異世界釣りばかエリカさん ー釣り上げた獲物は大物過ぎたー

五平

第1話:『伝説の釣り場』と少女エリカ

王都から北へ馬車を二時間。がたごとと揺れる車内は、湿った空気と汗の匂いが混じり合い、まるで熱帯のジャングルの中にいるようだった。窓の外に広がるのは、手入れの行き届いた王家の森。緑の壁は延々と続き、時折、木々の隙間から差し込む陽光が、地面に斑模様を描き出す。その光景は、まるで巨大なパズルを解いているかのようだった。


馬車を降りてからも、旅は終わらない。そこからさらに森の獣道を三十分。足元に広がるのは、ふかふかの落ち葉の絨毯だ。一歩踏み出すたびに、乾いたカサリ、カサリという音が鳴り響き、足の裏から土の柔らかさが伝わってくる。道は獣が通るために作られたものなのか、不自然なほどに曲がりくねり、時折、大きな木の根が蛇のように地面から這い出し、進路を阻む。その都度、人はそれを跨ぎ、迂回し、まるで自然という名の巨大な迷宮を探索しているかのようだった。


そして、その旅の果てに、他者から隔絶された、静謐な水辺は広がっていた。


そこは、王都の喧騒とは全くの別世界だった。


鳥のさえずりが、まるで音楽のように響き渡る。どこからともなく、甘い花の香りが風に乗って運ばれてくる。水面は鏡のように透き通り、空の青と木々の緑を完璧に映し出していた。


この場所は、知る人ぞ知る『伝説の釣り場』と呼ばれていた。


豊かな水源に恵まれ、水底には人間の頭ほどの大きさの魚が、のんびりと泳いでいるのが見える。彼らは、まるでこの世の全てを達観したかのように、ゆったりと尾びれを動かしていた。その姿は、水中の王者のようだった。


しかし、この地を訪れる者は、ほとんどいなかった。


王族が秘密裏に所有しているという噂が、まことしやかに囁かれていた。あるいは、獲物を荒らす番人がいるという物騒な話も、まことしやかに囁かれていた。


そんな場所に、たった一人、釣り糸を垂らす少女がいた。


ぼろぼろの麦わら帽子を被り、古びた釣り服に身を包んだ少女の名はエリカ。彼女は、王都の賑やかさとは無縁の、穏やかな時間をこよなく愛していた。その背中からは、まるで背中に魚の鱗が生えているかのように、自然に溶け込んでいるような感覚が伝わってきた。


「……いるね、今日の子たちも」


エリカはそう呟くと、静かに竿を構えた。


その一連の動作は、まるで舞踏会のダンスのように優雅で、それでいて、どんな強大な敵も一撃で仕留める、伝説の剣士を彷彿とさせた。だが、そんなことを知る者はこの場には誰もいなかった。この地を訪れる者は、彼女の釣り竿さばきに驚きこそすれ、それがどれほどの意味を持つかまでは考えもしなかった。彼らはただ「へぇ、なんか面白い娘がいるな」くらいの感想しか抱かないだろう。いや、抱けなかった。なぜなら、彼らはこの場所にたどり着くことすらできなかったからだ。


エリカの視線は、水面からほんの数センチ上に注がれていた。彼女の瞳は、水の揺らぎを、風の流れを、そしてその下で魚が呼吸をするわずかな泡の動きを、全て捉えていた。それはもはや、視覚という五感の領域を超えて、第六感、いや、魚と直接会話しているかのようだった。


釣り糸が、静かに、音もなく水面に落ちる。


まるで空から舞い降りた羽のように、水面に優しく着地した。その瞬間、魚はすぐに食いついてきた。エリカの竿が、大きくしなる。その重量感から、かなりの大物だとわかる。


「おっ、元気な子だねぇ。まさか、そんなに早く食いついてくれるなんて。ちょっとびっくりしちゃったよ」


エリカは嬉しそうに呟くと、繊細な手つきでリールを巻いていく。


竿のしなりを巧みに使い、魚の動きを完全に支配していた。魚がどんな風に暴れ、どこへ向かおうとしているのか、全てを理解しているかのような動きだった。まるで、魚と彼女の間には、見えない糸で結ばれた絆があるかのようだった。魚が暴れるたびに、竿がグン、グンと力強く引き込まれる。その度に、エリカの腕の筋肉がわずかに盛り上がり、彼女の内に秘めた力が垣間見えた。しかし、その顔はあくまで穏やかで、まるで愛しい恋人と戯れているかのようだった。


釣りは、力任せにやるものじゃない。


大切なのは、魚との対話だ。


エリカはそう信じていた。目の前の魚の命の輝きを、全身で感じ取ろうとしていた。釣り糸から伝わってくる魚の鼓動、暴れるたびに伝わる水の抵抗、そして、引き寄せられるたびに魚が発する悲鳴のような感覚。その全てが、彼女の脳内で鮮明なデータとして処理されていた。それは、単なる感情ではなく、物理的な情報、そして生命の叫びとして彼女に届いていた。


数分後、その日の最初の大物が水面から姿を現した。


太陽の光を浴びて、銀色に輝く鱗が、きらきらと光る。まるで全身が宝石でできているかのようだった。その大きな口は、釣り針をしっかりと咥えていた。エリカは満足そうに微笑むと、手際よく魚を陸に引き上げた。


地面に置かれた魚は、まだぴちぴちと跳ねていた。その生命力は、触れる者に力強い鼓動を伝える。エリカは、その魚の頭を優しく撫で、その命の尊さを噛み締めた。


「さぁ、今日の夕飯だよ」


エリカが獲物を丁寧に手入れしていると、背後から一人の男の声が聞こえた。


「これは、すごい大物だね。君が釣ったのかい?」


振り返ると、そこに立っていたのは、見慣れない男だった。男は、王都の貴族が着るような上質な服に身を包んでいた。しかし、その顔は疲れ切っており、目の下には深いクマができていた。まるで、書類の山に埋もれて、この川辺に辿り着いたばかりのようだった。

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