第17話:青年のちょっとした失敗

その日、川辺には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。


ハルキは、エリカの隣に腰を下ろし、静かに釣り糸を垂らしていた。彼の心は、ギルドでの喧騒から完全に解放されていた。鳥のさえずり、風の音、川のせせらぎ。それらがすべて、彼の心を癒していく。


(この平和な時間が、いつまでも続けばいいのに……)


彼は、そう心の中で呟いた。しかし、彼の心の片隅には、あの冷たい視線が、まだ残っていた。彼は、釣り糸を垂らしながらも、時折、周囲の木々の影に、警戒の目を向けていた。だが、あの時のような明確な気配は感じられなかった。


エリカは、そんなハルキの様子に気づくこともなく、ただ釣りに集中していた。彼女は、新しい餌を試しているらしく、釣り竿を巧みに操っていた。


その時、ハルキは、ふと、ある考えが頭をよぎった。


(彼女は、いつも完璧だ。魚を釣る姿も、魚を捌く姿も、魚に話しかける姿も……。まるで、この川と一体になっているかのようだ)


彼は、ギルドで、完璧な書類を仕上げ、完璧な指示を出すことで、周りの信頼を得てきた。彼は、何事においても、失敗を許さなかった。それは、完璧な仕事こそが、国を守る唯一の方法だと信じていたからだ。しかし、ここでは、ただの不器用な男でしかない。


(……もし、私が、彼女に、少しでも認めてもらえたら……)


彼の胸に、ふと、そんな思いが芽生えた。それは、ギルドの統括役としてのプライドではなく、ただの一人の男としての、小さな、しかし強い願いだった。それは、これまで書類の山に押し殺してきた、彼の心の叫びだった。


彼は、エリカが使っている釣り餌を、じっと見つめた。そして、見様見真似で、自分の釣り針に、似たようなパンくずをつけた。


「よし……」


ハルキは、そう呟くと、釣り竿を構え、力強く、釣り糸を投げた。


だが、彼の投げた釣り糸は、綺麗な弧を描くことなく、無残にも、手前の木の枝に絡みついた。


ガサリ、と大きな音がして、釣り竿がガクンと跳ねる。釣り糸は、まるで蜘蛛の巣のように、枝と枝の間を複雑に絡まり、そこから先に進むことができなかった。


(ギルドの書類なら、こんなに絡まることはないのに……!ペン先が、インクを吸い込みすぎて、紙に染み込んでしまうような、そんな失敗は、私は一度もしたことがないのに……!)


ハルキは、思わず顔を赤くした。彼の完璧主義な性格が、この小さな失敗に、激しく苛まれていた。彼は、釣り竿を引けば引くほど、釣り糸がさらに複雑に絡まっていくのを感じた。


その様子を、エリカは、じっと見ていた。


そして、彼女は、楽しそうに笑い出した。


「ふふふ、お兄さん、それは『木魚』ですね」


「木魚……?」


ハルキは、彼女の言葉に、首を傾げた。


「はい!木に引っかかった魚、略して木魚です!これで練習すれば、お兄さんもお坊さんになれるかもしれませんよ!」


エリカは、そう言って、満面の笑顔でハルキに語りかけた。その笑顔は、あまりにも純粋で、悪意など一片もなかった。


(お坊さん……?僕は、ギルドの統括役だぞ……。この国の未来を背負う人間だぞ……。そんな僕が、お坊さん……?)


ハルキは、心の中でそう呟き、激しい頭痛に襲われた。彼の頭の中では、ギルドの書類と、お坊さんの木魚が、激しくぶつかり合っていた。


しかし、その混乱した思考の中で、彼の心が、ふっと軽くなるのを感じた。


(そうだ……。ここでは、失敗してもいいんだ。完璧じゃなくても、いいんだ)


彼の胸に、深い安堵感が広がった。


エリカは、そんなハルキの様子に気づくことなく、釣り糸を解き始めた。彼女の手つきは、まるで魔法のようだった。複雑に絡まった釣り糸が、まるで最初から絡まっていなかったかのように、するすると解けていく。その指先からは、まるで温かい光が放たれているかのようだった。


「お兄さん、釣りは、力任せにやるものじゃないですよ。魚さんと、お話をするように、優しく、優しく、ですよ」


彼女は、そう言って、ハルキに微笑みかけた。


ハルキは、その笑顔を見て、再び、胸が熱くなるのを感じた。


彼は、エリカの前では、ギルドの統括役でも、完璧主義者でもなかった。


ただの一人の男として、彼女に心を許すことができた。


彼にとって、エリカは、彼が忘れていた、穏やかな日常を思い出させてくれる、大切な存在だった。


そして、彼は、この場所と、この笑顔を、何としてでも守らなければならないと、改めて決意した。


その時、魚が、ハルキの足元で、一斉に水底に沈んでいった。


その様子を見て、ハルキの心臓は、ドクン、と大きく跳ねた。


(魚たちが、怯えている……!)


彼の脳裏に、あの不気味な波紋が蘇った。


そして、彼の背筋に、あの冷たい視線が、再び走った。


それは、まるで、嵐の前の静けさのように、不気味で、そして、冷たいものだった。

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