第18話:不審者の影
その日、川辺には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
ハルキは、エリカの隣に腰を下ろし、静かに釣り糸を垂らしていた。彼の心は、ギルドでの喧騒から完全に解放されていた。鳥のさえずり、風の音、川のせせらぎ。それらがすべて、彼の心を癒していく。
(この平和な時間が、いつまでも続けばいいのに……)
彼は、そう心の中で呟いた。彼の心は、あの日感じた不穏な気配のことも、ギルドの報告書に書かれた内容のことも、すべて忘れようとしていた。ただ、この場所に、この少女の隣に、いられることだけを願っていた。
エリカは、そんなハルキの様子に気づくこともなく、ただ釣りに集中していた。彼女は、何かを釣り上げたらしく、リールを巻く手に力を込めていた。
「よし、もうすぐだね!」
彼女は、嬉しそうに呟いた。しかし、その時だった。
ザリッ、と、遠くの茂みから、不自然な音が聞こえた。
そして、風に混じって、わずかに、しかし確実に、鉄錆のような匂いが鼻を突いた。
ハルキの心臓は、ドクン、と大きく跳ねた。彼の全身の毛が、総毛立つような感覚に襲われた。
(まさか……)
ハルキは、釣り竿を握りしめたまま、その音のした方向を、じっと見つめた。
木々の隙間から、わずかに影が動いたのが見えた。それは、木の影でも、動物の影でもない。明らかに、人間の影だった。しかも、一人の影ではない。複数の影が、まるで獲物を追い詰めるかのように、ゆっくりと、しかし確実に、川辺へと近づいてきていた。
ハルキの脳裏に、ギルドで聞いた、あの不気味な噂が蘇った。
「彼らは、王都を離れ、森の奥へと向かっている模様……その行く先は、伝説の釣り場らしい」
(本当に……私を、ここにおびき出す罠だったのか……!彼らは、この場所に私がいることを、最初から知っていたというのか……?)
ハルキの思考は、激しく渦を巻き始めた。彼の心臓の鼓動は、まるで太鼓を叩くかのように、激しく鳴り響いていた。手には、冷たい汗がにじむ。彼は、エリカに、この危険な状況を知らせなければならないと思った。しかし、彼女を怯えさせてしまうかもしれない。そして、何よりも、彼女を巻き込んでしまうかもしれない。
(いや……違う!私は、この場所と、この笑顔を、守ると決めたんだ!)
彼は、そう心の中で叫んだ。
その時、エリカが、釣り竿をゆっくりと引き上げた。
釣り糸の先には、手のひらほどの小さな魚が、かかっていた。
「やあ、小さい子!また会えたね!」
エリカは、そう言って、優しく魚に語りかけた。そして、その魚を、そっと水面に戻した。
「さようなら。また、いつか会いに来てね」
エリカは、そう言って、魚に手を振った。
その無邪気な姿に、ハルキの胸は、再び、締め付けられるような痛みを感じた。
彼は、決意した。
彼女は、このまま、この平和な世界にいてほしい。彼女の心は、決して、この不気味な現実に触れてはならない。
「……エリカ」
ハルキは、震える声で、エリカを呼んだ。
エリカは、振り返った。
「どうしたんですか、お兄さん?」
「しばらく……しばらく、この川辺に来ない方がいい。危ないかもしれない」
ハルキは、そう言って、エリカに忠告した。彼の声は、緊張と、そして、どうしようもない焦りで、わずかに震えていた。
エリカは、そんなハルキの様子を、不思議そうに見つめた。
「危ない?どうしてですか?」
「それは……その……」
ハルキは、言葉に詰まった。彼は、エリカに、不審者のこと、そして、自分が何者かに狙われていることを、どう説明すればいいのか分からなかった。
しかし、エリカは、彼の言葉を遮るように、首を傾げた。
「お兄さん、もしかして、お魚さんが嫌いな人が来たのかな?」
その言葉に、ハルキは、思わず固まった。
(魚が嫌いな人……?)
彼の思考は、完全に停止した。
エリカは、そんなハルキの様子に気づくこともなく、笑顔で続けた。
「お魚さんをいじめる人は、ダメですよ。そういう人は、お魚さんをちゃんと食べないし、お魚さんが泣いちゃうから」
そして、彼女は、楽しそうに続けた。
「だから、そういう人は、木魚だけ叩いててほしいですね!」
その言葉に、ハルキは、何も言えなかった。
彼の頭の中では、壮大な推理劇が繰り広げられていた。不審者、怪しい集団、そして、この川辺に迫る危機。
しかし、エリカが口にしたのは、あまりにも純粋で、あまりにも単純な理由だった。
彼は、この場所と、この笑顔を、何としてでも守らなければならないと、改めて決意した。
そして、彼は、この日から、エリカの隣から、姿を消すことになった。
(彼女の笑顔を背にして歩き出す時、足が一瞬だけ止まった――それでも、振り返ることはできなかった)
それは、彼女を守るためだと信じて……。
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