母の笑顔を見て、わたしは、自分の心の奥底に、大きな空虚が広がってゆくのを感じた。

わたしは、いつの間にか、母の愛情という名の檻の中に、閉じ込められていた。その檻は、温かくて、心地よくて、しかし、そこから逃げ出すことは、二度とできない。

窓の外では、雪が舞い始めていた。白い雪の粒が、わたしの心を静かに覆い尽くしてゆく。

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