第2話:釣り上げた魚は、最高の料理

「へぇ、すごい大物じゃないか!」


その声に、エリカはゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、見慣れない男だった。旅人だろうか。男は、ぼろぼろの革の服を着ていたが、その顔には旅の疲れよりも、獲物への純粋な好奇心が浮かんでいた。


「はい、そうですよ。今日の晩御飯にするんです」


エリカは、獲れたての魚を男に見せながら、にこりと微笑んだ。男は、その魚をまじまじと見つめた。魚の鱗は、まだ水を弾いて光り輝いている。生命力に満ちたその姿は、男が普段、宿で口にする塩漬けの魚とは、全くの別物だった。


「……よかったら、あなたもどうですか?焚き火を起こしたところですから」


エリカはそう言うと、男を焚き火に誘った。男は少し戸惑った様子を見せたが、魚の香ばしい匂いに抗えず、エリカの隣に腰を下ろした。


エリカは、持っていた小さなナイフを手に取り、魚を捌き始めた。その手つきは、まるで魔法のようだった。鱗を丁寧に取り除き、内臓を素早く取り出す。彼女のナイフ捌きは、迷いもなく、一切の無駄がなかった。シュ、シュッ、と小気味良い音が響き、あっという間に魚は美しく捌かれていく。その技術は、ただの素人のそれではなかった。


エリカの思考は、魚を捌くことに集中していた。


(この子の身は、ちょっと硬いかな。脂の乗りも、そこそこ。たぶん、縄張りの一番端にいた子だね。でも、身が締まってるから、塩焼きにすれば、きっと美味しい。いや、待てよ。ここは、あえて少し大きめに切って、ワイルドに焼いてみようか。うん、それがいい。きっとこのお兄さんも、ワイルドな味が好きなはずだ)


彼女の頭の中では、魚の生態から調理法に至るまで、壮大な連想ゲームが繰り広げられていた。


エリカは、近くにあった木の枝を拾い、その先に魚を刺すと、火を起こし始めた。木の枝を二本こすり合わせると、すぐに煙が上がり、小さな火が灯る。火はあっという間に燃え上がり、パチパチという軽快な音を立てて、あたりを明るく照らし出した。


火にかけられた魚からは、ジュウジュウと美味しそうな音が聞こえてくる。魚の身から溢れ出る脂が、火に落ち、煙を上げる。その煙は、香ばしい匂いをあたりに広げた。香りは、男の疲弊しきった鼻腔を優しくくすぐった。それは、彼が普段宿で嗅ぐ、埃っぽい布の匂いや、酒場の酒臭さとは、全くの別物だった。


「……いい匂いだ」


男はそう呟くと、無意識にゴクリと唾を飲み込んだ。彼の胃の奥が、ぎゅるる、と情けない音を立てて鳴った。男は恥ずかしそうに顔を赤くしたが、エリカは気にしない。


「もうすぐ焼けますから。もう少し待ってくださいね」


そう言って微笑むエリカの顔は、火の光に照らされて、とても美しく見えた。


やがて、魚はこんがりと焼き上がった。パリパリになった皮は、まるで黄金のように光り輝いている。エリカは魚を木の枝から外し、男に差し出した。


男は、その魚を受け取ると、ゆっくりと一口食べた。


その瞬間、男の脳裏に、かつてないほどの衝撃が走った。口の中に広がるのは、熱々でふっくらとした身の旨味。塩の加減は完璧で、魚本来の甘みが最大限に引き出されている。パリパリになった皮は香ばしく、噛みしめるたびに、魚の脂がジュワリと溢れ出す。


「……うまい」


男は、震える声でそう呟いた。彼の目からは、思わず涙が溢れ出していた。それは、あまりの美味しさに感動したからだろうか。いや、それだけではなかった。彼の頭の中では、これまでの人生で食べてきたすべての食事が、まるで白黒の映像のように色を失っていく。目の前の魚の塩焼きだけが、鮮やかな色を放ち、彼の脳裏に焼き付いていた。


男は、無心で魚を食べ続けた。その食べ方は、決して汚くはない。だが、決して丁寧でもなかった。大雑把に身を骨から外し、口に放り込む。骨の周りには、まだ食べられる身がいくつか残っていた。男は、その残骸を気にする様子もなく、次の魚に手を伸ばそうとした。


エリカは、そんな男の姿を、ただ穏やかに見つめていた。彼女は、美味しいものを誰かに食べてもらうことが、何よりも好きだった。しかし、彼女の心の中で、新たな評価が下されていた。


(あ、この人はちゃんと魚を大事にしてくれない。骨の周りの身が残ってる……。うん、不合格!)


魚を完食した男は、深い溜息をついた。


「君は……料理人なのかい?」


「料理人?いえ、違いますよ。ただの釣り人です」


エリカはそう答えると、男の服についた魚の鱗を、優しく払ってあげた。男は、その優しさに、またもや胸が熱くなるのを感じた。


「そうか……。僕は……。そういえば、街の方では最近、不穏な噂が流れていてね。何でも、怪しい連中が増えてるらしい。君のような女の子が、こんな場所に一人でいるのは危ないかもしれない。気をつけなよ」


男はそう言うと、エリカの返事を待たず、来た道を戻っていった。エリカは、男の言葉の意味を深く考えようとはしなかった。ただ、男の去った道に視線を向け、再び釣り糸を垂らした。魚たちは、また穏やかな光を放ち始めていた。

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